第8話

次の日、智樹は一ノ瀬の家に向かう。いつもより遅くなってしまった。

 オートロックのインターホン越しに聞こえた声がいつもの一ノ瀬の様子と異なっていたことが気になりながら、智樹は家の中に入った。

「なにしてんの?」

 と、智樹が強い口調で問うた先には川口が制服姿のまま一ノ瀬と向かい合うように座っていた。なぜ一ノ瀬の部屋に川口がいるのだろう。

 腹の底から黒い感情がわき上がってくる。

 自分の領域に川口に土足で踏み込まれた気がした。

 川口はスカートの裾に手をやりながら立ち上がる。

「べつに、なんでもないよ。なんで智樹くんそんな言い方するのかな」川口の物言いも刺々しかった。

 重苦しい空気。智樹は一ノ瀬と川口の間に割って入るように一ノ瀬の前に行った。

「おい、なんかされなかったか?」皮肉交じりの、他人を不快にさせるためだけに智樹の口から吐き出された言葉。

 一ノ瀬はきょとんとした顔で首を傾げる。

「なんで川口を家にあげたんだよ。なんか言われたのか?」

「なにそれ?」川口が呆れるように、我慢の限界が超えたかのように言った。「そんなにわたしのこと嫌い? なんにもしてないよ。わたしなんにもしてないのに、それなのに智樹くんは一ノ瀬さんの味方なの? わたしのほうがずっと智樹くんと一緒にいたのに」

 川口は怒っていた。けれど、必死になにかを訴えようとするその瞳には涙が浮かんでいた。智樹は目を合わせていられなくて俯く。

 わけがわからない。理由もわからないのにこれ以上つきまとわれるのはごめんだ。

「だいたいそっちこそなんなんだよ」智樹は立ち上がって、目線が少し下になる川口を見下すように見た。「だいたいなんなんだよ。なにがしたいわけ? 僕に対して最初につっかかってきたのはそっちだろ」

「そんなことないよ」

「一ノ瀬の家来るなら最初っから川口が引き受ければよかっただろ」

「違うよ。智樹くん勘違いしてる。今日来たのには理由が」

「なんだよ。言ってみろよ」

 川口は視線をわずかに横にずらして一ノ瀬を見る。逡巡するように瞳を揺らすが川口はなにも言わなかった。

「どうせ理由なんてないんだろ」

「なんでそんなふうに言うの? やめてよ。これ以上わたしを悪者にしないでよ。なにさ、そんなに一ノ瀬さんを守ってる気分を味わいたいの?」川口は泣き声になりながら、鼻で笑った。

 智樹にその言葉を聞き流すだけの余裕なんて既になかった。肩を震わせて、川口を傷つけ己の欲望を満たすためだけに口を開こうとした。その時。

「ど、どうしたの? けんかなんてしちゃだめだよ」

 一ノ瀬が二人の間に入って、おろおろしながら二人の顔を見た。一ノ瀬はなぜか自分が暴言を吐かれたかのように怯えている。その顔を見てると智樹の頭の中にあった冷静な部分が戻ってきた。

「なにそれ」けれど智樹とは違って、川口は一ノ瀬を見るとさらに苛立を覚えたようだ。「だいたいなんなのよあなたは。学校にも来ないで、家にじっとしているだけで周りの人間から心配されて、そりゃあなたが周りから不幸と見られて可哀想と思われる理由だってわかるよ。けどそれだけでこの差はなに?」

 智樹は川口の言っている意味が分からなくて戸惑った。

「おい川口。一ノ瀬は関係ないだろ」智樹は止めようとした。川口の激昂にまた智樹の感情も高ぶっていく。

「なにそれ? また一ノ瀬さん? だいたい智樹くんだってその子のことめんどくさい、会いたくないって言ってたじゃん。嫌々ここに来てたんでしょ? それなのにその子の前では善人面? そんなの、そんなのずるいよ」川口は髪を乱してわめいた。

 その言葉は智樹に対しての罵声だった。けれど言葉は吐き出した本人の意思にそぐわず矛先を変えて一ノ瀬の胸に突き刺さった。川口はすぐにそのことを自覚し、しまった、という顔をした。

「えっと、あの、その」一ノ瀬は戸惑ったように智樹を見る。必死に笑顔をつくろうとしているのか、頬が震えていた。

 智樹は咄嗟のことに言葉を失った。

 何か言わなければと焦るが、何を言えばいいのかわからない。

 呆然と一ノ瀬の顔を眺める。

 沈黙。それがこたえとなって一ノ瀬に突き刺さった。

 一ノ瀬が笑った。「あはは、はは。うん。そうなんだ」その顔は今にも泣き出しそうだった。

 一ノ瀬は前髪を鷲掴みにして手で目元を隠す。「あはは、わたしは、ばかみたいだ」

「ち、ちがう。そうじゃないんだ」

 智樹が伸ばした手をすり抜けて、一ノ瀬は部屋から出ていってしまった。呆然と立ちすくす智樹。

「嘘じゃないもん。わたし、嘘は言ってないから」

 川口の狼狽えた声が神経に障る。苛立ちが智樹の感情をかきむしる。

「これで満足なんだろ?」

「満足なんてしてないよ」

「他に友だちがいるんだから、僕にかまわないでくれよ」

「意味分かんないよ。智樹君と仲良くなりたかったら他の友だち全部捨てろってこと?」

「そんなこと一言も言ってない」

「同じようなことだよ!」

 川口に睨まれる。智樹も鋭い視線を返す。

「もういいよ。どうせ、なにやったって智樹くんはわたしなんか見てくれないんだ。わたしだって、わたしだってそんなに強いわけじゃないのに」

 川口は自分の吐いた言葉に傷ついたかのように顔をしかめた。

「もういい……わたし帰る」

 川口はそう言い残して部屋から出て行った。

 残された智樹は呆然と辺りに視線を巡らせた。と、川口が座っていた辺りに置かれていたビニール袋から薬らしき錠剤が飛び出ているのが目についた。手で引き寄せて中身を確認する。中に入っていた薬の説明を見て愕然とし、処方箋の医院の名が川口医院であったことから、川口がここにいた理由が氷解した。

 けれど今さら川口の背を追うことも、一ノ瀬に謝りに行くこともできずに、智樹はその場から逃げ出した。

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