第四話 思い出す
舟に揺られてぼんやりしていたら、土手の上にいたのぞみさんに突然声を掛けられた。
「わたるさん、ちょっといい?」
「なんですか?」
起き上がって舟からひょいと岸に降り、土手を駆け上がった。
「あのね。ちょっと教えて欲しいことがあるの」
「なんでしょう?」
「あなたがこれまで向こう岸に運んだ人たちの、正確な人数が知りたい」
携帯を取り出す。カウンターモードにして、これまでの累計を出した。
「ええと、1204人ですね。あなたが1205番目」
「そっか」
「何か思い出したんですか?」
「うん……。思い出したというのは、ちょっと正確じゃないけどね。それよりも、分かっちゃったって言った方が近いかもしれない」
「どういうことですか?」
のぞみさんは、川向こうに顔を向けたまま呟いた。
「わたしは、わたしであって、わたしでない」
「は?」
うーむ、難解。
「わたるさんはわたしと違って、何かを詮索することはないのよね。事情を説明するから、ちょっと待っててくれる? わたしの心の整理ができるまで」
「それは一向に構いませんが」
のぞみさんは寂しそうな笑いを浮かべて、それから私に背を向けた。
そうして、私も、のぞみさんも、この場所も、何の変化もないまま時間だけがゆっくり過ぎていった。
のぞみさんは、もう自分が飲み食いしないことを気にすることはなかったし、夜が来ないことも、自分が水に濡れないことも疑問視しなくなっていた。土手に座ったまま、膝を抱え、俯いて、ただひたすら何事かを考え続けているようだった。
私は相変わらず、土手の上か舟の中からぼんやりと対岸を見続けていた。これまでと、全く同じように。
◇ ◇ ◇
どのくらい時間が経ったのか分からない。土手の上で対岸をぼんやり見ていた私は、いきなり視界を失った。
えっ!? はっと気付くと、背後から手で両目を塞がれていた。
「だーれだ」
「って言っても、のぞみさんしかいないじゃないですか」
「ちぇっ、つまんないのー」
頬をぷーっと膨らませたのぞみさんが、渋々両手を離す。
「少しは夜の感覚が分かった?」
「え、真っ暗で何も見えないのが夜なんですか?」
「ここだと他に灯りが何もないから、月や星がなければ今みたいな感じだと思うよ」
うーん。夜っていうのは、あんまり気持ちのいいもんじゃないんだな。私が顔をしかめていたのが面白かったのか、のぞみさんが背後から覆い被さってきた。のしっ。
「うー、重いですー。のぞみさん」
「人を乗せて舟を操る船頭さんなら、力持ちでしょ? 文句言わないの」
「はいはい」
「はい、は一回!」
相変わらず手厳しい。のぞみさんは私の首に手を回して、耳元で囁いた。
「ねえ、私ってあったかい?」
「うーん、どうなんでしょう。私には暑い、寒いって概念がないみたいで。お茶を飲んだ時もそうだったんですけど」
「うー」
「でも、あったかいって感じはします」
「感じ?」
「そう、感じ」
「そっか」
のぞみさんは、まあ仕方ないなという風にゆっくりと背中から離れ、私の横に腰を下ろした。
「ねえ、わたるさんは、生きるってどういうことだと思う? わたしは生きてると思う?」
「うーん、私はその問いには答えかねます」
「どして?」
「そりゃそうですよ。私は、自分自身が何者か分からないんですから。生きているのかどうかも同じことです」
「うー」
不服そうなのぞみさんに、私の現状を改めて話す。
「私が知っているのは、ごく限られたことです。私は渡し守の仕事をしている。私にはそれ以外にすることがない。ここには私しかいない。私はボスの指示を逸脱できない。それだけです」
のぞみさんは、じっと私を見つめている。
「わたしは、わたるさんをずーっと前から知っている。いや、知っていないとおかしい。でも、わたるさんはわたしを知らないし、知らないのが当たり前」
はて? どういうことだろう?
「ねえ、わたるさんは自分がどういう顔をしているのか知ってます?」
「いや、知らないです。興味もなかったし」
「そうよね。今度水面に映ったのを見てください。その顔はね、わたしの好きな人の顔なの」
「?」
のぞみさんは投げ出した足を両手で抱えると、そこに顔を付けた。
「あーあ、悲しくて、情けなくて、涙が出そう。でも、ここじゃ泣けないのよね」
私は右手をぽんとのぞみさんの頭に乗せて、なでなでをした。
「わたるさん、それはボスに頼まれたこと?」
「いいえ、私がそうしたいからですが、何か不都合がありますか?」
のぞみさんは私の顔をしばらく見つめていたけれど、辛そうに顔を伏せた。
「そうか……。わたしは、こんな風に感じるなんて、考えてもみなかったから。みんなに、すごく残酷なことをしたのかもしれない」
それっきり。項垂れたまま。のぞみさんはまるで何かで固められたかのように、ぴたりと動かなくなってしまった。
川は流れる。静かに。何も変わらずに。私は川を。そして、その対岸の花畑をじっと見やる。
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