第十三頁 葡萄

 パリン。

 それは、心に小さな棘が刺さるような、不安感をあおる音だった。ジルビははっと目を覚ました。パリン、パリン。音はどんどん増えて重なっていく。ジルビの鼓動も、音に合わせてどくどくと速くなった。ジルビは膝の上にかけていた布を胸元まで引き上げ、ぎゅっと握りしめた。

 朝焼けの光を首の下に浴びながら、ハダリーが立っている。影の下の横顔に表情はなく、酷く冷たく見えた。ハダリーは、棚の中に積み上げられていた瓶の尖端を握り、側面に貼られたラベルを眺めては棚の側面に勢いよくぶつけてそれを割っていた。床に、さらさらとした液体が零れる。血のような赤と、それを薄めるような白。棚はまるで血飛沫がついたかのように、瓶の中の液体を吸い込んで汚れてしまっていた。無造作に投げ落とされる、割れて中身を失った瓶。ハダリーの足元には、水晶のような透明な破片や黄緑、あるいは黄褐色の破片が宝石の欠片のように散らばっていた。ガラスの破片はハダリーの革靴やマントの裾にも纏わりついて、朝日を浴びてキラキラ、キラキラと瞬いている。辺りには、頭がくらくらとするような、強い芳香が漂っていた。

「な、に、してるの」

 ジルビは擦れた声でハダリーに話しかけた。ハダリーは僅かにジルビの方へ顔を向けた。左の頬骨をなぞるように、朝日がハダリーの顔を照らした。

「ああ……オレ、ワイン嫌いだから」

「ワイン?」

「葡萄をな、発酵させて、酒にしたやつ」

「それが、その瓶の中身が全部ワインなの?」

「そ。赤葡萄に、白葡萄。こっちの赤いのはまるで血みたいだろ。昔から、葡萄酒は血のメタファーつってな」

 ハダリーは嘲笑いを薄く口に浮かべ、また一つ勢いよく瓶を割った。まるで血飛沫のように中の液体は散らばって、ハダリーの顔を汚した。

「は、ハダリー」

 ジルビは、目が回るような気持ち悪さに口を押さえて弱々しく呟いた。

「や、やめて。それ以上は、やめて。なんだか、匂いで具合悪いの」

「ああ」

 ハダリーはまた新しい瓶を手に持ちながら、今度はきちんとジルビの顔を見た。

「そうか、お前、酒の匂いきついよな。悪い」

「酒の、匂い?」

「うん。酔っぱらうからな、普通の人間は。オレがもう何ともないから……気づかなかったわ。悪いな」

「音で目が覚めた。割れた音で」

「ああ、うん」

 ハダリーは瓶を棚に戻した。

「悪い。それも、気が利かなかった」

 うぷ、と込み上げる吐き気を一度堪えたら、少しだけ気持ち悪さが収まった。ジルビが胸を押さえていると、ハダリーはガラスの破片をシャリシャリと踏みつぶしながら、ジルビの傍に来て隣に座った。ハダリーの靴底には硝子の粒がまだ貼りついているのか、ハダリーが足をずらす度にシャリ、と小さな音がした。それは、霜柱を踏む時の音にも似ていた。

「ハダリーらしくないね」

「船長」

 疲れたような声で、ハダリーは答えた。

「オレらしくないって、何が」

 立てた膝に乗せた腕に頬を寄せて、ハダリーはジルビの顔を覗き込んだ。

「あれ、お前、今日目が茶色だな。気のせい?」

「寝起きだから……かも。その時の体調とか……気分で時々色合い変わる」

「そんなもん?」

「うん、そんなもの」

「へえ」

 ハダリーはにやりと笑う。

「オレの髪な、もとはそんな感じの茶色なんだよな」

「そんなこと言われても、私には今の私の目の色がわからないもの」

「はは、そりゃそうか」

 ハダリーは笑った。気の抜けたようなその笑顔は、普段のハダリーの顔だった。ジルビはその淡い青色の眼を見つめながら、先程のハダリーの疑問に対する答えを探した。

「上手く言えないけど……さっきの船長、なんだか別人みたいだった。なんだかすごく……あのワインを恨んでるみたいで、蝶人を切った時よりもずっと、鋭い気持ちみたいなものを感じて、怖かった」

「殺意みたいな?」

 くすり、とハダリーは笑った。

「オレなあ、葡萄が大嫌いなんだよ」

「葡萄……」

「そ」

 ハダリーは立ち上がった。目を閉じ、腕を広げ、朗々とした声で、何かを演じるかのように仰々しく言葉を紡いだ。

「『わたしはまことの葡萄の木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清められている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。あなたがわたしにつながっており、わたしもあなたにつながっているならば、あなたは豊かに実を結ぶだろう。わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすれば、望みは父により叶えられるでしょう』」

 ハダリーは目を開けて、荒んだ笑みを漏らして俯いた。

「『わたしはまことの葡萄の木。あなたがたは、その枝である』」

「それ、なあに?」

「聖書」

「聖書?」

「そう」

 ハダリーは、にっこりと笑ったままで、ジルビを見下ろした。窓から注ぐ光の筋はハダリーの右半身にかかり、ハダリーの顔は影を帯びたままだ。

「聖書ってなあに」

「信仰の教典。お前の村にもなかったの? 神様を信じる信仰が」

「あったよ。お花を信仰していた。お花を咲かせて、実や種を結ばせる雨や土にいつも祈っていた。命の数だけ神様がいると思っていた」

「似たようなもんだよ」

 ハダリーは鼻を啜った。

「寒いの? 布の中に入ったら」

「寒くねえよ。こんな体になって、免疫もぼろぼろだ。死なないのが不思議なくらい、しょっちゅう風邪はひいてるし、吐くことだってある。吐くのは花びらと花の蜜だけどな。本当に、よく生きてられるなって体なんだ。人間じゃない。人間らしさを錯覚して、まだ動けるって勘違いしちまう」

 ハダリーは鼻の下を指で擦った。

「今のはなあ、神様がいるっつって、その息子が父を信じろって、信じて豊かな心を育み清く正しく生きればどんな困難からも救われるって、そういう洗脳の言葉だよ。鎖だよ。オレ達人間を縛り付けて、救われないものは道から外れたせいだと見捨てるだけの。救われないものは腐った葡萄の木の枝。腐った葡萄しか作れない枝。美しい葡萄は、神様が、そして神様の息子がもたらす救いだってな。神様からの贈り物。葡萄酒は神の息子の尊い血。そういう、くだんねえ話だよ」

「くだらない、って……」

 ジルビは眉根を寄せた。ハダリーの紡ぐ言葉が怖かった。ジルビにとっては、神様はたとえその聖書の神様とは違えど、感謝して、大切にする存在だったから。

「くだんねえよ。オレは葡萄を食った。神様の実りを食った。その結果がこれだろ。ウェンズを巻き込ん、で――」

 ハダリーは吐き捨てるようにそう言って、はっとしたように口を手で覆った。ジルビはハダリーのマントの裾を引いた。今初めて、ジルビは自分がハダリーの内側に触れかけている気がした。

「ウェンズ、って誰?」

「……聞かなかったことには」

「できない。私、記憶力だけはいいの」

 ハダリーとジルビはしばらく互いに見つめ合っていた。やがてハダリーは頭を掻いて、ワインの瓶が積まれた棚の前に立った。

「これ、残りも割っていい?」

「どうして?」

「その方が、気持ちが落ち着くから」

「もったいないなあ」

「もう、こんなもん誰も飲まねえだろ。高級ワインが笑わせる。とっていたって何の意味もねえよ。神様はもういない。こんな世界に、神様なんてもういねえんだ。神様の息子の血を飲んで、葡萄の木の枝であろうと醜く足掻く必要なんてもうない。オレ達人間はすべて、もう見放されたんだからさ、神様に」

 パリン。また、瓶が一つ割れて、透明な液体がどろりと溢れて床に水溜りを作った。けれどジルビは、その音をもう怖いとは思わなかった。

「ウェンズってのは、水曜日の、ことで、」

「本名?」

「まあ」

 ハダリーは、瓶の破片で手首をすっと横に撫でた。ハダリーの手首から、ぽろぽろと色とりどりの花弁が零れ落ちた。

「オレとウェンズは、スラム街の人間だった。要は、家も金も持たない、路地で暮らして人から金や食べ物を盗んで生き延びる底辺の人間だよ。オレはまだ赤ん坊だった頃にスラムに置き捨てられて、同じころに生まれたウェンズと一緒に、ウェンズの母親の手で育てられた。いつも汚らしく汚れてたけれど、オレらにとっては、あの子供時代が一番幸せだったな。一番自由で、何をしても許される気がした。オレらを罰するのは人間だけれど、その人間達はオレらを人とは思っていない。だから何ともなかった。痛みと暴言をやりすごしさえすればあとは自由だ。同じ形をしているくせに、オレらを見下して、自分はオレらを罰せる立場にあるなんて、そんな高尚な思い込みをしてるやつらが滑稽でさあ。どんなにオレらを打ったところで、指とか足とか切り落としたところで、オレらが上手く金をくすねれば途方に暮れるのは奴らの方なんだぜ。笑える。ウェンズの母親は早くに死んじまって、父親もどこかの東洋人ってこと以外は誰かわからなかったし、オレにとってはウェンズさえいれば幸せだった。人間なんて高尚なもんになるくらいなら、死んでもいいくらいだった」

 はは、とハダリーは笑う。ジルビは眉尻を下げた。

「指とか足とか、切られたの?」

「あ? いや、オレやウェンズはうまくやったからな、鞭打ち程度かな。スラム街のやつらの中には、そうやって体のどこかを切られた後、傷口が腐って死んだやつもいたってことだよ。オレ達はうまくやってた。ウェンズのほうが頭は良くてさ、オレは能無しだったから、ウェンズの言うことを聞いて、一人で食べ物をくすねてきたんだ。オレ、逃げ足だけは早かったからさ。まあ、たまにしくじって鞭でぶたれてたけどな。ウェンズは観光客から財布を掏る係。何人も同じ行動してると捕まる可能性が高くなるからな、別行動。観光客は馬鹿だからさあ、オレ達を罰するっていう発想がなくて、財布がなくなったことだけにおたおたするんだよな。だからその分、体罰は受けなくて済む。ウェンズは気配を消すの上手かったからな、まあ、適材適所ってやつだよ」

 ハダリーは、顔いっぱいに喜びを浮かべて笑っていた。ジルビは眉根を寄せずにはいられなかった。本当にそれは、二人でうまくやっていたことになるのだろうか。ジルビの脳裏に、昨夜の水曜日の影が蘇る。ハダリーが蝶人と戦う間、一人離れたところで加勢もせず自分の身だけを守っていたあの影が。

「その頃から、金のある人間は花の種を体に注射していたらしいけど、オレら底辺はそんなこと知らなかった。青い海を見られるなんてそんな【神様からの恵み】、スラム街の人以下の屑にやつらが渡すわけもねえだろ。だからオレらは、あの日までそんな気色悪い花のことなんか知らずに生きていた。けど――」

 ハダリーは瓶をもう一本、そしてもう一本と続けざまに割った。

 ハダリーの服を、赤い液体がびっしょりと濡らした。

「考えるんだ。あの日オレがしくじらなかったら。あのおっさんに追いかけられる羽目にならなければ、何か変わっていただろうか、それともいつかはこうなったんだろうか、でも、ウェンズを巻き込むことはなかったんじゃないか……そう、ずっと」

 ハダリーはそれからしばらく、無言で瓶を続けざまに割って放り捨てた。棚は、奥の部屋が見えてくるほどにすかすかになっていた。ジルビは、少しずつ晴れてくる棚の向こうの景色をぼんやり眺めながら、ハダリーの言葉を待っていた。

「果物だった。喉が渇いて、水も無くて、だったら果物くすねればいいじゃんって思った。店に忍び込んで、幾つかの林檎を抱えて逃げ出した。けれどその時、店に来ていた観光客の靴の踵に足を踏まれた。鋭くてな、痛かったんだよ。声なんか出しちゃいけなかったのに、痛っ、って叫んでた。当然周りの眼がオレに注がれて、オレは見つかった。店主が俺を死に物狂いの顔で追いかけてきた。オレも死に物狂いで逃げた。何個か林檎が転がって割れたけど気にしてられなかった。でもそいつは足が速かった。オレはやせっぽっちで、子供だったし、追いつかれてしまった。やっとスラム街の入り口に辿りついて助かったと気を抜いたのもいけなかった。足首をそいつに捕まれて、オレは派手に転んだ。そいつも転んだ。オレの腕から零れた林檎は全部砕けて粉々になった。オレは必死に逃げようとしたけれど、足首を掴む力が強すぎて動けない。そのまま、どれくらい足掻いていたかな。石畳に肌を擦りつけてさ。でも、不意におかしいなって思った。オレを捕まえたそいつが何もしてこない。恐る恐る振り返ったら、そいつはなぜか死んでいた。頭を強く打ったのかもしれない。そいつの頭からは大量の花弁だけが飛び出して、地面に積もっていた。腹部からもそいつは花びらを垂れ流していた。オレを追いかけるとき、どこかにぶつかって傷を負ったのかもしれない。オレにはよくわからなかった。固くなった男の手を足首から解いて、オレは怖いもの見たさにその花弁の山を見た。そしたらそこにな、葡萄の実がたくさんあったんだ。そりゃもう、ごろっごろ。青葡萄の実がさ」

 ハダリーはにやりと口角をつり上げた。その目はどこともないところを見つめている。ハダリーはまた大きな音を立てて瓶を割った。

「葡萄なんて食ったことなかったんだよなあ。すぐ潰れるから、盗んで逃げるのに向いてなかった。なんだこいつ、葡萄持ってたのかよって思って、嬉しかったなあ。林檎は全部だめになったけど、この葡萄持ち帰って、ウェンズと食べればいいなって。喉がからっからだったから、その場で二粒食べた。くそほどに甘くて、瑞々しくて、ああ、葡萄ってこんなに旨いものなんだなって、乾ききった喉がうるおされて、その時だけは自分でも驚くくらい幸せで、生きててよかったと思った。こんな旨いもん食べれるなんて、って。そのまま残り全部潰さないように抱えて、そいつの腹からも掻きだして、いつもの場所へ帰った。そして、ウェンズに旨い葡萄だぞって言って食べさせた。こんなにおいしいなら、今度は赤葡萄の方も食べてみてえなあとか、二人で言いながら」

 ハダリーは、最後に残った二本――赤ワインの瓶と、白ワインの瓶を両手にとって、しばらくじっと見つめていた。

「ここまで話したら、大体わかるだろ」

 ジルビは喉をごくりと鳴らした。

「それで、感染したのね、あなた達は」

「そう。……そういうこと」

 ハダリーは顔を上げて、またどこでもないところを見つめた。

「感染したって、それがそういうものだって知ったのはいつ?」

「さあ……」

 ハダリーは小さな声で呟いた。

「いつだったかなあ……結局さ、オレみたいに、道端でくたばってたやつらの身体の周りに散らばる宝石を、例えば柘榴の実、あるいは葡萄の実、あるいは李(スモモ)だと思って食べたやつらは他にもいたんだよ。オレらのスラム街にな。それで、そいつらの誰かがある日急に体中から花弁を噴き出して、くたばったんだ。体中の花弁を全部出しきって、綿の抜けた人形のようにくたりとその場に頽れてな。オレらはそこでようやく何かがおかしいと思った。オレらの生きていた国では、そうやってくたばるやつらが鼠算式に増えていたんだ。なんでも、花の種を極初期に国民に注射した国とかだったんだと。副作用とか、弊害とかもまだよくわからない状態でな。それで、医者が、オレたちよりもはるか雲の上にいた人間達が、スラム街にも現れた。人種は違ったんだ。東洋人っつってたな。日本人だったかな。スラム街の人間でも、助かる権利がある、人権があるんだって、変なこと言ってたっけ。いつの間にか、スラム街の人口も減って、オレとウェンズと、あと何人かしか残っていなかった。どうすれば生き残れるかはその医者に聞いたんだ。同じように宝石を食べ続けるか、宝石を身に纏って、花に種は十分だと錯覚させればいい――そんな簡単な言葉で。そこで初めてオレは、オレとウェンズがあの日食べた青葡萄は人間の肉だったことを知った。なあ、肉みたいなもんだろ? 花が人の身体を食って、栄養にして、つけた実だぜ」

 ハダリーは再び視線を瓶に落とした。

「ちょっと前のオレだったら、何にも思わなかった、と思う。だけど、オレなあ、その医者に感激してたんだよな。人じゃないみたいな扱いをされてきたオレらに、人権だと尊厳だとか治療だとか、奇妙なことを言いやがる。世の中にはこんな奴らもいて、オレはそういう人間の一部で、同じ血が通った人間で、なのにオレは盗みばかり働いて他人を蹴落として、挙句の果てに人様の肉を食ったのかよって。終わりだよなって。終わってるよなって。そしておんなじことを強いて、ウェンズを同じ人でなしにしちまったんだなあってな。さっきの聖書の言葉なあ、オレが、そんな育ちしてたオレが最初から知ってるわけないじゃん。信仰心なんかくそ程にもねえわ。でもその東洋人の医者が言ってたんだよ。『わたしはまことの葡萄の木、あなた方はその枝である』――だからみんな平等に助かる権利があるのだと。神の名のもとにってな。嫌みかと思ったよな。オレ、その狂った果実を葡萄だと勘違いして、自分の片割れに、何も知らないウェンズに食わせてしまったんだぞって。オレの絶望わかる? オレにはウェンズしかいなかったんだ。ウェンズだけがオレの家族だった。オレの味方だった。どんなにオレがへまをやらかしても見捨てないで傍にいてくれる友達だった。あいつがオレを利用していたとか、そんなことどうでもいいんだ。独りぼっちよりはずっとましだろ」

 ハダリーは瓶を一つ脇に抱えた。もう一つの瓶は、底の方を持って瓶の口をパリン、と割った。そのまま、ハダリーは中のワインを頭からざらざらとかけた。それは少し黄緑がかった透明な液体だった。ぐっしょりと濡れた濃い茶色の髪の先から、雫がぽたぽたと零れ落ちた。

「ハダリー、ハダリー」

 ジルビはたまらなくなって身を乗り出した。

「船長」

 ハダリーは小さな声で、俯きながら答える。

「髪の毛……色が取れちゃったよ。黄色が……」

「いいんだよ。また染めれば……」

「ハダリーは、もう宝石を食べないの?」

 ジルビはすん、と鼻を啜って言った。

「食べたら、病気の進行を遅らせることができるんでしょう?」

「髪を染めるのも少しは効果あるよ」

「で、も」

「なあ」

 ハダリーは、割れた瓶を投げ捨てて、ジルビに向き直った。

「どんなに飢えててもさあ、同じ人だけは食いたくねえなあ? それをやっちゃもう終いなんだよなあ。同じ人の肉を食うのと、その返り血を浴びるのとじゃ、オレは血を浴びる方がましだなあ」

 ハダリーは泣きそうな顔でくしゃりと顔を歪めて笑った。

「あの医者がオレらに手を差し伸べてくれて初めて、オレらはオレらがちゃんと人間だったことを知ったんだ。もう人間じゃなくなったことを知ったさ。オレたちみたいな底辺は、底辺にも、ちゃんと人間の尊厳があって、人権があったって、知らされたんだ。オレのせいで、ウェンズを化け物にしちまったんだ。オレの、せいで……」

 ハダリーは最後の瓶を思い切り棚にぶつけた。破片が飛び散って、ハダリーの頬に切り傷をつける。舞う花びら。散らばる赤い雫。ハダリーは血まみれになった。神様の息子の血を一身に浴びて、顔を押さえて蹲った。

「誰にも話すつもりなかった……でも話したかったのかもしれない。罪悪感で押しつぶされそうだ。ウェンズが、ウェンズが笑ってくれるなら、オレはなんだってする。でもあいつはもうオレに声をくれない。日記をつけろと言っても、自分の思いは全部破り捨てる。あいつが自分の存在を消したがってるのは、きっとオレのせいなんだ。オレのせい……オレはまだ、くたばるわけにはいかないんだ。あいつに青い海が見えてしまう前に、オレがとどめを刺すんだ。死なせてやるんだ。でも殺したくない。あいつがいなくなったら、オレの家族はもういなくなってしまう」

 赤い水溜りに足をつけて、ジルビはそっと歩いた。破片を避けて歩いた。その破片が全て、ハダリーのばらばらの心のような気がして、ジルビには踏むことができなかった。踏んで血を流してあげることは、できなかった。

「船長、パパラチア号の誇り高き船長。あなたは海賊の皆のことを家族と言ったわ。そうでしょう。あなたは一人じゃないわ。あなたと水曜日さんとの思い出はあなただけのもの。でもあなたは一人じゃないでしょう?」

「あんなの……でたらめだ」

 ハダリーは顔を覆ったまま唸った。

「海賊なんて、口実だ。オレはただ、ウェンズを死なせたくなかった。花綿の人形にしたくなかった。あいつのために宝石をたくさん手に入れたかった。だから海賊になった。宝石を奪う大義名分がほしかった。ミヒオもあとの十九人も、オレとウェンズだけじゃ船を回せないから、ただ労働力がほしくて捕まえたんだ。ミヒオを助けたのも本当に気まぐれだった。あの医者の故郷で苦しんでる誰かを救ったら、あの医者に何か返せる気がした。オレは、あいつらを家族だなんて少しも思ってねえんだよ。船長なんて肩書き本当は何も似合わねえ。オレは、ウェンズが人らしくあればそれだけでいいんだから。オレはそんな人間なんだ」

 ハダリーは手をずりずりと音を立てて顔から離した。見開かれた青い目は揺れて、窓の外の砂の景色を見つめていた。ハダリーは口の端に乾いた笑みを浮かべた。

「いや……もう人間ですらない。ずっと前から、ずっと青い海が見えてる。ウェンズにももう青い海が見えていたらどうしよう。綺麗だよ。青い海は泣きたくなるくらい綺麗だ。これを見たくてこんなクソみてえな花に手を出した人間の気持ちもわからなくもねえよ。でもそれってもう、人でなしってことなんだ。青い海に感動したところで、その感動する心は、芸術はもう人間のものじゃない。あとはそのままくたばって死ぬしかないんだ。気が狂いそうだ。ウェンズは何も言ってくれない。口も閉ざして、声もなくして、きっとオレを恨んでる。恨まれたって構わない。あいつの自由を奪ってしまったオレは地獄に堕ちるだろう。構わない。でもウェンズまで引きずり落としたくない。あいつは人のままでいてほしい。あの日路地裏で青い空を見て笑いあって、腹を空かせて、道行く金持ちに悪態を吐きあった、あの頃のウェンズのままで――」

「船長、船長」

 ジルビはハダリーの腕に抱きついた。

「あなたに家族がいないというなら、他に家族がいないというならこれから本当の家族になろう。私たちは海賊。あなたの家族だよ。あの人たちはハダリーのことを大好きだよ。だから一緒にいるの。ミヒオだってそう。私だって、水曜日さんだってきっとそう」

「そんなの……ウェンズは絶対オレを恨んでる」

 ハダリーは焦点の合わない目で頭を振り続けた。その手が、赤い水溜りを撫でてぴちゃりと音を立てた。ジルビはハダリーの腕に爪を立てた。

「恨んでたって、嫌いだったら側にいるわけない。いるわけないの! 馬鹿言わないで。ねえ、ハダリー、あなたにとって本当に、ウェンズは家族なの? あのね、ハダリー、あなた間違ってるよ。間違ってる。家族だったら、家族だったらね、」

 声が震えた。ジルビはまた、ぼろぼろと涙を流していた。

「家族は、どんなに嫌いになっても、恨み言があっても、嫌なことあっても、諦めても、切れない縁なの。またいくらでも仲直りできる。根底に揺るがない【好き】があるから。あなたは本当の家族を知らないから、そんなに不安になるんだわ。ウェンズは本当に家族? 家族だったら不安にならないわ。嫌われてることが苦しくなんかならない。こっちだって嫌ってやればいいの」

 ジルビはハダリーの頬を両手ではさんだ。ハダリーの青い目は、幼子のように心許なく揺れていた。

「あなたにとって、ウェンズは友達なの。大好きな友達なの。だから気になるの。大切で大切で、苦しくなるの。ウェンズはあなたのものじゃない。あなたの友達なの。間違えちゃだめ。ウェンズはあなたのせいで不幸になったんじゃない。あなたと一緒に不幸になったの。あなたと一緒に歩いてきたの」

 ハダリーは唇を震わせた。何か言おうとして、喉が詰まったような音を漏らした。ジルビは笑った。自分が言っていることも、めちゃくちゃだと思っていた。ジルビは自分の仄暗い狡さを自覚した。ハダリーにかけた言葉は、まっすぐに自分に帰ってきた。アビルへの不満が溶けていく。そう、私とお姉は家族だから。水曜日への不信感も霧散する。あの人はまだ、友達じゃないから、だから私も不安になるだけ。

「それでも不安? 独りぼっちになったら不安? ウェンズが友達に成り下がったら不安でたまらない?」

 ハダリーは俯いた。明らかにジルビから目を逸らしたのが、ジルビにはわかった。それがたまらなく可笑しくて、愛おしいと思った。自分よりも大人の人にそんなことを思うのはなんだかおかしなことだ。何もかもが、おかしいことだとジルビは笑った。

「だったら、私と家族になろう、ハダリー。二人でウェンズを幸せにしよう。私もね、水曜日さんのこと好きだもの。あの人は、本音がどうであれ、やっぱり私に優しくしてくれた。私、優しくされるの慣れてないの。甘やかされることには慣れてたけど、優しさにはなれてないの。だからすぐに好きになっちゃうの。ねえ、家族になろう、ハダリー。私、がんばってあなたに追いつくよ。早く背も伸ばすよ」

「家族……」

 ハダリーはぽつりと呟いた。そして視線を揺らしてもう一つ呟いた。

「友達……」

 ジルビはハダリーの茶色の髪を撫でて、頬に貼りついた花弁を剥がした。

「だめだよ。ウェンズと家族じゃなくなったら、お前と家族になったら、オレ、これからどうしていいかわからないだろ。ウェンズだけがオレの全てだったんだ」

「ハダリー自身のことは?」

「え?」

「ハダリーは? もう自分のこと手遅れだって思ってる? 怖くないの? 青い海が見えて、こんなに肌も花が透けちゃって、宝石食べたくもなくて、ウェンズのことを殺すためにいるあなたは、ほんとに幸せなの? あなたは私たちやミヒオさんに血の流れた人間だと言ったよね。でも、じゃあ、自分のことは? ゾンビだと思ってる? 人ではないから、どうでもいいの? 生きていたくないの?」

 ハダリーはジルビの手を親指で撫でた。その仕草が、他の海賊たちに似ていて、ジルビは思わず笑った。

「お前の手、あったかいな」

「うん。ハダリーが冷たいんだよ」

「ゾンビだからな」

「やっぱり、そう思う?」

「オレは同じゾンビを切り刻んできたし」

「うん」

「だからオレも、死ぬべきだろ、ウェンズのこと、見送ったら」

「そうかな」

「そう思ってるんだ」

「そうなんだ」

「でも、お前あったかいな」

「血が通ってるからね」

 ジルビが悪戯っぽく笑ったのと、唇にひんやりとした冷たさと柔らかさが触れたのはほとんど同時だった。

 ハダリーはやがてジルビの頬を両手ではさんで、何度も唇を啄んだ。ジルビは目を見開いた。唇と頬が少しずつ冷えていく。今私は、ハダリーに熱を分けてあげられているだろうかと、ぼんやり考えた。

 やがて顔を離して、ハダリーは憎いものを見るような眼差しでジルビを睨みつけた。

「お前が羨ましい」

「そうなの」

「当たり前に血を持って、あたたかくて、家族を知ってるお前が妬ましくて仕方ねえや。何ウェンズのこと呼び捨てにしてんだよ。こちとらあいつと二十年近く一緒にいるんだ。まだ数日程度の関わりで、家族になろうだあ? ウェンズを幸せにしようだあ? そんな、花の苦しみも知らねえ口で綺麗ごと言ってんじゃねえよ、クソが」

 ハダリーは顔をくしゃくしゃに歪めて、唇を噛んだ。

「お前、なんでそんなに唇赤いんだよ。あたたかいんだよ。クソ、オレにも血をくれよ。オレだって、昔はまだ血があったんだよ。あの時葡萄なんて食わなきゃ、オレはただ人としてスラム街の隅っこで、蠅にたかられながらのたれ死ねたんだ」

「生きたくなった?」

 ジルビはにっこりと笑った。

「あ?」

 ハダリーはしかめた顔を上げた。その左目から、ぽろりと一滴涙が零れた。

「だって、ハダリー、死にたがりみたいなんだもん。あ、安心して。私これ、初キスじゃないの。最初は幼馴染と済ませてるからね。こんな唇でよければいくらでもあげるよ」

「餓鬼がませてんじゃねえよ」

 頬に垂れた涙を手首で拭って、ハダリーは鼻で笑った。その青い目は、澄んだ色をしていた。

 ハダリーが立ち上がるのに合わせて、ジルビも立ちあがった。お気に入りだった服が、赤に染まって汚れてしまった。二人そろって血まみれみたいだ。ハダリーは、埃だけを残した棚の表面を撫でた。ジルビは埃が待って朝日で雪の粒のように輝くのを眺めていた。

「なあ、おい見ろよ」

 不意に、ハダリーが鋭い声で言った。ジルビは振り返る。ハダリーは棚の奥に見える何かを、目を細めて見ていた。

「人形があるぜ」

 ハダリーはにやりと笑った。ジルビも、背伸びして向こう側を見つめた。喉から小さな悲鳴が漏れた。

 椅子にだらしなく座った、生気のない人間の身体。目だけが命を持って、こちらをずっと見ている。

 どこかで見たような茶色の瞳が、二人をじっと見つめている。人形は、ぎこちなく皺だらけの頬を動かして、微笑んだ。

 ハダリーは、棚を蹴飛ばした。棚は崩れて、奥の部屋と繋がる。

 そこには、ほかにも二人の人間が、椅子の上にぐったりと腰かけていた。茶色の瞳だけを、興味深そうに二人に向けて。

 床には、緑色の小さな粒が山のように転がっている。蝶の蛹だ。それに鮮やかな青い色の羽根をした蝶が、数匹たかっている。

 屍のように生気なく椅子に座る彼らの足元で、蝶がまた生まれようとしている。


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