先輩の告白

 去来が江戸の芭蕉庵を訪れたのは、京で芭蕉の門人其角を通じて入門してから二年後のことである。八百屋お七の大火によって焼失した芭蕉庵は三年前に再建され、その新築の庵で向かい合う去来は、既に不惑を過ぎた芭蕉の七才年下とは思えぬほどに若々しく見えた。


「去来殿は仕官を志し、福岡にて十年も武芸に励まれたにもかかわらず、京に戻って浪人生活を為されていたそうな。そして今はこうして俳諧の道に身を委ねておいでだ。貴殿は何を求めておるのかな」


 初めて向き合って尋ねられた芭蕉の問いに、去来は幾分緊張気味に答えた。


「武士が治める世でありながら、武を求められる世ではないと気づいたのです。しかも正雪の乱から三十年を経た今でも、仕官を求める浪人は巷に溢れております。我が父は長崎出の儒医、仕官せずとも職はあります。なれば、切羽詰った浪人の方々にお譲りするのが我が道と考え、招請を辞し京に戻りて父の医業を継いだ兄の手助けをいたすことにしました。武家の役に立てなければ、公家のお役に立とうと思い、天文、暦数などを学び、短歌なども嗜みました。しかし、それらはあくまでも一部の方々のためのもの、ほとんどの庶民にとっては無価値に等しい。そんな折、ある方の紹介でお目にかかった其角殿に蕉風俳諧について教えを受け、その目指す道に感銘いたしました。身分に寄らず万人に開かれた間口は広いが、その奥は果てしなく広く深遠です。この道に全てを投じて何の後悔がありましょうや」


 去来の率直で熱の籠もった話しぶりに、芭蕉は感じ入ることしきりであった。かような門人を持てたことは冥加に余る幸運、芭蕉の胸には喜びが広がった。


「では、去来殿も言霊の俳諧師たることをお望みなのですな」

「いかにも」


 芭蕉の言葉に去来は力強く答えた。その迷いのない言葉に芭蕉は頷いた。


「では参ろうか。我が発句によって開かれる吟詠境へ……」


 * * *


 ショウは座敷の畳の上に座っていた。今見ていたのは芭蕉の記憶だったのだろうか。恐らくは芭蕉と去来が初めて出会った時の情景なのだろう。それがまるで昔を懐かしんで回想するかのように、ショウの脳裏を駆け巡っていたのだ。

 夢から覚めたような心持ちで周囲を見回せば、座っているのは百畳はあろうかと思われるほどの大広間の真ん中である。その畳の上に座布団も敷かずショウは正座している。


「夢でも見ておいででしたか」


 ショウの正面で同じく正座をしている男が温和な声でそう言った。羽織袴の出で立ちで腰には大小を佩いている。先ほどの回想に出てきた去来には違いなのだが、顔や頭髪はショウが先輩と呼ぶライに瓜二つだ。一方、ショウは学生服姿である。


「去来さん、ですか?」


 自信無さ気なショウの問いに無言で頷きながら、去来は風呂敷包みを差し出した。


「これは芭蕉翁よりの預かり物。言霊となりて吟詠境にて会う時あらば、必ずお渡しするように申し付かっておりました。どうぞお納めください」


 ショウは差し出された包みを受け取った。ずしりとした手ごたえがある。風呂敷の結び目を解くと、白小袖、墨染めの道服、脚絆、草鞋が現れた。


「これは、芭蕉の旅装束」

「左様。ショウ殿、そなたがこの吟詠境にても現し身の姿のままなのは、そなたの未熟さもさることながら、芭蕉翁の思惑もその一因。我らが死に瀕して言霊になろうとした時、芭蕉翁の言霊がこの身に宿り、その一部をこのような形にして我ら門人に預けられたのです。この旅装束は言わば芭蕉翁の言霊の片鱗、さっそく身に着けられてはいかがかな」


 去来に勧められるままにショウは立ち上がると学生服を脱いだ。浴衣ぐらいしか和服を着た経験はなかったが、それなりに身にまとうことができた。ただ、草鞋は紐の結び方がわからず、去来の教えを請いながらなんとか履くことができた。

 渡された装束をまとい終えた時、ショウは新たに生まれ変わった気分になった。足元に脱ぎ捨てた学生服が過去の自分のように思われた。装束を包んでいた風呂敷は丁寧に畳んで懐に納めて、いまだ正座している去来を見た。篤実な目をして自分を見上げている去来に対し、己の務めを無事に果たしてくれた感謝の念が湧き上がった。


「去来、礼を言うぞ。ご苦労であった」


 それは意識するともなく口から出た言葉だった。少し驚いた顔する去来。しかし、自分自身の言葉ではない言葉に、言ったショウ本人が一番驚いていた。


「されば」

 去来が立ち上がった。ショウを見据えたまま、じりじりと後ずさりをしていく。間合いを取っているかのようだ。

「吟詠境に座した以上は言葉の掛け合いをいたそうではありませんか。芭蕉翁の言霊の片鱗を身にまとった今のショウ殿ならば、季の詞にもそこそこの力を付与できましょうぞ。さあ、参られよ」


 ショウは元より同意であった。この装束を身に着けた時から、今までにない力と自信を身の内に感じていたのだ。ショウは両手を合わせた。全身に溢れんばかりの活力が満ちてくるような気がした。


「一つ脱いで後ろに負いぬ衣がえ」


 畳に脱ぎ捨てられていたショウの学生服が浮かび上がり何倍にも大きくなった。まるで意識を持っているかのようにヒラヒラと宙を舞う姿は、さながら妖怪の如くである。


「衣更!」


 ショウの季の詞と共に、巨大化した学生服が去来に襲い掛かった。迎える去来は微塵も動かずに身構えていたが、刀の柄に手がかかったと見るや、閃光の如く剣を振るった。次の瞬間、十文字に切られた学生服は畳の上に切り捨てられていた。まさに一瞬の出来事であった。


「我が得意は弓なれど、宿り手の剣の腕前はなかなかのもの。この姿にて遣り合うならば、刀を使うのもよいかもしれぬ」


 手にした刀身の輝きに目を細めながら、去来は独り言のようにつぶやくと、すぐにショウの方に向き直り姿勢を正した。


「次はこちらから参りますぞ、ショウ殿」


 去来は抜いた刀を両手に持ち直してショウを見据えた。その姿には武人らしい気迫がみなぎっている。ショウは両手を合わせたまま、去来がどのような業を繰り出すのかしっかり見定めようと身構えた。


「鎧着て疲れためさん土用干」


 去来がゆっくりと刀を振りかぶった。と同時にその刀身が赤く染まり始めた。去来の姿が揺れて見える。刀身から放たれる熱気が空気を揺らがせているのだ。やがて、機が熟したと見た去来は季の詞を発しつつ刀を振り下ろした。


「土用干!」


 去来が振り下ろした刀をショウは直視できなかった。嵐の如く吹きつけてくる熱風を肌に感じ思わず目を閉じたショウは、その熱さの中で灼熱の真夏の暑さを感じていた。これまで何度も経験した夏。白雲を浮かばせた青空、その頂点でギラギラと輝く太陽。陽光を浴びて焼け付くような暑さににじみ出る汗。渇いて苦くなった口。そんな夏の思い出にショウはしばし浸っていた。


「夏を感じていただけましたかな」


 去来の声に目を開けると、いつの間に側に来たのか去来はショウの目の前にいた。刀は既に鞘に収め、最初に会った時に見せた温和な顔に戻っている。ショウは合わせた両手を解くと、照れたような表情で言った。


「まだまだ敵いませんね」


 それはショウの言葉だった。先ほどまで感じていた自信や力強さは、熱風と共に消え去ってしまったかのようだった。去来はショウの言葉を聞いて笑みを浮かべた。


「そうですな、芭蕉翁にはまだまだ及びませぬ。されど翁が宿り手として選ばれた以上、その責務を果たすのがショウ殿のお役目。まずは他の門人を探しなされ」

「他の門人?」

「芭蕉翁が預けられたのは、この旅装束だけではありませぬ。他にも数名の門人に、同じような言霊の片鱗たる預け物を託しているはず。それを探し求めれば、何か見えてくるものがあるやも知れませぬ。この去来の宿り手も協力してくれましょう」


 確かにそうかも知れない、とショウは思った。この旅装束を身に着けた時、間違いなく自分の中に新たな力が湧き上がった。それが芭蕉の言霊の力であることはまず疑う余地はないだろう。力を分散させた芭蕉の意図はわからないが、とにかくそれらを集めてみたい、そしてより多くの力を手に入れてみたい、今のショウにはそれがなによりの望みだった。


「さて、言霊の力の無駄遣いはこの辺りで幕引きといたしましょう。吟詠境を閉じますぞ。去来、挙句を申す」

 去来はまるでそこにこの座を仕切る宗匠がいるかのように天井を見上げた。そして大広間に響き渡る大声で挙句を詠んだ。

「干されたままの幹の空蝉!」


 ショウと去来のいる大広間が白く薄くぼやけ始めた。何もなくなった空間に白い光が満ち始める。やがて二人の姿はその光に包まれて見えなくなってしまった。


 * * *


「そういうことか」


 先輩の声がする。目を開けると腕組みして天井を見上げている先輩の姿が目に入った。きっと今の吟詠境での出来事で思うところがあるのだろう。それは僕自身も同じだった。どうして吟詠境で僕が僕のままなのか、少し理解できた気がした。それにしても理解できないのは先輩だ。僕は先ほど聞いた先輩の告白を思い出しながら言った。


「先輩、先輩はコトの言霊にはすぐ気づいたんですよね。それなのに、どうして今まで僕の言霊には気づかなかったんですか。それとも本当は気づいていたのに知らぬフリをしていたんですか?」

「ああ、いや」


 天井を見上げていた先輩が顔を僕に向けた。吟詠境に入る前に見せた鋭い眼差しは消え失せ、いつもの先輩の表情になっている。


「正直、お前の言霊には全く気づかなかったんだ。昼、彼女に言われてお前の目を見て、初めてそうとわかった」

「でも、コトの言霊にはすぐ気づいたんでしょう」

「そうだなあ、どう説明すればいいかな。例えば真っ暗な闇の中で豆電球が光っていればすぐに気づくけど、昼間点灯している豆電球なんて言われないとなかなか気づかないだろ。そんな感じだよ。お前と違って彼女の言霊の存在感はそれほど強烈だったんだ」

「でも、それなら僕はどうしてコトの言霊に気づけないんだろう。いや、コトだけじゃない、先輩に対してだって僕は何も感じないけど」

「それは簡単じゃないか。去来も言っていただろう、お前はまだ完全には芭蕉の言霊の宿り手になっていないって。言霊が判別できるのは言霊を持つ者だけ。言霊に気づけるだけの宿り手に、お前はまだなっていないってことさ」


 先輩の説明は明確だった。つまりは全て僕自身の未熟さが原因なのだ。僕がきっちり宿り手になっていれば、先輩はすぐ気づき、僕自身もすぐ気づけた、それだけのことなのだ。

 何かを思いついたように先輩は立ち上がると、勉強机の隣にある本棚で本を探し始めた。しばらくして戻って来た先輩の手には一冊の本、表紙には「向井去来」と書かれている。


「お前は意外に思うかもしれないが、これでもマンガ以外の本だって結構読んでるんだぞ。吟詠境に入る時に詠んだ句、あれが多分俺と去来を結び付けたんだと思う。ホラ、この句」


 先輩が見せてくれた本はかなり読み込んでいるようで、ページは相当くたびれている。指差す箇所を見てみると「元日や家に譲りの太刀帯かん」と書かれている。


「去来は十六才から親元を離れ、仕官を夢見て十年も頑張ったんだ。それなのに武士にはならず俳諧師になった。この句を詠んだのは三十半ば、既に芭蕉の門人になり、刀なんて必要ないのに元日には家宝の太刀を身に着ける。捨てたはずの夢と捨てきれない武士の気概、そんな去来の心持ちが妙に俺の胸に響いたんだ。俺も剣道なんかやってるけど、別にそれで飯を食おうなんて思ってるわけじゃない。いつか就職して結婚して竹刀なんて全然握らなくなってしまうだろう。それでもこの句を詠んだ去来のような気持ちでいられるだろうか、なんてな、色々考えたもんだ」


 剣道と食べること以外でこんなに熱く語る先輩を見るのは初めてだった。先輩は体格もいいし体育会系の性格だが、頭はそれほど悪くない、むしろ優秀な部類に入る。それは僕の受験勉強を手伝ってくれた時によくわかった。マンガ以外にお気に入りの本があったとしてもさほど不思議ではないだろう。


「もっとも、初めのうちは言霊のことなんてまるで気づかなかったよ。変な夢は見ていたけど、それも数日で終わり、その後は普段と同じように暮らしていた。あの人に会うまではな」

「あの人?」

「なあ、ショウ、お前が初めて言霊を意識したのは吟詠境に入った時、そうじゃないか?」

 僕は頷いた。先輩は続ける。

「俺もそうだ。俺が初めて吟詠境に入ったのは去年の文化祭だ。あの高校の剣道部はうどんの模擬店を出す伝統らしくてな、一年の俺も客の呼び込みとかやらされていた。そしてその時にたまたまやってきた学外からの来客が言霊の宿り手だった」


 バンッと音を立てて、先輩は手に持った本を両手で閉じた。その時の興奮を思い出したのか、頬が少し紅潮しているように見えた。


「すさまじい言霊だった。今日のコトの言霊も強かったが、そいつが放つ言霊の力は遠くからでも感じられる強烈さだった。そして一瞬にして俺は吟詠境に引きずりこまれていた。その時、俺は俺の中にいる去来の言霊を初めて意識したんだ」

「その吟詠境では、やっぱり言葉の掛け合いをしたんですか?」

「いや、入っただけだ。わかっていると思うが、よほど力が有り余っていなければ、言霊は無用な力を使うのを嫌う。力の消耗は自分の寿命を縮めることと同じだからな。さっき去来が力を使ったのは久し振りに再会した自分の師への礼儀といったところだ。俺を吟詠境に招いた相手も芭蕉の門人だったので、力の奪い合いをすることもなく、結局挨拶を交わしただけで挙句を詠んでしまった」


 芭蕉の門人! 僕の胸が高鳴った。それは願ってもないことだ。今の僕の当面の目的は去来が言ったように、他の芭蕉の門人を探して言霊の片鱗を集めることなのだから。


「それで、吟詠境から出た後、その人と話をしたんですか」

「もちろんしたよ。初めての経験だったから色々質問した。ただ、吟詠境に入ると同時に去来の意識も流れ込んできたので、自分の状況を把握するのにそれほど時間はかからなかった。その人は俺たちの高校の卒業生で大学三年生、今は四年になっているな。一応連絡先だけはお互いに交換しておいた」


 先輩の話は僕を喜ばせるのに十分な内容だった。それだけに反って話が進みすぎるような気がしないでもなかった。言霊なんて今まで全く知らなかったのに、それを知った途端、こんなにも身近に多く存在するなんてことあるだろうか。こんなありふれた町の高校に関係する言霊の宿り手が、僕も合わせて五人も居ることになる。文芸部の部長の言霊は消えてしまったので現在は四人だが、それにしても多すぎないだろうか。


「ねえ、先輩、今も存在している言霊の数ってどれくらいだと思いますか。こんなに頻繁にお目に掛かれるものなんでしょうか?」

「いや、数は相当少ないだろう。宗鑑の死後四百五十年以上経っているんだからな。まあ、お前の疑問はもっともだ。身近に多すぎるよな。これは多分、寿貞尼の言霊に引き寄せられているんだと思う」

「寿貞尼の言霊に?」

「彼女は俳諧師ではないから本来は言霊になんかなれない。それを芭蕉は自分の命を削って言霊にしてしまった。だから寿貞尼の言霊は、さっきお前が去来から貰った旅装束と同じく、ある意味、芭蕉の言霊の片鱗なんだ。芭蕉によって言霊の俳諧師になった門人たちは、宿り手を選ぶ時、己の宗匠の言霊の宿り手の位置がある程度わかる。門人たちは寿貞尼の言霊、つまりそれは芭蕉の言霊でもあるんだが、その位置を把握して、その身近にいる宿り手を選んでいるんじゃないかな。そしてお前に宿った芭蕉自身も、それと同じ理由でお前に宿った……」


 寿貞尼自身が芭蕉の言霊の片鱗という先輩の言葉は説得力があった。最初に吟詠境に入って維舟と争った時、寿貞尼と共に発した季の詞は、一人で詠じた時よりも遥かに威力があった。それは去来から貰った旅装束をまとった時の比ではなかった。

 その寿貞尼の持つ芭蕉の言霊に魅かれて、他の門人もそして芭蕉自身も宿り手を選んだ……だがコトの周りには僕よりも俳諧の知識に秀でた人間は沢山いたはずだ。それなのに敢えて芭蕉は僕を選んだ、その理由は何だろう。


「そうだ、今度はお前の話をしてくれよ。どうやってコトと知り合って、いつ吟詠境に初めて入ったんだ?」

「う、ええっ!、あ、そ、それは……」


 先輩の質問は考えにふけっていた僕を驚愕させるのに十分な破壊力を持っていた。コトと僕の関係……実は中学の時に告白した相手です、と本当のことを言うべきか、いや、いくら幼馴染とは言え、何もかも正直に話すことはないだろう、しかし、いつかは知られてしまうかも、それならいっそのこと今話した方が、いやいや、知られてしまうのなら、それまで黙っていたっていいじゃないか、でも知られてから話すより、こちらから言い出した方が潔いんじゃ、いやいやいや、カッコつけてる場合じゃない……

 このような堂々巡りを約一秒間持続させた後、取り敢えず今回は適当に取り繕っておこうという結論に至り、コトは同じクラスだし、帰宅部クラブが売りの文芸部の割にはよく図書室で会うので仲良くなったという、誰にとっても差し障りのない説明をしておいた。ただ初めて入った吟詠境については部長の言霊が消えてしまったことも含めて、詳しく話しておいた。


「それでひとつ不思議に思ったのは、僕とコトが初めて吟詠境に入る前に、コトは部長に発句を詠まされたことがあったみたいなんですけど、その時は吟詠境には入れなかったようなんです。これって先輩はどう思いますか」

「うーん、そうだなあ、やっぱりそれも寿貞尼が芭蕉の言霊の片鱗ってことと関係があるんだろう。俺が初めて吟詠境に入った時、お前に渡した風呂敷包みは持っていなかった。それがさっき入った時には去来の手にあの包みがあったんだ。言霊の片鱗はその主である言霊が吟詠境に居ないと存在できないんじゃないのかな」

「つまり、寿貞尼は芭蕉が居ない吟詠境には入れないってこと?」

「多分な。でもそれはそれで寿貞尼にとっては都合がいいのかも知れない。芭蕉の門人たちは寿貞尼を必ずしも快くは思っていないようだから。芭蕉の居ない吟詠境に一人で入るのは、彼女にとっては居心地が悪いだろうしな」


 寿貞尼は門人たちから疎まれている……それは昼に示した先輩の態度から、おおよそ見当がついていた。先輩がコトに対して何か遠慮しているように振舞っていたのは、できれば接触を避けたいという気持ちの表れのようだった。


「それはやっぱり、寿貞尼が芭蕉の元を去って他の男に走ったからですか」

「それもあるだろうけど、寿貞尼を言霊にするために自分の命を縮めたのが大きいと思うな。そんなことをしなければ芭蕉はもっと長生きできただろうし、宗鑑との争いも別の結果になっていたと考える門人もいるだろう。でも言っとくけど、嫌っているのはあくまで言霊であって、俺はコトを嫌っているわけじゃないからな。そこんとこ、彼女には誤解のないようによく言っといてくれ。さてと」


 先輩は立ち上がると手にした本を棚に戻した。その後、引き出しから手帳を取り出して再び僕の前に座った。


「そろそろ夜も遅くなってきたし明日は学校だから、今日はこの辺でお開きとするか。お前とこんなに話し込んだのは久し振りだな。正直嬉しかったぞ」


 それは僕も同じだった。先輩とこれだけ濃密な時を過ごしたのは受験勉強でしごかれていた時以来だ。


「僕も楽しかったですよ。これまで色々わからなかったことも解決できたし、久々に美味しい夕食も食べられたし、先輩に感謝です」

「そうかそうか、よし、俺は今日からお前をショウと呼ぶぞ。何と言っても俺の言霊の師匠が宿っているんだからな。あ、お前は今まで通り先輩でいいぞ。よろしくショウ君、はっはっは。」


 先輩のでかい手の平が僕の背中を叩く。先輩にショウと呼ばれるのは少々気恥ずかしいのだが、別の自分を認めてもらえたようで嬉しい気持ちも多少はあった。

 その後、先輩は手にした手帳をめくりながら、去年の文化祭で出会ったという言霊の宿り手と連絡を取って、今度の休日にでも会う段取りをつけると約束してくれた。その人はこの町から電車で一時間ほどの場所にある地元の大学の文学部に在籍しているらしい。別れ際に誰の言霊が宿っているか訊いてみたが、蕉門十哲のひとりだよ、としか教えてくれなかった。会ってからのお楽しみということなのだろう。

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