第九頁 瞳に花

 海賊は、船を襲うもの。

 ヒト、を、襲うもの?

 ミヒオの言葉を咀嚼して飲みこんだ途端、ぶわりと背筋が泡立った。人を襲う? それは、その海賊は、私の大切な故郷を襲ったあの野蛮人と何が違うというのだろう、と。

 アビルは思わずミヒオから体を離して、ずりずりと尻で後ずさった。ここが薄闇でよかった。自分が今どれだけ、憎しみと恐怖を貼りつけた顔をしているか、見られなくて済むとアビルは安堵し、そんな自分を嘲った。片方の口角が不自然に上がる。体はかたかたと小刻みに震えていた。

 ミヒオは、「あ」と小さな言葉を漏らした。しばらく二人は無言だった。けれどミヒオの影がずり、とアビルに音を立てて近寄った。

「だめです。離れたら、見つけられなくなるから。怖いから、やめて」

 ミヒオの怖いから、という言葉は、擦れて震えていた。まるで幼子の声のようでもあった。アビルは少しだけ警戒を解いて、そろそろとミヒオの影に手を伸ばした。ミヒオの手が彷徨う。何度かミヒオの指はアビルの手にぶつかって、やがてそっと指を組むように掴んだ。ミヒオの手の温かさがじわりと伝わってくる。アビルの心も、少しだけ解けた。ミヒオは、ほっとしたような小さな吐息を漏らした。

「俺達が怖いですか?」

 その声は、今まで聞いた中でも一番優しかったとアビルは思う。

「海賊というものが、そもそもわからない」

 アビルはまっすぐにミヒオの影を見つめて答えた。顔が見えないのがもどかしくて、結局膝でずりずりと移動し、ミヒオのすぐ傍に近寄った。そうしてやっと、僅かにミヒオの顔が見えた。ミヒオの表情は、声音と同じだけ優しかった。

「私は、私達は故郷を人に襲われた。理由はわからなかった。告げられることもなかった。一方的に略奪され、殺された人々を見て、死に物狂いで逃げてきた。海賊は、同じことをしているの」

 ミヒオは顔を僅かに歪めた。開いては閉じるを繰り返す口は、まるで息の出来ない魚のようだ。

「同じものじゃないかなと、俺は思います。俺の一意見です」

 やがて、ミヒオは静かにそう答えた。

「理由ならたくさんあげられます。俺達はこの略奪が、俺達にとっては正当性があると信じている。そう信じているから今も生き延びている。だけど本当は、ただの略奪ですよ。海賊ってそう言うものです。賊、ってつまり、泥棒ってことでしょう。救いようのないあぶれ者ってことでしょう」

 ミヒオは悲しげな声でそう言った。

「でも、普段、そんなこと俺考えませんよ。俺、今アビルさんに怖がられたのが怖くて、こうして正直に言ってみてるだけですよ。普段、罪悪感だとか倫理観なんて船長に押し付けて、俺は楽しんで海賊してるんです。そうするとね、楽なんすよ。そうしないと、こんな風に鮫や鯨の腹ん中で閉じ込められたとき、怖くて自分が何者だか忘れちまうんですもん」

 ミヒオはアビルの手を両手で挟んで、親指でそっと撫でた。

「俺ほんとは、暗闇大嫌いなのに」

 吐き出されたその言葉は弱々しい。僅かに肌寒さを覚えて、アビルはミヒオの肩に自分の肩を寄せて並んだ。

「ああ、そうですよ。この鮫、死んで大分時間経ってるからそろそろ体内の熱も逃げて寒くなってきます。一緒にいましょう。あとで張り倒してくれてもいいですから。アビルさん、体温低いっすね」

 ミヒオはくすりと笑った。アビルは少しだけ頬に熱を感じた。

「私がいるとかえって寒い?」

「肌は寒いですけど、気持ち的にはあったかいっす」

 ミヒオは柔らかく笑った。

「暗闇嫌いなの」

「うん」

「どうして?」

「それ、聞きます?」

「言いたくないならいいわ。でも、本当に嫌いそうな声だったから」

「ああ」

 ミヒオは弱々しい笑いを零した。

「俺……船長に助けてもらうまでね、ずっと暗闇の中にいたんすよ。ずっと閉じ込められて、逃げることもできなくて、喋ることもできなくて、自由も無くて、勝手に動けなくて、嫌なことばかりされて……そんな思い出ばかりが蘇る。忘れたと思っても無理だし、乗り越えたと思っても何度も何度も陽炎みたいに俺の中に揺らめいてる。もう、最近は諦めてますけどね。諦めたうえで、この鮫に閉じ込められる時間は、ああ今が幸せなんだなって感謝するための反省の時間なんです。俺にとっては」

 そこまで言って、ミヒオはアビルの顔を見た。アビルは黙っていた。ミヒオの表情は固くて、けれどやがてふわりと微笑んだ。

「アビルさん、やっぱその宝石似合いますね。よかった」

「うん……ありがとう」

 ミヒオはまた目の前の暗闇を見つめて、はくはくと口を動かした。その間も、アビルは胃の辺りがぐるぐると弧を描くように回っているような感覚を覚えた。吐き気や気持ち悪さは収まってきたけれど、まだ鮫は船に繋がれて回っているのだろう。

「もしも……あの人がいなかったら……」

 ミヒオは、ようやくぽつりとそう零す。

「ハダリーのこと?」

 ミヒオの影は頭を振った。

「水曜日さんです」

 アビルは眉根を寄せる。

「彼が、どうかしたの?」

「あの人、黒髪で黒目でしょ。船長や他の船員よりも、俺との方が似てません? あの人の顔」

「……そうね」

「黄色人種、っつってね」

 ミヒオは静かに息を吐いた。

「あの人、生まれは西洋だけれど、血は東洋で。俺は東洋育ちの東洋生まれですけど。あの人が、自分と同じ東洋人が、迫害されてるからって、珍しく船長に船を出させたんですって。何かの船を襲った時、誰かがげろったらしいんですよ。帰る場所を失った東洋人の孤児を、実験に使ってるって。それで、何か思うところがあったみたいで。実験を受けていた子供はたったの二十九人。でもその中で助けられたのは俺だけでした。アビルさんも最初に聞かれたでしょ。『言葉がわかるか』って――」

 アビルは頷いた。

「船長、もとは北欧――スカンジナビアの出身らしくて。だから、たとえ英語に晒されていたとしたって俺が、俺達がわかりえない北欧の言葉でべらべらってしゃべったんすよ。でね、その言葉がわかった子供が唯一俺だけだったんす。あとは、わかります、かね」

 アビルはぎゅっと唇を噛んだ。思わず、ミヒオの手もぎゅっと握りしめていた。

「ころ、したの。二十八人、全員」

「そう。その通りっす」

 ミヒオは膝頭に額を当てた。

「逆に言うと、実験に成功したのが俺だけだったってことなんすけどね。なんか体質的なものなんですよ多分。遺伝的要素とか。俺にはよくわかんないけど」

「あの……実験って、何をしていたの?」

 アビルは、ミヒオの横顔を覗きこんだ。ミヒオは乾いた笑い声を漏らす。

「アビルさんも意外とつっこんできますよねえ……ジルビさんとおんなじだ。やっぱ姉妹だな~。似てる」

「……ごめんなさい。悪かったわ」

「いや、いいんです。さばさばしてるの、嫌いじゃないっす」

 へへ、とミヒオは笑った。

「人に青い海の幻覚を見せる花の種をね、」

 ミヒオは顔を上げた。

「目に、植える実験をしてたんです」

 アビルはしばらく声に詰まった。

「あの、つまり、どういうこと?」

「えっとですね、元々、この花の種って、腕とかに注射されて直接血の中に入れられてたんですよ。血は心臓に帰って、心臓からまた全身の臓器に巡る。だから血の中に入れちまえば、そして心臓に根付かせれば、花の出す攪乱物質を全身に巡らせることができるから。麻酔みたいなもんなんです。でも、その弊害は、花が心臓だけじゃなく全ての臓器で根を張ること。そうなると、もう体はボロボロですよね。血が花弁になって、臓器も花だらけで、花が出す物質が脳を麻痺させて、無理矢理体を操ってるだけ。ゾンビと一緒っすよ。パパラチア号にもいるでしょう。俺と、水曜日さんと、船長以外はもうみんな本当はゾンビなんすよ。あの人たちは、船長の気まぐれで、戦闘要員、荷物持ち、労働力として生かされてるだけの可哀想な人たちなんです。もちろん、俺たちもいずれはああなる可能性がある」

 ミヒオは徐にアビルの髪留めを外して、アビルの髪を解いた。ミヒオのその行動にアビルは戸惑った。ミヒオの指がアビルの髪に伸びて、すう、と梳いていく。何度も、何度も。優しく。

 もしかしたら、手持無沙汰なのかもしれない、とアビルは考えることにした。アビルはされるがままになって、ただ話の続きを聞きたいと思った。

「本当は、花の出す物質が脳に届いて、脳に錯覚を起こさせるだけでいいんですから、脳に直接種を植えるという選択肢もあったんすよね。その実験は元々最初におこなわれて、でもそうなると花の増殖スピードが速すぎて、すぐに死んでしまう。花は、人間の身体の臓器に繁殖するけれど、その中でも特に脳に生えやすいみたいで。だからそのやり方は没になった。次に筋肉の中に直接植える、っていうのも試されたけど、今度は筋肉だけを花がむさぼって、例えば腕の筋肉に種を注射したとしたら、腕がみるみるうちに壊死したんです。だからそれもだめになって、オーソドックスな方法は血管に直接種を注射する方法になった。そしてそのやり方だといいことが一つあるんですよ」

 ミヒオは、自分の頭を指さした。

「難しい話になっちゃうんですけど、脳の周りには余計な異物を脳に送らないようにするフィルターみたいな構造物があるんです。で、血管に種を注射すると、花や花の種は脳まではいかないので脳には根付かない。体の臓器は犠牲になるけど、脳が生きてるから花の幻想だけでどうにかゾンビとして生きていくことが可能だし、体の衰えと共に眠りにつくように死ねるんです。この花が出す物質って、痛み止めの効果もあるし麻薬みたいな麻痺させる効果もあるし、幻覚も見せるし、っていうね。ゾンビを生み出すには一番いい、恐ろしい花ですよ。そう言う風にして、先進国や先進国の植民国の人間達はほぼ種を注射されて花人になった。後は、経口感染っていうルートもあるんす。アビルさんたちは多分これ。花に感染していた魚とかを食べた。あるいは、花に感染した鮫の中にずっといたから、知らない間に種が口の中に入っていたのかもしれません。あるいは傷口から侵入したのかもしれません。ここまでが一般的に知られている花感染のルートです。でも、もう一つ、明るみにならないまま頓挫したルートの研究があったんですよ。俺はその実験材料モルモットだったんです」

 アビルは、そっとミヒオの両手を握った。ミヒオの手は、先刻よりも更に熱くなっていた。それが怒りなのか憤りなのか、悲しみのせいなのか、アビルにはわからなかった。アビルに握られた自分の手を、ミヒオはぼうっとしたような表情で見下ろして、擦れた声で言葉をぽろぽろと零した。

「目の中に花の苗を入れるんです。目の奥には神経が通っていて、直接脳に繋がっていて……花は物質を出す。物質は神経を伝って脳に届く。花は神経に少しずつ根付いて、じわじわと視神経から脳へ辿り着く。脳に辿りついたら少しずつ花の数を増やしていく。脳髄に直接種を入れると脳実質が破壊されるけれど、神経から花を侵食させるとなかなか脳実質には花が飛び移らない。最終的に花が増えすぎたら脳も全部食われちまうんでしょうけど。目の神経と脳の神経だけを犠牲にしてるから臓器は花に喰われない。血も赤いまま。すぐに死ぬことはない。確実に幻覚作用も現れて、ゆっくりと死に至れる。すごい発明です」

 ミヒオのいうことは難しい。アビルは、ミヒオは本当はとても頭がいい人なのだろうと思った。けれど普段、それをおくびにも出さないでいるのは、きっと考え出したら止まらないから。

 アビルにはミヒオのいうことを全て理解できたとは言えない。けれど少しずつ分かりはじめていた。この物語の帰結が、わかりはじめていた。指先が冷えていく。反対に顔は血が上って熱かった。胸が苦しい。痛い。

 アビルはミヒオの肩に額を乗せた。ミヒオはアビルの髪を指で梳き続けた。

「つまりね、俺、目に花があって、」

 ミヒオの声は擦れていた。

「神経が花に喰われてて、」

「うん」

 アビルはもうたまらず、頷いた。

「うん」

「俺の頭蓋骨の中には花がきっと咲いてます」

「うん」

「血は流れてるけど、俺、もうとっくに感染進んでるんすよ。だって本当は、海が青く見えてますもん。船長には言えないだけ。俺、今のこの感情も、意識も、本当に自分のものなのかわからないですよ。俺の意識は船長に助けられて、光ある世界を見て、青い砂の海を見て初めて目を覚ましたんです。もしかしたらこの俺の心は、花が作り上げてる幻覚かもしれません。俺は俺じゃなくて、花の意思が俺に俺のこの真実を人に隠せと、特にあの船長に隠せと伝えているのかもしれない。考え出したら止まらない。俺、船長には言ってないんすよ、このこと。よくわからない実験に付き合わされた、でも言葉が通じるから感染はしてる。だけど血は赤いからまだ手遅れじゃないね、じゃあ助けてやる、って。本当は俺、」

 ミヒオは、アビルの手ごと両手で目を覆った。

「俺、本当はもう、手遅れ」

 アビルはミヒオの首に抱きついて、頭を撫でた。心の中がぐちゃぐちゃだ。ミヒオの髪は、固くてごわごわしている。掌にちくちくと刺さる痛みが、今は優しい。

「ばれたら、俺、殺されるのかな、それともあのゾンビたちと同じただの労働力になるのかな、それとも、その前に何もわからなくなって死んでしまうでしょうか。怖くて、船長を騙しながらずっと一人で鮫と鯨の腹掻っ捌いて、意味のない食事をしてたんす。俺に人として当たり前の食事をさせてやりたいって船長は言うけど、俺もう、ゾンビだよ。人じゃないもの。俺と船長、どっちが人なのかわからないですよね。どっちも人じゃないなら、もうこの海賊船なんて幽霊船っすよ。幽霊がまだ死んだことに気づかないで、生に執着してるだけじゃないすか。でもそんなひねくれたこと考えたくないんすよ。俺、船長のこと、だ、大好きだから。恩人だから。批判的なこと思いたくない。ああ、話さなきゃよかった」

「ごめんね、ごめん」

 アビルは額をミヒオの額につけて唇を噛んだ。

「話を聞いてごめんなさい。ごめんね」

「違います。話してよかったんです。もう一人じゃ苦しかったんです。でも誰にも知られたくなかったんです」

「うん、うん」

 ミヒオが震えるのを、アビルは腕の中で感じながら目を閉じ続けることしかできなかった。

 ぐるぐる。ぐわんぐわん。

 鮫は回る。回り続ける。胃が不快で、頭も痛くて、眩暈もしそうだ。鮫の血の匂いが生臭い。あとは二人でずっと、動きが止まるまで黙っていた。ミヒオは震える手でアビルの脇から手を伸ばし、またアビルの髪を梳いた。どうしても私の髪が障り心地がいいのかしらと、笑うべきではないのにアビルは笑いたくなった。泣きながら、笑いたくなった。


 その後、ようやく鮫の回転が止まってから、ミヒオはようやくライターをつけた。ミヒオの下睫毛が頬に湿って貼りついている。泣いていたのだとアビルは思った。ミヒオに「泣いてたんですか」と笑われた。多分自分も同じような顔をしているのだろう。

 灯りをアビルに手渡して、ミヒオは初めて左目につけた眼帯を取って見せた。寝る時もつけていたそれの下には、目頭を囲うように肌に埋められた小さな宝石の粒があった。きっと、感染を進ませたくなくて、抗った結果なのだろうとアビルは思った。見ているだけで痛々しい肌の中にぱちりと開いた目は、右目と違って透明だった。色が消えて、まるで水晶玉のようだ。その中に、花が二つ浮いて揺らめいている。まるで琥珀に埋もれた虫のように、揺らめいている。

 もうこの左眼で、青い海以外は見えないです、とミヒオは言った。そうでしょうね、と呟いて、アビルもまた、泣いた。

 鮫の身体は、ただでさえミヒオに骨を折られ、無造作に引きずられたせいか、無残に頭と背中がひしゃげて潰れてしまっていた。そこから口を目指すのは骨が折れた。別の場所を切りさばいて外に出る方法もあったけれど、生身の身体で砂の海を泳ぐことはできない。圧迫死の可能性が高くなるし、砂が鮫の体内に入ってますます閉じ込められてしまう可能性もあった。道を切り開く過程で、ミヒオの腕には鮫の鋭い骨が突き刺さり、血が流れた。アビルはまたそこでも泣いてしまった。やがて、あれだけ怖かった牙が見えて、その隙間から漏れる光を見つけたら、アビルはもう涙が止まらなかった。ミヒオはアビルを宥めて、鮫の口を棒でこじあけた。血は相変わらず、ミヒオの腕から流れ続ける。まるで、こんな血、どれだけ流れたってどうでもいいとでもいうように、ミヒオはその手当をしようとさえしないのだ。そんな時間がなかったこともあるけれど。それでもアビルには、その赤色さえ悲しく感じられるのだった。

「ここで話したことは、誰にも言わないでね」

 ミヒオは、光を浴びながら口に人差し指を当てて笑った。

 まるで花のように、笑った。




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