第7話

六月の最後の週。梅雨が開けて空には眩しいほどの青空が広がっていた。肌を刺すような日差しが夏の到来を知らせる。

 智樹はその日も学校からそのまま一ノ瀬の家に向かうところだった。だんだんと一ノ瀬の家に行く頻度が増え、今では殆ど毎日放課後顔を合わせるようになっている。もっとも一ノ瀬はずっと家にいるだけだが。

 学校から狭い路地を抜け、寂れた駅商店街を通り、小さな繁華街を横切っているときに智樹はふと見慣れた顔を見つけて足をとめた。

「あいつ、あんなとこでなにやってんだ」

 智樹の視線の先には大きな駐車場に停められている一台の黒い軽自動車があった。その後部座席に見えるのはこれから会いに行こうとしていた一ノ瀬の顔だった。いつもとは違って修行僧のような険しい顔つきをして、一心にけれどどこか心なく視線を遠くに据えていた。

 智樹は汗で額にくっつく前髪を掻き上げて、汗を拭った。

 空を仰ぐと暴力的なほどの日光が梅雨時の鬱憤を晴らすかのようにさんさんと輝いていた。じっとしていると肌が炙られているのが自覚できる。

 智樹は掌で目元に陰をつくり、もう一度車の中にいるのが一ノ瀬であることを確認した。

 目を細めて凝視する。

「やっぱ、間違いないよな」

 智樹は黒い軽自動車に駆け寄った。駐車場には沢山の車が停車されていた。買い物客かなにかだろうか。智樹は後部座席の窓に歩み寄って、窓を拳で軽く叩いた。

 一ノ瀬の首がゆっくりと動く、虚ろだった目が徐々に見開いた。一ノ瀬は驚いた顔でドアを押し開けた。窓を開けるものと思っていた智樹は虚を突かれて額にドアをぶつけた。額に伝わった熱と中から溢れるように出てきた熱気で智樹はなぜ一ノ瀬が窓を開けなかったのかが分かった。

 車のエンジンがかかっていなかったのだ。

「いててて」智樹は額をさすりながら歪んだ顔で一ノ瀬を見た。

「ご、ごめん」

 慌てて謝りながら出てきた一ノ瀬は上下スウェットではなく外出用と思われる私服に身を包んでいたが、着ている服は夏に似合わない服装だった。ジーンズにパーカー。夏なのに肌の露出が極端に少ない。

「智樹、どうしてここに?」

 と言った一ノ瀬の顔はのぼせたように赤く、足元はふらついていた。

 智樹は車を見る。車のボディーから陽炎が立ち輪郭をぼやけさせている。

「それはこっちのセリフだよ。この糞暑いのにクーラーもかけてない車の中でなにやってんだ?」智樹はそう言って恐る恐るドアの取っ手に手を伸ばしたが、熱くて握ることはできなかった。

「鍛錬だよ。暑い時に打てって言うでしょ?」一ノ瀬は笑った。

「それは鉄を熱い時にの話だろ」

「まあ、どっちでもいいよ。鍵が無くてさ、エンジンがかけられないんだよ」

 一ノ瀬は笑っている。

「なら、外で待ってたほうがまだ風があって涼しいだろ」

 智樹は呆れ半分で笑った。

「けど、ママが車の中で待ってなさいって言ってたから」一ノ瀬はえへへと笑った。

「そこまで言葉通りにする必要もないだろ」智樹は首筋にたまった汗を拭った。「だいたい長袖でサウナみたいな車ん中はやりすぎだよ。熱中症になるぞ」

 一ノ瀬は小さく、智樹に分からないように唇を噛んだ。

「ママが長袖を買ってくれたんだ。それにママがここで待っててって言った」

 一ノ瀬の顔がわずかに曇った。

 智樹の脳裏にマクドナルドで起こった出来事が蘇る。

「それで、その一ノ瀬の母さんはどこにいんだ?」

 智樹は辺りを見渡した。駐車場の周りでは忙しげに歩く人の流れが見えるが、当然その中に一ノ瀬の母がいるかどうかなんてことは智樹には分からなかった。

 智樹は視線を逸らしていたので一ノ瀬の顔が強張ったことに気がつかなかった。

「ママはもうすぐ帰ってくるよ」

 へえ、と智樹は気のない返事をして掌で顔を扇いだ。あちーな、と自然に声が漏れる。

「あついね」と一ノ瀬はパーカーの胸元を摘まんでパタパタと空気を送り込んだ。

 智樹は視線を一ノ瀬に戻した。俯いていた一ノ瀬の胸元がはだけて鎖骨を覗かせていた。

 心臓が早くなる。

 一ノ瀬の首筋から垂れた汗が鎖骨を乗り越えてさらに下に流れ込んでいた。そして、智樹は一ノ瀬の胸元にある皮膚が変色した部分を見た。濃い紫色や赤色の痣が広がっていた。

 智樹は息を呑む。

 突如無意識に暴力的なシーンが頭の中で再生された。

 一ノ瀬が顔を上げる。智樹の視線に気づいて一ノ瀬は胸元を隠すように手を押し当てた。

 智樹と顔を合わせたその顔は恐怖で怯えるように震えている。

「おい、それって」

「なんでもない」

「いや、でもさ」

「なんでもないって!」

 一ノ瀬が大声で怒鳴った。

 智樹はその圧力に押されてそれ以上質問できずに口をつぐんだ。

 一ノ瀬の肩が小さく震えている。智樹は後頭部を掻いた。一ノ瀬は胸元を押さえつけたまま車の中へ戻ろうとする。

「わたし車の中に戻らなきゃ」

 閉まろうとしたドアを智樹がとめた。

「あ、あのさ」

 智樹の次の言葉を恐れるかのように一ノ瀬は目を見開いた。智樹は左手に提げていたビニールの袋の中から棒アイスとチュッパチャプスを取り出した。

「これ、家に持ってこうとしてたんだけど、今日はまだ帰らないんだろ? いま渡しとくよ」

 一ノ瀬が呆然と眺めていたので、智樹はアイスと飴を一ノ瀬の手の中に押し込んだ。

「溶けるかもしんないけど、まだ冷たいだろうからさ」

「あ、ありがとう」

 一ノ瀬は大事なものを抱えるように両手でアイスと飴を包み込んだ。アイスの袋についた水滴が指の間から落ちる。

「溶ける前に食っとけよ。じゃあ、またな」

 一ノ瀬はもう一度「ありがとう」と言って力無く笑った。智樹はとまらない汗をもう一度拭き、肌にくっついたズボンを摘んだ。それから最後に「またな」と言って片手を挙げてその場をあとにした。

 駐車場を歩く。踏みしめる地面が熱い。彼方の景色が霞んで見える。智樹は手に提げていた袋の中から自分用に買った棒アイスを取り出し、包みを剥がして口にくわえた。

 とその時、背後で大きな音が鳴った。

 人が人を叩いたような音。人々はざわめき、視線が一箇所に集まっていく。なにごとかと思って智樹も肩越しに振り返った。

 音が鳴った場所は黒い軽自動車が駐車されている場所だった。一ノ瀬が後部座席に座りドアを開けて足を外に投げ出している。その向かい側に女が仁王立ちしていた。智樹からは背中しか見えない。一ノ瀬の足下には先ほど智樹が渡したものと思われるアイスが地面に落ちて溶けていた。

 またマクドナルドでの光景が頭の中で再生された。

 怒鳴り声がその場所に響く。

 怒声というより甲高い叫び声だった。女は腰に手をあてて一ノ瀬になにかを言っていた。ここからだとその言葉までは聞き取れない。

 智樹は一ノ瀬に視線を据える。一ノ瀬がこちらに顔を向ける。その瞬間たしかに二人の視線はあったはずだが、一ノ瀬はすぐに俯いてしまった。どうすることも出来ずにただ智樹はその光景を眺めていた。

 女はひとしきり叫んだあと、誘拐でもするかのように一ノ瀬を後部座席に押し込み、車を発進させる。人混みの中にいくつか残っていた注目の視線がその動きを追いかけた。

 車が駐車場から出て見えなくなる。

 智樹はその黒い車が見えなくなるまで目で追ってから、なんの気なしに視線をもたげた。

 駐車場の隅にでかでかと掲げられている看板が目にとまる。

 口から言葉が漏れる。

「ここ、パチンコ屋の駐車場じゃん」

 アイスは口の中で溶けて残されたのは棒だけだった。智樹はその棒を噛み砕く。甘い味の中に木の苦い味が混ざった。

 人々の喧騒はなにごともなかったように続く。その中で智樹は一人立ち尽くしていた。

 アスファルトの地面にうつしだされた影が、悲しむように揺れる。




 その日の夜。智樹が布団にくるまっていたら、父が帰ってくる音がした。

 まどろんだ意識で父の動きを感じていたら、何かをがさごそと探す音と、セロテープを千切る音が聞こえた。何をしているのだろうと疑問に思ったが、智樹はそのまま眠りに落ちた。

 深夜。

 トイレに行きたくなって目を覚ました。

 智樹が部屋を出てリビングに行くと、テーブルの上にセロテープで継ぎ接ぎされた授業参観の紙が置かれていた。

 血の気が失せる。

 視線を少し横にずらすと中身を掻き出されたごみ箱が目に入った。

 ぞっとする。

 ごみ箱の中身まで確認されていたんだ。

 深夜に父がごみ箱の中に手を突っ込んでいる姿が頭に浮かんで呼吸が乱れていく。

 気持ち悪い。何でそんなことするんだ。

 なんで隠れてこちらの情報を勝手にさぐろうとするんだ。

 智樹は吐き気を覚えてトイレに駆け込む。

 父はきっと授業参観に来る気なんだ。

 手でプリントを破いたことを後悔した。もっと細かく切り刻んでおくべきだったんだ。

 両手で便器をつかみ、頭を出して嘔吐いた。絞りかすのような粘液が口から垂れる。

 突如として息苦しくなった。恐怖なのか不安なのか分からないが、智樹は外の空気が吸いたくなってトイレから出てリビングの窓を開けた。息を大きく吸い込むと肺が驚いたように痙攣して咳き込む。

 息を整えていたら不意に一ノ瀬の部屋のカーテンが開いた。智樹と視線が合う。一ノ瀬は目を丸くしたあと窓を開けた。

 二人は視線を合わせたまましばらく沈黙を保った。

 何を一ノ瀬に言えばいいのか分からない。自分の状況を一ノ瀬に明かす気になんてなれないし、一ノ瀬のことを訊く気にもなれなかった。

 今までどんな会話をしてきたのだろう。

 言葉を出そうと焦れば焦るほど喉が固まって動かない。

 黙っていると一ノ瀬が先に口を開いた。

「夜更かしは身体に毒だよ」

 それは穏やかで優しい声音だった。

 その声を聞いた瞬間、胸に詰まっていた何かが溶けるように消えて気持ちが落ち着いた。

 智樹の口からも自然に言葉が出る。

「お互い様だろ」

 そうかもね、と一ノ瀬はくすくす笑った。

「こんな時間に何してたんだ?」

「眠れなかったから、ちょっと夏の星空でも見ようと思ってさ」

 一ノ瀬は上を向いた。智樹もつられて視線をもたげるが、建物と建物の間が狭くて智樹の側からは空があまり見えなかった。

「そっちからは見えんのか?」

「まあ、こっちのマンションとは違ってそっちは二階建てだからね。でも、あんまり見えないや」

 一ノ瀬は寂しげな声を漏らす。

「じゃあ外に出てみるか?」

 一ノ瀬の元気がなかったので、智樹は明るく誘ってみた。

「それはナイスなアイディアだね」一ノ瀬は小さく笑う。「けど今はママが寝てるからやめておくよ」

 一ノ瀬は長い前髪を指で弄んでいる。

「……そっか」

「そういえばさ智樹は猫好き?」一ノ瀬は頭の上に両手を置いてうさぎのように揺らした。

「猫?」突然の話題に智樹は怪訝な顔になるが、一ノ瀬の話がころころと変わることには慣れてきていたので、少し考えたあと答えた。「べつに嫌いじゃないな」

「じゃあ、猫耳としっぽとかどうだろう?」

 一ノ瀬は身振り手振りを加えて猫耳としっぽを表していた。

「いや、嬉しいことにそういう趣味はない」

「そういう時は残念なことにって言うんだよ」一ノ瀬は頬を膨らませた。「猫、かわいいよね?」

 一ノ瀬がそう訊ねたときの表情がいまにも泣き出しそうで、智樹は戸惑った。

「あっ、うん、かわいい。猫かわいいと思うぞ」

「うんこするし、おしっこするし、壁は引っ掻くし、毛はそこら中に抜けるけど、それでもかわいいよね?」切実な物言い。

「まあ、そうだろ。そういうのも含めて動物としてかわいいんじゃないか」

「だよね」一ノ瀬はほっとしたような、それでいてどこか悲しそうな表情を見せた。

 風が吹いた。一ノ瀬の長い髪が揺れる。

 空気はじめじめと湿気を多く含んでいて、夜なのに汗がじわりと浮かび上がってくる。

「それじゃあ、わたしは戻るよ」

 そう言うと、一ノ瀬は背を向けて部屋の中に戻った。

 一ノ瀬は何を伝えたかったのだろう。呼び止めようと思ったが、その呼び止めるための言葉を見つけられず智樹は一ノ瀬の部屋の窓が閉じるのを見ていることしかできなかった。




 次の日、学校の帰りに智樹は一ノ瀬の家に寄った。オートロック越しの会話を手短に済ませて玄関口へと向かう。智樹がインターホンの呼び鈴を押すと、一ノ瀬が「入って」とだけ言った。

 おじゃましますと小声で挨拶しながら智樹は足を踏み入れた。折れ曲がる玄関を通り過ぎ、一ノ瀬の部屋の扉を開けた。中からゴミが溢れでてくる。踏み潰すのに慣れた智樹は遠慮することなく部屋の中に入った。

 一歩足を踏み入れた瞬間にいつもと部屋の空気が違うことに気づいた。

 一ノ瀬は部屋の隅で蹲って何かを大切そうに抱いている。

 智樹が近寄ると、一ノ瀬は力無く顔を上げた。

「どうかしたの?」

 一ノ瀬は今にも泣きそうな顔をしていた。

 その手の中には小さな子猫が包むように抱かれている。

「動か、ないの」

 一ノ瀬の口から引きつった声が絞り出されたように漏れる。

「なんで?」

 智樹の問いに一ノ瀬は答えず、首を左右に振った。

 智樹は視線を落とす。しゃがみ込んで猫に手を伸ばした。伝わる感触は驚くほど冷たい。生きていない生物の温度が鳥肌となって智樹の身体を走った。

「これ、死んでんじゃないか?」

 声が震えてしまう。

 一ノ瀬が目を見開く。

「いつからこうなんだ?」智樹が訊ねる。

「今日の夕方からだよ」

「それって何時間前のことなんだ?」

「二時間くらい」

「その間ずっと放っておいたのか?」

 一ノ瀬の身体がびくりと震えた。唇を噛み、顔を伏せて自分を守るように身体を縮める。

 智樹はつい責めるような口調になってしまったことを悔いた。

 気持ちを落ち着かせて言葉を吐く。

「動物病院とかには連れてかなかったのか?」

「なにそれ?」

「動物の怪我とか病気を治してもらうとこ。知ってるだろ?」

 一ノ瀬は考えるような間を取ったあと、小さく首を振った。

「なんで? 行ったことないのか?」

 一ノ瀬は怯えたような顔になる。

 責めたつもりはないのに、一ノ瀬は責められたような表情になってしまう。

「だって、だって誰も教えてくれなかった」

 智樹はなにも言えなくなった。

「お願い。教えて」

 智樹は子猫を見据えたあと言った。

「分かった。連れてくよ」

 一ノ瀬の表情が、まるで子猫が生き返ったかのように輝く。愛おしそうに一ノ瀬は子猫を撫でた。

 もう死んでるんじゃないだろうか。先ほど猫に触れた時の感触が思い出される。

 言いようのない不安が智樹を捕らえて放さなかった。




 夕刻から夜へと変わっていく空。帰路についている人々とすれ違いながら智樹と一ノ瀬は歩いた。近所にある動物病院に行ってみたが、そこはすでに診察の時間が終わって閉じられていた。緊急の場合どこに連絡すればいいのかは智樹にも分からず、途方に暮れたが、その時一つの場所が思い浮かんだ。

 智樹は子猫を抱えた一ノ瀬を連れて動物病院ではない、ある場所に向かっていた。駅を通り過ぎ少し行った場所にある小さな医院で足をとめる。看板には皮膚科・眼下の文字が書かれていて、その下には川口医院という文字が連なっていた。

「もしかしてここって」看板を見つめながら一ノ瀬が言った。

「ああ、川口の父さんと母さんがやってる場所だ」

「二人共お医者さんなの?」

 智樹は頷く。一応は同じ哺乳類を扱う病院だ。詳しいことは分からなくてもだいたいのことは分かるだろう。それに診て貰えなくても、どういう対処をすればいいのか教えてもらうことはできそうだ。

 けれど智樹は看板を見たまま中に入るのを躊躇していた。

 自分には頼れる人間が少ない。結局は川口に頼ることになってしまうのが情けなくて悔しかった。

「智樹?」

 一ノ瀬の不安げな声。

 そうだ。今はそんな自分の個人的な心情を考えている場合ではないのだ。

 ガラス扉から中を覗いてみる。電気は既に消えていて、人の気配もなかった。ドアの脇に備えてあるインターホンを押す。軽い音がした。智樹は一度深く息を吸い込む。

『はい。川口医院ですが今日の診察はもう』男の人の声がした。

 最後まで聞かずに智樹は言った。

「あの、川口唯香さんと同じクラスの山橋智樹です。えっと、ちょっと見てもらいたい子がいるんですけど」

 インターホンの向こう側で少し思案する気配がした。

『わかりました。ちょっと待ってて下さい』

 そう言ってインターホンは切れる。一ノ瀬は智樹の隣に並び、タオルで包んだ子猫を抱いていた。

 智樹は川口の親に会ったことがない。ガラスに写っている自分の顔がひどく緊張していることに気づいた。背筋に汗が流れる。

 中の奥の部屋から出てきたのはいつもと違ってラフな格好で、髪を一つにまとめあげようとしている川口だった。親ではないことを確認して智樹は安堵の息をつく。

 ガラス扉の鍵が開けられて中から川口がドアを押し開けた。その視線が訝しむように智樹と一ノ瀬を交互に移動する。

「どうしたのかな?」

「あ、あの、こんな時間にごめんなさい」

 一ノ瀬が深々と頭を下げた。

「ユウが、ユウが動かなくなっちゃったから、その、お願いします」

 頭を下げたまま一ノ瀬は子猫を前に差し出す。川口は眉根を寄せてタオルに包まれている子猫を見た。

「えっ? うち動物病院じゃ」

 智樹はその先を遮るように言った。「頼むよ。見てくれるだけでいいから」

 一ノ瀬は頭を下げたまま、なお頼み込む。「お願いします。ユウを元気にしてあげてください」

 智樹と一ノ瀬の言葉の違いを汲み取ったのか、川口は少しの戸惑いを見せただけで子猫を受け取った。

「外暑いから、中でちょっと待ってて」

 待合室に案内される。川口は子猫を大事そうに抱えたまま奥の部屋に消えた。

「ユウ、また元気になるよね?」

 膝の上に小さな握りこぶしをつくって一ノ瀬は震えている。智樹は気休めの言葉を掛けるのをやめた。嘘になってしまうと思ったからだ。

 川口の母親と思われる人が冷たい麦茶を持ってきてくれた。智樹はそれを一息に飲み干す。横を見ると一ノ瀬は麦茶に口をつけず、じっと奥の部屋の扉を見つめていた。

 アナログ時計の針の音だけが部屋の中に響いている。

 見ると外は暗がりを増し、街頭が照らしている部分だけが明るくなっていた。歩行者は一日の疲れで頭を押さえつけられているかのように自然と俯くような形になって歩いていた。

 ふと入り口付近に置かれていた袋に目がいく。それは一緒に行ったペットショップで川口が買った犬用の餌だった。

「ああ、それ気になる?」

 じっと見ていたら視線に気づいたのか川口の母が説明した。

「ほんと、なんでそんなもの買ってきたのか私も不思議なのよね」

「どういうことですか?」

「うち、犬飼ってないのよ。それなのにいきなり犬用の餌なんてあの子買ってきちゃって」

 智樹は川口の母を見る。ペットショップでの川口の言動が思い出される。

「ほんと、どうしちゃったのかしらねあの子」

 智樹は押し黙ってなにもこたえなかった。

 待つという行為以外は何もすることができなかったので、智樹は黙って座っていた。すると、扉がゆっくりと開かれる。中から出てきたのは仕事を終えた医者という雰囲気の男の人だった。慌てて着込んだのか白衣が少しよれている。胸のネームプレートには川口と書かれていた。

 川口の父は困ったような、悲しんでいるような顔になって一ノ瀬に歩み寄った。

「君が一ノ瀬さんだね?」

 一ノ瀬は頷く。川口の父の後ろでは川口がタオルで子猫を包んで持っていた。

「残念だけどね。子猫は死んでいたよ。それも死後随分時間が経っているようだね」

 川口の父は優しい口調でそう言った。川口は抱えていた子猫を一ノ瀬の膝の上に置く。

 一ノ瀬は生気の失った瞳で子猫を眺めていた。

「ユウは、治らないの?」

 川口の父は申し訳なさそうに首を振った。

「動物病院に行けば治るんじゃなかったの?」

 一ノ瀬はすがるように智樹のシャツを引っ張った。

 智樹は何も言えない。

「衰弱しているだけなら治療もできるが、死んでしまったらもうどうすることもできないんだよ」

 優しい声で川口の父が代わりに答えた。

「そっか」無表情で一ノ瀬は言った。「死んじゃったんだ」自分に言い聞かせるようにはっきりした口調だった。

 一ノ瀬は押し黙る。

「寿命? それとも病気かなにかだったの?」川口は訊いた。

 一ノ瀬は大事そうに猫を抱えながら首を振る。

「じゃあ、いきなり具合が悪くなったの?」

 一ノ瀬はまた首を振った。

「なにがあったの?」

 一ノ瀬は手で猫を包み込むように持ち口を開いた。

「ママがね、ママはいっつも買い物に行くときにユウをポケットに入れてくんだ」

 一ノ瀬はいとおしそうに猫の名前を呼ぶ。

「それでね、みんな可愛い可愛い言ってくれるんだって。それがね、ママにとってすっごい嬉しいことなんだって」

 智樹は黙って聞いていた。

「ママのポケットからね。こう頭だけ出したユウはね、とってもとっても可愛いんだよ。それでね」一ノ瀬は淡々と語る。「ママがね今日もユウをポケットに入れて出かけたんだ。それでね、ママうるさいとこに行くからユウを車に置いてったんだって、それでね、それで」

 暑い日。蒸し殺されるような暑さの車の中でじっと座っていた一ノ瀬の姿を思い出した。

「なんか当たりが続いたんだって、それでねずっとママがやってたらね」言葉に抑揚がない。感情を込めることを拒絶しているかのように一ノ瀬は言葉を並べる。「車に戻ったらね、ユウがぐったりしてたんだって」

 一ノ瀬は一度言葉を切ったあと付け加える。

「でも、しょうがないね。ママ怒ってたもん。ユウが家の中でおしっこしたり、壁引っ掻いたり、毛が抜けたりすること。だから、これはしょうがないことなんだよね」

 諦めきったような声音に、智樹の背中に冷たいものが走った。

 静寂がしばらくの間部屋を包み込む。

 川口の父親が一ノ瀬に訊ねた。

「一ノ瀬さん、ちょっといいかな?」

 川口の父親は難しい顔をして一ノ瀬を見つめていた。

「え?」一ノ瀬は不思議そうな顔になる。

「すぐ終わるから」

 川口の父はそう言って奥の部屋に向かっていった。一ノ瀬はどうしたらいいか分からないといった感じに智樹や川口を見る。

「大丈夫だよ。心配しないで」川口は言った。

 一ノ瀬は智樹を見る。

「僕が猫持ってるよ」

 呆然としている一ノ瀬は言われるがままに智樹に子猫を渡して奥の部屋に入っていった。

「なんか、いろいろと大変そうなんだね」川口が腕を組んで言った。

「そうみたいだな」

 川口は智樹の横に腰掛ける。

「一ノ瀬さんと会うのもうやめたらどうかな?」

 突然の言葉に智樹は驚いて川口を見た。川口は膝上に肘を載せて頬杖をついている。

「なんでいきなしそんな話になんだよ」

「一ノ瀬さんのこと好きなのかな?」

「なんでそういう話になんだよ。意味分かんねーよ」

「恋愛と慈善活動は違うんだよ?」

「べつに可哀想とかそんなんじゃない」

「違うの? じゃあ一ノ瀬さんに嫌われたくないから? なにそれ、おかしいよ」

 智樹は黙っていた。

「智樹くんは他人に興味なんて持たなかったじゃん。他人に無関心で、勝手に壁つくって、それを気にもしないで、そのくせ父親のことに関しては真正面から向き合ってなくて」

 心臓を手で直接握られたかのように固まった。

 他人に無関心だったわけじゃない。川口に何が分かるというのだ。

 父親とのことなんて川口に何が分かるというのだ。

 川口は溜息をついた。

「今さらなに? 一ノ瀬さんがなんなの? 不幸だから? 幸せじゃないから? そんなの、わたしだって――」

「うるせーよ」智樹は冷たく言い放った。「父親もいて、母親もいて金もあって人気もあって頭も良くて、そんなやつには分かんねーんだよ」

 重く低く川口にだけ聞こえる声で言った。

 川口なんかに自分の気持ちをわかって欲しくもなかった。

 智樹は自分から他人に対して壁をつくったつもりなどなかった。気づけばクラスメイトたちが智樹に壁をつくっていたのだ。

「なにそれ? 結局智樹くんは不幸な子が好きなんだね。きっと可哀想な子の近くにいたら安心出来るんでしょ?」川口はまた溜息を漏らし、小さな声で呟く。「そんなのずるい。不幸じゃなきゃ好かれないなんて不公平すぎるよ」

 最後の方は川口の声が小さすぎて聞き取れなかった。

 重苦しい空気が部屋に広がっていく。智樹はもうなにも喋りたくなかったし、川口もまたもう何も言うつもりはないようだった。

 沈黙で息が苦しくなってきた頃、奥の扉が開いた。

「ああ、すまんね。待たせてたかな?」

 智樹も川口も返事をしなかった。

 智樹は立ち上がる。

「一ノ瀬。行くぞ」

 一刻も早くこの場から立ち去りたかった。一ノ瀬は智樹と川口に視線を往復させたあと、川口と川口の父親に深々と頭を下げる。川口の父は何かを話そうと口を開いていたが、その言葉を聞く前に外に出て扉を閉めた。

 外はもうすっかり夜だった。




 近くの公園に移動した。空はもう真っ暗だった。公園の中央に立っている街頭がぼんやりと辺りを照らしている。公園を囲んでいる植木のそばに穴を掘り、布で包んだまま猫をそっと入れた。上から土を被せる。

 公園で遊んでいる子どもはもういなく。木々の枝葉のざわめきや、近くにある道路から届く車の音だけが空気を震わせていた。

 一ノ瀬はしゃがみ込んで猫が埋まった場所をじっと見ていた。指先で土の盛り上がったところをつつく。

「土の中に入れてもきっとゾンビになって出てくるだろうね」

「そんな猫いたら怖いわ」

「じゃあユウも幽霊になったのかな?」

「さあ、どうなんだろうな」

「ユウはわたしのこと恨んでるかな?」

「ありえないだろ」

 恨んでるとしたら母親の方だ。

 風が吹く。一ノ瀬の長い髪が巻き上がる。膨らんだ髪が徐々に戻っていく。一ノ瀬は「よいしょ」と言って立ち上がった。緩めのズボンにパーカーというラフな姿。相変わらず露出は少ない。

 一ノ瀬は智樹を見て元気なく笑った。

「ごめんね智樹」

「なんで謝るんだよ」

「だって公園まで来てもらってさ」へへへ、と一ノ瀬は笑った。

 一ノ瀬は視線を巡らせる。公園にあるのは滑り台やブランコといった遊技や砂場だった。

 ふと何かを見つけたように一ノ瀬は公園を囲う生け垣の側にしゃがみ込んだ。智樹は近寄って熱心に何かを見ている一ノ瀬と視線を合わせる。その視線の先にあったのは、枝にくっついている蛹だった。

「この時期に蛹なんてめずらしいな」

「そうなの?」一ノ瀬は蛹を見据える。

「中で死んでんのかもな」

 何の気なしに出た言葉に一ノ瀬は目を細める。

「なんで出てこられなかったんだろ」

「そうだな。周りの環境が悪かったのかもしれないし、元々力が弱くて外に出てこれなかったのかもしれないな」

「……そっか。きっと中はぐちゃぐちゃだね」

 一ノ瀬は人差し指で蛹にそっと触れた。

「この蛹、わたしみたいだね」ぽつりと一ノ瀬はこぼす。「きっと閉じこもったまま気づいたら中で腐っちゃって、そのまま殻を棺桶にすることにしたんだよ」

 一ノ瀬の声には諦めの色があり、それが智樹をどうしようもなく悲しくさせたので、智樹は語気を強めて否定した。

「何言ってんだよ。一ノ瀬は今だって外に出てるだろ」

 しばらく間を置いたあと、一ノ瀬が小さく笑う。

「そう言われればそうだったね」一ノ瀬は立ち上がった。「わたし、そろそろ帰らなきゃ。ママが帰ってくる」

 そう言って一ノ瀬は歩き出した。

「なあ」智樹が声を掛けると一ノ瀬は足をとめる。「母親のこと、一ノ瀬は好きなのか?」

 一ノ瀬は振り返らずに言った。

「好きだよ。大好き。当たり前じゃん。だってわたしのママだもん」

 一ノ瀬は歩き出す。空を夜が覆い始めていた。薄く長かった影が夜に溶け込んでい消えて行く。風が吹いて枝葉が揺れて悲しげな音をたてた。


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