遅れて来たひとり


 昨日半日で大体のコツを掴めていたので、朝からの作業は滞りなく進められた。唯一の障害は筋肉痛。時々作業を中断して腰を伸ばす僕を見て、おじさんも先輩も珍獣の芸でも見ているかのような笑顔になる。ひ弱な体力に情けなくなるが、これが今の自分なのだから仕方ない。夏休みまでにはもう少し体を鍛えてこようと、僕は密かに心に決めた。

 ツイン娘の言葉通り、今日の日差しは体に堪える。ちょっと手が空いたり待ち時間ができると、畝の端に置いてある水筒の元へと馳せ参じてしまう。その点、父つぁんも先輩も、滴るほどの汗を掻きながら水を飲もうとはしない。この程度の汗は日常茶飯事なのだろう。結局、水筒は僕専用になってしまった。飲みながら松林の向こうを見ると真っ青な海。あそこに飛び込んで火照った体を冷やしたい、そう思わずにはいられなかった。

 十時頃に一旦休憩して、昨日と同じくおやつを食べた。この時ばかりは先輩も容赦なく飲み食いする。食べながら話を聞いていると、夏の収穫作業は今とは比べ物にならない程キツイらしい。木陰など一切ない真夏の直射日光を浴びた畑は、甲子園のマウンド並みの灼熱地獄。照りつける陽射しが体力を奪い、重いスイカの運搬に体の筋肉が悲鳴を上げる、体育会系のシゴキにも似た状況になるようだ。


「こんなにキツイのにバイト代はあまり払えないんです。そりゃ学生さんも嫌がるはずですよ。いや、本当に助かります」


 本日二回目の「助かります」を聞いて、軽い戦慄に襲われる。この軽作業だけで筋肉痛になってしまった僕の体は、真夏の強烈な陽射しの下で一体どうなるのだろう。


「ショウ、お前大丈夫か。なんなら今から剣道部に入るか。夏までにしっかり鍛えてやるぞ」

「い、いえ、遠慮します」


 剣道部なんかに入ったら、夏が来る前に精根尽き果てて倒れてしまいそうだ。さりとて、この体力では夏の作業は相当辛くなるだろう。これは本気で体を鍛え直さないと……取り敢えず、体育の授業は今よりも真剣に取り組むことから始めよう、うん。


 こうして午前の作業は滞りなく進行し、十二時のサイレンと共に僕らは畑を後にした。戻ってみると屋敷は静かだ。まだソノさんたちは到着していないようだ。


「おかえり~、今日のお昼ご飯は、あたしも作るのを手伝ったんだよ」


 昨日の夕方と同じくツイン娘のお出迎え。僕らの作業着も昨日と同じく砂と汗に塗れているが、さすがに昼から風呂に入るわけにもいかないので、念入りに服の汚れを払い、手と顔を水で洗って居間に入った。驚いた。食卓の上にはおにぎりが並んでいたのだ。


「今朝、お昼は毎日おにぎりと言っておられたので、用意させてもらいましたよ。お口に合いますかどうか」


 おばあさんの言葉に僕の胸が熱くなった。父つぁん、君の家族は本当にいい人ばかりだ。こんな役立たずにここまで親切にしてくれるとは。


「あたしも握ったんだよ、えっへん!」


 見ると、形がいびつなおにぎりが所々に置かれている。どれがツイン娘製のモノかは一目瞭然だ。それでもそんな心遣いが嬉しくて、僕は敢えていびつなおにぎりを手に取った。

 父つぁんが言う程、自分勝手な子ではないような気がする。ただ、鮭とおかかを混ぜるのは許容できかねる組み合わせだった。おかかに混ぜるなら梅干かな。彼女には更なる精進を期待したいところである。


「お姉ちゃんたち、遅いねえ」

「ああ、昼食を取ってからこちらに向かうと連絡がありましたわ。まあ、ゆっくり待ちまっしょ」


 おばあさんに言われても、ツイン娘はそわそわしている。余程心待ちにしているのだろう。それは僕も同じだ。今日から二泊三日で同じ屋根の下で過ごすのだ。修学旅行や野外学習とは違う、自由な時間と空間の中で、彼女と……思わず全身の血潮が沸騰してしまいそうだ。何だかんだ言っても、結局、僕も大方の男子高校生と大差ないわけだ。


 車のクラクションの音。はっとして目を開ける。いつのまにか居間で眠ってしまっていたようだ。食卓を挟んで先輩と父つぁんが眠っている。ツイン娘の姿はない。僕は居間を出て外に飛び出した。見覚えのあるソノさんの車が目に飛び込んできた。


「ようこそ、いらっしゃーい」


 ツイン娘の声に応えるように運転席のドアが開いてソノさんが出てきた。続いて助手席のドアが開いてモリ。後部右側のドアが開いてリク。そして、それから……それで終わりだった。車から出てきたのは三人だけだった。ソノさんとモリはすぐにツイン娘に捕まってしまった。ひとり、リクだけがこちらに歩いてくる。


「ボクの後に誰も降りてこないとわかった時、物凄く失望した顔をしませんでしたか、ショウ先輩」


 冷ややかな態度と表情はいつもとまるで変わらない。それでも僕は愛想よく返事をした。


「あ、ああ、よく来たね、リクっち」

「ふん」


「よく来たね」の返事で「ふん」はどう考えてもおかしい、と言うか失礼である。しかし一刻も早く訊き出したい事がある以上、多少の無礼は目をつぶるしかない。


「あの、それで、コトさんは」

「何を寝ぼけたこと言ってるんですか。来るわけがないでしょう」


 先程、普通の男子高校生として沸騰していた僕の血潮は、急速に冷却されていった。コトは来ない……しかし、それはある程度覚悟していたことだ。あの店でコトは「私は行かない方がいい」と言ったのだ。一度口にした以上、それを貫徹するコトが、簡単に自分の言葉を撤回するはずもない。わかっていたはずなのに、僕はなんて楽観的な期待を抱いていたのだろう。


「ショウ先輩の顔なんか、二度と見たくないって言ってましたよ」

 冷え切った僕の血潮に、液体窒素の如きリクの言葉が浴びせられる。このままでは解凍不可能になってしまいそうだ。

「今頃は、もっと頼りがいのある人と二人だけで、休日を楽しんでいるんじゃないですか」


 液体ヘリウム並みのこの言葉で、僕の血潮は絶対零度に近づきつつあった。今なら僅かな衝撃でもひび割れて粉々に砕け散ってしまいそうだ。


「ホラホラ、リクちゃん。ショウちゃんをからかうのは、それくらいにしてあげてね」

 こちらにやって来たソノさんは、いつものようにリクの頭を撫でながらそう諌めると、僕にすまなそうな顔を向けた。

「ごめんね、ショウちゃん。あたしからもう一度言ってみたんだけど、やっぱりコトちゃんはあたしたちと一緒には行けないって」

「いえ、ソノさんのせいじゃないですから」


 凍り付いていた血潮に若干の温もりが戻った。ソノさんもそれなりに頑張ってくれたんだ。それだけで感謝しなくては。ソノさんに続いてモリとツイン娘もこちらにやって来た。僕に向かってモリが軽く会釈する。含羞んだ彼女の笑顔を見て、僕の血潮は更に温かさを取り戻した。


「ねえ、一人来られなくて三人のはずなのに、どうしてお姉ちゃんたちは二人なの? 残りの一人も来られなくなって、代わりにこの男の子が来たの?」


 リクの左こめかみがピクリと動いた。いや、ツイン娘の疑問はもっともだ。どう見たってリクは男の子にしか見えないんだから。


「や、やだ。よく見て。この子、女の子よ、これでも」


 リクの右こめかみがピクピクと動いた。ソノさん、「これでも」は余計ですよ。火に油を注いでどうするんですか。ツイン娘は「えっ!」と驚いた声を上げ、すぐに頭を下げた。


「ご、ごめんなさい。髪の毛が短いし、半ズボンを履いているから、てっきり男の子だと思って」

「構いませんよ。校内でセーラー服姿を見ているはずなのに、男と間違った人間が目の前に居ますから」


 目の前に居るのは僕である。確かに百人一首大会決勝は観戦していたのでセーラー服姿は見てはいるが、だからって私服姿の当人に、すぐに気づけるものでもないだろう。そもそも女に見られたいんなら、女の子っぽい格好をするべきなんだ。と、言い返したくなってはみたものの、今は血潮が凍っているので、胸の中のつぶやきに留めておいた。


「ソノさん、ちょっと」


 いつの間にか先輩が外に出てきている。呼ばれたソノさんは「あ、はい」と返事するとそちらに歩いて行った。きっと父つぁんの事について話し合いたいのだろう。当事者である僕も、当然その話し合いに加わるべきなのだろうが、今の僕には父つぁんの事など、刺身のツマの如き些細な事柄だ。

 言葉通りここには来なかったコト。コトはこのまま僕たちとは、距離を置いて付き合うようになるのかも知れない、そんな予感がひしひしと僕を襲う。凍り付いた血潮は、ソノさんとモリによって幾分温められたが、胸にあいた空洞はなかなか埋らなかった。


「ねえ、お兄ちゃん、昨日よりもガッカリしてるね」


 いつの間にかツイン娘が側に来て、僕の顔を覗きこんでいる。


「そ、そんな事、あるはずがないじゃないか」

「もしかして、来られなくなったお姉ちゃんが原因?」


 この娘、もしや人の心が読めるのか。それなら下手な嘘は言わない方がいい。さりとて正直に肯定するのも恥ずかしい。つまりは沈黙が一番だ。


「みなさん、ようこそ。お茶でもどうです」

「ふふ」


 玄関の前でおばあさんが出迎えている。ツイン娘は何か含んだような笑いを残して、リクとモリを連れて戻って行った。しつこく追求しない点は有難いが、やはりあの娘、侮れないな。先輩とソノさんは話をしながら母屋へ歩いて行く。僕もその後に従った。


 午後の作業は三組に分かれて進められた。僕と先輩は昨日と同じくおじさんと組み、ソノさんと父つぁんはツイン娘の母親、モリとリクが父つぁんの父親と組んだ。ソノさんは作業をしながら時々父つぁんをじっと見ている。先輩の言葉を受けて、父つぁんを観察するつもりなのだろう。

 モリとリクの組は賑やかだ。モリが意外とドジっ娘で、なんでもないところでつまずいたり、苗に砂をかけたりして、その度に謝る声とリクの呆れた声が聞こえてくる。それでも三組で作業をしているので、畝はどんどんビニールのトンネルで覆われていく。人海戦術の素晴らしさを再認識してしまった。


「この調子なら、今日でほとんど終えられそうですね、いや助かりますわ」


 本日何回目か忘れてしまったが、三時のおやつを食べながらのおじさんの「助かります」に、手伝いをした甲斐があったと安堵する。それでも気分は今日の青空のようには晴れ渡ってはくれない。コトの不在は今だけではなく、これからもずっと続くような気がしてならなかった。

 ここに来ない方がいいと言ったコトは、もう吟詠境に行かない方がいいとも言ったのだ。寿貞尼としての自分も捨てようとするのなら、僕とコトを繋いでいるものは全て切れてしまう。本当に、クラスメイトで同じ部の部員というだけの関係になってしまうのではないか……ますます大きく広がっていく僕の胸の空洞は、簡単には埋められそうもなかった。


「ショウちゃん、ライちゃん、ちょっと」


 軽トラックから離れた場所でソノさんが呼んでいる。先輩はおやつを食べるのをやめて立ち上がるとそちらに向かった。きっと父つぁんの話だろう。僕もそちらに行くと、ソノさんは周囲を気にして小声で話し始めた。


「作業しながらトツちゃんを見ていたけど、やっぱり言霊は感じなかったわ。ライちゃんの思い過ごしじゃない」

「そうですか。まあ、ソノさんにも見えないんならやっぱり考えすぎかな」

「知ってるはずよ。牧童は言霊の俳諧師じゃなかったって事。宿り手なんて居るはずがないじゃない」

「うん……でも、そうなると、父つぁんが牧童の句を知っていたのは、どうしてだと思いますか」

「地元の俳人だからじゃないかなあ。小学生の教材にはその地方の有名な俳句や俳人が用いられるでしょ。奥の細道に出てくる北枝は勿論、その兄の牧童の句も学んでいた可能性は低くないはず。小さい頃に覚えた句って歌と同じで、年月が経っても記憶に残っているものだし、トツちゃんが急に思い出したとしてもそれほど不思議じゃないわ」

「そうか、そうだな。うん、わかった。変な相談持ちかけて申し訳ない」

「蔵の中って異質な空間だし、おまけに真っ暗だったんでしょ。理不尽な考えに囚われるのも無理ないことよ」

「おい、ショウ、聞いたとおりだ。これで万事解決だな」


 先輩は僕の背中をバシリと叩いて軽トラックの方へ戻って行った。久し振りの先輩の背中叩き。二人が話している最中、一度も会話に加わろうとせず、ただ突っ立っていただけの僕への激励なのだろう。


「ここに居ないコトちゃん同様、ショウちゃんの心もここにあらずって感じね」

 ソノさんもまた僕の意気消沈の原因がわかっているようだ。

「元気出せ出せ、その内いいこともあるかも知れないぞ。それにコトちゃんが居なくても、私やモリちゃんやリクちゃんが居るじゃない。三人の美女に囲まれて不満顔なんて贅沢だぞ」


 ソノさんとモリはいいけど、リクは落ち込んでいる気分を、更に奈落の底へ叩き落すような奴だからなあ。でも先輩やソノさんにこれだけ気に掛けてもらっているのだから、いつまでも落ち込んでいても仕方ない。父つぁんの問題も解決したことだし、気分を切り替えてこの連休を楽しもう。


「はい、ソノさん、ありがとうございます」


 軽トラックの陰では、先輩が猛然と午後のおやつを食べている。あの活力を見習って最後の農作業に取り組もう。見上げた空は相変わらず青く、午後の陽射しは眩しかった。


 おやつの後は頑張った。昨日の終了時刻の五時を過ぎても作業を続け、出来るだけ定植を終わらせようとした。それでも数畝残ってしまったのは心残りだったが、おじさんの「もう終わったも同然ですね。本当に助かりました、ありがとう」の声を聞いて、頑張った甲斐があったと充実した気分になった。

 帰りもまた軽トラックの荷台に分乗して帰路に就いた。近づいてくる父つぁんの屋敷。その屋敷の前に女性が三人立っている。こちらを向いて立っているのはツイン娘、その正面に背中を向けて立っている女性が二人。一人は中年の婦人のようだ。そしてもう一人、背中まで伸びた黒髪が時折風に揺れている。


「あ、あれは……」


 僕は荷台から飛び降りたくなった。徐々に屋敷に近づいていく軽トラック。まだ完全に止まらぬうちに荷台から降りると、その女性へ駆け寄った。懐かしいシトラスの香りが漂ってくる。


「おかえり~」


 僕に向かって言ったツイン娘の声に、黒髪を大きく揺らしながら、その女性はこちらを振り向いた。


「あら、意外と似合っているじゃない、その作業服。そのままここで小作人として雇ってもらったら」


 変わらない毒舌。コトだった。


「コ、コトさん」


 全く事態が飲み込めなかった。コトは来ない、ソノさんもリクもそう言っていた。そして言葉通り来なかった。でも今ここに居る。しかも見ず知らずの大人の女性と一緒に。僕の視線に気づいたコトが紹介する。


「こちらは私の母。もちろん初対面でしょ」


 コトの母親! これは粗相のないようにしなくては。僕は作業着の砂や土を払って挨拶した。


「こ、こんばんは、はじめまして。いつもコトさんに、じゃなくて、えっと……」

「コトで結構ですよ。あなたがショウ君でしょ。素敵な呼び名をありがとうね」


 まずい、初っ端からやらかしてしまった。最も重要な第一印象がこれでは台無しだ。これ以上心証を悪くしないように挽回しなくては。


「あ、はい。コトさんには色々とお世話に……」

「コトせんぱ~い!」


 いきなりリクが飛び込んできた。まだ話の途中なのに、この傍若無人な振る舞いは目に余る。


「リク、今日一日でまた日に焼けたんじゃない」

「えへへ、これは元からです」

「こんばんは、コトさん。首の怪我はもういいの?」


 今度はモリだ。僕らとは比べ物にならないほど作業着が汚れている。


「ええ、跡も残ってないわよ。それよりもモリさん、あなた髪の毛まで砂が付いているじゃない。どうしてそんなに汚れているの」


 あれだけ転んだり尻餅をついたりしていたら、全身砂塗れにもなるだろう。モリは恥ずかしそうに、頭の後ろで一つに束ねた髪をポンポンと振って砂を払った。犬が尻尾を振っているようで、なんだかカワイイ。


「あら、コトちゃん、来たの。明日が待ちきれなかったのかな」

「ソノさん、こんばんは。せっかくだからトツさんのお家も見ておこうと思って」


 明日が待ちきれない……どういう意味だろう。考えていると先輩と父つぁんがのんびりと歩いてきた。


「あれ、コトさんじゃないか、なんだ、来ないんじゃなかったのかい。それにこの人は?」


 先輩の言葉と、その横に立っている父つぁんの表情から、この二人は僕同様コトの来訪を意外に思っているようだ。


「ライさん、トツさん、こんにちは。こちらは母です。ソノさんから聞いていませんか」


 首を横に振った後、コトの母親にお辞儀をする先輩と父つぁん。ソノさん、さてはまた何か隠しているな。いや、ソノさんだけじゃなくリクもモリも、コトが来たことにさほどの驚きを見せていない。さては三人ともグルか。


「みなさん、おかえりなさい。お風呂、沸いていますよ」


 昼と同じく、おばあさんが入り口で僕らを出迎えている。リクに引っ張られるように歩いて行くコト、それに従うコトの母親とモリ、そして一番遅れて歩き出したソノさん、その腕を僕は掴んだ。


「ソノさん、これ、どういう事ですか。説明してくれませんか」

「ふふ、お姉さんからのサプライズプレゼント!」


 佐保姫の時もそんな事を言っていたなあ、このお姉さんは。変なところで子供じみた真似を仕出かすから、驚きを通り越して途方に暮れてしまう。


「そんなプレゼント要りませんよ。いいから説明してください」


 僕の困惑顔を実に満足そうに眺めてから、ソノさんは歩きながら話してくれた。あの店でもう一度コトに話してみると言ったソノさんも、コトの頑固さを考えると、改めて一緒に来るよう説得するのは難しいと思ったそうだ。

 そこで、わざわざコトの家へ出向き、母親にお願いしたのである。せっかくの連休なので家族で北陸旅行はいかがですか、と。なんとも大胆で図々しい申し出ではある。だが、滋賀の旅でのコトの送り迎えのために、既に二度、コトの家を訪問していたソノさんに、コトの母親は少なからぬ信頼を抱いていたようだ。なにより娘を一度旅に連れて行ったもらった恩もあるので、快くソノさんの願いを受け入れ、母娘の二人旅を実現させてくれたのだった。


「今は市街地のホテルに滞在中らしいわよ。本当は明日ショウちゃんに会わせてビックリさせるつもりだったのに、まさかここにやって来るとは思わなかったわ。あたしもコトちゃんからサプライズプレゼントされちゃったみたい」


 そこまで尽力してくれたソノさんには、さすがに感謝しなくてはいけないだろうが、それでもちょっと騙されたような気がして素直にお礼の言葉が出てこない。


「でも、ソノさん、コトさんは来れらないって、お昼に言ってましたよね。それって僕らに嘘をついたことにならないですか」

「やだ、ショウちゃん、あたしは、『コトちゃんはあたしたちとは一緒に行けない』って言ったのよ。つまりあたしたちと一緒じゃなければ行けるのよ。言葉通りお母さんと一緒に来たでしょ。だから嘘なんかついてないわ」

「で、でも」


 なんですか、この小学生並の屁理屈は。さりとて言い返そうとしてもセリフが出てこない。ぐうの音も出ないとはこのことだろう。やり込められた僕に代わって先輩が口を出す。


「いいじゃないか、ショウ。何はともあれコトさんが来てくれたんだ。ソノさんには感謝しなくちゃいけないぞ」


 細かいことには拘らない結果オーライの先輩らしいお言葉である。もとより口達者のソノさんと口論して勝てるはずがないのだから、無駄な勝負は挑まないのが得策だ。僕は立ち止まって深々と頭を下げた。


「コトさんの言葉を翻せるのはソノさん以外にいないという事実を再認識させられました。ソノさんの有言実行には脱帽です。本当にありがとうございました」

「うん、素直でよろしい」


 芝居がかった僕の感謝の辞に、ソノさんも先輩も父つぁんも笑顔になった。素直に喜べなかったのは照れのせいなんじゃないか……母屋の中へ消えて行くコトの後ろ姿を見ながら、僕は自分自身にそう問い掛けていた。

 コトたちは父つぁんの屋敷と、僕らの農作業後の疲れ切った姿を見ただけで帰るつもりだったようだ。しかし、せっかくなので一緒に夕食をどうですかという父つぁん家からの強い要請で、僕らと晩御飯を共にすることになった。ホテルの方は朝食だけのプランなので問題ないとのことだった。

 風呂から出て居間へ入った僕は食卓に並んだ夕食を見て驚嘆した。


「今晩はお刺身だよ~、たくさん食べてね」


 ツイン娘のはしゃいだ声、和食は苦手と言っても刺身は好物のようだ。しかしはしゃぎたくなったのはツイン娘だけではない。人数が多いため居間と隣の和室の間の襖を取り去り、十五畳程になった大広間には座卓が二つ。そこに並んだ料理の豪華さは、もはや一般家庭のそれを遥かに凌駕している。

 尾頭つきのお造りをメインにした刺身盛り合わせの大皿が三つ。人数に合わせて、洗魚、酢の物、煮付けが並び、極めつけに、甘エビが大量に入った丼が中央に置かれている。まるで海産物が自慢の高級旅館のお食事のようだ。まあ、そんな旅館に行った経験はないので、あくまで想像にすぎないのだが。


「こちらに来たからには海のものを味わっていただきたいと思いましてな。今の時期は甘鯛やサヨリですわ」


 おじいさんにそう言われても魚の種類はさっぱりわからない。とにかく天然物であることは間違いないようだ。こうして僕らと父つぁん家の総勢十五人の賑やかな夕食は始まった。


「何のお手伝いもしていないのに、こんなご馳走。ありがとうございます」


 コトの母親は向こうの座卓に座り、父つぁん家の大人の方々とお話しをしている。こちらの座卓には八人。僕の隣は先輩と父つぁん。そしてコトは僕から一番離れた座卓の端に座り、その横にはリクを始めとする女子部隊が、本丸を守る土塀や櫓の如く立ち塞がっている。

 せっかくなのでコトと話をしたいところだが、そちらに視線を移しただけで、まるで大番頭の如く睨みを利かせたリクの強面がこちらに振り向けられるので、口を開くことすらできない。

 仕方ないので話は諦めて食事に専念しようと思うものの、昨晩と同じく、あまりの豪華さに恐縮してしまい、刺身に向かったはずの箸は、なぜだかその横の大根やら人参やらの千切りを挟んで戻ってきてしまう。

 たまにはイカそうめんなども挟んでくるが、何の遠慮もなく大皿の刺身を攻撃している先輩の箸の勢いに比べると実に頼りないばかりだ。やがて、大皿の隅ばかりを突っついている僕に気づいた父つぁんが口を開いた。


「おい、ショウ、遠慮せずに魚も食えよ。こんなの海に行けばいくらでも捕れるんだから」

「お兄ちゃんは子供の頃、勝手に魚を獲ってきて、よく漁師さんに怒られてたもんね」

「お前だってその魚を喜んで食ってたじゃないか」


 日本海が目と鼻の先に横たわっているだけあって、父つぁんは子供の頃から海に親しんでいたのだろう。しかし、どうやって魚を獲っていたんだ。獲るっていうから釣りじゃないだろうし、まさか素潜りで? そう言えば泳ぎは得意だって言っていたしな。水泳部だったのも頷ける。


「それはそうと、お前も甘エビばかり食わずに魚を食えよ」

「へへ~ん、だって好きなんだもん」


 父つぁんに注意されても嬉々として甘エビを食べるツイン娘を見ていたら、ちょっと興味が湧いてきた。ひとつ貰って殻を剥き、そのまま食べると、回転寿司のネタとは一味違う、とろける様な甘さが口の中に広がる。醤油を付けると更に甘さが引き立つ。甘エビという呼び名に納得である。


「面白いエビだなあ。茹でてないのに赤いなんて」

「そりゃ、お前、白身魚の鮭だって焼いてないのに赤いじゃないか。それと同じだ」


 先輩は時々、こんな不思議理論を展開することがある。半分冗談かもと思いつつ、取り敢えずは真面目に受けておく。


「何言ってるんです。それなら赤身魚のマグロだって焼いてないのに赤いじゃないですか」

「いや、マグロは焼くと白くなるが、鮭は焼いても赤いままだ。甘エビは茹でても赤いままなので、鮭と通じるものがある」


 う~む、そう言われてみればそうか。食物への執念はこれほど鋭い観察力を人にもたらすのかと、思わず感動してしまう。不思議理論で僕の頭を混乱させた先輩は、さっそく甘エビにも食指を動かしている。殻を剥くのが面倒なのか、殻が好きなのか、その両方なのか、先輩はそのまま頭ごと丸々噛み砕いている。これだけ全身を味わってもらえれば、本日の食料になった甘エビ君たちもきっと本望だろう。


「ねえねえ、お姉ちゃんたちってあだ名で呼び合っているんだよね。あたしにもカワイイあだ名を付けてくれないかな」


 ツイン娘が突拍子もない提案を仕掛けてきた。僕らのあだ名には意味があるので付けるのは簡単だ。しかし、ほとんど付き合いのない相手にあだ名を付けるのは相当難しい。当然、僕も先輩も今日やって来た女子部隊の面々も沈黙してしまった。


「そうねえ~……シイちゃんなんて、どう?」


 沈黙を破って口を開いた、これまた突拍子もないソノさんのお答え。それを聞いたツイン娘は大喜びだ。


「シイ……わあ~、なんだかカワイイ感じ。楽しいのシイだね」

「やかましいのシイだろ」


 父つぁんの見事なツッコミである。コトのボケに対してもこれくらいの冴えを見せて欲しいものだ。ただ、僕はソノさんが付けたシイの意味がわかっていた。それは急に食べるのを止めて、ツイン娘の顔を凝視し始めた先輩も同じはずだ。先輩のつぶやきが聞こえる。


「シイ……ソノさん、シイって……」


 父つぁんに宿っているかもしれないと僕らが思っていた言霊、牧童。その弟の名は北枝。ツイン娘は父つぁんをお兄ちゃんと呼んでいるから、彼女を牧童の弟の北枝に見立ててシイと名付けたのだ。

 だが、父つぁんと牧童は無関係だとソノさん自身が宣言したはずだ。どうして今またそれを蒸し返すようなことをするのだろう。まさかソノさんは、シイの中に北枝の言霊を見ているのだろうか。僕も先輩と同じくシイの目を見詰めた。何も見えてこない。


「ライ先輩、どうかしましたか、箸が止まっていますけど」

「ん、いや、ちょっと食べすぎたかな、ははは」


 父つぁんの質問は適当にはぐらかして、先輩がこちらを向いた。僕は首を横に振った。先輩も同じ仕草。言霊は見えていないのだ。ソノさんはと言えば、コトたちと一緒になって「よろしく、シイちゃん」とか「シイちゃんのシイは、たくましいのシイだよ」などと言ってはしゃいでいる。その表情からはソノさんの考えは読み取れない。食事が終わったらソノさんに真意を訊かなくては。


「よくわからんな、ソノさんは」


 先輩は気を取り直して、再び大皿に自分の箸を差し向けた。釣られて大皿に向かった僕の箸は、今度は桜色の切り身を僕の元へと運んできてくれた。口に入れると歯ごたえのある弾力。噛み締めるほどに増していく甘み。父つぁん家の持て成しの心を味わっているかのように、その美味しさは僕の胸に沁みた。と同時に、薄畳に正座して食事をしていた佐保姫の姿が思い起こされた。

 これだけのご馳走を前にすれば間違いなく「わらわにも食わせてくれぬか」と言ってくるはずなのに、今はもう、何の呼び掛けもない。食事する佐保姫の最後の顔は、味気のない和菓子を食べさせられてひどく不満そうだった。でも、今の僕ならもっと美味しい物を食べさせて上げられるはずだ、そう思うと、一人で食べている刺身が、ツマの小菊を一緒に食べているかのように、少しほろ苦く感じられた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る