君と世界と世界の繋がりの時を

綾海空良

第一章

第一話

 ひんやりとした心地のよい風が頬を撫でるその感覚に、叶光かのみは意識を浮上させた。

 重たい瞼をゆっくりと持ち上げ、ぼんやりと辺りを見回す。

「……ここ、は……」

 無意識に絞り出された音は喉の奥に張り付き、水分が不足しているのか、ひどく掠れた響きを持っていた。

 倒れるように横になっていた体を腕で支え、ゆっくりと体を起こした叶光は、今一度周囲を見回すと不安げな面持ちで瑠璃色の瞳を揺らした。

「どこなの……?」

 薄暗い路地裏には大きな建物が密集するようにして幾つも立ち並び、そのどれもが荒れ果て、朽ちてしまっている。長いこと放置されているのであろうそれらは廃墟そのものだ。

 その見覚えのない景色に、叶光は必死に思考を巡らせる。

 目を覚ます前の自分はどこでなにをしていたのか、と考えたところで頭に小さな痛みが走った。

 叶光は僅かな呻きを上げて右手で頭を押さえると、痛みを落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出す。

「……学校」

 不意に脳内で映し出された光景に、はっとした様子で顔を上げた。

「そう、確か帰り道で……」

 一度それを思い出せば、記憶は次々に溢れ返ってくる。

 夕焼け色に染まる人通りの少ない通学路。いつもと同じ帰り道。今日の夕食はなににしようかなどとそんな他愛もないことを考えていたはずだ、と。そこまで思い出したところで叶光は困惑した表情を浮かべた。

「それから……それからっ……」

 そこから先が全く思い出せないのだ。思い出そうと必死になればなるほど、記憶から遠ざかっていくようで。

 叶光は頭を抱えてその場に座り込んだ。

「私ってばどうしちゃったの?」

 ぽつりと吐き出された呟きは、思いのほか大きく響いて聞こえた。


 どれくらいの時間であろうか。随分と長いこと地べたに座り込んでいた叶光は徐に立ち上がると、頭上へと視線を向けた。

 分厚い雲に覆われた灰色の空を見つめながら、とにかく帰らなくちゃ、と強く拳を握る。

 帰る、とそう一言で言っても叶光にはこの場所がどこなのかさえわからない。しかし、ここで座り考え続けていてもなにも変わりはしない。だからまずは行動を起こさなくては、という結論に辿り着いたのだ。

 こういう前向きなところが叶光の長所と言えるだろう。

 さあ行くぞ、と力強く一歩を踏み出し、長い路地の先へと進もうとしたその直後。叶光は思い掛けずその足を止めてしまった。

 何故ならば、見知らぬ青年が叶光を凝視していたからだ。

「……お前っ」

 二人の視線が合わさったその瞬間。

 青年は弾かれたように飛び出した。

「えっ、なに?」

 突然の行動に反応しきれず唖然とする叶光。そんな叶光の前へと詰め寄った青年は両手を叶光の肩へと伸ばし、がっちり掴んだ。

 叶光は目を真ん丸にさせ、固まってしまう。

「……かの、み……なのか?」

 肩を掴む手の強さとは裏腹に、青年が紡いだ音色はとても弱々しいもので。

 驚きに固まっていた叶光は、はっと我に返ると青年の手から逃れるように暴れはじめる。

「はっ、離して!」

 叶光が怯えたように声を張り上げれば、青年はひどく傷ついたような表情を浮かべる。

 そうして肩に掛けていた手を力なく下ろすと、なぜだ、と悲しげな音色を零した。

 しかし、今の叶光には青年を気遣う余裕などない。

 なぜか自分の名前を知っている得体の知れない青年。叶光にとっては恐怖の対象でしかなかった。

 早くこの場から逃げなくては。叶光はそう考えると、一歩、また一歩、と後ろへ下がる。

「待ってくれ!」

 叶光が逃げようとしていることに気が付いたのか。青年は慌てた様子で再び叶光へと手を伸ばす。

 叶光は伸びてきた手を上手く躱すと、青年の横を通り抜けて走り出したのであった。


 青年に背を向けて全力で走る叶光。その後ろからは叶光を呼び止める声と、追い掛けてくる靴音。

 風を切り、縺れる足を必死に動かし、狭い路地を走り続ける叶光であったが、青年との距離が伸びることはない。それどころか縮まっているではないか。このままでは確実に捕まってしまうであろう。

 叶光の息もそろそろ限界だった。こんなにも全力で走ったことなど、今まで一度だってなかったのだから。

 どうしよう、そう考え走ることから意識を逸らしたのがまずかったのか。きゃっ、と悲鳴を上げた叶光は地面に躓き、ズザッと派手な音と共に転げてしまった。

 すぐさま立ち上がろうとするも、膝がズキズキと痛んで力が入らない。後ろを振り向けば、青年との距離は残り僅か。

「もうっ……ダ、メ」

 諦めかけたそのとき。周囲の気配が大きく揺らいだ。それと同時に感じたのは浮遊感。

 えっ、と声を上げた叶光は何者かによって立ち上がらされたのだと気が付く。

 叶光の二の腕を軽く掴んでいるその人物へと視線を向ければ、一番に飛び込んできたのは真っ白。サラサラとした髪が風に揺れて靡いている。

 まだ幼さの残る顔立ちをした青年は、まるで叶光を守るかのように自身の背後へと押しやった。

「……だ、れ?」

 無意識に口からこぼれた言葉に、目の前の青年は視線だけを寄越し、ぼそりと呟いた。

「…………びゃく

 そう名乗ったその青年――白は落ち着き払った様子で再度視線を前へと戻す。

 そこには、苛立ちを露わにしている先ほどの青年の姿がある。とうとう追い付かれてしまったようだ。

「そこを退け」

 青年は鋭い視線で白を射抜く。

 白はゆるゆると首を横に振った。

 白が出したその答えに青年は、そうか、と冷ややかな表情で返す。

「……ならば、力ずくでも退いてもらう!」

 青年は腰元にある刀の柄に手を掛けると、素早い動きで振りかざした。

 振りかざされた刀の刃からは一瞬にして炎が吹き荒れ、メラメラとした赤を纏っている。

 一発で普通ではないと感じ取った叶光は、咄嗟に白へと手を伸ばす。

「危ないっ!」

 叶光の叫びと、青年の刀が無防備な白へと下ろされたのはほぼ同時。

「――プロテク」

 刀が振り下ろされるその刹那。白は透き通るような小さな呟きと共に、左手を開き前へと突き出した。

 すると白と青年の間には黄緑色の淡い光が大きく円を描くように現れ、燃える刃を弾き返したのだ。

 弾き返された青年は喉の奥からくぐもった声を出し、後ろへと飛び退く。

「なに、今の……」

 緩やかに消えていく光りを呆然と見つめる叶光。目の前で起きた不可思議な出来事に頭が付いていけていないといった様子だ。

「……お前、何者だ」

 青年は眉を顰め、金色に光るその瞳でじっと白の顔を見据える。

 しかし白はその問いに答えることはせず、ただ静かに青年へと無機質な視線を向けているのみで。そこから感情を読み取ることはできない。

 緊迫した空気がこの場を包み込む。

 誰一人として言葉を発さないそんな中で、最初に動きを見せたのは白だった。

 白は唐突にヒップバッグからゴルフボールほどの大きさをした白いカプセルを取り出すと、それを青年の足元へと投げつけたのだ。

「なんだっ!」

 吃驚する青年と白の間で眩しいほどの光が爆発する。

「こっち」

 光の強さに思わず目を瞑った叶光の腕を白は透かさず掴む。

「えっ?」

 白は素早く叶光を引き寄せると、青年がいる方向とは逆の道へと走り出した。

「――くそっ!おい、待てっ」

 その行動に気が付いたのか。青年が声を荒らげ呼び止める。

 けれど叶光はその呼び止めに振り向くことさえもせず、白と共にその場を走り去ったのであった。


 白と共に青年の元から逃げ出した叶光は、あれから幾つもの路地を通り抜け、入り組んだ場所にある住宅街へとやってきていた。

 住宅街といっても、先ほどまでいた路地裏とほとんど変わりはない。あの場所と同じように、ここも朽ちた建物ばかりが並び寂れている。

「……ここに入るよ」

 小さな平屋の前で足を止めた白は叶光から手を離し、玄関の扉の前に立つ。錆び付いた音を鳴らしながら開かれた扉には鍵は掛かっていないらしい。

 叶光は小さく頷くと、白の後ろに続いて扉を通り抜ける。

 玄関の先にすぐあるのは小さなキッチンとトイレ。そして、そこから少し進むと六畳ほどの広さの部屋が一つあるのみで。外から見るよりも更に狭い印象を与えた。

「おじゃまします……」

 控えめな声で足を踏み入れた叶光に白はなにも言わず、土足で部屋の奥へと入っていく。

 土足ということに驚いた様子をみせつつも、叶光も同じようにして部屋の中へと上がった。

「そこに座ってて」

 ベッドへの方へと視線を向け目配せする白に、うん、と返し叶光は静かい腰を下ろした。

 随分と古い物なのか、ベッドのスプリングがギシリと鈍い音を鳴らして沈んだ。

 叶光が座ったのを確認すると、白はキッチンのほうへと歩いていく。そんな白を横目で見つつ、叶光はゆっくりと部屋の中を見回した。

 狭い部屋の中にあるのは叶光が座っている簡易ベッドのみで、他にはなにもない。壁紙は黒く汚れて剥がれ落ちている部分も多く、天井からぶら下がっている電気も球がないため使い物にはならないだろう。人が住んでいるにしてはあまりにも生活感のなさすぎる部屋だった。

「ねえ、キミ」

 いつの間にかキッチンから戻ってきていたらしい白の呼びかけに、叶光はびくりと肩を揺らして顔を上げる。

 目の前に立つ白の手にはペットボトルの水が二本あり、そのうちの一本を無言で叶光へと差し出した。

「ありがとう」

 小さく微笑んでそれを受け取ると、白はそのまま跪いて叶光の膝へと視線を落とした。

「……怪我、している」

 言われて叶光も自身の膝へと視線を落とす。

 紺色のセーラー服のスカートから伸びている足には痛々しい擦り傷ができていた。

「あっ、うん。さっき転んじゃったからかな?」

 擦りむいた傷は青年に追われていたときのものだ。色々なことがありすぎて叶光自身もすっかり忘れてしまっていたが、改めて確認すればズキズキと痛みはじめる。

 叶光はぶり返してきた痛みに顔を歪める。

 白は叶光の膝にそっと手を添えた。

「怪我をしたときには綺麗にしたほうがいい。……そう、でしょ?」

「え? ああ……うん。そうだよ」

 表情を崩すことなく問うた白に頷いて返せば、じゃあ、とペットボトルの蓋を緩めてその水を叶光の膝へと掛け流しはじめた。

 生温い水が血の汚れを洗い流し、足へと伝い、紺色のソックスに濃い染みを作っていく。

「ちょ、ちょっと待って!」

 思いがけない白の行動に叶光は声を上げた。

「なに?」

 手を止めて叶光を見上げたその瞳からは全く悪意など感じられない。寧ろ良かれと思ってやっているようだ。それを目にした叶光は文句を言うことなどできなくなってしまい、なんでもない、と曖昧に笑ってみせた。


 ペットボトルの水が全てなくなり、紺色のソックスが水分を含んで重くなった頃。辺りはすっかりと暗くなっていた。

 電気のないこの部屋では、窓から差す月明かりだけが頼りだ。

「拭く物がない」

 綺麗に洗い流された膝の傷に視線を落としながら白が呟いた。

「そのうち乾くから大丈夫だよ」

 叶光はどこか吹っ切れた様子で微笑む。

 ローファーだけを脱ぎ、足をブラブラとさせていた叶光は途端に表情を暗くさせる。

「……ねえ、ここはどこ? さっきの人は誰なのかな?」

 安全そうな場所へと移動して少し落ち着いたのか。自分が置かれている状況を思い出し、叶光は縋るような視線で白を見つめた。

「ここは住民区とスラム街の中間辺り」

「住民区とスラム街……? ここは光之町ひかりのちょうではないの?」

 不安げな面持ちの叶光に白は頷く。

「光之町への行き方はわからない?」

「……そこには行けない。でもここにいれば安全だから。さっきのやつも追ってはこられない」

「…………そっか」

 叶光は落胆する。いくら安全だとは言われても、叶光にとっては知らない場所。早く自分の住む町に帰り、安心したかった。

「……不安?」

 白は叶光の足元に体育座りをしながら、顔を上向かせ首を傾げる。

「うん、不安だよ。早く……自分の家に帰りたい」

 スカートの裾をぎゅっと握りしめ、素直な思いを口にする。叶光は今にでも泣き出してしまいそうだ。

 白は叶光を静かに見つめた。

「キミを手助けすること。それがボクの役目だから……キミは安心していていい」

「私を助けてくれるってこと?」

 白は首を縦に振る。

「うん。……でも、ボク以外の人間はキミになにをするのかまだわからない」

 そんな物騒な発言に叶光は目を大きくさせ、どういうこと、と説明を求めた。

「こっちは危険が多いから。キミを狙う人間がたくさんいるかもしれないってことだよ」

「それって……さっきの人みたいな?」

 叶光は追いかけてきた青年のことを思い出す。

 何故だか叶光のことを知っている様子だった青年。彼のように一方的に叶光のことを知っていて追いかけてくる。そんな人物が他にもいるということなのか。

 そうだとして、叶光には自分が狙われるその理由がわからなかった。

「あの人がキミを狙って追っていたのかはわからない。だけど……あの人は被験体だったから。だからボクは危険だと判断したんだ」

「……被験体って?」

 叶光は聞き慣れない単語に目を瞬く。

「あの人みたいに能力を持っている人のこと」

「能力ってあの炎みたいなやつのこと?」

 青年の刀が纏っていた真っ赤な炎。あんなものを出しながら刀を振るう人間がいるということにも驚いたが、それを防ぎ弾き返していた白にも驚かされたものだ。

「それじゃあ……白のあれも能力なの?」

 大きく円を描いていた光りの壁。白の左手から出現した魔法のようなそれを思い出し、叶光は興味深げに問うた。

「……ボク、のは違う」

 白の無機質なその声音が僅かばかり低くなる。

「違うの? でも……」

 けれど叶光はその僅かな変化に気が付かない。

「それよりもう寝たほうがいい」

 白は叶光の言葉を遮るようにして中断させると、その場に立ち上がった。

「あっ、そうだね!」

「ボクはまだやることあるから。キミはそのままベッドを使って」

 叶光は白を見上げながら小さく頷く。

「ありがとう。おやすみなさい」

 硬いベッドへと体を沈め、毛布を掛けて目を瞑れば心の中にあった不安や、心細さといったものが強くなる。

 叶光はその気持ちを押し込めるかのようにして更に強く目を瞑った。

 同じ部屋の中で動く白の気配を感じながら、叶光は緩やかにその意識を夢の中へと落としていくのであった。


 

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