特別のおにぎり
翌朝、僕はいつもより三十分早起きしておにぎりを作った。昨晩、お茶碗を用いた要領のいい作り方を先輩の母親から伝授されていたので、初めての挑戦にしては手際よくできたと思う。
ただ、炊き立てのご飯の熱さは想像以上で、手を水に濡らすのはご飯粒を手の平にくっつけないためだけではなく、手の火傷を防ぐ目的もあるのだとわかった。何事も実際にやってみて初めて気づくことが多々あるものだ。
月曜日の学校は頭と体が休日モードを脱し切れていないこともあって、授業もなかなか気が乗らないのが常である。しかし、今日は昼休みが待ち遠しくて、いつになく高揚した気分で午前中を過ごすことができた。休憩中にコトがおにぎりを催促してくるかと思ったがそれもなく、いよいよ昼休みである。
いつものように椅子を後ろ向きにして父つぁんと向かい合う。僕はそれが当たり前であるかの如く、鞄から風呂敷包みを取り出すと、机の上でそれを解いた。そこには初日と言うことで少々多めに作ってみた小さめのおにぎりが六つ。それを見た父つぁんの顔が驚きの表情に変わるのを見て、僕はしてやったりという気分になった。
「お前、弁当持ってきたんだ。初めて見るな。何かあったのか?」
「いや、ちょっとした心境の変化ってやつかな。ちなみに全て自分で作りました。ふっふっふ」
コトに言われたから作っただけという実に単純な理由なのに、驚いている級友を前にすると、勿体ぶった態度を取りたくなるのが青春というものである。いかにも大手柄を上げたように振舞った後、「お前って凄いな」などという自分への賞賛を期待しつつ僕は父つぁんを見る。しかし父つぁんの反応は僕の予想の斜め上を行ってしまった。
「なあ、もしかして俺に気兼ねしてパンをやめたのか。以前、気を遣ってもらわなくてもいいって言っていたけど、俺からおにぎりを貰うことに引け目を感じていたのか」
この言葉を聞いて父つぁんは本当にいい奴だと感じた。きっと父つぁんの辞書に載っている「友達」の項目には「みんな良い人」という解説しかないのだろう。気兼ねなんてとんでもない。最初はありがたく感じていた父つぁんのおにぎりも、今ではすっかり当たり前になってしまっていた。コトの提案がなければずっとおにぎりを貰い続けていたことだろう。
僕は大慌てで否定すると、ウチは三食分の食費をお小遣いと一緒に貰っているので、食費節約のために弁当にしたんだと説明した。実際、パンを買うよりもおにぎりにした方が安上がりで沢山食べられる。それで父つぁんも納得したようだ。
「なるほど、わかったよ。じゃあ俺はおにぎりを持ってくるのは今日限りにするよ」
「え、それって、もうおにぎりをあげる必要がなくなったからってことか?」
そうではなかった。父つぁんは新学年の四月は弁当をおにぎりにして、級友と親睦を深めるのが中学からの恒例行事なのだそうだ。
「俺は小学六年の時にこっちに引っ越してきたんだけど、そのせいで友達が少なくてな。中学に入学した時も全然友達ができなかった。その時、たまたま弁当のおにぎりをあげたら、それが切っ掛けで友人を持てたことがあったんだ。以来、俺の『春のおにぎり作戦』はずっと続いているってわけさ。でも四月もそろそろ終わりだし、丁度よかったよ」
今では多くの友達を持つ父つぁんではあるが、やはりそれなりに苦労をして友人を作ってきたのだ。そんな父つぁんの友達の一人になれたことは願ってもない幸運だろう。なぜなら、友達の友達は皆友達という言葉が真実ならば、父つぁんの友達は全て僕の友達でもあるのだから。僕は感謝をこめて父つぁんの前に持参のおにぎりを差し出した。
「さあ、それじゃ今までのお礼に、おにぎりをひとつ貰ってくれよ。今日は特別に六つとも違う具が入っているんだ。好きなのを選んでくれ」
父つぁんはこの申し出に素直に従ってくれた。迷うことなく右端のおにぎりに手を伸ばし勢い良くかぶりついた。初めて作ったおにぎりを初めて他人に試食してもらう、初めて恋人の部屋を訪れて手料理を振舞う女の子ってこんな気持ちなんだろうなあと、あらぬ想像を抱きながら僕はドキドキして父つぁんを見ていた。
「うっ、お、お前、これ」
父つぁんの顔が奇妙に歪んだ。僕は少し心配になって訊いた。
「不味かったか?」
「い、いや、そんなことないけど、これ何の具だ」
「ええっと、右端のおにぎりはイチゴジャムとチーズかな。ジャムパンとチーズパンが好きでよく食べているから、それをおにぎりにも応用してみたんだ。結構イケルと思うんだけど」
「あ、ああ、そうだな」
父つぁんはそう言いながら持参の水筒のお茶を飲んでいる。どうやらそれなりに気に入ってもらえたようで、僕は安心した。
「もしよかったら、これから毎日一個貰ってくれよ。これまでさんざん貰ったんだから」
「い、いや、お礼は今日の一個でもう十分だ」
「どうして、何を遠慮しているんだい」
「遠慮なんかしてないよ。本当に、本っ当に今日だけでいい。これからは俺のことなんか一切考えずにおにぎりを持参してくれ」
「そうかあ、まあ父つぁんがそれでいいんならそうするけど」
父つぁんの固辞の仕方があまりにも頑ななので、僕もそれ以上勧めるのをやめた。父つぁんにこんな遠慮深さもあるとは、やはり良い友を持ったものだとつくづく思う。
「あら、おにぎり持ってきたのね」
教室に入ってきたコトが声を掛けてきた。そのまま父つぁんの隣の自分の席に着いたコトに僕は自慢げに答える。
「まあね。思ったより簡単にできたよ。コトさんは昼休みにどこに行ってたの」
「手を洗っていたのよ。小学校で教えられたでしょ、食事の前には手を洗おうって。あなたたちもおにぎりなんだから、手くらい洗いなさいよ」
これは一本取られたと僕と父つぁんは顔を見合わせて苦笑いをした。その間にコトは机ごとこちらに移動してきた。
「せっかくだからお昼をご一緒させてもらおうかしら」
「いいけど、いつも一緒に食べている子はいいの?」
「あの子、今日のお昼は保健委員の会合があって、そこで食事も済ませてくるみたいなのよ。一人で食べようかと思っていたけれど、よかったわ」
コトはそう言いながら、自分の弁当に手をつけようともせず、僕のおにぎりをじっと見ている。僕の次の一言を期待しているのは明白だ。コトの思い通りになるのは少々悔しいが、おにぎり弁当提案者に敬意を表して、ここは望みの言葉を言うことにしよう。
「あ、コトさんも、もしよかったらおにぎりひとつどう?」
「あら、いいの。それじゃ遠慮なく」
「お、おいちょっと……」
理由はわからないが、父つぁんが心配そうな顔でコトを見ている。どうやらコトにおにぎりを食べさせたくないようだ。きっと僕の食べる分が減るのを気遣ってくれているのだろう。ここまで友達思いの男はそうそう居ないと感心する。
「これにしようかな」
コトは五つ残っている真ん中のおにぎりを掴むと食べ始めた。父つぁんには結構好評だったようなので、コトもきっと満足してくれるだろう。僕もおにぎりをひとつ掴むと食べ始めた。
「うっ!」
急にコトが変な声を出すと、左手を口に当てた。父つぁんはなぜか右手で顔を覆ってコトから目を逸らしている。どうも様子がおかしい。
「コトさん、どうかした?」
「こっ、これ、これ何が入っているの?」
「えっと、ああ、それは今日のスペシャルおにぎり、納豆と、イカの塩辛と、刻みラッキョウを混ぜた具だね。どれも父の好物でしかも腐りにくいから、おにぎりの具としては最適だよ。気に入らなかった?」
「気に入らないも何も」
コトは手に持ったおにぎりを僕の鼻先に突きつけた。目の奥で燃えている炎が見えるんじゃないかと思うほどに、顔には怒りが満ち満ちている。コトの急変に僕は食べていたおにぎりを喉に詰まらせそうになった。
「こんな物はおにぎりとは、いいえ、食べ物とは到底認められません。はっきり言って動物の餌以下。空腹のあまり気を失いそうになっている養豚所の豚でさえも、泣いて食べるのを拒否するでしょう。まさか、こんな物を作ってくるなんて」
いきなりコトは席を立った。驚きっ放しの僕が慌てて尋ねる。
「コトさん、どこへ行くの」
「決まっているじゃない、捨ててくるのよ。これはこの世に存在を許されていない食べ物、焼却炉に直接放り込んでくるわ」
嘘、冗談だろうと僕は思ったが、コトは本気のようだ。一応全て味見はしてあるので不味いはずがないのだ。もしかしたら時間の経過と共に具が変質してしまったのかもしれない。いずれにせよ、せっかく作った初めてのおにぎりを捨てられるのだけはご勘弁願いたい。僕はコトの手からおにぎりを奪い取った。
「いいよ、それほどまで言うのなら食べてもらわなくても。残りは自分で食べるから。」
僕は座り直すと、コトから奪い取ったおにぎりを口に入れた。今朝、味見した時とほとんど風味は変わらない。悪くなってはいないようだ。ただ単にコトの口に合わなかったというだけなのだろう。
「ショウ君、それ、美味しいの?」
「もちろん美味しいよ」
コトは椅子に座り直すと、怪訝な様子で僕がおにぎりを食べるのを眺めている。やがてその口元に笑みが浮かんだ。
「ふふ、そう、そういうことなのね。ショウ君、今回も策士のあなたにしてやられたわ。わざわざ激マズのおにぎりを作ってきたあなたの目的は、そう、私の食べかけのおにぎり。いわゆる間接キスってやつかしら。それを実現したいあなたは、私が食べるのを諦めてしまうほどひどい味のおにぎりを一晩かけて準備した。そして、いかにも普通のおにぎりであるかのように見せかけて私にかじらせ、あまりの不味さに食べるのを止めた私の食べかけおにぎりを、あなたはまんまと手に入れた。すっかりあなたの計略にはまってしまったわね。さっき美味しいって言ったのは、おにぎりの味じゃなく、私との間接キスの味なのでしょう。どう、自分の思い通りに事が運んで嬉しい? こんな姑息な手段を弄するなんて、男としてどうかと思うけれど」
僕は直感した。これは間違いなくコトのボケ! まともに返答してはダメだ。ツッコミで返さなくては。
「いや、そうじゃないよ」
それまで黙っていた父つぁんが口を開いた。僕は心の中で歓喜した。父つぁん、やっぱり君は僕の味方だ。鋭いツッコミでコトのボケを一蹴してくれ! 僕は期待の眼差しで父つぁんを見詰めながら、次の一言を待った。
「むしろ喜ぶべきだよ。だってこんなおにぎりを美味しく感じる男より、女の食べかけのおにぎりを手に入れるために不味いおにぎりを作る男の方が、より男の本能に忠実と言えるじゃないか。お前がまともな男だとわかって安心したよ。俺は嬉しいよ、うん」
僕の期待は釣瓶落としの秋の夕日のように地平線の下へ沈んでいった。父つぁん、それツッコミ所を間違っているよ。父つぁんの援護が空振りに終わった僕は、仕方なく一人でコトに立ち向かう。
「二人とも、どうしても僕がわざと不味いおにぎりを作ったことにしたいみたいだけど、考えてみてよ。コトさんだけじゃなく父つぁんにもおにぎりを渡しているんだよ。男の食べかけのおにぎりなんて欲しいはずがないじゃないか。わざわざ不味いおにぎりを作っただなんて、何を馬鹿なこと言っているんだい」
「あら、ショウ君って、男も女も両方イケるんでしょう」
「えっ」
「だって、剣道部の先輩と仲がいいじゃない。本当はトツさんとも間接キスしたかったのじゃないかしら」
「コ、コトさん、冗談にもほどが」
「お、おいショウ、そうなのか?」
「ち、ちがう、」
「悪い、いくらお前でもそれだけは勘弁してくれ。俺にはそっちの趣味はないんだ。お前から貰ったこのおにぎりは責任を持って俺が処理する。それで許してくれ」
もはや何も言うまい。コト一人だけでも手強いのに、それに加えて父つぁんまで相手にするには僕の器は小さすぎる。すっかり意気消沈した僕に向けて、コトの勝利宣言が告げられる。
「まだまだツッコミが甘いわね、ショウ君。ふふふ」
僕は無言でおにぎりを食べ続けた。本音を言えばコトの言葉の中に一箇所だけ図星の部分があったのだ。コトとの間接キス、考えてもいなかったその言葉がコトの口から飛び出した時、僕の胸の鼓動は間違いなく高まった。嬉しくないと言ってしまっては嘘になる。勘のいいコトのことだから僕の内心もお見通しだろう。素直に敗北を認めよう。
「なあ、話は変わるんだけど」
父つぁんが控え目な声を出した。おにぎりのことはもう忘れたいと思っていた僕にとっては、話が変わるのは大歓迎である。
「なんだい」
「お前たち、コトとショウってあだ名で呼んでいるよな。それ、俺も使ってもいいかな」
「もちろん」
「構わないわよ」
僕とコトは同時に返事をした。いつの間にかこのショウという呼び名にはすっかり馴染んでしまっていた。別の呼ばれ方をされると違和感を覚えるくらいだ。僕同様即答したコトもきっと同じなのだろう。ただ、コトはその後に注意事項も忘れなかった。
「でも呼び捨てじゃなく、さん、を付けてちょうだいね。トツさん」
「了解。これからもよろしく、ショウ、コトさん」
そう言った父つぁんの顔は嬉しそうだった。
放課後、僕は図書室の閲覧室で書棚から適当に選んできた本を読んでいた。今週掃除当番のコトを待ちながらの時間つぶしだ。昨日の先輩との会話の内容を、是非とも彼女に知らせておきたかったので、放課後は文芸部に顔を出してくれと昼休みに念を押しておいた。もっとも先輩に去来の言霊が宿っていることは、コトには既知のはずなので、話は手短に済ませられるだろう。
「お待たせ」
閲覧室に入ってきたコトは昨日の待ち合わせと同じ挨拶をした。僕もその時の返事をしようかと思ったが、さすがにこの時間に「おはよう」は似つかわしくないので、「やあ」とだけ言って室内を見回す。少し離れた場所に生徒が一人居るだけだ。これなら準備室に行かなくても、小声で話せばさほど邪魔にはならないだろう。
コトが正面に座ると、僕は昨晩の先輩の部屋での出来事を簡単に説明した。去来と共に吟詠境に入ったこと、芭蕉が自分の言霊の片鱗を何人かの弟子に預けたこと、寿貞尼もまたその片鱗であること、そして、先輩が出会ったもう一人の言霊の宿り手のことなど。黙って聞いていたコトは僕の話が一通り終わると口を開いた。
「芭蕉の言霊の片鱗か。ショウ君はそれを集めたいのね」
「うん、そうすれば吟詠境でも、もう少しマシな姿になれるんじゃないかと思うんだ」
「私はそうは思わないわ」
「えっ」
もしかして昼間と同じくからかっているのかと思ったが、コトは真面目な顔している。本心からそう思っているようだ。
「集めることで本来の宿り主の状態に近づけるかもしれないけど、やっぱりショウ君の根本はまだそうなってないのよ」
「と言うと?」
「あなた、季語なんてほとんど知らないのでしょう。それで季の詞に力を持たせられると思っているのかしら。そしてもっと重要なのは俳句の意味が理解できていないこと。理解できていないのなら、その作者に共感することなんて絶対に無理。共感することで言霊に力を与えられる宿り手として、今のあなたは完全に失格なのよ。そう思わない?」
コトの言葉は正しかった。百人一首ほどではないにしても、僕は俳句の意味を全く疎かにしていた。使われている単語の意味はわかっても、それが集まって句になった時、作者が何を言いたいのか理解しようともしていなかった。
「だからショウ君がまずやることは、芭蕉の俳句をしっかり理解することね。それができなければ、吟詠境でのあなたはずっとヘタレ君のままだと思うわ」
「わかった、忠告ありがとう。頑張ってみるよ」
コトの言葉をこれほどすんなりと受け入れられたのは初めてだった。意外なほど素直な僕を見て、コトは満足そうに笑っている。こんなコトの笑顔もまたあまり見たことがなかった。
「僕についての話はそれでOKだね。次は先輩が出会った言霊の宿り手のことなんだけど、その人に連絡をつけて、もし都合がよければ、今度の週末にも会おうかと思ってるんだ。よかったらコトさんも一緒に会わない?」
「あら、私が一緒でもいいの? ライさんから聞かなかったのかしら、寿貞尼は芭蕉の門人からは必ずしも好かれてはいないって。私はお邪魔でしょ」
「いや、それは聞いたけど」
それを感じていたのは先輩だけでなくコトも同じだったようだ。昨日、コトは何食わぬ顔で牛丼を食べていたが、もしかしたらその内心は先輩と同じく居心地の悪いものだったのかもしれない。だから話の途中で席を立って一人で帰ってしまったのだろう。
だがコトを会わせないのでは、仲間はずれにしているようでこちらの居心地が悪くなってしまう。それにコトが行かなければ、今回と同じようにその人と何があったか、後日報告しなければならなくなる。それは面倒だ。やはりコトは連れて行くべきだろう。僕は改めて説得する。
「でも、好かれていないのはあくまで言霊同士の話だよ。先輩もコトさんのことは嫌いじゃないって言っていたし、僕たちが会いに行く人だって同じだと思うよ」
再度勧誘する僕をコトはじっと見詰めている。その目に悪戯っぽい光が輝き始めているのを僕は感じた。
「ショウ君、その人に私を会わせたいんだ、ふーん」
コトがこんな目をする時には必ず何がしかの攻撃があるはずだ。僕は臨戦態勢に入った。
「もしかしてその人に、自分にはこんな彼女がいるんだって自慢したい、とか?」
想定外の奇襲に僕の防衛ラインはあっけなく突破されてしまった。これもボケには違いないのだろうが、適切なツッコミが思いつかない。
「な、何を言ってるんだい、ただのクラスメイトでただの同じ部の部員なだけじゃないか、彼女だなんて」
「あら、昨日は私を騙してデート写真を撮ろうとしたくせに、随分な言い方をするのね。それじゃ、あなたじゃなくライさんの彼女ってことでご一緒しようかしら」
「そ、それは」
別にそれでいいよ、とは言えなかった。僕が了承できないとわかっていてコトは言っているのだ。そして僕はこの時やっと気がついたのだ。コトのボケは僕の心を読んでいるだけなのかもしれないと。
普段はコトを彼女だなんて微塵も意識していないのに、僕の心の底には疑いなくその願望がある。昼間の間接キスもやはりそうだった。僕でさえ気づいていない僕自身にコトは気づいている。
一方、僕はと言えば、コトが何を考えているのかさっぱりわからない。これで対等に張り合おうとするのは到底無理というものだ。またしても言葉に詰まってしまった僕をしばらく満足気に眺めていたコトは、これ以上からかえないと思ったのか、別の話題を向けてきた。
「ね、その人って大学生なんでしょ。どこの大学なの?」
昨晩先輩から聞いた大学名とそこの文学部であることを告げると、コトの目が興味深そうに輝いた。どうやら大学に関心を抱いたようだ。現在の僕の学力では全く高嶺の花なのだが、コトには意中の大学なのかも知れない。
「いいわよ、一緒に会いに行っても。今週末からゴールデンウィークなのに何の予定もないし」
そうだった。土曜から三連休で三日おいて四連休の黄金週間が今週末から始まるのだ。予定がないのは僕も同じ、しかし少なくともこれで一日目の予定は埋った。コトの承諾を得られて、僕はほっとする。
「話はこれだけ。それじゃ帰るわね」
「あ、ちょっと待って、まだひとつ聞きたいことが」
「何?」
「あの、コトさんの好きなおにぎりの具、よかったら教えてくれないかな……」
僕の質問がよほど予想外だったのか、コトの表情は固まってしまった。が、すぐに元の悪戯っぽい目に戻ると、特に好きな物も嫌いな物もない、それが複数混ざってさえいなければ、という答えが返ってきた。でもそれだと一つのおかずでご飯を食べるようなもので飽きるでしょ、と問うと、あなたみたいに浮気性じゃないから一つで十分との返事だった。相変わらずトゲのある言葉である。
最後に僕は、別にコトさんのためにおにぎりを作ろうなんて思っているわけじゃないからね、ちょっと聞いてみただけだよ、というセリフを忘れないで言っておいた。コトは笑っていた。
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