第10話

授業参観の日。午前で授業を終えた川口は一ノ瀬のマンションに来ていた。オートロックを押す。母親が出たときように挨拶を用意していたが、運がいいことに一ノ瀬佳代本人が出た。

「ちょっと外に出てきて」

 有無を言わさない口調でそれだけ言って川口はマイクを切った。

 エントランスは涼しかったが、それでも住民が通り自動ドアが開くたびに、これでもかというほどの熱気が皮膚の上を流れた。暫く待つと、相変わらず夏だというのに暑苦しい長袖で一ノ瀬は現れた。まだなにも喋っていないのに、視線は地面を泳いでいる。

「智樹は?」一ノ瀬は訊いた。

「いないよ」そう言って川口はマンションの外に向かった。振り返ると一ノ瀬が付いてきていなかったので手で招く。そんな些細なことでも川口は苛立を覚えていた。

 外に出る。暴力的なほど鋭い日差しが肌を突き刺し、湿気が多く熱気が溜まっている空気が皮膚からじんわりと汗を滲ませた。

「な、なにかあるの?」戸惑っているのか一ノ瀬の口調は震えていた。

 川口は一ノ瀬に向き直って言った。

「あのさ、一ノ瀬さん智樹くんをどうしたいの?」

 一ノ瀬は小首を傾げた。

「智樹を? どうって?」

 苛立が増す。

「このままの関係を続けるつもりなの?」

「そんなの、そんなのはわたしに言われても困るんだけど」

 川口は呆れるように溜息を吐いた。

「智樹くんは一ノ瀬さんのせいで苦しんでる。それは一ノ瀬さんのせいでしょ?」

 一ノ瀬は視線を落とす。

「違うの?」川口はなおも訊ねた。

「そういうのは……智樹に訊いてよ」

「はっきりしないね。一ノ瀬さんのせいで智樹君は学校に来れなくなったんだよ?」

 一ノ瀬は驚いた顔になる。

「そんなの、わたしには関係ない」

「一ノ瀬さんの家に行く前は、智樹君は普通に学校に来てた。それでも関係ないって言えるの?」

「そんなの。そう言われても、わたしだってよく分かんないんだよ。どうしたらいいか分かんないし、どうしてもらいたいかも分かんない」

 苛立が限界近くまで上がった。

 堰き止めようと必死で抑えていたものが破裂した。

「不幸自慢はやめてよ」川口は冷たく言った。

 一ノ瀬は顔をあげる。

「そんなの、してないよ」

「してるよ。喋り方で、態度で、雰囲気で一ノ瀬さんは不幸を主張してる」

「してない」

「してるよ。一度自分で鏡見たほうがいい。それか自分の行動一部始終ビデオで撮ってみればいいよ」

 川口はせせら笑った。自分にこんなに黒い感情があることを今まで知らなかった。

「そんなのできるわけないよ」

「知らないよ。ただね、わたしは一ノ瀬さんが不幸自慢をして、全部自分のことを他人まかせで、それでいて、それでも不幸な顔をしてるのが、なんというか嫌なの」

「川口さんには分かんないんだよ」

「ほら、またそれだ」

「なにそれ」一ノ瀬も口調を強めた。「なんでわたしが川口さんにそこまで言われなきゃならないの?」

「一ノ瀬さんが目障りだから。もうちょっと自分でなんとかしようという努力でもしてみなよ」

 そう言い捨てて川口は向きを変えて歩き始めた。

 足を速める。

 と、後ろからついてきている足音に気づいた。肩越しに振り返る。

 いきなり肩をつかまれて頬を思いっきり引っぱたかれた。

「川口さんなんかにはわかんないよ」

 瞬間的な目眩。視界が揺れて足がよろめく。

 一ノ瀬はそう言って踵を返して家に戻ろうとした。

 川口は一ノ瀬の肩をとり、握り拳で顔の真ん中を力の限りぶん殴った。

「なんかってなによ。なんでわたしにはわかんないって決めつけんのよ」

 一ノ瀬はよろめいて、鼻から出た血を手で押さえる。

「ぐーで殴るなんて卑怯極まりないよ」

 一ノ瀬は鼻をすすって血を吸い込んだあと、左足を踏み込んで右足で川口の腿を蹴り上げた。川口の口から呻きが漏れる。

「足で蹴るなんて」

「川口さんには優しいパパとママがいるじゃん」

「はあ? なにそれ? おかしくないかな? それだけで一ノ瀬さんの気持ちがわかんない理由になるのかな?」

「なる」

「ならない」

 一ノ瀬はまた足を振り上げる。川口は一歩下がって蹴りを躱し、真正面から靴の裏を一ノ瀬の鳩尾に押し込んだ。

 一ノ瀬は肺が押しつぶされたようにむせ返る。

「川口さんはいいじゃん」一ノ瀬は腹部を押さえてかすれた声で言った。「ふつうにパパとママがいて、ふつうに学校に行って、友達もたくさんいて、勉強もできて、ふつうに動けて、なんでもできるじゃん」

「それのなにが悪いのかな」

「悪くないよ。ただ、そんな人にわたしのことをとやかく言って欲しくない」

「わたしが羨ましいの?」川口は力なく笑う。

「……それは」一ノ瀬は口籠もる。

「わたしが欲しくても手に入れられないものを、一ノ瀬さんは持ってるんだよ?」

「そんなの、よく、わかんない」

「知らないふりする気なのかな?」

「川口さんはひどいよ。じゃあわたしにいったいどうしろっていうのさ」

「ほら、一ノ瀬さんはそうやってまた人に頼ろうとする」川口は皮肉をたっぷり込めて吐き捨てる。「自分で考えて、自分で決定して、自分で決行しなよ。智樹くんに頼って、智樹くんを道連れにしようだなんて、最低だよ」

 一ノ瀬の表情が変わる。

「ははは」一ノ瀬の顔が歪む。「なんだ……そういうことか」

 むっとして川口は一ノ瀬を睨んだ。

「なに笑ってんのさ」

「川口さんは智樹のことが好きで、それでわたしに嫉妬してるだけじゃん」

 一ノ瀬は意地悪く笑う。

「なっ!?」川口は目を見開く。

「なに? 仲間に入れて欲しいの? なら川口さんも引きこもれば?」

「意味分かんない」

「だいたい智樹に学校に来て欲しいなら直接本人に言えばいいじゃん」

 川口は言葉に詰まる。

「本人に会うのが怖いんでしょ? あんなこと言っちゃったあとだから何て言えばいいか分かんないんでしょ? その程度の関係なら関わってこないでよ」

 一ノ瀬は嘲笑した。

 川口は何も言えない。一ノ瀬に指摘されたことは事実だった。

 けどそのことを素直に、はいそうですかなんて認めることはできない。認めるわけにはいかないのだ。

「あんたこそ!」川口は声を荒げる。「あんたこそ周りの人間に迷惑かけて傷つけて邪魔するなら、勝手に一人で部屋に閉じこもって一生部屋から出てこないでよ!」

 川口は一ノ瀬に背を向けて歩き出す。

 言いたいことを言ったはずだ。

 歩調が徐々に早くなってくる。

 晴れ晴れとした気分になるはずだった。すっきりとした気分になるはずだった。

 それなのに、心を満たしていくのは満足感ではなく後悔の念だった。

 川口はその感情を振り払うように、その場から逃げるように走り出した。

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