第十一頁 琴線

 ジルビは、ぐすっともう一度鼻をすすって、手の甲と手首で涙を拭いた。目がしぱしぱとして痛かった。辺りをざっと見回してみても、ハダリーと水曜日の姿は見当たらない。目に映る光景は、言葉をうまく発せない、ハダリーが言うところのゾンビ――ジルビが名前すら知らない十九人の海賊たちが、床に座り込んで宝石を食い散らかしている、それだけだ。ジルビは頭の中で二人を天秤にかけた。その天秤は、やがて僅かに水曜日の眼差しに向かって傾いた。ハダリーは、ジルビに対してもまるで幼い子供同士の喧嘩のように、対等に言葉の棘を投げてくるのだ。それよりは、何かと自分を助けてくれる水曜日の方がジルビには優しく思えるのだった。頭のなかで出た結論に、ジルビは自嘲した。こんなことになってもまだ、自分は大人たちに甘えた考えを抱いている。

 ジルビが歩き出すと、靴の踵が木板を打ち鳴らして小気味よい音を立てた。ジルビは、海賊たちに声をかけた。

「ねえ」

 ジルビの声に反応して、赤茶色の髪の海賊が振り返った。海賊は、首をあらぬ方向に傾けて、へらへらと笑っていた。歯の隙間から唾液と果汁が垂れそぼっている。その指が、今しがた食べていた黄色の宝石を、わずかに握りつぶした。果汁の雫が彼の指の間を這って、床に落ちていく。

「水曜日さんがどこにいるか知らない?」

 赤茶色の髪の青年は、焦点の合わない茶色の目をきょろきょろと左右に動かしながら、涎をさらにだらだらと垂らして首を反対側へ傾げた。わからないか、とジルビは溜息混じりに呟いた。すると少し離れたところにいた別の青年が、同じように焦点の合わない目をジルビに向けて、「うー」と唸った。彼は、自分のたこや豆だらけの指を空にふらふらと向けた。

 ――空?

 見上げると、薄青の美しい空が広がっていた。ジルビは一瞬息を飲んだ。まるで、ハダリーの瞳のような色だった。ジルビは、だからその海賊が、空を指さしたのだと思った。

「うん……綺麗だね」

「うー、うー?」

 青年は焦げ茶色の髪を振り乱し、膝をごつごつと床にぶつけながらジルビに近づいた。唾液と果汁でべたべたの掌を広げて、ぱちんとジルビの両頬を挟む。焦点の合っていない目で、じろじろと瞳を覗き込まれた。それを眺めながら、赤茶色の髪の青年が「うあ、うーあ!」と言いながらジルビの目を指さし、また空を指さした。ジルビはぽかんとしたまま、もう一度ぐぐ、と青年の手の力に抗って空を見あげ、すぐに二人の海賊に視線を戻した。二人とも、よだれをぼたぼたと垂らしながらにこにこと笑っている。

「ああ、」

 ジルビもようやく、ふわりと微笑んだ。

「ねえ、もしかして、今私青っぽい眼をしてるの?」

「うー? うー」

 ジルビは、目の前の青年の前髪をそっと撫でて指で梳いた。心なしか、彼は嬉しそうに笑った。翡翠のような濃い緑色の目がきらきらと純粋さを湛えて輝いた。ジルビは、自分の目を指さした。

「私の目ね、榛色って言うんだけど、私の気分で時々金色に見えたり青に見えたり茶色に見えるんだって。普段は、緑色っぽいんだけど……ね、それって、なんだか空みたいでしょ」

「うー? うー?」

「あは、昔はね、近くで見ると茶色と緑が気持ち悪い混じり方した眼だから、嫌だなあって思ってたんだよ。でも、うん、ありがとう。これ、少しは綺麗かな」

「うー」

 焦げ茶色の髪の青年はぱっとジルビから手を離して床に座り込み、またむしゃむしゃと宝石を食べ始めた。今度は赤茶色の髪の青年が、空を食べようとでも言うかのように空に向かって口を大きく開けて、幸せそうに眼を瞑りながらジルビの手の甲を何度も何度も撫でた。唾液と果汁でべたべたした感触を、ジルビは嫌だとは思わなかった。彼らはハダリーが言うところの屍かもしれないけれど、言葉も通じないけれど、心がないとは思わない。

「うあー、ぐあ、あだい? あだい? えんちょ?」

 よたよたと身体を左右に揺らしながら、シャツを赤や黄色の汁で汚した別の海賊が近づいてきて、ぬっとジルビに顔を近づけた。ジルビはゴツンとぶつかった額を押さえながら、首を傾げた。

「水曜日を探してるの」

「うい、ういお」

 彼は、白髪交じりの茶髪を唸りながら掻き毟った。その頬を、赤茶色の髪の青年が、べちべち、と音を立てて叩いた。

「うー、うー」

 赤茶色の髪の青年は、また空を指さす。

「うん、そう言えば、水曜日も青い髪をしてるけど……」

 苦笑いを浮かべながら、ジルビも彼の指の先をもう一度見遣った。そうして、ふと気づいた。船の中央にそびえる太くて高い柱。その先に、黒い人影が見えた。そうだ、見張り台――そうか、そこにいたのか。私ったら。

「ああ、ありがとう! わかった」

 ジルビはぱっと笑って、彼らに向き直った。

「あうあう」

 ジルビは赤茶色の青年の手の甲をそっと撫でて、手を離した。青年は両手を擦り合わせて、離して、自分の掌をずっと見つめていた。それを、白髪交じりの青年も覗きこんでいた。彼らから遠ざかると共に、宝石を咀嚼する音も小さくなった。私ったら。ジルビは、べたべたと汚れた手で拳を作って、胸を押さえた。あの人達はずっと教えてくれてたのに、気づかないなんて、なんて恥ずかしいの。

 はっ、はっ、と息を上げながら柱に沿ってぶら下がる綱の梯子を上った。硬い綱の表面に擦れて、掌の皮がひりひりとした。それに、全身がぐらぐらと揺れて心もとない。おまけにジルビは足が小さかった。梯子の隙間から穴から靴が片方落下していく。むっとしながら、ジルビはもう片方の靴も足を揺らして下に落とした。これで少しは上りやすいだろう。後は殆ど意地で天辺まで登った。柱の尖端に鎮座する、丸くて狭い籠のようなものの中に、水曜日はいた。綱が軋む音が聞こえたのか、少し前からジルビが綱を上ってくるのをぼんやりと見下ろして眺めていた。その後ろには、少し赤みを帯びた空と海の境界――水平線が、黒い染みをつけて揺れていた。その景色に見惚れている余裕はジルビにはなかった。ぜえぜえと息を吐きながらようやくジルビが床に足をつけると、水曜日はやはりジルビがうまく平衡を保てるように抱き上げてくれたのだった。

「すい、ようび、わたし、あなた、に」

 はあ、と大きく息を吸って、吐いた。首を傾げたままぼんやりとした様子で自分を見下ろす背の高い水曜日を、きっ、と目をつり上げて見つめ返した。水曜日は太陽を背にしているせいで、顔に暗い影がかかっていた。

「あのね、宝石をもう少し欲しいの。もらえないかな」

 水曜日の片眉が、僅かに釣り上がった。ジルビはもう一度大きく息を吸い込んで、そのまま一気に続けた。

「お姉と私で、いくつか宝石が必要なの。だから、頂戴。少しは余ってるでしょ? それとも、新参者には簡単にやれない? だめ?」

 水曜日は顎をあげて、ジルビを見下ろした。その眼差しが、凍りつく宵闇のように冷たくて、ジルビはどきりとした。

「だ、だめなの……?」

 水曜日は、宝石を埋めて膨らんだ喉をかりかりと爪で掻いた。やがてその場に膝を立てて座り込み、懐から何か分厚い本のようなものを取り出した。臙脂色の表紙だ。そこから一頁をびり、と破いて、床に置いた。紙は、水曜日の長い指で押さえられながらも、角から千切れそうなほどに風ではためいている。

 水曜日はそのまま、また反対側の懐から小さな瓶と、先の尖った細い棒を取り出した。棒を口に咥えて、片手で瓶の蓋を開ける。指で器用に蓋と棒を挟み分けて、今度は口に蓋を咥えた。

 水曜日が棒を瓶の中に浸して離すと、黒いインクがその先端からぼたぼたと零れ落ちた。水曜日はそのまま棒の先を紙の上に走らせて、文字を書いた。ジルビは一瞬目を見開き、やがて顔を歪めて唇を噛んだ。知らないはずの文字が読める自分に、胸がぎゅう、と苦しくなった。

『なんでおれに、それを聞くわけ?』

「それは、」

 ジルビは口ごもった。ジルビの言葉を待たずに、水曜日はさらに文字を書きつづった。

『ふつう、そういうのって長に聞くものでしょ。あんた、あんまり船長舐めてんじゃねえぞ。おれら海賊は全部船長命令に従うって決まってる。宝石をとれっていうのも船長。なら、その管理も把握も船長の仕事だろうが。おれの管轄じゃねえよ、面倒くせえ。うざ』

 白い紙を濁すように広がる黒色。荒々しい口調に、ジルビは後ずさって息をひゅう、と吸った。風で乾ききった唇をぎこちなく動かして、ジルビは笑った。きっと今、自分は酷い顔をしているだろうと思った。

「ねえ、そういうこと、そういう冷たいこと、今までもずっと思ってた? 思ってたけど、書くのも面倒で伝えてなかったの? 今は我慢が切れて、私に言いたくなった?」

 三姉妹だったけど、よく喧嘩したよ。私が一番弱かった。いつも言い負かされて、わあわあと泣き叫ぶばかりだった。喧嘩し慣れてるから、その人の苛立ちなんて簡単にわかるんだよ。私が、今あなたを苛立たせたんだって。ジルビは唇を震わせた。それを見てもなお、水曜日の影のように黒い目は光を持たない。まるで、裏切られたような気分だった。

 水曜日は一層目を細めて、ペン代わりの棒をくるりと指で回した。黒いインクの雫が、水曜日とジルビの頬にぴしゃりと跳ねた。

「そっか……『あんた、めんどうくさい人間だね』、って、書くのも今のあなたには面倒くさいか」

 ジルビは笑った。

「わた、私は……あなたが今まで優しかったから、あなたの方が、話しやすかった……だから、つい、あなたに聞いた。あなたを探して、梯子ものぼった。お姉にも、言いたいこと飲みこん、だ」

『おれ、当たり前のことしか言ってませんけど』

 水曜日は、棒をくるり、ともう一度回した後、ほとんど真っ黒になった紙の角にそう書いた。

「うん、そうだよ。私がただ、勝手に今傷ついたの……私、あなたのこともっと優しい人だと、思ってたから」

『そりゃ、』

 水曜日はそこまで書いて、急に面倒になったのか投げやりな様子で紙を破って風に乗せた。紙の切れ端はひらひらと、まるで花弁のように風に吹かれて飛んで行った。ジルビは、その先に続くはずだった言葉を知らないまま、彼と向き合わなければならなかった。

「……わかった、ごめんなさい。じゃあ、船長に、聞いてくる」

 ジルビはぐすっと鼻を鳴らして、鼻先を指で拭った。頬についたインクは、渇いて固くなっていた。

 くるりと水曜日に背中を向けて梯子に足をかけようとしたら、今度は後ろから髪の毛を引っ張られた。痛い、と叫ぶと、もっと強く引かれた。ジルビは涙目で水曜日を睨みつけた。水曜日は右手の人差し指と中指にジルビの赤毛の尖端をくるくると巻きつけていた。その左手には、再び無造作に破りとられた紙が揺れていた。紙を足で押さえて、水曜日は口から棒を取り、再びさらさらと左手で文字を書いた。両手で文字をかけるなんて、器用な人だなとジルビは思った。棒には、いくつも噛み跡が刻まれている。

『なんで宝石がほしいわけ。食べんの?』

「食べない!」

 ジルビは叫んだ。そうして、俯いて唇を噛んだ。

「……食べたくない。あれ、人の内臓みたいなものじゃない。人を魚みたいに切りひらいて、手に入れた物じゃない……本当は、耳に飾るのも気持ち悪いよ」

 水曜日は、にやりと片方の口角をつり上げて笑った。インク壺の蓋を咥えたままの口の端から、たら、と透明な唾液が垂れた。

 赤い逆光に照らされて、くすくすと音を立てずに唾液を垂らして笑う水曜日は、気味が悪かった。ジルビは自分の髪の毛を引っ張ってみた。けれど、水曜日はまだジルビを離してくれなかった。水曜日は、にやにやと笑いながら再び紙に文字をつづった。身動きもできなくて、ジルビは水曜日の表情を眺めるしかなかった。まるで新しい悪戯を見つけた小さな子供のようだと思った。

『じゃあ、何に使うの。飾る? 髪を染める? それとも、爪でも染めれば?』

「しない」

『なんで』

「こわいから」

『ウケる。それそのままハダリーに言えばいいじゃん』

「え?」

『マジウケる。あいつ、多分おたおたするよ』

 ジルビは眉根を寄せて、黙った。水曜日はもう一度だけくすりと笑うと、ようやく表情を消して淡々と壺の蓋を閉め、棒と瓶を懐にしまった。その間、黒いインクの滲んだ紙を口に咥えていた。次第に滲んでいく黒い文字を見つめながら、インクなんておいしくないんじゃないだろうかとジルビは一層顔をしかめた。

「よくわからないけど……ハダリーに言えばいいのね。あなたじゃないのね」

 水曜日は目を細めてジルビの髪を指から解き、同じ指で襟を立てて口元を隠した。多分、笑みを堪えているのだろうとジルビは思った。

 不意に水曜日の骨ばった大きい手が伸びて、ジルビの頭を撫でる。ぽんぽんと、あやすように。ジルビは戸惑った。ますます、この青年のことがよくわからないと思った。ジルビはむしゃくしゃしながら水曜日の口から紙を奪い取った。水曜日の口から唾が糸を引いた。手がじわりと湿って、それが気持ち悪いとジルビは思った。水曜日は笑みを堪えきれず、顎を引いてにやっと笑った。水曜日の手がジルビの手から紙を奪ったのは一瞬のことだった。くしゃくしゃになった紙を、水曜日はそのまま口の中に放り込んだ。ジルビはぎょっとして目を見開いた。水曜日はもぐもぐとしばらく口を動かし、それごくりと飲み下してしまった。宝石で腫れた首の山が上下に揺れた。ジルビはそのまま、脱兎のごとく梯子に足をかけ、急いで駆け降りた。涙がじわりと目の端に浮かんで、頬に零れた。わけがわからない。もしかして、あの黒いインクも宝石の果汁なんだろうかとか、だとしても紙を食べるなんて変てこだって、もうかき乱されるのは嫌だよなんて、ぐちゃぐちゃの頭でべそをかいた。ようやく床に足をつけて、ジルビは手首で頬の涙を拭った。手首には、インクの黒い色が滲んでいた。ジルビはそれをとても不快に思った。何度か両の手首を擦り合わせたけれど、ちっとも薄くならない。また涙がこぼれた。ジルビはぐっ、と歯を食いしばって、指でぐりぐりと目を擦った。ハダリーが身を隠した部屋の、蛇の形が掘られた木の扉をどんどんと拳で叩いた。中から、やめろ、とか、今忙しい、とか、うるせえ、なんて怒号が聞こえたけれど、無視してもっと強く扉を叩いた。やがて苛立ち紛れに踏み鳴らされた足音が近づいてきて、がちゃりと扉があいた。

「あんだよ! うるっせえな!」

 陰のかかったハダリーの顔。釣り上がった眼がジルビを見下ろしている。ジルビは唇を震わせ、きゅっと引き結んだ。涙があとからあとから溢れてくる。ハダリーに対して湧き上がる、理不尽な怒りを止められなかった。

「あなたの可愛がってる水曜日が怖かった! 怖かったよ! だからここに来るしかなかったの! 私悪くないもん!」

「はあ?」

 ハダリーが片眉をつり上げた。その表情は驚くほど水曜日とそっくりだ。けれど、瞳の青は冷たい色ではなかった。

「うわぁああああああん!」

「げえっ、餓鬼のかんしゃくかよ! 勘弁してくれよ!」

 しばらくジルビはわめいていた。そのままジルビが泣き止んでごめんなさいを呟くまで、ハダリーは舌打ちしたり足を踏み鳴らしていた。ジルビが泣き止む頃には、当たりは薄暗く灰紫色の景色に包まれていた。ハダリーは口をへの字にして、心底嫌そうな表情を顔いっぱいに貼り付けながら、ぎこちなくジルビの肩を叩いた。ジルビは鼻を鳴らして、鼻先を指で擦った。

 不意に、遠くで、何かの羽ばたきが聞こえたような気がした。ジルビはぼんやりとしながら、灰色に色づいた砂の海を眺めた。ジルビの身体はぐいっと引かれて、ハダリーに片手で壁に押し付けられた。ハダリーは目を細めて、水平線を睨みつけている――そこには黒い山のような影があった。砂に紛れてゆらゆらと揺らめいている。影は少しずつ大きさを増し、雫を撒き散らかすように蝶の影を辺りに散らかしていた。ハダリーの横顔を見つめて、ジルビも息を押し殺した。

「嘘だろ」

 やがて、ハダリーはぽつりと掠れた声を零した。

「【蝶船】がまた来やがった……なんで……いつもは日を空けてくるだろ……なんでだよ」

 ジルビは反射的に顔を上げて空を見た。見張り台に人の影はない。水曜日は、ハダリーに知らせなかったのだ。きっと、見えていたはずなのに――否、違う。

 はっとして、ジルビは口を手で覆った。

 私が、ずっと水曜日を煩わせたから。だから水曜日は、敵に気づくのに遅れたのだ。気がついた時には遅かった。水曜日は声を出せない。だから彼は、わざとハダリーに教えなかったのだ。わざわざ字を書いてまで教えてやろうという気には、あの人はならなかったのだ。

「水曜日は、どこ?」

 ジルビは、ハダリーのマントの裾を引いた。ハダリーはギラギラとした眼差しをジルビに向けた。

「うるっせえ、今はそれどころじゃねえよ! こちとら夜目は効かねえんだよ。……あいつらを奥に隠さないと。死んじまう」

 ハダリーは叫んだ。あいつら、が、屍のようなたくさんの海賊たちのことだと、ジルビにはなんとなくわかった。

「どうして、死んじゃうの?」

「蝶の羽ばたき舐めんな。ヘタすりゃ体中切り傷だらけだ。花びらが噴き出して、空っぽになって、死んじまうだろうが、オレ達は」

 ハダリーはジルビの腰に腕を回して、肩に乗せようとした。けれど水曜日より小柄なハダリーの肩は小さくて、ジルビの身体は簡単にずり落ちた。

「くっそ、お前重いんだよ!」

「ごめんなさい」

「すぐ謝ってんじゃねえよ」

「じゃあどうすればいいの」

「知らねえ。もう走ってこい。で、お前、姉ちゃんは」

「多分船の下」

「あっそ。じゃあとりあえずついてこい。全員で地下室に隠れとけ。蝶野郎は、オレが叩き落としてやるから」

「私、水曜日を探す」

「ああ!? っざっけんなよ、あいつはどうにかやってるだろうよ!」

「でも、でも……見張り台にいたのに、水曜日いなくなってる。私のせいで船に気づくのが遅れたんだ」

「だあ、うっせえ!」

 ハダリーは目をつり上げて、ジルビの頬をつねった。

「じゃあ好きにしろ! てめえが死んでもてめえの責任だ! オレの家族じゃないから、オレは悲しんでやらないからな!」

「わ、私あなたの家族じゃない」

「海賊はオレの家族だ」

 ハダリーは静かな声で呟き、顎を引いた。

「お前らを拾った時点で家族だ。オレが守らなきゃいけねえ奴らだ。でも、お前、うざい。足手まといはいらねえよ。さっさと一人でくたばれ」

「やっぱり水曜日よりひどいこと言う」

 ジルビは喉からくっと小さな音を立てながら歯を食いしばって、ハダリーを見つめ返した。

「じゃあ私は勝手に動いて勝手に死ぬ。それでいいでしょ。宝石も自分で採るから」

「おう、好きにしろよ、女海賊」

 ハダリーは、ふん、と鼻で笑った。

 足が震える。自分が身の程知らずな、恐ろしいことを言っているということが、ジルビにはよくわかっていた。まるで姉との口げんかの延長だ。一番上の姉さんとの口げんかそっくりだった。一回へそを曲げると、見捨てられるまでぐずることしかできない。自分はそんな、いつまでも子供じみた足手まといの妹でしかない。いつまでも。こんな体になってしまっても。こんな船に乗っていてもなお。

「ごめんなさい」

「謝られたって知るかよ」

 ハダリーは冷たい眼差しを寄越して、ジルビに背を向けて薄闇に消えた。ジルビはがたがたと足を震わせて、船の揺れに合わせてくずおれた。そのまま、這うようにして腕を動かし、ようやくもう一度立ち上がる。私、私、何がしたかったんだっけ。水曜日を見つけなきゃ。違う、宝石を――まずは宝石を、見つけなきゃ。

 目の奥に血がたまっていく。どくどくと拍動して、ずきずきと痛む。きっと今の自分は、ハダリーのように青い目をしているとジルビは思った。そのままジルビは開け放たれたままのハダリーの部屋に入った。扉を閉めると、赤い蝋燭の炎の光の輪がジルビを包み込んだ。ジルビは火を消した。真っ暗闇の中で、小さな丸い格子窓から月明かりだけが透けて筋を伸ばしている。心臓がどくどくと鼓動していた。海賊は泥棒。海賊は、泥棒。ジルビは粗い息を吐きながらぶつぶつと呟いた。宝石は、ハダリーのベッドの横に、籠に入れられて山高く積まれていた。震える手を伸ばし、一個、二個、と次々手に取って腕に抱える。それを服のポケットに入れようとしたら、ぐらりと船が傾いて腕の中から宝石が簡単に零れ落ちた。床にぶつかって、トン、トントン、と音が鳴る。ジルビは言葉にならない呻き声を上げた。腕から力が抜けて、残りの宝石もばらばらと床に散らばった。不規則な音が鳴って、消える。

「あああ」

 ジルビは目を擦って、呻いた。違う、私がやりたいのはそんなことじゃない。宝石をくださいなんて頼みたくない。宝石なんていらない。本当は耳からも外したい。でも花になってしまうのは怖い。お姉のために? でも、どうしてお姉は私のことわかってくれないのに、受け止めてくれないのに、私が宝石をもらってこなきゃいけないの? どうしてお姉がやらないの? どうして、私だって、ハダリーのこと、怖い……水曜日のことだって――

 バタバタバタ、バサバサバサ。

 聞き知った、嫌な羽音がこもって聞こえてくる。ジルビは、固く尖った宝石を裸足で踏みつけながら、よろよろと扉に駆け寄って、押した。足の裏には痣ができてしまったように思う。踏みしめる度に、じん、とした痛みが走った。それがなによりの、自分がまだ人である証で。

「ハダリー、ハダリー」

 ジルビは震える声で、つぶやきながら、ぐらぐらとゆれる船の上で何度も滑って転んでは、その影を追った。

 暗闇の中で、蝶の影達が飛び回る。蝶の群集に、立ち向かって剣を振り回す人の影。そこから少し離れたところでは、背の高いもう一人の影も立っていた。兎の耳のように長い紐が、フードの後ろに揺れている。水曜日は、ハダリーに手を貸すどころか、ただ傍観していた。手に握りしめた短刀は、時折自分に近づく蝶を切り刻むためだけに使われている。ジルビは何から考えていいのかわからなかった。頭の中も、心もぐちゃぐちゃだった。ただジルビは、無意識に、馬鹿の一つ覚えのように、蝶を纏った影に抱きついた。「あっ」という声が聞こえる。蝶の羽根はジルビの肌に数えきれない傷をつけていった。痛い、と思った。傷口がどくどくと拍動して、熱を持って疼く。けれどハダリーは、【蝶人】にとどめを刺さなかった。ぐらぐらと揺れる。船が揺れる。吐き気がした。待て、という叫び声が遠くから聞こえる。頭を振って、瞼に纏わりつく蝶を追い払う。ジルビは目を開けて、振り返った。離れていく。船の柱がどんどん小さくなっていて――

「え?」

 蝶の群集は、パパラチア号を見捨てて、ジルビを携えて、砂の海上を漂っていた。船が離れていく。離れていく。足が宙ぶらりんだ。黒銀に煌めく砂の波が、遥か下に見える。

「くそったれ!」

 不意に、足元から怒声が聴こえた。ジルビは、ああ、と声を震わせてまたぼろぼろと涙を零した。ジルビの涙に羽根を濡らされた蝶達が、飛ぶ力をなくして砂に落ちていく。まるで黒い雨のようだった。人形をした蝶の群生は、何も語らない。ただ、どこかを目指して飛んでいくだけだ。パパラチア号から離れて、離れて。

「オレが大量出血で死んだらお前のせいだからな! このバカやろう!」

 血じゃなくて、花びらじゃない、とか、私、やろうじゃないもん、女だもん、とか。

 そんなどうでもいい口答えが頭に浮かんで、消えていく。

 ハダリーは、蝶人の足に捕まってぶら下がっていた。ハダリーの頬から、腕から、額から、はらはらと花弁が落ちていく。灰色の影になって、砂の海に、落ちていく。

 ジルビの涙が、ハダリーの頬にいくつも落ちて跳ねた。まるで黒いインクの雫だ、とジルビは思った。



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