第八頁 胎動

 鮫の歯は鋭い。大きくて、太くて、たった一本でも人の身体なんて容易に貫いてしまうのだろう。ミヒオが先導してくれる後を、アビルはのそのそとついていく。ジルビと一緒に鮫腹に突入した時にはがむしゃらで、その牙の恐ろしさなど構っていられなかった。けれど今は、鮫は死んでもう動かないとわかっていてもその鋭さに身がすくむ。ミヒオが振り返ってアビルの顔を覗き込む。ミヒオはいつも笑っている。何がそんなに楽しいのだろうとアビルは思う。アビルは根っから人見知りで、ジルビよりも少しだけ悲観的である。ミヒオはにっこり笑って、背中に括り付けていた長い棒で鮫の口を大きくこじ開けた。棒の尖端が、鮫の尖った鼻先を貫いて外に出た。アビルは思わず肩をすぼめた。痛そうだ、と思ったのである。もう死んでいるけれど、けれど痛そうだ。でも可哀相だとは思えない。ああ、私はとても中途半端。

「これで、通りやすくなったっすよ」

 ミヒオは振り返って、柔らかく目を細めた。アビルはその温かい手をとって、初めて自分の指先が冷え切っていたことに気づいた。同時に、気を使われたのだと理解した。耳がかあっと熱くなる。私はそんなに怯えた顔をしていただろうか。なんて情けない。

「鮫の歯って鋭くて怖いっすよね~、でも実は切れ味はそこまでないんすよ。鮫の威力は噛む力って言うんすかね、この上と下の歯をがつん、がつん、って勢いよく打ち付けることと、そのまま肉を引き千切る顎の力が脅威なんすよ。だから、この動かない歯なんて武器にもならないっす。相手に打撲程度の傷は与えられるかもっすけどね。でも、この歯も強度は高いんで、剣を研ぐのにはいいんすよ。だから何本かは回収していきます。ま、今から浜で回収してたら体内に砂がばさばさ入っちまうんでしばらくは残しときましょ。回収は出る時で十分っす」

 ミヒオは淀みなくそう言って、アビルの足が鮫の舌に乗ったところでつっかえ棒を外した。ミヒオの手元でかちりと音がして炎が揺れた。暗闇になった鮫の体内が淡い赤で照らされる。

「それ、なあに?」

 アビルは恐る恐る、ミヒオが人差し指と親指で支えた透明な小さいケースを指さした。

「あ、ライターっすよ。中に油入れて、上のねじまきを回すと摩擦で火がつくんです。まあ、水曜日さんが見よう見まねで作ったやつで、元々のライターってのはもっと精巧な作りしてたみたいっすけど。あ、水曜日って、あのしゃべらない黒コート来た人のことです。あ、紺色だっけ。まあどっちでもいいや」

 ミヒオはフードを被るような仕草をしてみせた。ああ、とアビルも声を漏らす。ジルビが懐いているあの青年か、と。

「アビルさん、前はここからどうやって腹ん中入ったか、覚えてます?」

「えっ」

 ミヒオの黒曜石のような瞳に、柔らかい光が灯っている。アビルはしばらくそれを呆けたまま見ていた。

「ううん……あの時はがむしゃらだったし、多分鮫の方もがむしゃらに私達を飲みこんだから……」

「そうなんすね。ほら、ここに蓋あるでしょ、この蓋の下は肺に行っちゃうんで、用無し。今日はこのまま真っ直ぐこのトンネルを進みます! しかし、すげえですよね生き物って……死んで固まるとこんな細い管なのに、生きて動いてる時はあんな大きな船でも飲みこめちゃうんだなあ」

「まあ……あの鮫はこの鮫よりも大きかったし」

「はは、そうっすね。この鮫は人を食わない小型の鮫なんすよ。だから花にも感染していない。つまり俺らの食糧っと。鮫肉まずいんすけどねえ……仕方ないっす。鯨はなかなか砂の上に出てこないから」

 二人で、薄赤く色づいたトンネルを腰をかがめて潜る。アビルはミヒオの腰のベルトを掴んでいた。今はミヒオの持っている小さな灯りだけが頼りだ。心許ない。

「ここから鮫の胃に入るんで、胃を破って周りの筋肉を採ります。あとこいつ雄だか雌だかわかんないっすけど、雌だったら卵も栄養高いんで採ります。でも雌鮫あんまり出くわさないんすよね~」

「魚の卵を食べるの?」

 アビルは鼻の頭に皺を寄せた。ミヒオは振り返ってきょとんとする。

「あ、食べたことないです?」

「うん……というより、魚自体をあまり食べたことないわ。私の村は内陸にあったから」

「そっか~……だから昨日もあんなに顔しかめて燻製を食ってたんすね、生臭かったですか」

 ミヒオは柔らかい笑みを浮かべてくすりと笑った。アビルはまた顔が赤くなるのを感じた。美味しくないなとは思ったけれど、自分がそんな顔をしていたとは知らなかった。

「さ、魚を食べ慣れてないわけじゃないわ。鮫のお腹の中にいた時は、鮫が飲みこむ小さな魚を焼いて食べたりもしていたのよ……生臭かったのは、一緒だけど」

「いやあ、小魚より鮫肉は癖ありますもん。じゃあ卵もちょっと苦手かもっすね。塩辛くてうまいけど、生臭いんすよね、かなり。でも鮫の卵って昔は世界三大珍味とは言われてたらしいですよ。キャビアって呼ばれて。まあ、厳密には卵がそう呼ばれる鮫にもちゃんと種類があるんだろうけど。そもそも俺達が鮫って呼んでるこの生き物たちって、海が砂になる前に生きてた鮫とはちょっと違うみたいっす。鰓呼吸とかしてないし。進化したんすかねえ」

 ミヒオは訥々としゃべる。ミヒオの顔が見えない状況では、その声がとても心強かった。やがて食道のトンネルが終わり、開けた空間が姿を現す。ミヒオは長い足を延ばし、身軽にぴょん、と飛び降りた。そうしてアビルに両手を伸ばした。まるで受け止めるのが当然とでも言うように。アビルは戸惑った。

「一人で降りられるわ」

「そっすか」

 ミヒオはにやっと笑ったまま素直に腕をおろし、あとはくるりとアビルに背を向けた。棒で鮫の胃をぽこぽことつついて辺りを見回すミヒオの背中を見つめて、アビルも鮫の食道から飛び降りる。ついた足を押し戻すような強い弾力によろめいて、尻もちをついてしまった。手にべちゃりと透明な液がしみついた。立ち上がってもなお、足の踏み場が柔らかくて体がぐらぐらと傾く。ミヒオはからからと笑った。

「だから抱き留めてあげるって言ったのに~」

「い、言われてないわそんなこと!」

 ミヒオは相変わらず笑っていた。ミヒオのライターの灯りが、柔らかく広がって、薄暗いながらも見晴らしはいい。向こう側には、砂が積もっていた。鮫も食事の後だったのだろう。砂ごと飲みこんで、消化する途中だったのだ。

「砂の中に、魚いるかしら」

「さあ……どうっすかね。その砂の山からちっぽけな魚を探すのは効率悪いっすよ。アビルさんの飲みこまれていた鮫は体も大きかったからアビルさんたちが捕まえやすい大きさの魚を飲みこんでたでしょうけど、こいつはもっと小さいからきっと餌ももっと小さい。海老とかはいるかもですけど、正直この胃液でべっとべとになった砂の中から見つけるのはしんどいっすよ。まあ、海老は旨いけど」

 ミヒオはそう言いながら、棒をあちこちの方向に向けてぶつぶつと何かを呟いていた。

「何を、してるの?」

「え? ああ、目測つけてんすよ。どこで切りさばいたら効率いいかなあって」

 ミヒオは胃壁から目を離さず、そう答えた。やがて、「よし」と呟き棒を真ん中でかちりと分解した。その中から、銀色の刃が出てきて、アビルは思わず後ずさった。磨かれたその長い刃は、鮫の牙よりもずっと恐ろしいものに見える。

 ミヒオは刃の先端を胃の天井に突き刺し、すう、と十文字に切り裂いた。中から何か黄色い綿のようなものがじわじわと落ちてくる。刃を仕舞って、ミヒオは後ずさり、ぼうっと突っ立ったままのアビルの手を引いてそれから離れた。

「な、なに。あれ……」

「名前忘れたんすけど、なんでしたっけ……えっと、あれっすよ、胃を保護してるクッションみたいな膜っす」

「クッション?」

「あれ、脂肪の塊なんでつるつる滑るんすよね。ちょっと待っててくださいね、足場作りますんで」

 ミヒオは勢いをつけて走りだし、黄色いクッション――脂肪の塊をぐちゃぐちゃと踏みつけて跳躍した。胃の切り口から覗いた外の赤い肉壁に、ミヒオの棒が突き刺さる。その棒に捕まってぶら下がったまま、ミヒオは器用に肉壁に刺さっていない方の棒端を持ってぶん、と振りおろした。再び鋭い長い刃が現れる。ミヒオはその刀で近くの白い骨をがりがりと削り始めた。骨の粉がぼろぼろと降ってくる。脂肪の塊に降り積もる。まるで砂のように。

「その粉を、その黄色い塊にまぶしてもらえます?」

「あ、はい」

 アビルは言われたように骨の粉を脂肪の塊にまぶした。

「そしたら上に立ってもすべらないでしょ?」

 ミヒオがぶら下がったまま笑っている。アビルは立ち上がって、たしかに、と頷きながら足元を見下ろした。ふかふかして、足場としては頼りないけれど、歩きにくさはあまり感じない。

 ミヒオはぶらんぶらんと身体を揺らしながら、次々に横移動していく。ミヒオの動きに合わせて、弯曲した棒のような骨が胃の外側にぼとぼとと落ちていった。恐らくは鮫の肋骨なのだろう。遠ざかるミヒオの姿は、鮫の肉壁に映るオレンジ色の丸い光の真ん中で揺れている影でしかもう認められない。やがてミヒオの影は肉壁に足をつけ、思い切り棒を引き抜いた。ミヒオの身体は鮫の胃にぶつかって、どこかに落ちた。天井がぐわんぐわんと揺れ、十文字の切り口がまるで生き物の下のようにべろべろと揺れ動く。

「ミヒオ!」

 アビルが呼ぶと、「大丈夫っすー」と呑気な声がこだました。暗闇の中でライターの火が揺らめいて、近づいて来る。ようやく姿を見せたミヒオは、その腕いっぱいに切り落とした骨を抱えていた。

「ふう、毎度ながら神経使う。さ、アビルさん、これで梯子作るっすよ」

「梯子?」

「そうそう、梯子作って、上って、肉を削ぎ落とすんです。俺だけの時はさっきみたいにぶら下がりながら切り落として後で回収するんすけどね。その分取り残しも多いんすよ。今日は二人いるからこれでもっと肉がとれます。助かるなあ」

 ミヒオは楽しそうに頬を赤らめて笑った。アビルはミヒオの指示通りに骨を組み合わせ、肩にかけていた綱で縛った。出来上がった歪な白い梯子をミヒオはどかどかと音を立てて踏んだ。強度は問題なさそうだ。ミヒオは、自分が梯子を上るから、アビルには胃の中で梯子の足を支えていてくれと言う。

 とはいえ、梯子の位置をずらすときはミヒオが肉壁にぶら下がったまま足で梯子の上端をずらしてしまうのである。アビルの仕事は本当に、ただ梯子の下端を支えているだけだった。自分が役に立っているのか、あまりピンとこない。灯りはミヒオの手元にあるので、中途半端に開かれた天井からはミヒオの姿はほとんど見えないのだった。無性に心細くて、アビルはミヒオに話しかけるのをやめられなかった。

「ねえ」

「なんすか?」

「どうして胃を十字に切ったの? 全部切った方が視界が晴れるし、梯子も移動しやすそうなのに」

「ああ、それは」

 ミヒオが叫んだ。

「そう切った方が、胃の形が保たれて、地盤が崩れにくいんすよ。綺麗に切っちゃうと、形保てなくなって地面がなくなっちまいます。あと、あんまり肉と骨削いじゃうと、こいつの身体がぺったんこになって後から出るのに苦労しますから、肉取るのも全部じゃなくていいんすよ」

「そうなんだ」

 アビルも叫んだ。

「ミヒオは色々知っているのね」

「知ってるっていうか、船長が教えてくれたんすよ、全部、全部。船長はすげえ人ですよ。色んな本を読んで、鮫や鯨の解剖とか、人間の体の構造とか、餌の取り方全部考えて、俺に教えてくれたんす。俺の身体が今どうなってるのかも……船長が色々教えてくれたから、わかったっすよ」

「あなたの身体?」

 不意にミヒオの声が静かになって、アビルは不安に襲われた。どうしてそんな、寂しげな声を出すのだろう。何か気にかかることがあるのだろうか。アビルは胃の切り口から首を伸ばした。

「な、なにか、どうしたの?」

「え? 俺どうかしましたか?」

 ミヒオは梯子の上で屈んで、アビルを見下ろした。その顔はきょとんとしている。アビルはごくりと唾を飲みこんだ。

「あの、元気ないように見えた」

 ミヒオは意外にも、そのまま黙っていた。けれど、その頬が――頬に張りついた鮫の血飛沫模様が僅かにひくりと動いたのを、アビルは見逃さなかった。

「わ、私でよかったら何でも話して。そ、その……【血の通った者】のよしみ、でしょ」

 ミヒオは笑っていることが多い。笑ってばかりだ。だからこそアビルは鮫の腹から外へ出て、海賊の中に入っても怖がらずにいられた。本当は、男ばかりの船内は怖い。姉は殺された後も男たちに冒涜された。血まみれ、あられもない姿――姉の最期の姿は、今でもアビルの瞼の裏には焼きついて離れない。それでもミヒオが自分達を何かと気にかけてくれるから、口の悪いハダリーの言葉にも委縮せずにいられる。アビルはミヒオが笑っている方がいいと思った。自分が支えてもらった分、何か恩返しをしたいとも思っている。まだ私、ここでも全然役になってないから――アビルは梯子の足をぎゅっと握りしめた。

 ミヒオは表情を消したままアビルから視線を逸らして、そのままぴたりと動かなくなった。きっと何事かを考えていたのだろう。やがてもう一度肉壁を見あげ、梯子の上で立ち上がった。

「それは……じゃあ、後で。先にこれ、終わらしちまいましょう」

「うん」

 少しだけ暗い、低い声だったけれど、そこには柔らかさも滲んでいたから。

 アビルはほっとした。そのまま後は、無言で二人は作業を続けた。ミヒオが刀で骨や肉をざりざりと削る音が、まるで砂がこすれ合う音のようだ。アビルはその音を耳に心地いいと感じていた。何故だか懐かしさが込み上げる。しばらく目を閉じて音を聞いているうち、もしかしたらアビルは少し微睡んでいたのかもしれない。瞼の裏に、空のような、青いキラキラと光る海が見えたような気がした。アビルははっと我に返って目を擦った。今のはなんだろう。見たこともない景色なのに、懐かしいと泣き叫びたくなった。青い海を見るための花が自分の身体にも根付いているというのなら、その花が音に誘われてアビルに幻想を見せたのだろうか? 考えたところで、答えは出ない。

 梯子を握りしめるアビルの手には血豆ができていた。手首には、赤い擦り傷。痛いと思った。まだ私には赤い血が流れている。まだ、ハダリーの言うところの、【保護する価値ある人間】である。でも、もし私達が赤い血を失ったら。失いそうになったなら――

 その時、ハダリーはそれでも、自分達を保護してくれるのだろうか。

 ――もしも言葉が通じなかったら、あんたらがまだ花に寄生されてねえってことだ。あんたらが本当に、正真正銘の人間様ってことさ。だったらそのまま、死なせてやるのが幸せってもんだろう? 人間様の尊厳を保ったまま、死んだ方がいい。オレはそう思う。

 ――花の中枢は特に脳に寄生してるみたいで、脳に近いところに宝石ぶら下げてるとね、花の成長が抑制されるんすよ。俺も、ずっとそうして血が通ったままでいられてる。

 ハダリーとミヒオの言葉が蘇る。

 ジルビはきっと、話の内容を理解していないだろうと思った。まだあの子は世間知らずだから。

 赤い血の通う人間を保護する理由も、これ以上症状が進行しないように宝石を身につけさせる理由も、それは【血が花になった人間】に価値などないと言っているようなものだとアビルは思う。ミヒオは、アビルたちが来るまでは自分が船内で唯一の【血の通った人間】だったと言っていた。だとすればあの船には、人間ではない【人形】しかいないことになる。それでも宝石を身につけるのは、ハダリーが人間のままでいたいからなのかもしれないが、その矛盾の理由は、アビルには到底推し量れない。ただ、自分が【血の通う人間】でなくなった時、アビルはハダリーにとって価値のない人間になるのではないかとぞっとするのだった。殺されてしまうかもしれない。あるいは保護されたまま、人形にされてしまうのかもしれない。ミヒオと水曜日以外の十九人の船員たち……もう考える力もなくしたような、屍のような、ただ労働のために保護されているだけの――

 そうなるくらいなら、自分で死んだ方がましだと思う。あんなにも、生き延びたがった自分が、今は生きることに怯えている。血が無くなるのが怖い。青い海が見えるようになってしまったら、恐ろしい。お花さんお願い、まだ私に夢は見せないで。

 アビルは一層強く梯子を握って、目も固く瞑った。不意に梯子が軽くなる。顔を上げると、肉を削ぐ作業を終えたミヒオが、再び胃の外で落ちた肉をかき集めていた。手伝おうかと顔を出しても、暗くて怖い。何にも役に立たないなあと、自分が歯がゆい。

「わ、私もライター欲しいな……暗くて、殆ど手伝えないから」

 ミヒオが肉の山を抱えて戻ってきた時、アビルはぽつりとそう零した。ミヒオは目をぱちくりと見開いた。

「え……でも、俺、いてくれるだけでいいっすよ。いつもこの作業一人でやってたし、なんつうかその……」

 ミヒオはぼろぼろと肉の破片を落としながら、血にまみれた手で頬を掻いた。

「なんつうか、孤独に作業してると不意に暗い気持ちになったりもしてさ、でも、それが今日はなかったっすよ。ぶら下がる時間も少なくて済んだから腕も楽だし!」

 ミヒオは腕をあげてにかっと笑った。アビルはミヒオの目をまっすぐに見つめたまま、口を開いた。

「私、これでも村では畑仕事やってたの。ジルビと違って、単調な作業や力仕事なんて全然苦にならない。むしろ何もできない方が歯がゆいの。だから、もっと手伝いたい、今度から……」

 アビルは俯いた。視線をしばらく泳がせて、恐る恐るミヒオの顔を覗うと。ミヒオは顔を真っ赤にしていた。余計なことを、と腹を立てられていたらどうしよう、とアビルは一瞬肩をすぼめ、けれどミヒオはそんな人じゃない、と気を取り直してその黒目をもう一度見つめ返す。今度はミヒオが、うろうろと視線を泳がせた。ミヒオの腕から再び、鮫の肉片がぼろぼろと落ちる。

「そ、っか……アビルさんはそう言う人なんすね……はは。……じゃあ水曜日さんにまた頼んでみます。そしたら二人でライター使えるでしょ」

 ミヒオははにかんだように笑って俯いた。

「そうだ、アビルさんのその肩にかけた鞄に、この肉詰めてもらえます? あとこの脂肪も」

「脂肪? その黄色いの? 何かに使うの?」

「燃料になるんすよ。これ脂の塊だから」

 へへ、とミヒオは笑って頬を掻いた。アビルが鞄にすべてを詰め込んだのを見て、うーん、と伸びをする。

「さーて、あとは卵が無いか見てきますね! アビルさんはここで――じゃなかった、ああ、ええと、そう、ついてきます? てか、ついてきてくれます?」

 ミヒオはへら、と笑ったまま弱々しく指を伸ばした。胃の外のがらんどうに。

 アビルは強く頷いた。ミヒオはまた、「そっかー、そっち系の人なんだなー」と呟く。

「畑仕事と違って、生臭い血まみれっすよ、これ」

「泥も血も大差ないわ」

「はは、頼りがいあるっすね」

「ジルビはそういう仕事、好きじゃなくて遊んでばかりだったんだけど。あの子家の中の仕事の方が好きなの」

「そっかあ。だからあの子、俺より船長に懐いてんのか。船長もほんとはインドア系ですもん」

「インドア?」

「あ、えっと、肉体労働より知的労働が好きなんすよ、あの人」

「ふうん」

 二人で胃の外の、暗闇を歩く。グネグネとした柔らかいものに、足が飲まれそうになる。その度にミヒオがアビルを引き上げてくれるが、アビルにはそれも歯がゆかった。

 あたりは暗くて、ほとんど何も見えない。見えるのは灯りに照らされたミヒオの耳と首筋だけだ。アビルは再びミヒオの腰のベルトを掴んだ。それとほぼ同時に、ミヒオは屈んでぺたぺたと周囲を触りだした。

「何をしているの?」

 アビルの声に、ミヒオが顔を上げる。

「ああええと、卵があるなら多分この辺かなあと思って。潰れた感覚があるとそこが卵巣なんですけどね。ほんとは卵巣って外から腹を掻っ捌いた方が見つけやすいんだけど、それだと砂で塗れちゃうからな……うーん、これやっぱ雄かなあ」

 はあ、とミヒオは深い溜息を吐いた。

「俺卵好きなんだけどなー。ちぇ。仕方ない。帰りますか」

「もう少し見たっていいよ」

 アビルは笑った。肩を落とすミヒオが、幼い子供のようで可愛く見えたのだ。

「え、でも」

「私も何となく、鮫狩りの感覚を掴みたいし」

「そ、そすか」

 ミヒオはまた指で頬を掻いた。

「じゃあせっかくだし、しばらく鮫の中を歩いてみましょうか。これから手伝ってもらうなら必要になるし。あ、じゃあベルト」

「うん」

「ベルト、そのまま掴んでてくださいね」

「うん」

 本当は、もっと高い位置で握れる方がいいのにな、とアビルは思う。アビルの方が少しだけミヒオより背が高く、その腰に手を回すのはなかなかに歩き辛いものがある。

 けれどなんとなく、ミヒオに腕を貸してとも素直に言えなかった。村の男たちの腕は気軽に借りられたのに、奇妙なことである。アビルは自分の中でぐるぐると巡る説明できない感情に戸惑っていた。

 ミヒオの声が、鮫の腹壁に反射する。暗闇の中で、その解説をぼうっとしながら聞いていたら、不意に視界がぐらりと揺れた。吐き気がして、体を折る。そのままふらふらと足がもつれて、滑った。

「わ、」

 当然、アビルに引かれたミヒオも一緒になって転んだ。二人で鮫の腸にどすんとぶつかって跳ねる。そのまま体は斜めに傾いて、ずるずると脇へ滑っていく。

「あ、やばい」

 ミヒオが焦ったような声で呟いた。

「アビルさん! 俺のベルト絶対離さないで!」

「は、はい!」

 二人の身体が、ずるずると腸の肌を撫でて滑る。滑ってぐるぐると円を描くように回る。アビルは再び気持ち悪くなった。ミヒオも立ち上がろうとして、再び倒れる。

「な、に、これ、どうしたの」

 吐き気にアビルが口を押さえていると、ミヒオは急にアビルを抱きしめた。

「だめだこれ、多分船長が獲物を見つけたんです。船が動いてるから、船に繋ぎとめられた鮫の身体も動いてる。しばらく出られません。足場が悪すぎる。しばらくじっとしていましょう。下手に動いて怪我したら元も子もない」

そう言って、ミヒオはライターの火を消した。

「な、なんで消すの?」

 真っ暗闇と、肌に触れる温かさ、腸の冷たさにアビルは身をこわばらせた。ミヒオはアビルを安心させるように頭を撫でた。大丈夫、と呟いて。

「今火がどこかに燃え移ったら俺達鮫の中で丸焼きですよ。いや、燻し焼きかな。とにかく危険だし」

「ど、どうなってるの、うええ」

「気持ち悪いっすか。吐いていいっすからね。ここどうせ、鮫のケツだし」

「そういうことじゃなくてえ」

 アビルは手探りでミヒオの太腿に触れ、そのまま額を押し当てた。そうすると、少しだけ楽になるような気がした。ミヒオはアビルの胃を圧迫しないように気を使いながら体を支えてくれている。

「本当に、今、どういう状況、なの」

 アビルは弱々しい声でもう一度訪ねた。ミヒオはくすりと笑った。その笑みは、どこか嘲りの音も含んでいるようにアビルには思えた。アビルは暗闇の中でミヒオの顔を見あげる。薄暗い闇の中で、ミヒオは口元に笑みを浮かべながら、アビルを見つめていた。

「海賊の獲物っすよ。鮫じゃなくて、鯨でもなくて、船です。人間の乗った船。海賊って、船を襲うもんでしょう?」



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