第三頁 陰の中の青

 ジルビには難しい話はよくわからない。彼女はまだ数えで十四歳。けれど集落では、夫を持ってもおかしくない年齢ではあった。彼女には幼馴染がいて――その幼馴染も、殆どジルビと血の似通った子供だったのだけれど――その子のお嫁さんになるのだろうと漠然と思っていた。けれどその子は、突然現れた侵略者に殺された。パン、と彼の心臓から血飛沫があがって、倒れた。なぜみんな死んでいるのか、俄にはわからなかった。子供のいる女も、子供のいない女も、一様に乱暴をされている。小刻みに震えるアビルの腕にぎゅっと抱きしめられたまま、地下室で彼らの悲鳴と嬌声を聞いていた。梯子を降りてきて、一番上の姉――ルベルが、「ここはもうだめよ」と短く言った。

「お姉さん!」

 アビルはか細い泣きそうな声を出した。

「今ここであの獣の慰み者になって、それでも生かしてもらう可能性にかけるのと、三人であいつらの船とって、海に逃げるのどっちがいい? どっちも死ぬ可能性が高いよ」

 ルベルははきはきとした口調で一気に言った。アビルはぐすぐすと鼻を鳴らしながら、ルベルにしがみ付くばかりだ。ジルビはすんと息を吸って、姉たちが欲しいであろう言葉を唇から漏らした。

「死んでもいいから、姉さんたちと死にたい」

 結局、たくさんの武器を持った男たちの立てた音で、ルベルの体もまたパン、と腰と心臓から血しぶきを上げた。目に見えない速さで、姉を貫通した何かが小舟を繋ぎとめていた最後の綱を裂いたのは、幸運以外の何ものでもなかった。アビルは顔中を鼻水と涙でぐちゃぐちゃにしていたけれど、オールを漕いで海の中へ飛び出した。砂の海は、酷く泳ぎ辛かったけれど、沈まないようにしさえすればあとは砂のうねりに従って舟は勝手に進むのだとしばらくして学んだ。元より、どこへ行けばいいのかもわからない。

 何度か、ジルビはこう呟いた。

「このまま、砂の中に飛び込んじゃおうか」

 その言葉が、姉の欲している言葉だとわかっていたから。けれどその言葉を聞く度、姉は頭を振って、「まだ、もう少し」と言うのだった。

 鮫に飲みこまれた時はあっけなかった。この時ばかりは、姉の機転が効いた。姉はオールで鮫の舌を串刺した。侵入者たちが、村の人達をそうしたように。何度も何度も鮫の舌を串刺す姉の姿は、少しだけ怖かった。姉はあの時の自分のふがいなさに、鮫を痛めつけることで自分を傷つけているかのようだった。

 二人を乗せた舟は、オールでぱっかりと開けられたままの鮫の口から滑り込んで、一気に胃の中へと落ち込んだ。鮫の胃の中は、何故か花の甘い香りがした。船が鮫の骨に引っかかって止まったとたん、姉妹は状況を理解して、絶望した。これからどうすればいい? どうしたら、外に出られる?

 出なくてもいいのかもしれない、ともジルビは思い始めた。鮫は苦しげに蠢くけれど、その口の隙間から時々小さな砂まみれの魚が入ってくるのだ。鮫の胃液で砂を洗い流し、焼いてしまえば食べられないこともなかった。

 何日くらい経ったのだろう。腰の長さだったジルビの髪は、尾てい骨の辺りまで伸びていた。突如鮫の動きが不自然に左右に揺れはじめ、止まった。鮫の口がぱっかりと大きく開かれて、そこから眩い光が飛び込んでくる。もう拝むことはないと諦めていた陽の光だ。そこから現れたのは、姉と年端の近そうな男たちだった。男、と言うことにジルビもアビルも身構えたけれど、彼らは二人の村を襲った輩とは随分と様相が違うようだった。好奇心を湛えた目でじろじろと見てくるけれど、危害を加えるつもりがないことだけは伝わってくる。その後、彼らの一人に指を切られたことも、姉は怯えていたがジルビは何ともなかった。痛い、と思った。痛いと思って、まだ自分の中に、痛いと思える感情があることに驚いていた。

 ジルビもまた、目の前の出来事についていけてはいなかった。だからぼんやりとした頭で、手首に優しく重ねられた手の暖かさに気持ちいいな、なんて変てこなことを考えていた。けれどジルビが早く歩かないので、その優しい手かせはジルビの手首を肌に強く食い込む力で握った。その緩やかな痛みに、なんとなくジルビは泣きたくなった。足が上手く動かないほど、やはり自分は怯えていたのだ。

 その時だった。誰かがそっと自分の靴底に手を当てて、上へと押し上げてくれた。

 ジルビははっとして振り返った。彼はフードを深く被って、顔を隠していた。けれどフードの影から、キラキラ輝く青い宝石だけは見える。その後も彼は、ジルビがつまずく度に後ろから押し上げてくれた。

 ハダリーとミヒオが、姉のアビルに世界の事情を話している。二人は、こんな子供の自分が話を理解できるとは端から思っていないのだろうとジルビは思った。元々、小柄なジルビは幼く見える。

 甲板にぶちまけられた宝石の山。ハダリーとミヒオの影に、先刻のフードを被った男が見えた。ジルビはためらうことなくその男の傍に寄った。男もまたハダリーと同じ年頃に見えた。真っ黒な瞳と、黒い髪。けれど、その髪は耳に揺れる青い宝石と同じように青色で染められていた。そのことが、ジルビは少しだけ気になった。他の船員たちを見ても、ハダリーのように髪をわざわざ染めているのは目の前の男しかいなかったのである。

「さっきはありがとう」

 ジルビが彼の顔を見あげて呟くと、男は頷いただけだった。

「そいつ、しゃべれねえぞ」

 不意に、後ろからぼそりと声を掛けられて、ジルビは飛び上がった。

 ハダリーが、宝石を短刀の縁で叩きながら二人を見ていた。その眼差しには何の感情も浮かんでいなくて、ジルビは少しだけ身構えた。

 不意に、黒目の青年はジルビの口元を骨ばった手で覆った。そうしてジルビの目を覗き込んで、首を振った。その動作だけで、ジルビにはなぜかわかってしまった。彼がハダリーのことを好きだと言うことが。だからきっと彼はこう伝えたいのだ。身構える必要などないって。

「しゃべれないの?」

 ジルビは一度息を吸い込んで呼吸を整えてから、ハダリーを見つめ返した。胡坐をかいたハダリーと目線が丁度同じくらいだ。ハダリーはその時アビルに何かを話しかけていて、一拍置いてからジルビの質問に答えてきた。

「花の種がさ、そいつの喉に詰まっててな。声帯を圧迫してんだよ。触ってみ。てか触らせてみ。固いから。そこに、ここにあるのと同じ宝石がな、丁度詰まってる。だからほとんどしゃべれない。出そうと思えば短い音っぽいのは出るけどな、さっきお前の名前を呟いた程度とか」

 ハダリーは、にやにやと笑いながら黒目の青年を見つめている。青年は一瞬視線を彷徨わせて、首を覆う布をずり下げるとジルビの眼前に顎を突き出して見せた。長い指でその首筋を撫でてみせる。確かにそこは、ふっくらと腫れて見える。ジルビは恐る恐るそのふくらみを撫でた。少しだけ固い。そして、その一番固いところに切って縫ったような傷の痕があった。

「これ、一回切ったの?」

「まあな」

 ハダリーが答える。

「酷いことするのね」

「そいつが自分でやったんだぜ。オレは縫っただけ」

「そう……ごめんなさい」

「いーや」

 ジルビはもう一度ハダリーに向き合った。

「どうして、取ってあげなかったの? 宝石……」

 ハダリーは、ジルビの声に片眉を上げた。

「とってあげたら、また普通に話せるようになるかもしれないんでしょ?」

「オレらはさあ」

 ハダリーは気怠そうな声で言った。

「花に寄生されててな? お前も、あの鮫の花吹雪、見たろ。花が育つとな、体が内側から食われていって、血は花びらに置き換えられる。意思なんてなくなるよ。自我なんてなくなる。オレらがこの船で飼ってる十九人の海賊は、もう本当は手遅れだ。あいつら、自我なんてねえ。オレの命令に従うだけのイエスマン。それでもオレはまだ、あいつらを人間として死なせてやりたい。だから傍に置いてる。そのために宝石が必要だ。宝石はな、オレらの身体に寄生してる花の種なんだよ。果実。熟れすぎるとずぶずぶだし、まだ熟していないと鉱石みてえにかったいんだ。そしてオレらの身体に救う花たちはな? 近くにこの宝石があると、成長を止めてくれんだよ。これ以上種を増やす必要はない、みたいなね。生存本能とでも言うんだかねえ」

 ハダリーは串刺しにした三つの宝石をぶん、と船の下の方へ投げた。

「ま、オレのこれも、別のやつの受け売りだけどな」

「だから……この実はそのままにしたの? この人の中で、花の成長が少しでも遅くなるように?」

「お前、結構賢いな」

 ハダリーは鼻の下を指で擦ってにやりと笑った。

「あたし、これでも数えで十四だよ。おっとりさんのアビル姉さんと、ほんとは二つしか年変わらないもの」

「へえ。背はちびだけどな」

「うん」

 ハダリーは鼻で笑った。

「わかってんのかわからねえから言うけど、そいつの喉の宝石な、それ、そいつの体内でできた実じゃないんだぜ」

「え?」

 ジルビは眉根を寄せた。

「そいつがな、自分で喉を掻っ捌いて、他人の宝石を埋め込んだんだ。馬鹿みたいだって思ったけどさ、そうした気持ち考えたらオレも何も言えねえや。だからオレは傷を塞いだだけ。狂ってるだろ」

 ジルビは何も言えなかった。穏やかな黒目が、ジルビを覗うように見つめている。ハダリーは、指先の宝石を手慰んで、荒んだような笑みで弱々しい息を零していた。やがて、アビルが放った何かの言葉に反応して、ハダリーが横を向く。その時のハダリーは、人を食ったような笑みを浮かべていた。ジルビは眉根を寄せた。

 ――手遅れ? 十九人?

 ジルビは甲板を見下ろした。ハダリーたちが無造作に投げる宝石を砕いて、瓶に詰めて――時々味見さえして笑う彼らは、人間らしい。何が手遅れなのか、ジルビにはわからないのだった。ジルビは目だけで彼らの数を数えた。彼らは確かに十九人いた。だとすればハダリーにとって手遅れでない人間は、ハダリーと、ミヒオと、黒目の青年だけなのだろう。そう思ってみれば腑に落ちる点も色々とあるのだった。甲板の十九人も宝石の装飾で身を飾ってはいるけれど、耳飾りはつけていない。ここに居る三人だけが耳飾りをつけ、もっと大粒な宝石の飾りをもその身に纏っているのだった。まるで、絶対に花に侵されたくないとでも言うように。

 そうして甲板の上の三人を改めて眺めてみると、ジルビにはもう一つ気になることがあるのだった。

 どうして、ハダリーと黒目の青年だけが髪を染めているのだろう。ミヒオは血の通った人間だと言った。それ以外、ハダリーたち残りの船員の血管には血ではなく花びらが流れているのだろう。だとすれば、宝石でより飾られ、保護されるべきはミヒオであるはずなのに。黒目の青年の方が、黒いコートの下にじゃらじゃらと沢山の宝石の飾りを身に纏っている。その数は明らかにハダリーのそれより多く、青年は重たそうに体を動かしているのだった。異質だ、とジルビは思った。

 ハダリーにそのことを問うてみたかったが、ハダリーはアビルとの話に熱中してしまっていた。やがて黒髪の青年は、固い宝石ばかりを詰めた籠を肩に乗せ、立ち上がった。青年から、何か固いものを手渡される。赤紫色の宝石の、耳飾りだった。つけろということなのだろうとジルビは思った。ジルビはすぐにその二つを耳たぶにぶら下げた。それを見て、黒髪の青年は目を柔らかく細め、骨ばった手でジルビの頭を軽くなでた。そしてそのまま、梯子を降りてしまった。ジルビの隣で風が吹く。ハダリーも、黒目の青年を追いかけて梯子を降りて行った。

 取り残されていたジルビは考えていた。子ども扱いされる自分は、この船で一体何をすればいいのだろう。何ができるのだろう。助けてもらったのに――助けてもらった? 本当に助けてもらえたのかしら。ハダリーが姉に向かって呟いた【人間としての尊厳】と言う言葉が気になっていた。

 ――『もし言葉が通じないなら、オレらと会話できないような二人だったら、そのまま見殺しにするつもりだった』

 ハダリーが、姉に向けて呟いた言葉。ジルビは背筋が冷える心地がした。ジルビは顔が真っ赤に染まるほどに考え込んだ。手遅れ、と言う言葉。ハダリーが人間として死なせてやりたい十九人。けれどきっと、ハダリーにとって本当は、彼らは人間の尊厳をもう失ってしまっているのだろう。その尊厳を失わせたくないから、ミヒオと黒目の青年を宝石で華美に着飾らせているのだ。もっと言うなら、黒目の青年を――。

 ――『そいつがな、自分で喉を掻っ捌いて、他人の宝石を埋め込んだんだ。馬鹿みたいだって思ったけどさ、そうした気持ち考えたらオレも何も言えねえや。だからオレは傷を塞いだだけ。狂ってるだろ』

 ジルビは姉の傍に駆け寄って、抱きついた。姉はハダリーの言葉を聞いて、何を考えただろう。つむじに温かい雫が降ってくる。雨のようだ。姉の隣で風を食べるように唇をはむはむと動かすミヒオは、どこか遠くを見つめていた。砂混じりの風が吹いて、アビルとミヒオの髪に纏わりつく。キラキラと、砂金のように輝いて。

「二人のことは、俺が絶対守るっすからね!」

 姉が泣き止んだ頃、不意にミヒオが、妙に明るい声でそんなことを言った。ジルビも思わず、彼の顔を見あげた。

 ミヒオはにっと笑って歯を見せた。その笑顔に、姉はどこかぼうっとして見惚れている。

「二人の、人間としての尊厳は俺が守るっす! 命に代えても!」

 ミヒオの言葉に、ジルビは心の奥に重りをつけられたような心地がした。

 私が感じるくらいのハダリーの仄暗さを、この人は気づいていないのかもしれない。否、気づいていて、理解したくないのかもしれない。この人にとっては、自分が一人だけ血の流れる人間である尊厳が、同じ存在である私たち姉妹のことが、誇りなのかもしれない。

 でも、このままじゃ――

 ジルビは姉に一層強く抱きついた。

 船長の掌の上で転がされる。生き延びたかったら、あの人の中で大切なものの一人にならなきゃいけないのかもしれない。



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