第五話 告白
どのくらい、そうやってぼんやりしていたのか分からない。尻ポケットに入れておいた携帯が鳴って、我に返った。お母さんからメールが入っている。
『時間がなくなってきました。渡しの準備をお願いします』
そうか。今まで渡しの前にこんなに時間を食ったことはなかったからな。催促されるのは初めてだ。ゆっくり立ち上がって、のぞみさんに近付く。
「のぞみさん、ボスから伝言です。そろそろ時間切れのようです。舟に乗ってください」
のぞみさんは顔を上げて、私を見た。深い影。底知れぬ絶望。これまでにたくさん見て来た諦めの表情。それが全部混じり合っている。
のぞみさんは、これまで舟に乗った誰よりも悲しそうな顔をして、私の前で首を横に振った。
「わたしは……渡し舟には乗らない。それがわたしの償いだから。この舟に乗ったみんなに絶望しか残せなかった、わたしの償いだから」
そう言って。のぞみさんが私に、横に座るように促した。
「わたるさん。これからわたしは、長い長い話をします。わたしという存在がなぜ居るのか。その訳を。それは、あなたに話したところで意味がないかも知れないけど、わたしは誰かに話をしておきたい。それを。あなたが覚えていてくれても、忘れてくれても構わない」
「あなたが何者であっても、わたしにはあなたが居ることが掛け替えのない救いなの。わたしがこうしてわたしの言葉を紡いで、誰かに伝えられること。あなたにそれを聞いてもらえる幸運に、深く感謝したい」
のぞみさんは顔を上げ、対岸に目を向けて、静かに語り始めた。
◇ ◇ ◇
わたしの本名は、
でも、現実のわたしは最初からここにはいない。そう、もともとわたしには実体がないの。今のこの姿は、わたしの仮の姿に過ぎません。スクリーンに映し出された映像みたいなもの。だから、現実感がないのは当たり前だよね。だって、今わたしがいるのは夢の中だもの。でも、この夢は普通の夢とは違う。この夢は、巧妙に作られた、仕組まれた夢。
死を目前にした時、その恐怖からみんなを解放するために、睡眠中に幸福のイメージを脳に投影させるプログラム。コールドスリープのトラブルがあった時、それを安楽死でカバーする際に稼働する、わたしが開発したプログラム。夢を見せるプログラムなの。
なぜ、こんなものが必要だったのか。
人類は地球を食い潰す寸前に、新天地を求めて開拓者をあちこちにばらまくことにしました。でも人類はまだ、太陽系から出て新天地を探すほどの科学力を持ち得ていなかったの。だから、自動操舵の宇宙船にコールドスリープ状態にした人間を乗せて、誰かが運良く新天地に辿り着くことを祈って、たくさん送り出した。ノアの方舟をたくさん作ったみたいなものね。
でも、それはあまりにも確率の低い賭け。風に吹き散らかされたタンポポの種の、ほんの一部しか芽を出して命を繋げないように、この粗末な方舟のほとんどは失敗に終わる。それはもう、最初から分かっていたことです。
でも方舟に乗る人たちは、それを正確には知らされてません。目が覚めた時には新天地にいる、それだけを伝えられてコールドスリープのカプセルに入っています。もし、長い航海の途中で何かトラブルがあって目が覚めてしまったら、彼らには恐怖と絶望しか残されていません。
船には、乗員の生命を維持するのに充分な水や食料がないの。それは、新天地で調達することを前提としてるから。もし航行中に覚醒しても、その命を保つのに必要なものがほとんど何も積まれてないの。飢えと渇きに苦しみもだえながら、確実に来る死をただ座して待つしかない。それは……もの凄く残酷です。
だから、私はこのプログラムを考えたの。
なにかトラブルが生じて運悪くコールドスリープが解除になってしまった時は、その乗員を自動的に眠らせ、夢を見せて、そこで幸福体験をさせながら安楽死に導く。それが一番苦しみが少ないと思ったから。最期に見る夢くらいは幸せであって欲しいと願ったから。そういうコンセプトで。
でもね。具体的にプログラムを組む段になって、わたしはすぐ行き詰まってしまったの。だって幸福の形っていうのは一つじゃないよね。幸福であるということを全員が体感できる形を、わたしはどうしても思いつかなかった。だから、わたしはそこを手抜きしてしまったの。
臨死の時に、花園を見るっていうのは昔からよく言われていること。川を渡るっていうのも、そう。少なくとも。そういう状況に自分が居れば、自分が死に向かっているという覚悟はしてもらえるんじゃないか。わたしはそう考えたの。大きな川と対岸に見える花園。川を渡るための舟と渡し守。できるだけ装飾を省いて、単純なイメージにして、それをプログラムした。それが、ここなの。
そう、わたしの目論みは最初から失敗しちゃってるのよ。だって、死を覚悟するのは幸福なんかじゃないもの。その状況に置かれた人たちは、自分が捨て駒になったことに嫌でも向き合わなきゃならない。人生の最後の最後に、そういう現実を突きつけられるなんて。とんでもなく辛いこと。悲しいこと。
だから、わたしは……。この出来損ないのプログラムが動かずに終わる事を、心から祈っていた。わたしたちというタネがどこかに漂着して芽を出す事を、切に願っていた。でも、それはあまりにも儚い望み。航行中にどこかで補充できるはずだったエネルギーは、結局どこからも得られなかった。長い漂流の間に、コールドスリープを維持するエネルギーがほとんど底をついて来た。誰かを切り捨てないと、全員共倒れになってしまう。どうしよう……。
もしわたしが感情がない冷徹なコンピュータなら、繁殖力の強い人たちを優先的に残して、機械的に乗員を切り捨てていったでしょう。でも、どういう順序で乗員を減らしていっても、せいぜい数年延命するのが関の山。その間に、残された乗員が新天地に辿り着ける可能性は限りなくゼロに近い。
人間はね。結局、孤独を征服する事が出来なかった。誰かにアダムとイブの役割を負わせても、たぶんそれを受け入れることが出来る人はいない。だからこそわたしたちは、こんなにたくさんの人たちを方舟に乗せたのだから。
わたしは……。わたしは、どうしても動かしたくなかったプログラムを、全員に稼働させることにしました。
◇ ◇ ◇
わたしはね。わたし本人はね、この舟には乗れなかったんです。もう老人だったし、他の方舟の準備もしなければならなかったから。でも、このプログラムの設計者として、どうしても発動の決断は機械にさせたくなかった。コンピュータが計算した生存率とエネルギー消費の結果で命が振り回される。そんな無慈悲なやり方でプログラムが動かされるのには、耐えられなかった。
それで……わたしは自分のコピーを作って、方舟に載せることにしました。クローンのように肉体を持ったものじゃなくて、わたしの思想、感情、判断を正確に再現できる人工知能として。そう。だから希乃望もプログラムなの。船の制御用のメインコンピュータのような優秀なものじゃなくって、出来損ないで、意気地なしで、すぐにすねる。でも、わたしに一番近い感情を持ったプログラム。
もしメインコーピュータから生命維持の危機を知らせる警報が出たら、安楽死プログラムとともにわたしも目覚める。そして、わたしがそれをどう動かすか判断する。そこだけはメインコーピュータの制御を受けない。そんな風に設計したんです。もちろん、わたしのやり方とは違うプログラムやプロトコルもあります。そういう船は、また別の道を歩むのでしょう。わたしはそれに意見できる立場にはない。
◇ ◇ ◇
わたしは。希乃望は、これまでずっと眠ったままでした。わたしが目覚めるということは、この安楽死のプログラムを動かす必要があるってことだから。目が覚めたらすぐに危機を知らされて、さっき言ったように全員の運命を決めました。そして、あなたにたくさん川を渡してもらってきたの。
あなたにさっき確認した乗客の数。1204人。それがこの船の全乗員の数です。あなたは全員を対岸に運んだ。全員、静かにその人生を終えました。だから、もうこの船には誰も残っていません。
そして……。わたしは課せられた務めを果たしたから、そのあと消えるはずだった。わたしのプログラムは、船室を切り離したところでとっくに停止しているはずなの。なのに、わたしはなぜかここにいるの。自分の作ったプログラムの夢の中に、ね。わたしは、自分の役目が終わっても残ってしまった。だから自分が何者か、何をすべきなのか、もう分からなくなったの。
ただ、わたしには設計者の日常もコピーされている。飲んだり、食べたり、話したり、笑ったり、怒ったり。人間なら誰もが毎日必ず繰り返す日常が、そのまんま。それが最初に無意識に出たの。
消えるはずの存在が残ってるっていうのは、わたしだけでなくて、あなたもそうなのよ。あなたは1204人の人を運んだところで、この仕事から解放されるはずだった。もう、渡すはずの人はいないの。1205番目は最初からいなかったの。
花園も、川も、舟も、そしてあなたも。役割を終えて、静かに消えるはずだった。でも、わたしも、あなたも。間違いなくここにいる。消えずにここにいる。これは……どういうことなんでしょう? 分からない。わたしには分からない。だけど、少なくともわたしはここにいてはいけないはず。みんなに悲しい最期を押し付けてしまった責任は、取らなければならないのだから。
◇ ◇ ◇
のぞみさんは、膝を抱えて顔を伏せると、じっと黙り込んでしまった。
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