第11話

分かっていた。自分は誰かと関わるべき存在ではないのだ。

 他人と関わったから、こんなことになってしまったんだ。

 そもそも智樹を家に入れたことが間違いだったんだ。だから、このまま智樹とはさよならだと思っていたのに、今さら智樹はオートロックのインターホンを押してまた関わろうとしてきた。

 でも、もう二度と同じ間違いはしない。だから、もう来ないでくれと伝えた。

 これでいいんだ。始めからこうすれば良かったんだ。

 一ノ瀬は部屋に戻ってカーテンの隙間から智樹の家を見る。今頃智樹は怒って誰かに文句を言ってるだろうか。それとも万が一にも悲しんでいるのだろうか。できれば怒っていて欲しかった。自分の言葉で誰かを悲しませるのはもう嫌だった。怒られることなら慣れている。

「なんだか、あっという間だったな」

 智樹が一ノ瀬の家に初めて来たときよりずっと前から一ノ瀬は智樹のことを知っていた。

 父親と母親の離婚が決まって、引っ越して、ここが自分の部屋になって、学校に行けなくて、一人部屋の隅で蹲っていた時、ガラスを二枚隔てた先に智樹を見つけた。

 一人でご飯をつくって、一人でご飯を食べている智樹の姿を気づけば目で追いかけていた。

 智樹がご飯を食べ始める時、一緒になって一ノ瀬もご飯を食べ始めた。ひとりぼっちの食事が少し温かくなった気がした。

 智樹が学校から帰ってくる時間が待ち遠しくなった。

 だから、だから智樹が家を訪ねてきた時は本当に嬉しかった。初めて言葉を交わした時も初対面の気がしなくて、普通に話すことができた。緊張せずに会話をすることができた。

 智樹が部屋に入って二人で色々なことをした。

 智樹と過ごした時間が何よりも嬉しくて楽しくて幸せだった。

 けど、それは結局は自分勝手で自己満足でしかなくて、智樹を苦しめてしまっていたんだ。

 数日前に川口から言われた言葉が頭の中で反芻する。

「ごめんね。智樹」

 もう関わらない。もう話さない。もう会わないから。

 一ノ瀬はカーテンをしっかりと閉めて窓から離れる。自分の部屋を見回す。

「汚いなあ」

 苦笑する。あの蛹みたいにこのまま中で腐っていつの間にか死ねればそれでいいや。

 何かに溶けて、消えてなくなって、そのままどこかにぽとりと落ちるんだ。

 ああ、なんていう人生なんだろう。

 けど、智樹に会えて本当に幸せだった。

 目の奥がつんと熱くなる。

 胸にこみ上げてくる感情が張り裂けそうで一ノ瀬は屈み込んだ。

 そして近くにあったぐちゃぐちゃの紙にマジックで大きく智樹へのメッセージを書いた。

「ありがとう」

 智樹に一番伝えたい言葉だ。それから一ノ瀬は屋上へと向かうために玄関に向かった。玄関の扉を閉じる直前に窓ガラスが割れる音がした。智樹が部屋に乱暴に侵入してきたのかもしれない。少し笑みがこぼれた。そうだ。智樹は優しい人なんだ。

 絶対に死なせちゃいけない。死ぬべきなのは自分のような人間だ。

 一ノ瀬はそう自嘲して屋上へと向かった。




       *  *  *




 智樹が放り投げた椅子は窓をぶち破ってカーテンを巻き込んで一ノ瀬の部屋を転がった。けれど部屋の中に一ノ瀬の姿はなかった。焦りが身体を満たしていく。部屋の真ん中に、ありがとう、と書かれたメモが目に入る。

 智樹は駆けだした。玄関を出て、マンションの外付けの非常階段に向かう。駆け上がり屋上を目指す。

 屋上も四方を柵で囲われていた。そしてその一角に人影の主が立っていた。

 智樹が近づくと、足音に気づいたのか人影は振り返った。

 柵の向こう側にいる一ノ瀬佳代は哀しそうに智樹を見る。

「なにしてんだよ」

 智樹は一ノ瀬に近寄る。

「飛ぼうかと思って」

 一ノ瀬は軽い口調でそう言った。

「そんなの無理に決まってんだろ」

「そうかな? 意外にいける気がするんだけど」

「アホなことしてないで戻ってこいよ」

「天才がすることは最初はバカなことに見えるもんだよ」

「ふざけてる状況じゃないだろ」

「わたしは真剣だよ!」

 一ノ瀬は叫んだ。智樹の足がとまる。

「わたしは、真剣だよ」

 一ノ瀬の顔は歪んでいた。苦しそうに、痛そうに、悲しそうに唇を噛んでいる。

 その瞳は力が全て削り取られたように色が抜け落ち、世界中の不幸を身に受けたように濁った色をしていた。

「なんでだよ?」

「ここからならスーパーマンや妖精にもなれるかもね」

 一ノ瀬は柵の向こう側でくるりと踊った。

「ふざけてんのか?」

「大まじめだよ」

 にやにやと笑う一ノ瀬。智樹の皮膚から気持ちの悪い汗が滲んでくる。

「戻ってこいよ」

「戻るってどこに? 向こう側に行ったら楽しいことがたくさんあるかもしれないのに?」

「意味わかんねーこと言うな」

「たしかに、意味わかんないね」

 一ノ瀬は笑った。そして正面から智樹を見据える。

 二人の間には柵があるだけだった。手を目一杯伸ばせば届く距離。けれど智樹は動く事ができない。一ノ瀬に近づくことができなかった。

 沈黙が続く。風が吹く。太陽の光が頭上から降ってきて、足下に小さくて濃い影ができている。汗が出る。遠くからは蝉の鳴き声が響いてくる。自動車のエンジンの音が暑さを増幅させる。足の裏が熱い。一ノ瀬の表情は変わらない。

 一ノ瀬は制服姿だった。あまり袖を通されていない制服は新入生の物のようで、一ノ瀬はどことなく穢れのない雰囲気を纏っていた。どろどろにただれた世界の中に透き通るほど綺麗な一ノ瀬が生きれる場所はどこにもないのかもしれない。

「これが正解なんだよ。これが……」

 一ノ瀬は背中を外に向けて、体重を後ろに傾ける。

 身体が後ろに倒れ込む。

 一ノ瀬は一人で向こう側に行ってしまうのだろうか。一人で行って寂しい場所ではないのだろうか。向こう側にうまく一ノ瀬は馴染めるのだろうか。

 一ノ瀬が身体が外に崩れていく。その動きがスローモーションで流れる。

 これで終わりなのだろうか。

 これが終わりなのだろうか。

 一ノ瀬佳代とは、ここでお別れなのだろうか。

 一ノ瀬が小さく、小さく微笑んだ。

 智樹は気づけば地面を蹴っていた。気づけば一ノ瀬の姿は眼前に迫っていて、気づけば一ノ瀬の手を取って智樹は引っ張り上げようとした。

 一ノ瀬が目を見開いて驚愕している。

 すでに一ノ瀬の身体は下降を始めていた。

 智樹の力だけではその力に逆らえない。

「なん、なんで?」

 一ノ瀬が振り絞るようにそう言った。

「わかんない」

 智樹はようやくそれだけ答えた。

 二人の身体が落下を開始する。

 一ノ瀬を一人っきりになんてできなかった。このまま一人で行かせて、それでさよならなんてできない。だから手を伸ばした。一人じゃないってことをわかって欲しかった。

 身体が下から猛烈な風を浴びるが、下降のスピードは全く落ちない。

 ああ、これで終わったんだ。

 一ノ瀬は目を手で覆って泣いていた。涙は落ちずに上へと流れていく。

 結末としてはハッピーエンドだろうか。自分たちは幸せなのだろうか。

 地面が迫る。

 けど、頑張れた気がした。一ノ瀬に出会って、今までの自分と変われた気がした。

 踏み込めなかった一歩が踏み込めたのだ。

 後悔はない。

 けど。

 けど。

 ああ、地面だ。

 もっと一ノ瀬と一緒にいたかった。

 ……。

 意識が真っ黒で塗りつぶされた。

 そうか。死ぬと言うことはこんなにもあっけないものだったんだな。

 周りから声が聞こえる。

 うるさい。静かにしろ。

 もう何も考えたくなかった。

 すでに終わったんだ。

 ただ、静寂に身を横たえていたかった。

 けれども智樹の願いに反して声は次第に意識の近くに寄ってきた。

 どこか懐かしい喧噪。

 そうこれは学校でいつも感じていた授業が始まる前の騒がしさだ。

 なんで。

 身体の中を衝撃が突き抜ける。

 智樹は慌てて目を開けた。

 目の前に広がる光景に頭の中が真っ白になる。

「このままいくと一ノ瀬佳代は高校にいけなくなってしまう」

 見知った担任がもったいぶった口調で話している。

「一ノ瀬佳代に学校に来てもらわなければならない」

 しかも担任が話している内容は自分が目にしたことがあるものだった。

「一ノ瀬って誰だ?」

「知らねーよ」

「そういえば席一個空いてるよな」

「どこ?」

「一番前の端」

 生徒達が交わしている会話も聞き覚えがある。

「っでなに?」

「なんで学校に来させたいの? ほっとけばいいじゃん」

「またどうせ職員室でその手の話題があがったんだろ」

「っで男? 女?」

「佳代なんだから女でしょ」

「それでその一ノ瀬佳代がどうしたの?」

 目眩がした。視界が唐突に歪む。座っていることすらきつくて、智樹は横に倒れそうになる身体をなんとか机に伸ばした手で支えた。

「だから、一ノ瀬佳代が学校に来れるようにみんなで援助しよう」

 どういうことだ。自分は一ノ瀬佳代と共に屋上から落下したはずだ。あの高さから落ちて無事で済むはずがない。いや、そんなことより今はいったいいつなんだ。どうして何ヶ月も前の記憶が今目の前で再現されているんだ。

「それじゃあ山橋に頼むとするかな」

 智樹は返事をすることができずに虚ろに担任を見る。

「お前には今日の帰り一ノ瀬佳代の家に寄ってもらう。住所と、あと写真用のカメラ渡すから帰る前に職員室に寄ってくれ」

 智樹はただ黙ってその光景を見ていることしかできない。沈黙を肯定と受け取ったのか、担任は何度も頷いた。

「そういうことだから頼んだぞ山橋」

 担任は歯を見せて笑った。

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