第十五頁 ぼくらの理想郷
一、ジルビ
朝陽が昇り、空が焼けていく。
ハダリーとジルビの二人は、茫漠とした砂の海上に、ようやく見知った船の影を認めた。光に照らされた船の輪郭は、ほんのり緑がかり白金の輝きのようだった。
船の近くに来て、突然ハダリーは立ち上がった。ジルビはぐらぐらと傾いた舟上で肩を縮こまらせた。
ハダリーはすう、と息を吸った。一度口元に手を当てて、また戸惑うように目を伏せる。何度か大きく息を吸うその顔をジルビは見あげながら、ハダリーの髪を透かして輝く朝陽の眩しさに目を細めた。視界に緑色のぼんやりとした染みが残る。太陽が残してくれた、光の痕である。
「船長、朝の匂いはどんな匂い?」
「ハダリーでいいぞ」
ハダリーは小さく笑った。ジルビは肩をすくめた。
「じゃあ、ハダリー」
「おう」
ハダリーはもう一度息を吸って、しばらく鼻をすすりながら腕を組み首をかしげていた。
「砂と……塩と、花の匂いかな」
「砂に匂いなんてあるの」
「煙たくなるような匂いだよ、バカ」
ハダリーはくしゃっと笑って、両手で口の周りを覆った。
アオーンと、まるで狼のような遠吠えが静かな砂の波音に混じって響き渡る。ジルビは目を丸くした。ハダリーは三回鳴いて、またどっかりと舟に座り込んだ。ジルビは恐る恐る首を伸ばして尋ねた。
「な、なあに、今の」
「合図。ウェンズと決めてんだ。お互いがはぐれて、でもまた見つけたら鳴いて合図するってな。あ、遠吠えの仕方はな、昔その辺の野良犬の鳴き真似してたんだよ。ウェンズの方が上手かったんだけどな……何しろジプシーってのは暇で暇で、空腹と暇に疲れてるからさ、そんなくだらないことしてたんだよ」
「ジプシー?」
「浮浪者、スラム街の人間、孤児、まあ要するに、人の姿をした犬畜生」
「自分でそんなこと言わなくていいのに」
ジルビが眉根を寄せると、ハダリーはにやっと笑った。
「そう、オレ、実は自分のことそこまで犬畜生と思ってない」
「なんとなく、そんな感じはした」
ジルビも吹きだした。
やがて、海賊船からはボウ、ボウ、と法螺貝の音のような腹に響く低い音が聞こえてきた。ジルビも振り返って船の上を見つめる。船員の一人が大きな笛のようなものを両腕に抱えて吹き鳴らしている。船の縁には姉とミヒオの姿が並んで小さく見えていた。風に揺れる姉の長い赤髪を見ていたら、目の奥がじんと痛んで泣きそうになった。ジルビは水曜日の姿を探した。どこにいるのだろう。
「あ、いた」
ハダリーが後ろで呟いた。ジルビはハダリーの顔をちらと顧みた。ハダリーは澄んだ目で嬉しそうに笑っていた。まるで無垢な子供のように笑っていた。ジルビはまた目を見開いて、すぐにハダリーの視線の先を追った。
見張り台の上に、青い影が見える。光に全身を照らされて、水曜日の姿は真っ青に見えた。髪が星空のようにキラキラ光って、耳元の宝石もちかちかと白く瞬いている。フードの紐がゆれて、棚引いて。
水曜日はすぐに身を屈めて、姿を消した。ジルビは、きっと彼もハダリーが自分を見つけたことに気が付いたのだろうと思った。
使い古され毛羽立った太い縄梯子が砂の海に放り投げられて、海面でとぐろを巻いた。
「とって」
甘えたようなハダリーの声にむっとしながら、ジルビはその縄を掴んで舟の傍に引き寄せた。縄は、じっとりと濡れてざらりとしていた。
「上れるか?」
「手がすりむけそう」
ジルビは膨れ面で言った。ハダリーは梯子に片足をかけたまま肩をすくめた。
「ったく、我儘なお嬢さんだよ」
「別にお嬢さんじゃないよ」
「どうせ宝石を上にあげなきゃいけないから、また戻ってくるよ。だからお前はここで待っときな。それに、お前を担いでいくのはあいつの仕事だろ。オレは細くてちびでいけねえや」
ハダリーはにやりと笑って、まるで猫のように身軽に梯子を上っていった。花弁が少しだけ、くるくる回りながらひらひら落ちてきてジルビの頬と手の甲に触れた。ジルビはぽかんとして離れていくハダリーの身体を目で追った。あいつ、というのが一瞬誰かわからなくて、でも水曜日さんとは今気まずいし、ミヒオさんの方がいいなあなんて思ったりした。
やがて、上の方からわいわい、やいのやいのと騒がしい声が落ちてきた。一緒に降りてきたのは、ミヒオと二人の船員だった。そのことに少しだけほっとして、けれどなんだかジルビは苦しくなった。胸を押さえて、首を傾げた。ジルビは確かに、がっかりしていた。
「ジルビ!」
鈴が鳴るような声が降ってくる。四人のあとに続いて、アビルが梯子を降りてきていた。ジルビは宝石の入った袋を抱えたまま、ゆっくりと膝立ちになった。アビルは四人が降りるのを待ちきれなかったのか、梯子の裏側を伝って下りてきた。「わ、ちょっ、」という慌てたようなミヒオの声と、ハダリーのからからとした笑い声が聞こえる。アビルは最後の三段で梯子を捨てて舟に飛び乗ってきた。梯子がぐわんぐわんと揺れて、船員のどちらかがきゃあ、と悲鳴のような声を漏らした。舟がぐらぐらと揺れる。気が付いた時には、ジルビはアビルの腕の中にすっぽりと抱き留められていた。息ができなくなるほど、強く。
ジルビはそっと姉の背中に右手を回した。指先が、僅かに震えた。
「姉さん、ただいま」
「うん」
アビルは、もう一度「うん」と繰り返した。ジルビは姉の胸に顔を埋めて目を瞑った。姉は優しい匂いがした。
「姉さん。あのね、我がまま言ってもいいかな」
「いいよ。いいんだよ」
アビルが、僅かに腕に力を込めた。
「あんたは我が侭娘のくせに、一緒に海に出てからずっと弱音一つ吐かなかったね。いつも私ばかり慰めてもらってたような気がするんだ。よく頑張ったね、我慢したね。言っていいんだよ、あんたは私の可愛い妹なの。いなくなって……死にたかったよ。あんたと一緒に居られないなら、こんな世界意味もないの」
ジルビは鼻をずっ、と音を立ててすすった。
「お姉、お姉ったら、そんなこと言わないでよお」
「言わせてよお」
アビルもしくしくと泣いている。背中に湿る涙の雫が心地よいとジルビは感じた。ハダリーは、ほどほどにしとけよー、なんて笑いながら宝石袋を抱え、再び梯子を上っていく。ミヒオは微笑んで二人を見つめただけで、何も言わなかった。ジルビは離れていくミヒオの背中を見つめながら、アビルの背中をもう一度そっと撫でた。
「あのね、お姉。宝石のこと……花の種のこと。やっぱり、一緒にお願いしよう?」
アビルは、僅かにジルビから身体を離して、ジルビの顔を不思議そうに覗き込んだ。姉の淡い緑の目を、本当に綺麗だとジルビは憧れた。
「あのね、船長に二人で一緒にお願いしよう? くださいって。わけてください、私たちに、お花を土の上で咲かせてくださいって。それで、助けて。あたしの心を助けてよ、お姉。ハダリーと、水曜日さんを助けて。ミヒオさんを助けてあげて。他の皆も全部、助けてあげてね。きっとお姉にしかできない。お姉だからできるの。だって、私のおねえちゃんだから」
アビルは困惑を顔に浮かべたまま、ジルビの左目にあふれた涙を指で拭った。そうして、頷いた。ジルビはそのことに安心して、あとはもうだめだった。涙が溢れて零れて、止まらなくて。両手で顔を覆っても、指の隙間から涙の雫はぽたぽたと落ちた。喉からは嗚咽が漏れた。アビルが背中をさすってくれる。舟がぐらりと大きく傾いて、靴の踵が舟の床を鳴らす音が小さく響いた。体を覆った灰色の影にジルビはぐしゃぐしゃの顔をあげた。長い睫毛を目に被せて、水曜日がジルビを静かに見下ろしていた。水曜日はジルビを両手で抱きかかえ、肩に担いだ。アビルの、落とさないでね、と不安そうな声が小さく聞こえる。水曜日が梯子を上るたびぐらぐらと揺れる体に、眩暈がした。ぶれる視界の下で、姉のつむじが追いかけてくるのを見るのが楽しかった。ジルビは水曜日の服を両手で握りしめて、涙で濡れた顔を押し付けた。水曜日の服が湿っていくのがわかったけれど、やっぱり涙は止められなかった。
「ごめんなさい」
ジルビが呟くと、水曜日がぴたりと止まった。
「でも、私悪くないもん」
そう言うと、水曜日は確かにくすりと笑った。再び揺れ始めるからだ。アビルの頭に落ちていく涙の粒。アビルが目を細めて不思議そうに顔をあげた。アビルと目があって、ジルビはやっと笑った。
二、アビル
「どこにいってたんすか」というミヒオの軽い口調に、ハダリーは「宝石を探してた。海賊らしいだろ?」とにやり笑う。ミヒオは「船長はいつでも海賊らしいっすよ」とくすくす笑った。二人で宝石を仕分けしているのを、ジルビと一緒に船の縁にもたれてぼんやりと眺めていた。アビルは何度もジルビの頭を撫でた。ジルビはアビルの身体にもたれて、甘えるように鼻をすんすんと鳴らしている。
アビルは、ジルビがあんなに何度も泣いて止まらないのを久しぶりに見たと思った。覚えている限りで、ジルビは我が侭を言う以外で泣くような子ではなかった。そして村にいた頃は、ある程度大きくなるまでずっと癇癪を起こしてひどく泣いていた。長女が叱ると必ず泣いた。けれど父親とは姉二人よりも仲が良くて、一緒に笑っていたのを何度も見ている。幼馴染の男の子と仲良くなった頃には、少しおませになって気取ってみたりしているのを見て、なんとなく可笑しくなった。それくらいから、ジルビはあまり泣かなくなった。そのかわり、家族のことで口論する父親と長姉の顔をじっと見ていたり、本を読むことの方が多くなった。我が侭も、体力を使う畑仕事をしたくないということ以外はあまり言わなかったと思う。それを、アビルはジルビが大人になったのだと思っていた。けれど今は、ジルビが泣くのを見てなんだかとてもほっとしていた。泣いているジルビは、まだ子供だった自分にとってはどうすることもできない苦手な子だった。でも今は、ジルビが泣くのも愛しいと思う。この数日、ハダリーと一緒に船を離れていた間二人に何があったのかはわからない。ジルビは言おうとしなかったし、ハダリーが教えてくれるともアビルは期待していなかった。ただ、戻ってきてくれて本当によかったと思った。ジルビがいない間、自分がどれだけジルビに甘えていたか自覚して、恐ろしくなった。胸が張り裂けそうだった。帰ってきて、帰ってきて、と気が狂いそうになるくらいそれだけを考えて、アビルも数えきれないくらい泣いた。
妹の頭を撫で続けるアビルを、ジルビは何度も見あげた。多分、言えということなのだろうとアビルは思った。アビルだって、何度も口を開けては、細い息を吸い込んでいるのだった。どうして、宝石をくださいということがこんなにも苦しいのかアビル自身にも気持ちの整理がつかない。
怖いと言う気持ちと、それを口にしてしまったら、もう後戻りできないという気持ち。
姉さん。
アビルは腹の前で指を組んで、俯いた。
姉さん。私は、あなたがいたから何かを強く想うことも願うこともなかった。私に責任はなくて、ずっと傍観しているだけでよかったの。責任感の強い姉さんと、しっかりした妹に挟まれて、ふわふわ笑ってるだけでよかった。姉さんがいなくなってからも、ずっと姉さんがこの世界にまだいてくれる気がしていたの。でもね、やっぱりもう二人ぽっちだから。
私、がんばらなきゃだね。姉さんの心を貸してね。今だけでいいから。私、がんばるから。
アビルはもう一度潮の香りを吸い込んで、目を閉じ、また開いた。
「せ、んちょう」
「あん?」
か細く震えた声に、ハダリーはすぐに顔をあげた。アビルは震えながら指を組んだ手を胸の前に当てた。ジルビが、アビルを見あげていた。固い表情で。
「私に、宝石をもっとください」
「は?」
ハダリーが眉根を寄せる。その仕草にも、アビルは少しだけ震えた。ジルビをちらと見遣る。ジルビは瞬きをするだけで、まだ何も言ってはくれない。だから、もう少しだけ、アビルが自分の口で伝えなければいけないのだ。
「私、私達、お花を土の上で育ててみたいんです」
「土?」
「そう」
ジルビが頷いた。アビルは、孵化する蝶のようにふるりと震えた。アビルは体が熱くなるのを感じた。喉をせっつくように、言葉が零れた。アビルは身を乗り出して、ハダリーの真っ青な目をまっすぐに見つめた。
「私達、故郷の土を形見にずっと持っていたの。お花は、本来土の上で咲くものだわ。それが人の身体で咲く今がおかしいと思う。もしかしたらこの海には、この世界にはほとんど土が残っていないから、花は人の身体で増えるしかないのかもしれない。もしお花があなた達や私達の身体よりも、土の中で早く芽吹くなら……私達は助かるんじゃないかと思うの」
「助かるって……」
ハダリーは目を泳がせた。
「そんなこと言ってもさ、お前ら大した土持ってないだろ。花畑はある程度の広さの大地が無いとできないだろ。オレだってそれくらい知ってるぞ」
「私達の生まれた故郷があるわ」
息が苦しい。それでもアビルは喉の隙間から声を絞り出した。
「きっと遠い。だからなんの根拠もないのに、あなた達に私達の故郷に船を走らせてなんて言えない。故郷を目指すということは、その間あなた達にとって、私達にとっても必要な宝石が狩れないかもしれない。私達がそうしたら、死んじゃうかもしれない。でも、もし花が土の上で咲くのなら、残された大地を目指すだけの希望にはなると思うの」
ハダリーはしばらく黙っていた。目を伏せて、ややあって、ハダリーがジルビを見たのがアビルもわかった。アビルも恐る恐るジルビを見た。ジルビは花が咲くように笑っていた。その顔に、ハダリーも目を細めて、頭を掻いた。
「で、うまく花が咲いたとして、そのお前らの故郷は残っている保証はあるわけ。暴徒に襲われたんだろ。村がそいつらに占拠されているかもしれないし、砂屑になって海に溶けてしまってる可能性だって否定できないだろ」
「その時は、その時っすよ」
ミヒオが、たのしげに笑った。
「そこがだめなら、また別の大地を探せばいい。占拠されてるならやっつけちゃえばいい。俺達ならできますよ。船長、俺達、やっと海賊稼業を卒業できるかもしれないっすね」
「あん?」
「なんだかんだで、ほんとは船長が海賊稼業そこまで好きじゃないって俺知ってますよ」
ミヒオはいたずらっぽく笑う。ハダリーはむすっとして、宝石を放り投げた。赤紫、緑、黄色、水色。アビルはそれを慌てて両手で掴もうとした。アビルの指ではじかれ甲板に転がった緑の宝石は、腰をかがめてジルビが拾った。
「別に嫌いでもねえやい」
ハダリーは目を閉じた。
「足りなかったらまた言えよ。ていうか、そこまでガチガチに緊張しなくても、オレそこまで悪人じゃねえぞ、おっきい方の赤毛」
「アビルっす」
「知ってるっつうの」
アビルは手の中の宝石をぼんやりと見つめて、ようやく笑った。少しだけ目線をあげると、ミヒオが優しく微笑んでくれていた。胸がきゅうと締め付けられて、温かい心地でアビルも笑い返した。
三、ミヒオ
「あ、いたいた。アビルさんがね、花を土で育ててみるらしいっすよ」
見張り台で寝転んでいた水曜日に声をかけると、彼は目を細めて気怠そうにミヒオを見あげた。まるで猫のようだなとミヒオは思って、口元を腕で隠し、水曜日にばれないように小さく微笑んだ。
足は梯子にかけたまま、見張り台の縁に腕を乗せて、体を預ける。足元はぐらぐらとして心許なかったが、その浮遊感もミヒオは好きだった。そして、明るい日差しに当てられた同胞の、黒い目をじっと見るのも好きだった。
水曜日がいつまでも怪訝そうな表情をしているので、ミヒオは笑ってもう少しだけ説明を加えようと思った。
「なんかですね、アビルさんとジルビさん、土を持ってるらしいんっすよ。それでね、花は本来土で咲くものだって言うんすよ。人の身体で芽吹くのはおかしい。そんな世界になってしまったのは、大地が海に溶けて、陸が無くなってしまったからじゃないかってさ」
ミヒオは腕に顎を埋めて、口をもにょもにょと引き結んだ。瞬きをする水曜日の表情が戸惑いを如実に表していて、面白かった。
「人の身体の方で咲きやすい花ならもうどうしようもないけど、もし土の方が咲きやすいなら、まだ残っている大地に行けば俺達は救われるんじゃないかなって言ったんですよ。おかしいでしょう? 俺ら、そんな当たり前のこと全然気づかなったじゃないですか。近くに種があれば増殖が止まるようなこんな頭のいい花、もっと咲きやすい土台があるならそっちを選んで咲いてくれるんじゃないかなって、俺もそう思いますよ。間に合わせで、いつなくなるかわからない宝石を狩って、ばかみたいに身に着けて爪に塗って、あんたみたいに喉に埋め込んでみたりさ、船長みたいに髪染めたり、他のやつらみたいに食べたりしなくてもよくなるかもしれないじゃないすか。まだ世界は終わったわけじゃないでしょう?」
水曜日は目を泳がせた。その表情が、驚くほど先刻のハダリーと同じように幼くて、それが可笑しくてミヒオはまた笑った。今、船長が気まぐれで拾った二人の女の子が、ずっと心を閉じていた二人の青年の心をかき乱しているのである。こんな楽しいことなんて、きっとこの先もうないや、でも、もし幸せになれたらもっと楽しいのかな、とミヒオは思った。
水曜日はやがて仏頂面になった。体を起こし、ごそごそと懐からインクとペン、手帳を取り出して。
『それがうまくいったとして、どのみち大地が海に溶けていくのに変わりはないだろ。すぐにまた生きる場所なんてなくなるだろ』
ミヒオは、白い紙に書かれたその文字を、いつもよりも筆圧が弱いなと思った。目を細めて、首を傾けて。自分の書いた文字を睨むように見つめて俯く水曜日を、言葉にしがたい想いで見つめた。
それはきっと、愛おしさのようなものにも似ていたのだと思う。ミヒオは、この船で一番不幸なのは自分だと信じて疑わない。だからといって、不幸だから船長と水曜日を余裕ぶって憐れんでいるわけでもない。ミヒオにとっては、水曜日はたとえどれだけの日々が経っても自分の恩人である。そして、ようやく見つけた最後の同胞である。同じ人種の血を引く、ただ一人の家族のような心地さえ。たとえ、水曜日が自分には心を開いてくれなくても。
ミヒオは水曜日の年齢を知らないし、きっと水曜日の方が年上なのだろうと思っている。それでも今は、まるで兄弟がいたらこんな気持ちなのだろうと思った。自分はきっと、今アビルがジルビに抱くような感情を水曜日に抱けている。
「なーに言ってんすか。船長から聞きましたよ? 二人とも元はジプシーだったんでしょ。根無し草じゃないですか。大地がなくなったらまた海の上で生きればいいんですよ。あんたらの骨の髄まで染みついた生き方でしょうが」
こわくなんか、ないっすよ。
そう言うと、水曜日は顔をあげてミヒオを見つめた。ミヒオは僅かに驚いた。水曜日の黒い目は、まるで黒曜石のよう。この人、本当はこんなに目が大きかったんだな、とミヒオはなぜか感心した。
「じゃあ、伝えましたんで。さー、仕事しなきゃ」
ミヒオはにやっと意地悪く笑って、急いで縄梯子を降りた。水曜日がその後を覗き込んでくることはなかった。
ミヒオは服のポケットに手を突っ込んで、口笛を吹いた。今初めて、生きているって楽しい、と心から思えた。大好き、大好き、と呟いて。
あの赤毛の女の子を思い浮かべると、胸の奥がじわりと痛くなって、あたたかいのである。
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