第12話
すべての光景が素通りしていく。現実がどろどろに溶けたかのように滲んで歪んでいる。
誰かに声をかけられた気がしたが反応することができなかった。誰かに心配そうな視線を向けられた気がしたが、返すことはできなかった。
ただ、この現実に身体が慣れるのを待つしかなかった。
ようやく思考と身体がはっきりとしてきた。
智樹は席をたつ。辺りに生徒の姿はもうなかった。日ももう沈みかけている。
智樹は鞄を肩にかけて急いで学校を出た。確かめなければいけないことがある。
担任から住所が書かれた紙を受け取らなくてもその場所はすぐにわかった。何度も足を踏み入れた場所だし、自分の家の隣だ。オートロックで部屋番号を押す。繋がった音がした。
「一ノ瀬?」
口から出す声が震えた。まだ一ノ瀬が屋上から飛び降りた姿は鮮明に残っている。あの瞬間にすべては終わったと思った。けれど、まだ続いていたのだろうか。
反応がない。智樹は続けて訊ねる。
「一ノ瀬? いるのか?」
声が聞こえない。
耳を澄ますと、スピーカーの向こう側から鼻をすする音がした。
「一ノ瀬!? 開けてくれ!」
一ノ瀬のすすり泣く声が大きくなっていく。智樹がもう一度声を張り上げようとしたら、扉が開かれた。エレベーターに乗って一ノ瀬の家へと向かう。
インターホンを何度も押す。一ノ瀬の反応を待っていることが焦れったくて、乱暴に扉を開けて中に入った。床を蹴って奥の部屋へと向かう。力強く扉を開けると、視線の先に一ノ瀬佳代の姿があった。
膝を抱えて蹲っている一ノ瀬。大きな部屋の隅に小さく肩をすぼめて座っている。
肩越しに一ノ瀬は振り返った。
泣きじゃくっていた。赤くなった瞳から大量の涙がこぼれ落ちていた。
「……一ノ瀬、これってどういうことなんだよ」
潰れた声が智樹の喉から吐き出される。
一ノ瀬は腕まくりされた細い左腕をそっと持ち上げた。右手にはカミソリが握られている。そしてそのカミソリの刃が一ノ瀬の白い肌に触れた。
「ちょっと、なにして」
身体が勝手に反応した。智樹は走って一ノ瀬が持っていたカミソリをはたこうとした。
と、何かを踏みつけて足下を取られて身体が倒れ込んだ。カミソリが眼前に迫る。首元を冷たいものが走る感覚。体内から何かが吹き出すことを自覚してすぐに意識が途切れた。
途切れた意識が再び覚醒していくにつれて、辺りから声が聞こえ始める。
智樹は目を開けた。再び教室の中に自分がいた。
「このままいくと一ノ瀬佳代は高校にいけなくなってしまう」
担任の同じ台詞。いてもたってもいられなくて、智樹は勢いよく席を立った。周りの視線が集まることも、担任の制止も振り切って教室を飛び出した。
一ノ瀬の家へと向かう。思考が正常に働かない。何が起こっているのか把握できない。
とにかく一ノ瀬に会わなければという焦燥感が身体を突き動かしている。
地面を蹴りながら首元に触れた。傷はない。確実にさっきカミソリの刃が当たって血が噴き出したはずなのに、その傷がなかったことになっている。
いや、そんなことが問題じゃない。それよりも時間が巻き戻っている。
同じ光景が何度も繰り返されている。
とにかく一ノ瀬に会わなければならない。
オートロックの番号を乱暴に押して、ドアを開けるように一ノ瀬に怒鳴りつけた。
家の中に入って再び一ノ瀬と対面する。部屋の中で声を出して泣きじゃくる一ノ瀬。
手には何も持っていない。
一ノ瀬は両手で溢れ出る涙を必死に拭っていた。
「一ノ瀬!」
智樹は蹲る一ノ瀬の前にしゃがみ込んだ。
「どういうことなんだよ? 僕は、なにがなんだか……なんで、死んだはずなのに、それなのに、だって、今はいったいいつなんだ?」
一ノ瀬は泣いたまま智樹の顔を見る。そして智樹を認めると飛びついて抱きしめた。
そしてさっきまでより大きな声で泣き続ける。
智樹は呆然としたまま、力強く抱きしめてくる一ノ瀬の背に手をまわした。
何が起こっているのかわからない。
けど、とにかく一ノ瀬に泣き止んで欲しかった。落ち着いて欲しかった。
なので一ノ瀬の背中を優しく撫でる。
震える身体が少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
しゃくり上げる声が収まっていく。
そしてようやく一ノ瀬の身体が智樹から離れて、二人は顔を見合わせた。
「大丈夫?」智樹は訊いた。
「……うん」一ノ瀬は頷く。
「なあ、これってどういうことなんだ? 何が起こったんだ?」
智樹がそう訊くと一ノ瀬はまた目に涙を浮かべ始める。
「うう」一ノ瀬は呻く。「やっぱりだめだった」一ノ瀬は両手で自分の髪を鷲づかんだ。「智樹は、どうやったって死んじゃうんだ」
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