第一頁 鮫腹の中で

 ザア、ザア。ザア、ザア、ザア。

 船体に波が打ち寄せる。赤茶けた砂が、飛沫を上げて打ち寄せる。

 かつて大陸を形作っていた土たちは崩れ落ち、全て海に飲まれ、同時に海を吸い込んだ。この星の表皮は今や、海水を孕んだ砂のうねりだ。人々はそれを、赤砂の海、あるいは単純に、砂の海と呼んだ。

 一面の赤。空は辛うじて、かつての青さを滲ませてはいるけれど、空の景色は移り変わるもの。太陽の陰りでいとも容易く青を失うのだ。人それぞれ好きな色があれば嫌いな色もある、それが個性だからと嘯くわりに、突き詰めてしまえば人間というのは、【青】という色がなければ生きていかれない生き物であるらしかった。この星が、かつては青い海に包まれたこの星が、宇宙の暗闇から見れば青そのものであったように、その星の表層で生きる人類の精神は、【青】に生かされていたのである。

 この海が赤色に染まってから、人類は逃避した。人を安らかな眠りにつけてくれる、眩惑の花に。花は人々に夢を見せた。青い世界の夢を見せた。

 今もこの砂の海には、たくさんの船が泳いでいる。多くの人々と積み荷を乗せて。彼らは花をその身に飼いながら、まやかしの青い海を見ていつか来る救済を待っているのだ。かつてのノアの方舟のように、今は嵐が穢れた大地を流してくれているだけだと信じて。そう信じていなければ、生きていかれなくて。

 赤色の帆が揺れる。帆は色とりどりの染みで汚れている。染みの正体は、花弁だ。潮風が運んできた花弁が貼りついて、乾燥したまま剥がれなくなっている。雨で滲んだ花弁の色が、帆の白に色を与える。海賊船パパラチア号は、今日も汚れた帆を広げて荒れ狂う砂の海を泳ぐ。

海の表層には時に、砂に身体を覆われ苦しむ鮫が打ち上げられる。彼らはようやく見つけた人間という肉を喰らおうと口を開け、ひれをばたつかせるのだが、身をまとう水を吸った砂が重たくて身動きできぬまま砂に飲まれてしまうのだった。海賊たちの仕事の一つが、そうして仮死状態に至った海の魚類の口から体内に入ることだ。往々にして、彼らの体内には、美しい宝石が眠っているのである。海賊たちは海賊船から小舟を下ろして、ぱっかりと開かれた鮫の咥内へと竿を漕いだ。鮫の腹には、難破船が消化液の中にぷらぷらと浮かんでいた。宝石化が進んだ鮫には、それをうまく消化することはできなかったようだ。鮫の胃粘膜、筋層、内臓――肉というすべての肉が、色とりどりに輝く宝石の集塊と化して鈍い輝きを放っていた。その宝石の壁が、鮫の呼吸に合わせて上下する。船員たちが肉壁の宝石を剥ぎ、難破船の中を漁る中、鮫の腹壁の動きを見つめてにやりと笑みを浮かべた人物がいた。海賊船――パパラチア号の船長、ハダリーである。

 ハダリーは数え年で十九、二十歳くらいのはずだが、暦が何の意味もなさないこの世界で年齢はさほど意味を持たない。顎の下で揺れる程度の真っ直ぐな茶髪に青みがかった緑色の目を持つ青年だが、髪は宝石を潰した液で金色に染めている。金髪にこだわる理由は分からないが、金髪だと威厳があるだとか、その理由は案外本人の感覚的なものなのだった。

 ハダリーは二十一人の船員を抱えている。そして海賊を自称する。この食べ物もろくに残されていない大地で、人々から金品を強奪するのが生業だ。ことに彼は、宝石にこだわっているのだった。宝石で己を飾り、船員の全てに宝石を分け与える。

 ハダリーは、宝石の壁を歪曲した海賊刀で引き裂いた。消化液がどろりと骨の見える空洞へと流れ込む。鮫の脇腹にも、骨に沿って美しい金色の宝石がたわわに実っていた。船員たちは歓声を上げてそれを刀で削り取る。ハダリーはといえば、鮫の腸を踏みつけ爪先で何かをまさぐっていた。やがて白く透けた拍動する管が現れる――鮫の血管だ。網目のように内臓の壁に張り巡らされている。

 ハダリーは口元に笑みを浮かべたまま、しばらくそれを凝視していた。二十一人の部下たちがあらかたの宝石を削り取った頃合いで、ハダリーは一番太い血管を海賊刀で切り裂いた。ハダリーの肌を切り裂くような勢いで、血管からは黄色と白の花弁が勢いよく噴き出した。血管はやがて茶色く錆びて腐っていく。ハダリーが腸を踏みつけるたび、船員たちがどこかの内臓や筋を踏むたび、鮫は体内で出血を起こした。否、出花、とでも言うべきか。鮫はやがて、ぴくりとも動かなくなった。こうなると、海賊たちの作業は大いにはかどるのである。

 体に宝石を実らせた生き物は全て、血液まで花に侵されている。宝石は花の実だ。熟す前は固く鉱石のようで、熟せば甘い芳香を放つ。生き物の血を流すべき管には全て花弁が押し込められている。血飛沫のように湧き上がる花吹雪は美しい光景だが、慣れてしまえば何の感動もない。

「船長ー!」

 不意に、音太い声が船の残骸から放たれ、鮫の腹壁で乱反射した。

「生存者いまっす!」

 声の主、黒髪のミヒオリズという青年が筋肉質な細い腕をぶんぶんと振ってハダリーに位置を示した。ミヒオはハダリーの片腕だ。黒曜石のような濃いブラウンの目は、左の方が失われて義眼らしい。その義眼は常に眼帯で隠されて見えないし、ハダリーはその義眼に興味を向けたことすらない。

 ハダリーは華奢な足を揺らして爪先立ちで骨と肉と花弁の瓦礫を上っていった。船の残骸の縁に立って、ミヒオの指差した先――船員の一人が掲げた松明の光の向こう側を凝視した。

「ああ、ほんとだ、人間だ。よく生きてたね」

 ハダリーはのんびりとした声を出した。ハダリーに見つめられた二人の少女は、抱き合って震えていた。燃えるようなオレンジ色の赤毛がそっくりな姉妹だ。大きい方の少女は白葡萄のような淡い緑の目で、小さい方の少女はその緑に僅かに茶色も混ざった珍しい色合いの目をしている。二人とも、金箔をたくさん散らしたようなそばかすが白い肌の至る場所で煌めいていた。

 ハダリーはにっこりと笑って、海賊刀の切っ先を姉妹に向けた。

「お名前は? 言葉、わかる?」

「わ、私達、貴方たちに奪われるものはもう何も持っていない」

 姉の方が、擦れた声で応えた。

「それとも、助けてくれる気があるの? だから名前を聞くの?」

「ここは素直に答えておいた方が無難っすよ」

 ミヒオが、姉の方に耳打ちした。姉の方はびくりと肩を揺らした。長い赤毛が逆立つほどに揺れた。

「あたし、ジルビ。こっちはアビル姉さんだよ。私たち、故郷から逃げて来て、鮫に飲みこまれたの」

 妹の方が、静かに答える。ハダリーは「いい子だ」と言って、ジルビの長い髪の房をとった。ジルビは僅かに肩を揺らしたが、唇をきゅっと引き結んで耐えた。

「故郷……ねえ。もうこの世界に故郷なんて言える代物はないんじゃなかったっけ」

 ハダリーは海賊刀を人差し指の上でくるくると振り回した。

「いいえ」

 アビルと呼ばれた姉の方が静かに首を振った。

「私達の故郷はかつて山奥にあった。大地が下から海に溶けて崩れていくうち、私達の故郷――居住域だけが残ったのよ。そこではまだ、地上で生き延びるだけの土地も食料もあった。花も……咲いていた。こんな気味の悪い花じゃなく」

 アビルは、足元で散った黄色の花弁を撫でた。

「へえ、でも逃げてきたって。そいつは興味深いね。一つ聞かせてくれない? その理由とやらをさ」

 ハダリーは鼻を鳴らして歌うようにそう言った。

「……言ったら、助けてくれるの? せめて、妹だけでも……」

 アビルは俯いた。ハダリーは海賊刀の縁でそっとアビルの顎を持ち上げた。

「そういう、頭のよくない駆け引きは似合ってないよ。女の子は素直が一番だ」

 アビルの双瞼には涙が零れんばかりに溢れていた。

「頭で考えなければ、生き抜けないのよ、この世界は」

「そりゃ同感だけど」

 ハダリーはアビルから手を離した。ハダリーの耳元で、小さな緑の宝石が大きく揺れて煌めいた。

「とりあえずオレがわかったことと言えば、あんたらがよほど今まで怖い思いをしてきたんだろうなってことくらいだなあ、これじゃ。もっとじゃんじゃん大事な情報をくれないと。時間がないんでね。そろそろ船に戻らないと、ここも波に飲みこまれちまうよ。そしたらオレらもそろって船に戻れず、砂の海に逆戻り。二度と太陽は拝めねえな」

 ハダリーは鼻の下を擦ってにやりと笑った。アビルはぽかんと口を開けたまま、ハダリーを見ていた。

「侵入者が来たの。男は串刺し。女も襲われたの。食べ物も食い荒らされてね。私たちは三姉妹だったけど、一番上のお姉さんがおとりになって、私たちを逃がした……小さな舟だよ。あっという間に波に飲まれて、気づいたら鮫に喰われてた。よかったのか……どっちにしろ不運なのか、よくわからない。とりあえず、今までは生きてた」

 ジルビは、両手をぎゅっと握りしめたあと、ハダリーをまっすぐに見てそう零した。ハダリーはもう一度ジルビの髪を一房とって、くるくると指に巻きつけた。今度は、ジルビは震えなかった。

 ハダリーはしばらく、ジルビの目を見つめて目を細めた。ややあって、俊敏な動作で海賊刀を逆手で持ち替え、二人の少女の指に小さな切り傷をつけた。姉の方は悲鳴を上げた。二人の指先から、赤い血の雫が膨らんで、つう、と爪を伝って零れた。ミヒオが息を飲んだ。

「君達、血の通った人間なんすね」

 ミヒオの声は、どこか弾んでいる。アルビは困惑した表情で、目を輝かせたミヒオの顔を見あげた。

「俺もなんすよ。俺も血の通った人間なんです。やっべえなあ、すごく嬉しい。まだ俺の他にも残ってた! ね、船長。二人とも連れ帰っていいですよね? もちろん保護しますよね?」

「食べ物の調達は自分でしろよー。オレらには必要ねえし」

 ハダリーは気怠そうにそう言って、つま先立ちでぴょんぴょんと跳ね、鮫の喉へと向かった。宝石の山を抱えた他の船員たちもその影に続く。ミヒオは船の残骸からいくつか魚の塩漬けが詰まっているらしき錆びた缶詰を身繕って懐に入れた。

「さ、行きましょ行きましょ! 俺らパパラチア号の海賊は、血の流れる人間を保護するんす。今俺が決めたし」

「よく……わからない。話についていけないのだけど」

「まあまあ!」

 アビルが漏らした躊躇いの言葉も気にせず、ミヒオは赤毛の姉妹の手を引いて鼻歌まで歌い出した。ミヒオの歩幅は広くて、ジルビは何度か鮫の内臓でつまずいた。その足を、誰かがそっと持ち上げてジルビの身体をうまく押し上げた。

 ジルビはふと、その誰かの目をじっと見つめた。けれど目を合わせる間もなく、彼はすぐに通り過ぎてしまった。彼もまた、二十一人の一人、しがない船員の一人だったのである。黒い、目。

 ジルビの目の前で、アビルとミヒオがかみ合わない会話をしている。アビルは泣きそうだった。対してミヒオは心底嬉しそうだ。ミヒオの両耳には、紫色の宝石がキラキラと揺れていた。豪快な笑い声が鮫の腹壁に反響する。会話の中に、何度も何度も【血の流れた人間】という言葉が挟まれた。ジルビの中で、不意に違和感が風船のように膨らんだ。

「血の流れた人間って、何……?」

 ジルビは小さく呟いた。

「人間は皆、血が通ってるよね……?」

 その呟きは、鮫の喉から吹き込む腐敗臭を纏った海風にかき消された。ジルビは唇を噛み、肩にかけた小さな鞄を腕の中にぎゅっと包み込んだ。中には、故郷の土が入っている。彼女と彼女の姉にとって、それが己の最後の心の支えなのである。体はそこになくとも、魂はずっと故郷と共にあり続けるという、誓いなのである。ジルビは鼻からすう、と鮫の体内に満ちた花の匂いを吸い込んで、大きく足を踏み出した。また何度もつまずいたけれど、誰かはその度に足を止め、ジルビの足を支えてくれた。ミヒオの手に引かれ、少女達は光の中に帰る。

 赤毛の姉妹を含めて二十四人。

 全ての船員がパパラチア号に乗り込んだ頃、砂で汚れた鮫の死体はずぶずぶと砂の波に攫われ沈んでいった。後に残されたのは、黄色と白の花弁だけだ。今日も何かの生き物がどこかで死んで、血の代わりに花弁をまき散らかす。砂の海は、色とりどりの花弁を浮かべてさざ波を立てる。砂の粒で引っ掻かれた花弁たちはみすぼらしくて、けれどこの赤い海に煌めく小さな色の粒でもあるのだ。まるで星屑のような。

 夜空には星さえ見えなくなって久しい。砂めいた空気は空さえ濁らせていた。だから砂海の花弁は、汚らしいけれど、みすぼらしいけれど、船の上でしか生きられない人間達の僅かに残された慰みなのである。


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