第三話 違和感

 それから、どれくらい時間が経ったのだろう。私は、相変わらず水面をぼんやり眺めていた。突然、のぞみさんに尋ねられた。


「ねえ、わたるさん、ここって日が沈まないの?」

「日が沈むって? なんですか、それ?」

「……。夜は来ないの?」

「うーん、夜っていうのがどんなものか分からないから」

「昼夜がないって……。もしかして、季節もないの? 花が咲いてるから春だと思ってたんだけど」

「さあ。分かりません」


 いろいろ変わったことを気にする人だなあ。でも、私の知らないことをたくさん知ってるんだろう。少しうらやましい。でも私の眼の前で、のぞみさんの表情がどんどん険しくなっていく。


「どうして……」

「え?」

「どうしてわたしは、トイレに行きたくならないんだろう? さっきご飯も食べたし、お茶も飲んだのに、満腹にもならなければ、トイレに行きたくもならない。そんなの、変」


 ふーん、としか言いようがない。私はトイレが何かも知らないんだから。


「わたるさんは、気にならないの?」

「そう言われましても。のぞみさんが言ったことは、私には初めてのことばかりです。食事も、お茶も、トイレも、何もかも。知らないから、どれも気にしたことはなかったですね」


 のぞみさんは、しばらく無言で私の顔を見ていた。そうして、私に小声で確かめた。


「もしかして、ここは……あの世?」

「それは違います」

「どうして断言できるの?」

「ボスに、必ずそう答えるように言われてるから」

「ううむむむ」


 のぞみさんは、頭を抱え込んでしまった。


「じゃあ真実を知るには、そのボスと話をしないといけないわけね」

「それは無理だと思います」

「どうして?」

「ボスには私からしか連絡は取れないし、ボスが私の疑問に全て答えてくれるわけではないので」

「そうなんだ」


 あからさまに落胆するのぞみさん。


「わたしは……これからどうすればいいんだろ」

「さあ。それは、私には分かりません。でも、もし川が渡りたくなったらいつでもそう言ってください。私の出来ることはそれしかないので」


 私の返事を聞き流すようにして、立ち上がったのぞみさんは土手を川上の方に走っていった。


◇ ◇ ◇


 その後しばらく。のぞみさんは奇妙な行動をし続けた。川岸から川の中に入ろうとしたり、土手道でわざと派手に転んだり、落ちていた石で自分の頭を叩いてみたり。そのあと首をふるふる横に振りながら戻って来て、私の隣にしゃがみ込んだ。


 憮然としている。


「現実感が、ない。五感が全部外から与えられちゃってる」

「は?」

「だから、何か食べてもおいしいという実感が湧かないし、お茶の味も熱さも分からない。転んでも叩かれても痛さは調整されちゃってるし、水を触っても濡れない。そういう感覚がない。しかも、川に入ろうとすると押し戻されてしまう。禁止されてるみたいに。わたしはここに居るっていうだけで、その意味がなにもないみたい」

「そうなんですか?」

「人ごとみたいに言わないでよ!」

「だって、私にはそれしか言いようがないですから」


 のぞみさんはぐったり俯いてしまった。


 しばらくして、のぞみさんが眉間に深い皺を寄せて私をきっと睨んだ。追求の矛先が私に向く。


「わたるさんは、本当は全部真実を知ってるんじゃないの? それをわたしに隠してない!?」


 それを言われても困る。本当に困る。


「私は渡し守です。その仕事以外のことについては何も知りませんし、興味もありません」

「じゃあ、なぜ最初にわたしにつき合ってくれたの?」

「さあ。どうしてでしょうね?」


 私にも、その理由はよく分からなかった。でも。


「たぶん。のぞみさんが、これまで私が対岸に渡した人たちとは違ったアクションを、私に対して起こしたからだと思います」

「それって、なに?」

「これまで私は、千人以上の人を対岸に運んできましたが、誰一人として私自身に興味を示した人はいませんでした。まるでみんな最初から、私が誰なのかをよく知っていたかのようです」

「うーん」

「それに、どなたもここに来られたことに疑問を持っていませんでした。ここがどこかを問う人もいませんでした。私にそういうことを聞いたのは、のぞみさんが初めてだったんですよ」

「他の人たちは何も言わなかったの?」

「そうですね。みなさんはひたすら向こう岸を見つめて、向こうには何があるのかって聞かれます」

「わたるさんは、それにどう答えるの?」

「私は向こう岸に下りたことはないので、分からない。それは事実ですし、ボスにもそう答えるように言われているので」

「そうか……」


 のぞみさんは寂しそうに目を伏せると、ぽつりと言った。


「ごめん。ちょっと独りにしてくれる?」

「じゃあ、私は舟の方にいます。用があったら声をかけてください」


 私は立ち上がって、静かに土手を下りた。舳先を飛び越して、舟に乗る。


 舟はびっくりしたように一瞬大きく揺れたが、私が腰を下ろすと何事もなかったかのように静止した。川面には、先ほどの舟の動きが大きな波紋として刻まれた。でもそれは、まるで溶けるように流れの中に飲み込まれ、ゆっくりと消えていく。


 舟はわずかな水の動きに促されて、ゆらゆらと揺れる。私は舟縁に寄りかかって、対岸をじっと見つめていた。



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