第十頁 土に涙
ミヒオと姉妹の三人は船底の倉庫を目指した。食料だけでなく、衣類必需品が収められているそこは、几帳面なミヒオが気がけて片づけているそうで、整然としている。ミヒオは骨の刺さっていない左手で棚の上から二段目を指さした。アビルは傍にあった小さな椅子に乗って小さな木の箱を取り出した。蓋を開けると、包帯や消毒液など応急手当て用の品が、隙間なく詰め込まれていた。
ジルビは、アビルが無言でミヒオの怪我の手当てをしている間、アビルの服の裾をずっと握っていた。「一体何をそんなに泣いたの」とアビルが零す。ジルビはまた眼を擦った。泣いたせいで目がとても痒かった。「腫れてるわよ」と、アビルが呆れたように呟いた。「お姉こそ」とジルビが言うと、ミヒオが頬を掻いて、アビルはぐすっと鼻を啜った。
ねえ、お姉、あたし話したいことが、聞いてほしいことが。ジルビはそう言って、何度かアビルの服を引いた。けれどアビルはジルビを一瞥しただけで、後はずっと険しい顔をしていた。今は話すなということだろうかと、久方ぶり、否、滅多に見ない姉の機嫌の悪さにジルビは大人しく黙っておくことにした。不機嫌、というのも正しい表現ではないのかもしれない。けれど、いくら血がつながっているとは言え、ジルビには少し歳の離れた姉の考えることはよくわからないのである。アビルはジルビのことをあらかた把握しているようだけれど――それがいつも心許なくて悔しい。
三姉妹の中で、一番大人しい娘だったのが二番目の姉であるが、一方で一番意志が強いのもこの次姉であった。一度働くと決めたら誰が音をあげても足腰を使い、一度逃げると決めたらなりふり構わず鮫にオールを突き立てる。その激情は、ジルビには少し恐ろしくもあり、頼もしくもある。姉妹の支柱になっていたのは確かに長姉であったが、ジルビはこの次姉のことも信頼していた。
ミヒオは、取ってきた鮫の卵と肉を加工しないと、と言った。アビルはそれを手伝うと言って、ジルビをほったらかしにして上の階層へ上がってしまった。ジルビはぽかんとしたまま立ち尽くした。窓からの光をさえぎるために、壁から壁へ釘で留められた唐草模様の織物。天井からいくつも吊り下げられた干し魚肉は、その隙間から光を浴びて、船の動きに合わせまるで時計の振り子のようにゆらゆら揺れている。それをぼんやりと眺めやって、ジルビは床に座り込み、詰まれていた布袋の山にもたれかかった。
織物の裾を手でそっと持ち上げて、窓の外を覗き見る。乾いた血のような色の赤い砂海が、埃を巻き上げて波打っている。空もまた、日暮れが近づいたのか薄赤に染まり始めていた。怖い景色だとジルビは思った。もしも本当に、かつてはあの絵画に描かれていたような美しい青い世界が広がっていたのだとしたら、人間がそれを求めてしまったのも仕方が無いような気がする。この砂海はあまりにも生々しい。肉の色をしている。干されて乾いた、命のない死の色を揺らめかせている。
――私も、血が花弁になったなら、この肉を、命を食べなくても済むのだろうか。命を頂いている、そんな罪悪感に苛まれなくても済むんだろうか。
ふと、ジルビは干し肉を見あげてそんなことを思った。けれど花人になったところで、待っている未来は花の実の略奪だ。同じ形、成りをした人を切り裂いて、まるで手向けの花を千切り散らかしたような風景で、宝石を盗んで生き延びなければならない。それはきっと美しいけれど、やはり残酷だ。
同胞に人体の解剖をさせるハダリーを、恐ろしいと思った。肌からはらはらと花弁を零すハダリーを綺麗だとも思った。噴き出す花吹雪が怖ろしかった。けれど、取り出した宝石は綺麗だった。人々が焦がれた青い海の絵は、綺麗だった。水曜日の髪の色、耳に飾った宝石と同じように、そして、ハダリーの瞳と同じように。
――『青い海を知らない人は人ではないってのが、先人たちの出した結論だよ』
ハダリーの声が、耳に蘇る。ジルビは目を瞑った。赤い景色を視界から閉ざす様に。
ねえ、ハダリー。私も青い海を知らないよ。じゃあ私も人じゃないね。でもあなたは私とお姉を人だという。じゃああなたは? あなたや水曜日さんはどうなの?
切り裂かれた人々を、どうせ
滑稽だよ。
ジルビは、両の膝を立てて腕で抱き、スカートの中に顔を埋めた。
あなたの言う人間の尊厳は、私の幸せにはならないよ。お姉の幸せになるかもあやしいよ。あなたたちはそれで幸せなの? 宝石を得るために、同じ人を殺して、奪い続けて、屍になる恐怖に追い立てられて。そんなの、本当に――
いつの間にか、微睡んでいたらしい。ミヒオの柔らかい低い声と、アビルの小さな声が少しずつ夢の隙間に沁みこんできた。その声を聞かないように、もう少し眠っていたいと思いながら、ジルビは青い夢を見ていた。青い砂の夢を見ていた。夢で見るその景色は、とても美しく思えた。ハダリーが、泣いていた。青い色の溶けた黒髪の水曜日が、船の床に倒れて、冷たくなっている。ハダリーはその青い目から、ぼろぼろと涙をこぼして、同じだけ口から花弁をひらひらと零していた。それはとても綺麗で、悲しい光景だった。あ、寝ているみたいっすね。こんなところで寝ていたら風邪引くのに……仕方ない子。何か掛けるもの持ってきますね。いいの、今から起こすから。ああ、そうすか。先に、行ってて。二人の声がどんどんジルビを苛む。もう少し、もう少しだけ夢を見て、泣いていたいと思った。もう少しあの青を見ていたら、何かが見える気がするの。お姉、お願い、私を攫わないで。
「ジルビ、ジルビ」
けれど、夢は儚くて。
ジルビは姉の優しい声に揺り起こされた。また泣いていたの、どうしたの。アビルはジルビの頭を撫でる。温かい手。水曜日の冷たい肌とは違う、温もり。
「わからないの」
ジルビはアビルの胸に顔を埋めて、押し付けた。腕を掴んで、唇を噛んだ。
「なぜこんなに気持ちがぐちゃぐちゃなのか、自分で、わからない」
「そう」
アビルはジルビを抱きしめて、ジルビのぼさぼさの髪を指でそっと梳いた。
「あなたにはまだ残酷な世界だわ。ここは。いいえ、私達の故郷もだった。ずっとあなたにはひたすらに残酷なのだわ。可哀相な子。私は幸せに大きくなれて、あなたとここに在るのに」
「あたしが今幸せじゃないみたいなんて、そんな言い方しないで、姉さん」
ジルビは鼻を啜った。
「あたしはあたしで、笑っていたいの」
あの二人の綺麗な青を、もうしばらく見ていたいの。
「ごめん、変なこと言ったわね。ごめんね」
アビルの腕に力がこもる。ふわりと温もりがジルビの肌に広がる。
アビルはそれからもしばらく、ごめん、ごめんね、と繰り返していた。妹の前では絶対泣かない馬鹿な姉さん。そう、ジルビは思った。
私、いつになったら姉さんに追いつけるだろう。
*
ジルビはアビルに、自分が目で見た海賊の全てを話した。アビルはそれを、黙って聞いていた。時折顔を歪めた姉の顔に、ジルビは心が跳ねるのを感じた。ジルビは自分が妹であることを自覚していた。だからそれは甘えだった。自分の感じた恐怖を、姉に共有してほしかった。けれど姉はただ、ジルビの恐怖を全て「そんなのちょっと考えればわかることだったのよ」と苦々しげに呟くだけだった。姉が『この船はおかしい』と吐きたくなるほどの何かが鮫腹の中であったのだろうとジルビは思ったけれど、アビルは何一つ教えてくれないのだ。まるで自分だけが、一人翻弄されて駄々を捏ねているかのようで、ジルビは急に恥を感じた。しゃべらなければよかったとさえ思い始めた。アビルが『少し考えればわかることだ』と言うように、自分も姉と同じ年頃なら予め予測くらいできたのかもしれない。心を強く持つことも。
「姉さん。姉さんはどうして、この船の人たちをおかしいと思うの」
けれどジルビは食いついた。アビルは密やかに眉根を寄せた。
「あんたが言った通りよ。それが全てでしょう」
「そうじゃないわ、姉さん。あたしは、姉さんの感じたことを聞きたいの。あたしの話だけでその通りだなんて言われたって納得できないよ。子ども扱いは止めて」
「子ども扱い?」
アビルは更に眉を潜めた。
「子供扱いなんてしてないでしょう。あんたの言った通りだって言ったはずよ。私はあんたの意見を対等に受け止めたつもり」
「そうじゃない、そうじゃないよ。姉さんがやってることは、幼い子供がたとえ間違ったことをしてたとしても、『言ってもまだ理解力が無いから』ってただ良いことだけを褒める大人のやり方なの。あたしだって姉さんと一緒に鮫のお腹の中で気の遠くなるくらい長い時間過ごしてきたんだよ。少しは大人になった。なれたと思うし、あたしは早く大人になって姉さんと対等になりたい。姉さんの家族はもうあたししかいないでしょ。あたしも姉さんを支えたいんだ」
わかってよ、と呟く。アビルはぎゅっと唇を噛んで、苦しそうに唸りジルビから目を逸らして俯いた。
「あんたにはまだ言いたくない」
「どうして」
「じゃあ、あんたは水曜日さんとハダリーさんの全てを私に話した? あんたは二人に随分感情移入してるみたいね。二人のことを想って、私には言っていないことがあんたにもあるはずよ、違う?」
「そんな……ちが……そんなことない! あたしはありのまま伝えた! ただ、姉さんにあの人たちを必要以上に悪く思わないでほしいだけ」
「私への隠しごとが無いなら、」
アビルは顎を引いて、ジルビをまっすぐに見た。
「なおさら、あんたはまだ私と対等になれない。その意味があんたにもわかるようになるまで、私はあんたに今日のことを何も話すことができないの。信用できない」
「家族なのに?」
ジルビの声は、裏返った。アビルはまっすぐにジルビを見つめたまま、躊躇いなく頷いた。
「家族でも」
「それは、どうしてよ、姉さん」
ジルビも唇を噛んだ。声が震える。ここで泣きたくなんてなかった。それに、自分よりもずっと泣き出しそうな顔をしている姉のことも気にかかる。
アビルは唇を僅かに開いて、ひゅう、と細い息を吸った。そして両手に顔を埋めた。指の隙間から漏れた姉の声は、籠っていて、弱々しかった。
「あたしは、あの人を守りたい……こんな気持ち、初めてで、まだあんたと共有なんてできない。余裕が、ない」
窓から夕焼けの赤い光が差し込んでいる。天井から吊り下げられた赤紫色と水色の織物の隙間を透かして、アビルの頬に斜めに傾いた十字の模様を作った。ジルビは自分の体が芯からふるりと震えるのを感じた。姉の体の奥で、何かが芽吹いている。それの名を、おしゃまなジルビは知っている。それがそういうものだとは知っているのだ。
「ねえ、姉さん」
ジルビは静かな声で呟いた。まだ両手で顔を覆ったままのアビルの喉から、くっ、と息苦しげな音が漏れた。
「覚えてる? 私達の村で、結婚式で、花嫁と花婿は花輪をつけていたよね」
「何言ってんの。忘れるわけがないでしょう」
怪訝な顔つきで、アビルはようやく指の隙間から目を覗かせた。ジルビは息を吐きながら弱々しく笑った。
「お嫁さんは花の輪を首にかけて、花婿に首を絞められて殺されても構わない、真の愛を誓う。お婿さんは花の輪で両の目を覆って、花嫁以外を見つめない、真の貞操を誓う。あれね、いつもすごく綺麗なお花で飾られて、みんなで綺麗だねえって言ってたよね。男の子は、花嫁のはだけた首筋に花が揺れるのを見惚れていたし、私達は、目に花をかけられた花婿をかっこいいなあと思っていた。新郎新婦に、みんなで鉢植えの花を送ったよね。二人の庭が花で満たされますようにって。でも、一歩外に出たら……海へ繰り出したら、お花って絶望だったんだ」
「そうよ」
アビルの目に、炎が揺れたような気がした。
「ジルビ。私、それがおかしいと思うの。私達の村だけじゃないわ。どこの国でも、花束は恋人に与えられ、愛を祝福する美しいものだったはずなのよ。それが、人を脅かしているなんてこんな状況は、狂っていると私は思う」
「そう、なのかな」
ジルビはアビルの真剣な目に、くしゃりと笑って返した。
「あんたが言ったように、私達、新郎新婦には、鉢植えの花を送ったよね。私達の村では、花は土の中で芽吹いて、咲くものだった。この海では花が人に咲く。人の身体に咲く。おかしいと思わない? 花は、砂の上では根付けない」
アビルは手を下ろして、ジルビの手首を掴んだ。痛い、とジルビは思った。
「私は思うの。この世界は陸をなくして、土をなくして、人は砂の海で船に乗って航海をするしか生きる手段がなかった。だから花が人の身体に咲くんじゃないかって」
「どういうこと?」
ジルビは首を傾げた。アビルはごくりと喉を鳴らして、いささか乱暴に言葉を吐きだした。
「花の種が根付ける場所が、この世界にはもうどこにもない。人の身体や鮫の身体……生き物の身体にしか、ってことよ。ミヒオは言っていたわ。体の臓器によっても、花の繁殖速度は違うんですって。それって、種の根付く素材で花の育ちやすさが違うってことじゃない」
ジルビには、姉の言おうとしていることがまだ掴めないでいた。けれど少なくとも、姉はこの環境に、何か打開策を見つけて来たのだとは感じた。ジルビは、殆ど呼吸も忘れてアビルの言葉を待っていた。アビルの透き通った、自分よりもきれいな緑の目から、目を離せなかった。
「花は本来、土の上で咲くものだわ。土に根付くものだわ。私はそう思う。だとしたら……あの宝石の種も、花も、本当は土の上でならもっと簡単に咲くかもしれないでしょう。すぐに種をつけるかもしれない。本当は、花は人の身体じゃなくて、土の上で咲きたいのかもしれないじゃない。でも他に咲く場所が無いから、生き物の身体に寄生してるだけなのかもしれないじゃない。そういう状況を、人が作ってしまったから……」
ジルビは、ようやく姉の言わんとすることを理解した。肩から下げて肌身離さず身に着けた、故郷の土の冷たさを鞄の外側からふれる。アビルの腰にかかる袋にも、同じ土が入っている。姉妹の生まれ育った村は、遺体を土に埋める風習をもっていた。それと同じように、遠い異国の地で死を覚悟する時は身に故郷の土を携えるのだ。たとえその場所で死なずとも、魂は故郷と共にあれるようにと。
だから、ジルビもアビルも、土を持っていた。二人分を合わせても、小さな庭さえ作れない。それでも、アビルはジルビの大切な土を欲しがっているのだ。私にくれと、願っている。預けてくれではなく、犠牲にさせてと。
「つまり……姉さんは、この土に、あの宝石を植えてみたいのね? それで、花が咲くかどうかを見たいのね?」
ジルビの静かな声に、アビルはきゅっと眉根を寄せて、唇を噛んで震えた。ジルビは笑った。別に、そんな顔しなくても、私そこまでつらくないよ、姉さん。
姉さんが、私の分の命を預かってくれるってことでしょ。私は自由に生きられるってことでしょ――そう思うと、身も心も海賊の仲間入りしたような心地がして、口の端から空笑いが漏れた。それで、とジルビは呟く。
「花が土に咲いたとして、お姉は一体そこからどんな結論を出すの? 宝石を自家栽培して、海賊が人を襲わないようにって、思ってる? でもこれっぽっちの土で、みんなが求めるような数の宝石を作れるかなあ。ちょっと無謀だと思うよ」
「そうじゃないわ」
アビルは頭を振った。
「もしも土に根付く花なら、やっぱりその花は土のある土地では人の身体を蝕まず土の上で増えると思うの。花も植物で、生き物よ。生存本能があるの。子孫を残さなければならないという使命がある。だから種を作るために、寄生を許された人の身体で種を作る。でももし土があるなら? 人の身体なんか使わないでも、土の中で育ってくれるなら、花はそれ以上きっと人の身体を蝕まない。ハダリーも言っていたでしょう。種が近くにあれば、体内の花はそれ以上増えなくていいと己の成長を制御するって。頭のいい花だわ。頭のいい花だからこそ、自分達にとってどちらが必要な栄養なのか、わかるはずよ」
「でも、土では咲かない花かもしれないじゃない」
ジルビは眉を潜めた。
「人の身体、血の流れた生き物の身体でないと育たないのかもしれない。芽吹かないのかもしれない」
「その花が血をほとんど喰らい尽くしているのに? ありえないわ。でも……そうね、その可能性も無いとは言えない。だからこそ確認してみたいの。土でもちゃんと咲く花なのか」
アビルは俯いた。
「私は頭がいいわけでも学があるわけでもない。だから私がやろうとしてることなんて、実験なんて言えないような代物かもしれないけれど……」
しばらく、二人は黙っていた。ジルビは、砂でざらついた床を撫でた。指に砂がついて、飴色の木目が覗く。
「それで……もし花が土で芽吹いたとして、姉さんはその後どうするの」
「私達の故郷に、海賊を連れていく」
息が止まるかと思った。ジルビはひゅう、と細い息を吐いた。
「あのハダリーが……言うことを聞くかなあ」
「説得するわ。私だって同じくらいの歳よ」
ああ、姉さん。ジルビは、顔を覆って今すぐ泣いてしまいたい気分だった。
「わかった。姉さん。あたしの土を姉さんにあげる。種はどうする?」
泣きたい衝動を飲みこんで、ジルビは笑って鞄を姉に差し出した。姉の目が揺れる。その手が無意識にか目と同じ色の綺麗な耳飾りに触れたのを認めて、ジルビは首を振った。
「だめだよ、姉さん。せっかくミヒオにもらったのに。なくしたって言うの」
アビルが、くっと唇を噛む。赤い唇に、白い線が引かれる。そこだけ血の巡りの止まった、白い線。
「あたしが……ハダリーとかにもらえないか聞いてみようかなあ」
「あんた、そんなことできるの」
アビルが、訝しげにジルビを見つける。アビルは「あら、」と生意気そうな笑みを浮かべた。
「姉さんよりは船長と仲いいのよ、あたし。女海賊に向いてるって言われたんだから」
アビルはなんとも形容しがたい、奇妙なものを見るような表情をしていた。ジルビはアビルの胸に鞄を押し付けて、立ち上がった。
「よし! そうと決まったらさっさと話しつけちゃおう。じゃあね、お姉」
アビルを倉庫に残して、ジルビは扉を閉め、階段を踏んだ。
胸がぎゅうう、と痛んで、涙が次から次へと溢れていく。だめ、まだここで泣いちゃ。靴の底で床に落ちた雫をごまかす様に広げて馴染ませる。涙を掬うために両手を合わせた。涙はやはり止まらなかった。
ああ、姉さん。姉さん。姉さん。あなたって。あなたって人は。
この気持ちをどこにぶつけたらいいのかわからない。家族はもう他にいない。誰かの前で泣くわけにもいかない。
甲板に出ると、塩の匂いが混ざった風がふいている。ジルビの頬の涙の痕をひんやりと冷やしていく。ジルビは埃を巻き上げる砂の海の波を、はらはらと涙を零しながら見つめて立ちすくんだ。
姉の狡さを、わかってしまった。気づいてしまった。ああ、私って、なんて中途半端に子供で、子供じゃない。
来訪者に襲われた故郷が、果たして本当にまだ残っているのだろうか。残っていない可能性が高いのに。姉はそれすらわからないのだろうか。いや、わからないはずがない。私よりも年上で、私の恐怖なんて予測できると簡単に飲みこんでしまえる人が、思い至らないはずがないのだ。それでも姉は諦めきれないのだ。自分だけでは、故郷の無事を確認できない。もしも連れて行ってもらえるのなら。たとえそれが、根拠なんて何もない希望を餌に、海賊を翻弄することになるとしても。姉は海賊が嫌いだから、きっとなんともないのだ。それでも少しは良心の呵責があるから、実験だけしたいのだと。
姉さん、姉さん。
ジルビはとうとう両手で顔を覆って、鼻を何度もすすった。
花ってそんなに、綺麗なものだったかなあ。花嫁の命を鎖で縛って、花婿の目を潰す、そんな花って、本当に綺麗なものだったのかなあ。
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