第9話

もう何もかも嫌になった。

「智樹、今日も学校休むのか?」

 父が扉の向こうから心配そうな声で訊ねてくる。

「気持ち悪くて」

「……そうか。わかった。学校には父さんが連絡しておくよ。何かあったら携帯に電話してくれ」

 そう言って気配が遠ざかる。リビングの方で父の電話する声が聞こえ、しばらくすると父が家から出ていく音がした。

 蝉が鳴いている。

 カーテンを閉め切っていても夏という季節は容赦なく智樹の部屋に暑苦しさを届けていた。

 扇風機の風量を一段階上げる。

 今日で学校を休んで三日目になった。

 一ノ瀬や川口と言い合いになった日以降、智樹は学校に行っていない。

 カレンダーを見る。

 明日は土曜日だ。授業参観の日。

 このまま休んでいれば父の顔を見ることなく、父に自分が学校でどのように過ごしているかを知られることなく、その日をやり過ごすことができる。

 長い間身体を縛り付けていた強い力が急に解けたかのように気分が楽になっていた。

 簡単なことだったんだ。

 学校に行かなければいい。

 この部屋で一人で過ごしていれば嫌なものを何一つ見なくて済むんだ。

 開放感に浸りながら智樹は目を閉じて、まどろむ思考に心地よさを感じた。

 次の日も智樹は病欠と言うことで学校を休んだ。これで授業参観はおしまいだ。今までの思い煩いが一気に片づいた。

 授業参観の振り替え休日の月曜日。

 扉を隔てて父がまた訊ねてくる。

「智樹体調はどうだ? 明日からは学校に行けそうか?」

「ああ、うーん。まだちょっとだるくて」

 曖昧な返事を返す。父の落胆した気配が扉の向こうから伝わってきた。

「そうか、分かった。ご飯出来たらまた部屋に持って行くよ」

 父の足音が遠ざかる。

 学校にはもう行きたくなかった。このまま部屋にずっといたかった。川口の顔、クラスメイトの顔を見る必要がないこの場所は智樹を安心させた。

 一ノ瀬のことが頭に浮かんだ。彼女は今いったい何をしてるだろう。

 一ノ瀬の部屋で見たものを思い出す。川口医院から出された薬。あの薬がなければいけないほど一ノ瀬の精神はすり減っていたのだろうか。

 けれど、もう関係ない。

 一ノ瀬と会う事なんて、もう二度とないのだろうから。




 火曜日。この日も学校を休んだら、夜担任が家に訊ねてきた。

 同じクラスに二人も不登校児が出てきそうで不安に感じているのかもしれない。

 父がリビングに担任を案内する気配がする。智樹は聞き耳を立てた。

「智樹君体調はどうですか?」

「あまり良くないと本人は言っています」

「そうですか……実はですね。もしかしたら智樹君の不登校は学校からの指示に原因があったのかもしれなくて、今日はそれを謝りに参りました」

「何かあったんですか?」

「ええ。実は、智樹君には一ノ瀬佳代さんという不登校児の連絡係をお頼みしていたんです。智樹君の家からも近く、また智樹君は積極的な性格なので二つ返事で了承してくれました」

「なるほど、その子からの影響かもしれないと?」

「はい。学校としても智樹君の自主性に任せて一ノ瀬さんとの交流を見過ごしてしまっていたかもしれません。そのことが智樹君の重荷になってしまって」

 智樹は息苦しくなる。二人の会話の意図が分からない。ただ、一ノ瀬が厄介者扱いされていることだけは分かった。何か問題が起こった時に、誰かのせいにしてそれで事態を収拾させようとしている気配が伝わってきた。

 帰り際に担任から扉を隔てて声をかけられた。「もう一ノ瀬さんと連絡は取らなくていいからな」と慰めるようなことを言われた。「もう一ノ瀬さんのことは十分だ。だから智樹君は学校に来るんだ」と励まされた。「もう一ノ瀬さんは留年させる。智樹君はなんの心配もしなくていいんだ」

 担任が帰ったあと、智樹は部屋の隅で一人考える。

 一ノ瀬は重荷なのだろうか。それじゃあ山橋智樹という存在は何なのだろうか。

 一ノ瀬に会いに行くことは重荷だっただろうか。本当に嫌々一ノ瀬に家に通っていたのだろうか。

 今日で学校に行かずに一週間が経った。

 自分はずっとこの部屋からでないつもりなのだろうか。ずっとひとりでこの部屋で生活するつもりなのだろうか。そんなことできるはずがない。圧倒的な不安が襲いかかってきて、身体が押し潰されそうになる。

「気持ち悪いな、僕は」

 床に向かって呟いた。なんでもできるとは思っていなかった。けれどなにもできないとも思っていなかった。誰にも心配をかけたくないと思っていたし、誰からも心配されることのないほど自分は強く見えてるだろうとも思っていた。他の同年代の連中より大人に近い存在だと自分のことを思っていたし、実際にそう思うことで周りを見下していたりもした。わざわざ友達なんてつくらなくていいと思っていたし、自分は一人が好きだと確信していた。

 全部、勘違いだ。

 自分の領域には踏み込まれたくないくせに、一人でいることもやっぱり寂しかったんだ。それにやっぱり誰かに心配してもらって、助けてもらいたかったんだ。自分には何の力も備わっていないんだ。

 この部屋にこもっていたら、自分の力で生きることができなくなってしまう。

 あの日。一ノ瀬と共に子猫を公園に埋めに行った日に見た蛹と同じ結末になってしまう。

 だから、このままじゃダメなんだ。

 諦めるのは簡単だ。

 けど、諦めて逃げてその先に何があるのだろう。

 部屋に閉じこもっていても食べて寝ただけだ。この先何年もこんな生活を続けても何にもならない。

 それは一ノ瀬も同じだ。一ノ瀬から逃げて、このまま放っておいて、彼女がどんどん殻の中で溶けてなくなってしまうのを、ただ見ていることなんてできない。

 彼女は重荷なんかじゃなかった。

 一ノ瀬に初めて会ったとき初対面の気がしなかった。きっとそれは、一ノ瀬に自分を重ねていたからだ。まるで鏡の中の自分を見ているように一ノ瀬を見ていたからだ。だからこそ、あんなにすぐに仲良くなれたのだ。

 一ノ瀬に会えたことは本当に嬉しくて楽しくて、毎日が漠然と過ぎていくのではなく意味のあるものになっていた。

 彼女との楽しかった思い出をなかったことになんてできない。

 彼女とのこれからを捨てることなんてできない。

 智樹はカーテンを開けた。

 真っ暗な空間がガラスの向こうに広がっている。

 ガラスに自分の顔が映っている。

 そうだ。立ち上がるしかないんだ。




 朝になる。

 窓を開けると気持ちのいい空気が部屋の中に流れてくる。清々しい気持ちになった。

 一ノ瀬の部屋を見る。カーテンが閉まっていて中の様子は窺えない。

 智樹は朝食を食べ、病欠を宣言し、父が会社に行くのを見送ってから一ノ瀬の家へと向かった。

 脳に染みついた部屋番号を押す。数回の呼び出し音のあと、応答のランプがついた。

「一ノ瀬」マイクに向かって久しぶりに発したその言葉は、口に出してみるとなんだか懐かしかった。

 応答がない。

「ごめん。僕が悪かった」

 応答がない。

「だから、その」大きく頭を下げた。「ごめん」他に言う言葉が見つからない。

 色々と伝えなければいけない言葉は考えていたはずなのに、頭が上手く働かない。

 少しの沈黙のあと、やっと一ノ瀬の声が返ってきた。

「なにが?」

「だから、その、身体のことだよ」

 とにかく何か言わなければと頭に浮かんだことを口にする。

「部屋に置いてあった薬見たよ。悪いんだろ? 何で言わなかったんだよ」

 一ノ瀬の部屋で見つけた薬は、精神安定剤、自律神経調整薬、ビタミン薬、吐き気止め、胃腸機能改善薬などだった。一ノ瀬の足取りがふらふらしていたのも、過度に痩せていたのも、智樹の家であまり食事がとれなかったのも、全部そういうことなのだ。

「智樹に言ったらどうなるの?」

 一ノ瀬の声は冷たく突き放すようだった。

「智樹には……どうしようもできないくせに」

 一ノ瀬の言葉が智樹の首を締めつける。

「ごめん。本当に悪かったと思ってる」智樹は言葉を絞り出す。

「何が? 智樹は何に謝ってるの? 何でわたしの身体が悪かったことに智樹が謝るの? それで、何をごまかそうとしてるの?」

 智樹は何も言えない。

「おかしいよ、だいたいなんでいま謝るの? 悪かったと思ったならすぐにわたしに謝ればよかったじゃん」

 喉元に何かが詰まったように言葉が出てこない。

 その通りだ。一ノ瀬の言ってるように今の今まで自分は一ノ瀬から逃げていた。

 一ノ瀬を傷つけてしまったという現実が怖くて、見たくなくて、目を背けていた。

「今さら、今さらなんで? そんなの、ずるいよ」

 返す言葉を必死に探す。

「もう二度と来ないで」

 けれど智樹が言葉を見つける前に一ノ瀬はオートロックを切ってしまった。

 一ノ瀬の家の番号を押してみるが、もう反応は返ってこなかった。

 分かっている。

 身体の中で蠢いている思考が執拗に智樹を責め立てる。

 なんで自分が一ノ瀬佳代に会いに行かなかったか分かってる。ずっと前から分かっていたけど分からないふりをしていたんだ。自分の感情からも目を背けていた。

 なかったことにしようとしたんだ。一ノ瀬に対して自分がしてしまったことの罪の意識から逃げ出したくて、なかったことに、見なかったことにしようとした。時間が経過し、相手が自分の前に現れなかったら逃げ切れると思ったのだ。責任を感じずに全てを自分勝手に終わらせて、逃げようとしたのだ。

 自分の目に届く範囲が平和なら、それで満足しようとしたのだ。

 最低だ。最悪だ。

 目をきつくつぶって自分を苛む感情に智樹は身を任せた。

 けど、このままじゃ終われないんだ。

 智樹はマンションから出て自分の家に戻った。リビングの窓を開けて一ノ瀬の部屋の窓に手を伸ばす。窓を開けようと試みたが、鍵が掛かっているのか全く動かなかった。

 視線を走らせる。父のパソコン用の椅子が目にとまった。手に取る。カーテンの隙間から一ノ瀬が窓の側にいないことを確認する。大きく振りかぶる。智樹は意を決して椅子を一ノ瀬の部屋の窓に向かって投げた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る