第十二頁 月光

 蝶の大群は、ジルビとハダリーの体を抱えて何度か浮き沈みを繰り返し、飛び進んだ。ジルビの靴下は、何度も砂海の表面を撫でて汚れた。その度、自分よりも下の方で蝶人に掴まるハダリーの事が心配になった。蝶たちの影が通り過ぎたあとの海面には、花びらが粉雪のように降り積もっている。

 二人が空に浮かんでいたのは、おそらくはわずかな時間だった。夜空に輝く欠けた月の位置が、ほとんど変わらないほど。けれど、ジルビにはそれが永遠にも近い時間のように感じられた。ハダリーはぐったりとしたようにうつむいたまま蝶人の足にぶら下がっていて、その安否がジルビには気が気ではなかった。血が止まったばかりの肌の傷口を、蝶達の羽に擦られ続けるのも痛かった。

 闇夜の中で、蝶達の影は波の唸り声を巻き込み、ざわざわと音を立てながら少しずつ進んでいく。やがて、砂上に漂う霧の中に、大きな影が浮かび上がってきた。ジルビは目を細めた。形は船のようだけれど、同時に壊れてしまっているようにも見える。割れた床板の断面が月明かりを反射する。柱は折れ曲がり、帆は破れて空を透かしている。砂の海に船首から埋まってわずかに尻を上げたその姿は、まるで月を見上げる鯨の頭のようでもあった。

 蝶人は、やがてその船の床に足をつけた。ハダリーの体が、花びらを点々とまき散らしながら緩やかに転がった。ジルビは蝶人からぱっと離れ、切り傷だらけの腕を伸ばしてハダリーの上体を抱き起こした。ハダリーは、大きく目を見開いていた。帆の破れ穴を通る月明かりが、ハダリーの右目を細い筋になって照らす。真っ青な瞳の奥で、闇のような瞳孔がちらちらと左右に揺れている。

「いってえ」

 ため息交じりに、ハダリーはそう零した。蝶人は微動だにせず、二人を見下ろしていた。その体表を蝶達がもぞもぞと這いずるせいで、蝶人の輪郭は刻一刻とわずかに変化を見せるのだった。ジルビは喉をくっと鳴らした。なんだか気持ち悪いと思った。

 月光に照らされたハダリーの頬に、花の影が透けている。ジルビはぎょっとした。ハダリーの皮膚のすぐ下にも、花は咲いているのである。「きつい?」と尋ねると、ハダリーは深く息を吐いて、目を閉じただけだった。傷痕がどこにあるのかわからないけれど、きっとたくさん花びらを零してしまったのだろう。ジルビは蝶人をじっと見据えた。この難破船の上で、どうしたらいいのかわからずにいる。

「何か、用?」

 ジルビが蝶人に投げかけた質問に、ハダリーが目を閉じたままくすりと笑った。自分でも変なことを言ったなあと思いながら、そもそもこの蝶人は話せないのではないかとも思いいたった。次第に頬にともる熱に耐えきれず、ジルビが目を伏せたころ、ようやく蝶人は動きを見せた。

 輪郭が刻一刻と形を変える腕を伸ばして、後ろの扉を指さす。扉はわずかにひしゃげ、閉まりきらないのを石でとめているようだった。

「あー。あったまいてえ」

 ふらりとしながら額を押さえてハダリーが立ち上がった。左手の上で、くるりと海賊刀が回る。月光が銀色を反射してきらりと瞬いた。ハダリーが床を蹴ったのと、蝶人がこちらに歩み寄ったのは同時だった。蝶人は両腕を広げ、まるでハダリーを抱きしめようと、包み込もうとしているように、ジルビには見えた。ハダリーは容赦がなかった。月明かりの下、薄い銀色と金色、赤銅色に瞬く花びらを散らしながら、蝶人の胴体に切りかかった。横に一筋、縦に一筋。ばらばらばら、と、蝶人の体から大量の花びらが零れ落ちて、山を作った。ハダリーは更に、蝶人の首も切り落とした。そこから勢いよく飛び出した飛沫は、虹のような弧を描いて花びらの雨を降らした。人としての原形をとどめなくなった花の山に、羽や足を失った蝶の屍が降り積もる。それでも尚生きのびた蝶は、花にたかって羽をふわふわと揺らしている。

「ここまで、しなくても……」

 ジルビが掠れた声でつぶやくと、ハダリーは鼻を鳴らして蝶の死骸を掌で撫でた。そのまま腕をあげたハダリーの手から、透き通る金色のどろっとした液体が跳ねた。蝶の死骸を巻き込んで、指先や手首から糸を引くようにひたひたと零れ落ちる。頭がくらくらするような、甘い匂いが辺りに漂う。

「な、にそれ」

「花の蜜」

 ハダリーが、ため息交じりに呟いた。

「こいつらなあ、オレらとおんなじで、もとは人間なんだよ。体の中に花を咲かせて、やがて花が皮膚を食い破るだろ。すると花の蜜に誘われて蝶が体に纏わりつく。蝶は花粉をまき散らして、こいつの体中の花を受粉させたんだ。体が保たれてたのは、大量の蝶が体を運んでやってたから。多分な」

「多分?」

「こいつらに語る能なんてねえんだから、想像することしかできねえだろ。でもこうやって、傷口から花しか出て来ねえの見たら、どう考えてもオレらの末路だろ。皮もこんなんなってな、穴ほげのべっろべろ」

 そう不快そうに言って、ハダリーは何か薄い膜のようなものを掴み、べろん、と垂らして月明かりにかざした。一瞬、それが何なのか、ジルビにはわからなかった。脳が理解を拒絶した。それは人の顔だった。まるでマスクのような、目のない顔から首の皮膚だった。到底人のものだったとは思えない、薄い薄い膜だった。

「――――――っ!」

 ジルビは口を両手で覆って、悲鳴にならない声を上げた。いじわる! いじわる! と口の中で叫び続けた。なんだよ、とハダリーが怪訝そうな顔で言った。ジルビは勢いよくかぶりを振った。眼尻にたまった涙が飛沫になって辺りに飛び散った。

「いじわる! いじわる! そんなもの平気で見せて、ひどい! いじわる!」

「あぁ?」

 ハダリーは片眉を挙げて、首を傾げた。手に掴んだ蝶人の皮膚を見て、ジルビを見て。ようやくハダリーは、「ああ」と声を漏らした。

「お前、海賊ならこれくらい平気にならねえと、簡単に死んじまうぞ」

「私、海賊に拾われただけだもの!」

「あ、そうだったっけ。女海賊って言葉の綾だったっけな」

 ハダリーは口の端で笑って、蝶人の皮膚を投げ捨てた。

「どうして、蝶人をハダリーは殺そうとするの」

「蝶に寄生されて、生かされてるのって気味悪いじゃん」

 ハダリーは花びらの山を踏みつけて言った。

「ああ……」

 また、人間の尊厳とかそういうことだろうか。ジルビが、ため息にも似た声を漏らしたとたん、ハダリーは月に背を向けてにやりと笑った。

「ってのは建前でえ~、こいつらなあ、もう末期だから体中に宝石がわんさか転がってんだよ。それまでは体内で花に受粉を促すしかなかったのが、蝶っていう便利な装備がつくからな。それまでよりも急速に花の実ができる。こいつ一匹裁くことで、オレら百人分さばいただけの宝石が採れるぜ。いやマジで。多分、宿主の体がもういよいよ保たなくなったところで、花が蝶を呼び寄せて大急ぎで実を作って果てようとするんだろ。怖え花だな」

「ほ、んとに?」

 ジルビは震える声でつぶやいた。ハダリーの言うことが、ジルビにはわからない。人類の尊厳だとか、人間らしさだとか、そんな高尚なことを言っていたハダリーはどこに行ってしまったのだろう。ハダリーの今の顔は、獲物を見つけて笑う、気持ち悪い人間の顔だった。土地を見つけて、土着民を見つけて、にやりと舌なめずりをした故郷の略奪者にそっくりだった。

「ああ、ほれ。もう爪先で数えただけでも三十個はあったぜ。多分この山をばらせばもっと出てくんだろ」

 ハダリーは、ジルビの言葉を違う意味で解釈したようだ。ジルビは首を振った。

「そうじゃない、私が言いたいのはそうじゃないよ。ハダリー、本当は人の尊厳なんてどうでもいいの? それともこの人たちが海賊じゃないから、獲物なの? もしも私が、いつかこの人たちと同じ姿になったら、あなたにとっても私はただの物なの?」

 ハダリーは顔をゆるりとあげて、目を見開いた。冷たい風が、花びらを巻き込んで吹き抜けた。ジルビの傷だらけで熱を持った頬には、ハダリーの物か蝶人の物かわからない、花びらがひたりと貼りついた。ハダリーは、やがて頬を引くつかせ、ぎこちなく笑った。

「お前、なあ……だから、オレの事は船長って呼べって何度も言ってるだろ……あ、もう船長じゃねえな。船から離れちまった……はは。海賊失格だなあ」

 そう言って、弱々しい声を零す。最後の方は、ジルビにもほとんど聞こえなかった

 やがて、ハダリーはおろおろとしたように目を泳がせた。何度か髪の先端を指で手慰み、花びらの貼りついた腕を撫ぜて。

「お前ってさあ」

 ややあって、少しだけ、拗ねたような口調でハダリーがつぶやいた。

「なあに」

「お前って……なんていうか、ぐいぐいくるよな。なんかそういう、踏み込んでくるとこ、嫌い」

 今度はジルビが目を見開く番だった。嫌い、だなんて、ずいぶん幼い言い草だ。ハダリーはやっぱり、大人じゃないな、なんて思った。大人だったら、きっと水曜日のように、アビルのように、ジルビを簡単に踏み込ませないし、拒絶できるのだ。

 同じところまで、堕ちてきてはくれない。

「私今、踏み込んだの?」

「うん」

「どこら辺で?」

「わかる必要がねえな」

「ずるい」

「何が」

「そうやって、いっつも中途半端に話してくる大人はずるい」

「【大人】でなんでもカテゴライズすんじゃねえや。オレはハダリーであって他の何でもねえよ。水曜日だって大人じゃねえぞ。あいつはただの【水曜日】だ。……ずっと前から、あいつがそう一人で決めたんだ」

 ハダリーは、俯いて唇をかんだ。

「おい、とりあえず、扉の中見てみんぞ。こんな風が吹きすさぶような場所で真夜中過ごすなんて凍死しようとしてるようなもんだ。オレは平気だけど、血が通ってるお前はきついだろうが」

「うん、実はすごく寒い」

 ジルビは、袖の中から除く腕を掌で擦って、ぐすっと鼻をすすった。ハダリーはあきれたような顔をして、扉を押さえていた石を爪先で蹴り飛ばした。石は砂の海に落ちて、ざらざらと嫌な音を立てた。

「宝石は? そのままにしていていいの?」

 花びらを踏まないように気を付けながら、ジルビはハダリーを追いかけた。ハダリーは眉根を寄せて、不思議そうにジルビを見下ろした。

「おまえ……ぴーぴー泣く割に切り替えは早いのな」

「姉妹で喧嘩慣れしてるから」

 ジルビは鼻をもう一度すすった。

「泣いた理由をずっと引きずってたら次のけんかで負ける」

「へー。姉妹も大変なこって」

 ふん、とハダリーは鼻を鳴らした。その声音はどこか楽しげだった。

「今のオレ等にあの数の宝石はいらねえだろ。荷物持ってても動きが鈍くなるだけだしな。ここは知らない場所だ。できるだけ身軽な状態でいたほうがいい」

 ハダリーは扉を開けて、埃の匂いが漂う室内を目を細めて睨み付けた。

「で、ここはどこなんだ?」

「わからない……」

「暗くて何にも見えねえな。オレもライター忘れてきた。たまに使えねえな、オレ。たまにだけど」

「ライターって?」

「手で火をつけるやつ」

「うーん?」

 ハダリーの説明は、わかりにくいとジルビは思った。ハダリーは壁をぺたぺたと触った。錆びた釘が出ていたりするんじゃないかと、ジルビははらはらした。やがてハダリーは、壁に掛けられたロープを見つけ出したようだった。

「……埃の匂いがする。汚いんじゃないかな?」

「そりゃきったねえだろうよ。難破船だぞ? 埃も積もって手触り最悪だわ。でも、扉の取っ手にこうしてロープでも巻き付けて結びとめてないと、風が入ってきて寒いだろうが。支え用の石捨てちまったしな」

「蹴らなきゃよかったのに」

「うっせえなあ……たしかに蹴らなきゃよかったよ。蹴りたくなったんだよ」

 口をとがらせるハダリーは、子供のようだ。ハダリーは扉にロープを起用に巻き付けて、その端をロープを垂らしていた太い釘にぐるぐると巻き付けた。隙間風は少しだけ吹くけれど、それでも少しは暖かくなったように感じられた。

「あ、窓があるじゃん」

 ハダリーがふと、明るい声を上げた。真っ暗闇の奥の床に、四角形の白い光が四つ、斜めに歪んで並んでいた。そこまで、二人でそろそろと慎重に歩く。窓に近づく頃には、暗闇に目も慣れて、窓の側に大きな棚があることも分かった。何か、固い瓶のようなものが積まれている。月光が瓶の輪郭を細い線で照らしていた。なんだろう、と思いながら、ジルビはしばらくその瓶の山をじっと見ていた。ハダリーはそれには目もくれず、棚の上から埃をかぶった布をおろした。ジルビはけほ、と咳こんだ。

「それ……使うの?」

「畳まれてる中の方は綺麗だぜ。一枚は床に敷いて座ろうや。もう一枚は膝にでもかけとけば少しはあったかいだろ」

「うん……」

「わがまま言うなよ?」

「うん」

 窓の下に敷いた布の上にどっかりと座り込み、壁にもたれて月光の筋を口を上げながらじっと見つめるハダリーは、なんだか幼く見えた。ジルビは不意に、死んだ幼馴染の事を思って苦しくなった。パパラチア号に拾われてから、否、次姉と海に繰り出してから、大人にならなければと思っていた。けれどどんなにもがいたところで、すぐには大人になれないのだと知った。そしてハダリーは、ジルビのそんな努力を笑い飛ばすかのように、ジルビと同じところまで落ちてきて、傍にいてくれるのである。

 どうして、追いかけてきてくれたのだろう、と思った。もう、家族じゃないと言ったのに。けれどまだ、ジルビにはそれを聞く勇気はなかった。涙をこらえて目を閉じて、朝が来たら、勇気がほんの少し、湧いてくるのかもしれない。

 ジルビはハダリーの隣に座った。ハダリーの体はあまり熱を持たない。花の優しい香りがする。温かくはないけれど、その花の匂いを追うように、ジルビはハダリーに体を寄せた。ハダリーは棚の中身をじっと見ていた。月明かりで青い目は炎のように明るく照らされている。綺麗なような、恐ろしいような、不思議な輝きだった。やがてジルビは眠りに落ちた。ガラスが割れる音を聞くまで、支離滅裂な魑魅魍魎の夢に、胸をかきむしられながら沈んでいた。



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