第2話

 山橋智樹と一ノ瀬佳代の出会いは春から夏へと移り変わる梅雨の時期だった。今年の気温は例年よりも高いらしく、梅雨の時期からすでに八月中旬並みに暑い日もあった。湿度が高くすっきりしない天気に少なからずこの二年一組の生徒も気分を曇らせていた。

 帰りのホームルーム。生徒は放課後への繋ぎであるこの時間を文字通りいい加減に過ごしていた。担任が教室に入ってきたことも気にせずおしゃべりを続けたり、部活に行く生徒は机の上に部活着を積んで準備を始めていた。だから、最初は担任がなにを言っているのか誰も理解できなかった。

「このままいくと一ノ瀬佳代は高校にいけなくなってしまう」

 生徒の喧騒はとまらない。担任は大きな咳払いを一つした。なにごとかと生徒の視線が担任に向く。

「一ノ瀬佳代に学校に来てもらわなければならない」

 いつもと違う重々しい物言いに生徒は一様に顔をしかめた。そして小さなざわめきが生まれる。

「一ノ瀬って誰だ?」

「知らねーよ」

「可愛い子じゃなかったっけ?」

「はあ? そんな子このクラスにいるかよ」

「男子ってサイテー」

「いや、そういう意味じゃなくてな」

「そういえば席一個空いてるよな」

「どこ?」

「一番前の端」

 視線が最前列の一番左、窓際の席に集まる。

「転校生用じゃなかったんだ」

「いやいや。今どき転校生のために空いた机と椅子があるって映画じゃないんだから」

「そういえば昨日のドラマ見た?」

「いや、寝ちゃったわ」

「っでなに?」

「一ノ瀬だろ」

「なんで学校に来させたいの? ほっとけばいいじゃん」

「またどうせ職員室でその手の話題があがったんだろ」

「っで男? 女?」

「佳代なんだから女でしょ」

「それでその一ノ瀬佳代がどうしたの?」

 疑問が疑問を呼び収拾がつかなくなる。担任がまた大きな咳払いをした。生徒は黙って次の言葉を待つ。

「だから、一ノ瀬佳代が学校に来れるようにみんなで援助しよう」

 みんなという部分に力がこもっていた。担任は教室の中に視線を巡らせた。担任のいつもと異なる視線の色を感じ取り生徒は思い思いの方向に顔を背ける。

 そんな中、ただ一人山橋智樹だけはぼんやりと前を見ていた。視線は黒板横に貼られている一枚のプリントに向けられている。内容は授業参観に関するものだった。智樹は小さな溜息を漏らす。父にはまだ授業参観のことを伝えていない。いつかは言わなければと思っているが、なかなか自分の口から伝えられずにいた。どうしようかな、と智樹が考えていたら担任と視線があう。

 担任の口許に獲物を見つけたような笑みが浮かぶ。

「それじゃあ山橋に頼むとするかな」

「へ?」急に名前を呼ばれて思わず間抜けな声がでた。

 クラス中の視線が山橋智樹に集まる。

「な、なんですか?」瞬間的に集まった視線も智樹の存在を認めると、興味なさそうにそれぞれの位置に戻っていった。

 誰も智樹に状況を説明しない。いや、その中でただ一人、隣の席に座っている川口唯香が慌てたように言った。

「えっと、一ノ瀬佳代さんみたい」

 川口の断片的な言葉だけでは状況を飲み込むことができない。

 川口に解答を求めるのは諦めて、智樹は担任を見た。

「お前には今日の帰り一ノ瀬佳代の家に寄ってもらう」

「誰ですかそれ?」

「そしてまず学生証の写真と中間テストの範囲を伝えてこい」

「えっ、ちょっと待ってください」

 焦りで脳が働かない。

「連絡係とかかな?」隣で川口は困ったような顔をしている。

 初めて聞く係の名前だった。

「それじゃ住所と、あと写真用のカメラ渡すから帰る前に職員室に寄ってくれ」

「……なんで僕がそんなことしなくちゃいけないんですか?」

 担任は黙って黒板の上に掲げられている学校の教育目標を指差す。『生徒は自ら判断し、何事も自主的に行動するべし』と達筆で書かれた文字が智樹を見下ろした。

「そういうことだから頼んだぞ山橋」

 担任は歯を見せて笑った。




 放課後。窓の外からは部活動に勤しんでいる生徒たちの活発な声が聞こえてくる。智樹は一人教室でプリントの整理をしていた。日直の仕事だかなんだかは分からないが、担任が今日中にやっとけと智樹に渡したものだった。

 まず紙を出席番号順に並べ、そのあと丸が付けられた選択肢ごとにプリントを分けなければならない。机の上に乱雑に積まれたプリントの束を手に持って、智樹は重苦しい溜息をついた。

「えっと、だいじょうぶ?」

 顔を上げると、通学鞄を肩にかけて川口が心配そうに胸の前で手を組み合わせていた。

 どうやら一度教室を出たあと、戻ってきたようだ。

「まあ、大丈夫じゃないってこともないな」

 智樹はプリントを番号順に机に重ね始めた。

 川口は辺りを見渡す。

「智樹くん、ひとり?」

 智樹の手が瞬間的に止まる。

「そうだけど」

 川口は困ったように視線を泳がせた。なにが言いたいのかわかったので、訊かれる前に智樹はこたえた。「もう一人の日直なら用事あるって言って帰ったよ」

「そ、そっか」

 安心したような、緊張したような声音。

「えっと、手伝おうか?」

 川口は遠慮がちにそう言った。

「習い事、あるんでしょ?」

「えっと、まだ、まだ時間あるからさ」

「ありがと。じゃあ、頼むよ」

 と、智樹が顔を上げて言うと、見ているこっちが恥ずかしくなるくらい川口は顔を綻ばせた。

「う、うん。まかせて、わたしこういうの得意だからさ」

 川口の頬は薄く赤らんでいた。

 小さな手、細い指が、プリントを仕分けていく。

「そういえばさ、さっきどうしたの?」川口は手を止めて訊いた。

「さっきって?」智樹は訊き返す。

「ほら、ホームルームのとき。智樹くんぼーとしてたでしょ?」

「……そうだったかな」

「なにか考え事でもしてたの?」

 川口は小首を傾げた。短く、綺麗な髪が流れる。

「なんだっけな。もう、憶えてないよ」

 嘘だ。鮮明に覚えていた。

「夕ごはんのことでも考えてた?」いたずらっぽく川口は言う。

「まあ、それもあるね」

「そっかー。ご飯つくってるんだよね? すごいよね」

「料理なら川口のほうが上手いじゃん」

 お世辞ではなかった。

「そ、そんなことないよ」慌てたように川口は顔の前で手を振った。「わたしは、ただ、智樹くんが料理してるって聞いて、それで」口籠もる。

 頬がさらに赤くなっていくのを智樹は眺めていた。

「なんか最近つくった料理で美味しかったのとかある?」

「あ、あるよ!」嬉々として川口は声を張り上げる。「えっとね、たしか今月の雑誌に載ってたんだけど、あっ、雑誌っていうのは月刊お手軽料理本で、それでね、その中にふわふわ卵の親子丼っていうのがあったの。それがね、難しいかなって思ったんだけど、わたしにもできたの、だから、だからね智樹くんならもっと美味しくできると思う」

 まるで何度も練習してきた台詞のように川口は一気にまくし立てた。

「すごいな。聞いてるだけで腹減りそうだ」

 智樹は笑いながら自分の腹部をさすった。

「うん。わたしもしゃべりながらお腹減ってきたもん」

 智樹と川口は顔を見合わせて笑った。

「あの、あのさ。もしよかったらなんだけど」そう前置きし、川口は視線を斜め下に向けて言った。「今度、ご飯、つくりに行こうか?」

 智樹は微笑む。

「だいじょうぶだよ。そこまで川口に迷惑かけるわけにはいかないからさ」

「そんな、わたし迷惑だなんて」

 真剣な眼差しの川口。

「そっか。なら、そのうちお願いしようかな」

 一呼吸置いて、やっと言葉を理解したかのように川口は破顔した。

「うん! じゃあ、いっぱい練習しとくね」

「期待してる」

 その言葉に川口は首をぶんぶんと縦に振った。

 作業に戻る。二人でやるとあっという間に終わった。

 智樹が分けたプリントを纏めて整理しているのを川口はなんだか名残惜しそうに眺めていた。

「これから一ノ瀬さんの家行くの?」

「まあ、頼まれちゃったからな」

 もじもじと座ったまま膝の上で指を組み替えていた川口は、意を決したように口を開いた。

「わたしも一緒に行こうか?」

「えっ? だって習い事、今日はピアノでしょ?」

「日にち、ずらせると思うから」

 智樹は少し思案した。

「行きたいの?」

「うん」川口は頷く。

「それじゃあ、川口に頼んで僕は帰ろうかな」

「へっ?」間の抜けた声が川口の唇から漏れた。

「だって行ってくれるんでしょ?」智樹は素っ気なく言った。「そういえばさ、さっき言ってた料理本ってどこに売ってた? せっかくだから買って帰ろうかと思うんだけど」

「あれ、ええ? えっと、智樹くん行かないの? あっ、えっと料理本は駅近くの裕生堂で売ってた」

 川口は律儀に質問にも答えてくれた。

「そうか。ありがと」智樹は鞄に持って帰るものを詰め、席を立ち上がった。「んじゃあ、また明日」

 片手を上げてその場を去ろうとした。

 智樹が歩く。川口の視線が追う。

 教室の扉に手をかけたとき、智樹は肩越しに振り返った。

 捨てられた子犬のような瞳で川口はこちらを見つめている。

「冗談だって、そんな困った顔すんなよ」

「え、ええ?」川口は動揺したように言葉を揺らす。

「僕は一ノ瀬の家に行く。だから川口はちゃんと習い事に行きな」

 川口はまだ納得いかないという顔をしていたが、智樹は意に介せず足を廊下に向ける。

「それじゃあ、また」

 今度こそほんとうの別れの挨拶。

 まだ呆けたままでいる川口は、戸惑ったような顔のまま言った。

「うん」

 教室を出る。

 大きく息を吸い込んで、智樹はプリントを担任のもとに届けに行った。




 灰色の雲が空を覆っている。いつ雨が降り出してもおかしくない天気だ。湿度は朝から高く、智樹の気持ちを沈めていた。校舎から出て担任から渡されたメモを握り締めながら智樹は歩いている。

「雨、降らないといいな」どんよりとした空に向かって呟いた。

 傘を持ってきていなかったので、自然と足が早まる。

 智樹は面倒なことを頼まれることが多かった。人間というのは自然と、断ることが苦手な奴を選んで指名するようだ。

 一ノ瀬佳代なんて名前も聞いたことがないような子のために、なぜ自分がこんな面倒なことをしなければいけないんだろう。

「都合のいい時ばっかり自主性、自主性って、そんなに言うんだったらまず自分が手本見せろっての」

 そう担任にぼやき、メモを確認する。一ノ瀬佳代の家が遠い場所ではないことを願う。

「ん?」

 足がとまった。よく見ると見慣れた住所がそこには書かれていた。

「どういうことだ?」

 担任から渡されたメモには智樹の家の住所と思われるものが書かれていたのだ。一瞬担任が書き間違えてしまったのかと思ったが、よくよく確認してみると担任から渡されたメモの住所は智樹の家とは番地が一つずれていた。

「僕の家の近くなのか」

 面倒だなと思いながら再び足を進める。

 しばらく歩くと見慣れた建物が視界に入った。

 地震がきたらすぐに崩れそうなぼろぼろのアパート。今は珍しくなったトタンの外壁。外側に出ている二階へと続く階段はペンキが剥げ、錆びて劣化している。足を載せるときしむ音が鳴るので、誰かが二階に上がると住民全員が気づく。

 智樹は自分の家である二階を見つめた。まだ部屋の明かりはついていない。父が帰ってくるまでまだ時間がある。

 智樹はメモを見る。目の前にあるのは自分の家だが、書かれている住所はその隣だ。

 視線を横にずらす。そこには二、三年前に建てられたいかにも家賃が高そうなマンションがあった。メモに書かれた住所を見る。マンションの名前を確認する。

「……こっちか」

 この地域にはあまり見られない高級感溢れている七階建てのマンション。一階は大きな窓ガラスで囲われ、中のエントランスには管理人と思われる女の人が、ビルの受付のような格好でカウンターから顔をのぞかせていた。

 このマンションが建てられた時に父親が言っていた不満を思い出す。日光が遮られ、また住んでいる住人のモラルが低く、たまに騒音とも呼べる叫び声が聞こえると。

 智樹自身もこうもまざまざと世の中の不平等さを見せつけられると、得も言われぬ気持ちになる。見るたびに自分が社会の中でどういう立ち位置なのか思い知らされる。

 智樹は細く長い息を吐いた。肌からはじんわりと汗がでている。

「ここに、入るのか」

 緊張感が心臓の鼓動を速めた。握っているメモが汗で柔らかくなる。

 智樹は足を向けた。自動ドアが開き、中にいる管理人が頭を下げた。智樹は軽く会釈を返して中にもう一つあるガラスのドアの前に立つ。扉は開かない。押す場所があるのかと軽く手をあてるが、ドアは反応しない。

「オートロックです」管理人が後ろから声をかけた。

 すいません、となぜか謝って智樹はインターホンに向かう。メモを取り出して部屋番号を押す。反応を待つ。応答がなく切れた。もう一度押す。また時間が経過して自動的に切れた。中にいないのだろうか。智樹はまたメモを確認する。部屋番号は間違っていなかった。

 どうしようかと辺りを見回しながら困惑していたら管理人が訊ねてきた。智樹が事情を説明すると管理人は暫く考える仕草を見せたあと、ドアを開けてくれた。

「他の家には入っちゃだめよ」

 智樹は深く頭を下げてエレベーターで二階に上がった。部屋番号とメモに書かれた番号を照らし合わせながら進み、一ノ瀬と書かれた表札の前で足をとめる。

「ここか」

 ドアを見る。紙が貼ってあった。『いま、お母さんはいません』

「ってことは一ノ瀬佳代はいるのかな」

 こんな高級マンションに住んでいるのはどんな人物なのだろう。お金は持っているはずだ。一ノ瀬佳代はお嬢様なのだろうか。いわゆる箱入り娘で、ひらひらの洋服を普段着ていて、欲しいものは何でも手には入って、危ないものは両親が取り除いて、甘やかされて育てられて、甘やかされすぎて学校に行かなくなったんだろうか。そんな少女を智樹は想像した。

 汗ばんだ手を制服のズボンで擦ってから智樹はインターホンを押した。呼び鈴がなる。姿勢を正して待つ。反応がない。もう一度押す。が、やはり中から誰かが出てくる様子はない。

「いないのかな」

 智樹は電気メーターを見る。メーターはかなり速いスピードで回っていた。確実に中の住人はクーラーをつけている。智樹は顎に溜まった汗を手の甲で拭った。

 とその時、覗き穴が瞬いた。いや正確に言えば何度か影が入った。誰かがこちらを覗いている証拠だ。

 智樹はノックした。覗き穴から漏れる光が明るくなる。

「居留守、か」

 それならそれでよかった。元々面倒な仕事だ。相手が拒否しているならこちらにも言い訳というものができる。明日担任には誰もいませんでしたと言っておこう。智樹は鞄を開けた。ポストに入れようとプリントを探す。中をまさぐっていると、いつだったかコンビニで買ったチュッパチャプスが目にとまった。なんの気なしに取り出して、包み紙を外して口にくわえる。

「えっと、プリントはどこだ」

 無造作に入れられた体育着やら教科書やらがプリントを隠していた。ようやく目がプリントの端を捉えた時、扉が開く音がした。濃いグレーの扉がゆっくりと隙間を広げていく。意表をつかれた格好となり智樹は身を強ばらせた。すると中から細くて小さな手がでてきた。その手がなにかを要求するように開いたり閉じたりしている。

 智樹は誘われるように思わずその手を握ってしまった。

「あっ」自分のしたことに驚いて声が出る。

 思わず握ってしまったがこの扉の向こう側にいる人を智樹は知らない。一ノ瀬の家にはいま誰がいるのだろうか。本人か、それとも妹や姉がいるのだろうか。いや、そもそもこの手は女なのか、それとも男なのか。そもそもなぜ自分は手を握ってしまったのだ。色々な考えが頭を巡る。

 小さな手が戸惑うように智樹の手を握りしめたので思わず心音が大きくなった。小さな手はもぞもぞと動いて智樹の手首を握った。智樹が次に小さな手がとる行動を見守っていたら、額に衝撃が走った。

「いっ!」鈍い音。扉が突如大きく開いて智樹の頭を打ったのだ。

 痛みで瞑っていた目を開くと、そこには仁王立ちで立っている小柄な少女がいた。上下グレーのスウェット。長い前髪は表情を隠し、肌は日焼けを知らないように白かった。柔らかそうな薄い色の唇が動く。

「なんでわたしの手を握っているのかな?」

 口調で少女が怒っていることが分かった。智樹は突然のことに驚いて呆然と少女を見つめる。

「っで、いつになったら離してくれるの?」

 少女が小さな白い手を動かした。

「あっ、ごめん」慌てて離す。手に残る柔らかい感触に智樹の動悸は激しくなった。

 少女は智樹を睨む。

「ねえ、飴は?」

「えっ、なに?」

「飴だよ飴。いま舐めてんじゃん」

 少女は智樹の口許を指差した。

「あっ、ああこれねこれ」

 智樹は自分の鞄をあさる。キャラメル味のチュッパチャプスを見つけて少女に差し出す。少女はもぎ取るように智樹から受け取った。そしてすぐに舐め始める。智樹はその光景をどこか夢でも見ているかのような感覚で眺めていた。

 自分が想像していた一ノ瀬佳代の姿とあまりに目の前の少女が異なっていて、少しの間呆けていた。

「なに?」少女が鋭い視線を送る。

「あっいや」そこで智樹はようやく自分がこの場所にいる理由を思い出した。「あの、もしかして君が一ノ瀬佳代だったりする?」

「そうだけど」

 よかった。一応本人に会えた。一ノ瀬は怪訝そうな顔で智樹を見る。

「あっえっと僕は同じクラスの山橋智樹。っで、先生から色々言われてさ、来たんだけど、えっと、これ」

 鞄からプリントを取り出して渡す。一ノ瀬は手にとってそれを眺めた。

「へー転校生なんだ」

「へ? だれが?」

「智樹がだよ」

 いきなり呼び捨て。しかも意味が分からない。ちなみに転校生ではない。

「ねえ、なんかすごいことできる?」

「えっ? すごいことって?」

「右手から炎が出たりとか。一万円札が二万円札に増えたりとか」

「……できないけど」

「なんだ」一ノ瀬はつまらなそうに言った。「それじゃあ、受け取ったからばいばい」

 やり取りが全く噛み合わなかった。

 一ノ瀬はドアを閉めた。ドアが閉まったあと、写真を取らなければいけなかったことを思い出し、再びインターホンを押す。反応がない。何度呼び鈴を押しても中から応答はなかった。しょうがないのでドアを開ける。

「一ノ瀬ー、いるかー?」

 さっき会ったんだからいるに決まっている。我ながら馬鹿な問いだ。

「勝手に入ってくるとはいい度胸だ」

 折れ曲がっている廊下の奥から一ノ瀬が顔を出した。長い髪が地面に垂れる。

「けど、その遠慮のなさは気に入りました。どうぞー」

 そう言って一ノ瀬の顔は引っ込んだ。

「入っていいってことだよな」

 自分にそう言い聞かせながら靴を脱いでおじゃましますと言って智樹は家にあがった。廊下の奥から冷たい風が流れてくる。やはりクーラーを効かせているのだろう。汗ばんだ皮膚が徐々に乾いていく。智樹は進む。天井は高く、廊下の幅も広かった。壁と天井は白を基調としていて明るい。廊下の突き当たりを左に曲がる。一ノ瀬の姿はなく、さらに進んで今度は右に曲がった。一ノ瀬の姿はない。壁にある扉が部屋に続くのかと思って開けてみたら、そこは部屋かと思えるほど広いトイレだった。

 自分の家とあまりに違う広さに軽い目眩を覚えた。

 また進む。突き当たりの扉が僅かに開いていた。

「一ノ瀬、そこにいんのか?」

「いるよー」間延びした声。

 智樹は突き当たりの扉を、開けた。

「うお、なんだこれ」

 開けた瞬間驚いた。部屋が広い。広さにして二十畳ほど。けれどそれ以上に驚いたのはそのすべての面積を埋め尽くすほどの物の山だった。

「よく来たね」

 一ノ瀬は服だか雑巾だか分からない布の山の上に腰掛けて、五十インチ程ある液晶テレビでなにかの映画を見ていた。

「まあ、適当に座ってよ」

「えっと」智樹は見回す。一見どこでも座っていいように見えるが、どこも座ってはいけないようにも見える。「どこに座れば」

 とりあえず物の山に足を踏み入れながら智樹は一ノ瀬のもとに向かった。一歩足を動かすたびに深い雪の中を歩いているかのような気分になる。

 一ノ瀬の態度、そして部屋の汚さを知って、智樹は丁寧に接することをやめた。

 気を遣っているのがバカらしくなってくる。

「それにしても汚ない部屋だな」

 智樹は一ノ瀬に近づく。と、一ノ瀬が妙にそわそわしているのが分かった。なにかに期待しているような眼差しでちらちらとこちらを窺っている。

「えっと、なに?」

「いや、こういう部屋見たら無性に掃除したくならない?」

「全然」智樹はきっぱりと言った。

「なんだー、つまんないの」

 一ノ瀬は頬を膨らませて後ろに倒れた。地面に積もっている山の中からシャツを一枚取って顔の上に被せる。

「男ならー、汚れた部屋を見たらー、無性に掃除がしたくなれよー」抑揚のない声。

 智樹は一ノ瀬の顔にのっているシャツをつまみ上げる。一ノ瀬は言った。

「わーれーわーれーは、実は宇宙人なんだ」

 智樹は溜息を交えて言った。

「どう見ても我々と言えるほど大勢はいないぞ」

 智樹は鞄からデジタルカメラを取り出して、証明写真ということで申し訳ない程度に一ノ瀬の頭の下に青色のシャツを入れて、シャッターを切った。フラッシュがたかれる。

「な、なに」一ノ瀬は驚いたように顔の前で手を振った。「あれか、わたしが可愛すぎるから勝手に写真とって、それをサイトにアップしてそんでわたしを装ってそのままネットアイドルを目指して、そんで、そんで」

「証明写真だっての」

 撮った画像を確認する。目は眠いのか半開きだし、髪の毛はぼさぼさ、口からはチュッパチャプスの棒が飛び出している。とてもじゃないが正式な写真として扱われなさそうだが、まあいいかと智樹はそのままカメラを鞄に突っ込んだ。そして鞄を置いて一ノ瀬の隣に腰を下ろす。部屋を見て気になったことを質問する。

「この部屋ってひとりでつかってんの?」

 一ノ瀬は素早く瞬きした。そして驚いたように言った。

「智樹にはわたしの他に誰かが見えるの?」

 まともな返事を期待したことが馬鹿らしくなってくる。智樹は何度目かの溜息をついた。

「ついでだからさっきのプリント今書いてよ。明日持ってくからさ」

 一ノ瀬佳代が変な人間だと分かったので、できる限り早く頼まれたことは終わらせたかった。

「さっきの?」一ノ瀬が訊き返す。

「そう、なんか今までの確認書類だかそんな感じのものらしいからさ。保護者用のは今度でいいから」

「別にいいけど」一ノ瀬は寝転がったまま首を振って見回した。「もう、プリントどこいったか分からないよ?」

「……はい?」

「まあ、それでもいいなら智樹探せば?」

 一ノ瀬は寝ようとしているのか身体を横向きにして丸めた。

「おい」智樹はつま先で一ノ瀬の背中をつつく。「どうしてさっき渡したのがなくなる?」

「なくなってないよ。どっかにある」

「じゃあお前が探せ」

「やだよめんどくさい」

 面倒なのはお前だ、と智樹は思った。智樹は一ノ瀬の下敷きになっているシャツやらシーツやらを持って、力いっぱい引っ張った。「お、おおう」一ノ瀬が驚きの声をあげて転がる。回転したまま壁にぶつかってとまり、動かなくなった。

 少し気が晴れる。

「おい、起きろ」

 反応がない。

「早くプリント探すぞ」

 反応がない。

「ま、まさか……死んでる?」一ノ瀬が顔をもたげて真剣な面持ちで言った。

 智樹は嘆息する。

「お前が言うな」

 一ノ瀬は頬を膨らませた。

「くそー、玄関先で飴をチラつかせるとこから全部仕組まれた罠だったのか。完全にやられた。屈辱的だ」

「ドアを開けたのはそっちだろ」

 視線をふと横にずらすと一ノ瀬が転がった拍子に舞った紙の中に目当てのものがあった。

「お前……踏んでたんじゃねーか」

「さて、なんのことか」

 智樹は頭を掻く。一ノ瀬の上体を起こして、自分の鞄からペンを取り出し握らせた。近くのゴミの山から下敷きとなる雑誌を取って渡す。

「ほれ、名前書けばいいからさ」

 一ノ瀬は大きな欠伸を一つついてからペンを動かし始めた。熱心にプリントに顔を近づけてペンを動かす。その表情が先程と一変していたので智樹はすこし驚いた。けれど一枚にかける時間があまりにも長く、だんだん疑いの目を向け始める。

 プリントを横から覗き込んだ。

「おい、なに書いてんだ」

 書かれていたのは文字ではなく、幾何学的な模様だった。

「ピカソもびっくりだよね」

「頼むから普通の会話をしてくれ」

 智樹は一ノ瀬からプリントを奪って消しゴムで消そうとした。けれどボールペンで書かれていることに気づき、愕然とする。

「み、見なかったことにしよう」

 智樹は紙を丸め込んだ。視線を巡らせる。ゴミ箱が見当たらなかったので適当に放り投げた。

 別の紙を渡す。

「今度は、ちゃんと書けよ」口調を変えて一ノ瀬に言った。

 一ノ瀬は大袈裟に怖がる。

「ひどい、なんて言い草だ。そんなこと許されると思ってるの?」

「なんだ、どうかするのか?」

「先生に……先生に言いつけてやる!」

「……学校に行ってないのに?」

 はっ、と驚いた顔をしたあと、なにごともなかったかのように一ノ瀬はペンを動かした。今度は真面目に自分の名前を書いている。

 一ノ瀬の横顔を見つめていたら単純な疑問が智樹の頭の中に浮かんだ。

「学校、なんで行かなくなったんだ?」

 一ノ瀬佳代は変わった人間ではあったが、不登校になるほどの要因はどこにも見られなかった

「代わりに魔法学校に行ってたから」

 智樹が求めている返事は一ノ瀬の口からは出てこなかった。

「よく分かんないけど、中学ちゃんと行かないと大変らしいぞ」

「働かないと生きていけないってやつ?」

 一ノ瀬は小首を傾げて智樹を見た。

「そうそう」

「わたし、そういう説は信じてないからさ」

 一ノ瀬はまたプリントに視線を戻す。

「いや、事実だからさ」

 沈黙が降りる。

「何か学校であったの?」

 一ノ瀬は何も答えない。

 智樹は後頭部を掻いた。

 ふと外の雨音が耳に入った。どうやら降ってきたらしい。ベランダに干した洗濯物が気になりだした。

「できたよー」

「うん。まあいんじゃね」

 字は汚かったが、一応は署名されている。智樹は立ち上がった。

「それじゃあ僕は帰るから、勉強しとけよ」

「へ? なんで?」一ノ瀬は座ったまま小首を傾げる。「なんで帰るの?」

「疑問に思うとこそっちじゃないから。また来るよ。そん時は中間テスト持ってくるから、それの勉強をしといた方がいいってこと」

「ここでやんの? いいのそれ?」

「まあ」確かに自宅でやってもいいのだろうかと疑問に思う。ただ担任が是と認めていることにわざわざ口を挟む気にもなれなかった。「いいと思う」気にしないことにした。

「じゃあ、勉強しとけよ」智樹は靴を履いてドアを開けた。蒸した空気が肌を撫でる。

「らじゃー」一ノ瀬は頼りない敬礼をした。

 一ノ瀬佳代。これが高そうなマンションに住みながら上下スウェットで部屋は汚くて、髪はぼさぼさで、変な性格をしている少女と山橋智樹の出会いだった。

 智樹は家に帰り、面倒なことを頼まれたもんだと担任を恨みながら洗濯物を取り込むためにベタンダに出た。

「おー、智樹じゃん。どうしたの?」

 そこにはベランダから空を眺めていた一ノ瀬がいた。

「お向さんなんだね。これからもよろしくー」

 一ノ瀬は指を二本立てて笑った。智樹は頭を抱えた。

 頭を抱えて目をつぶっていたら、ふと胸の中で何かがざわめくのを感じた。慌てて目を開けて一ノ瀬を見る。一ノ瀬は明るく笑っている。けれど、その顔を見ていたら不安が身体の中に広がっていった。

 一ノ瀬とは初対面だ。なのに自分が一ノ瀬に対して抱いている感情は、どこか懐かしい人に再会したときに感じるようなそれだ。

 どういうことなのだろう。

 消化できない感情に戸惑って、智樹はそのまま逃げるように部屋の中に戻った。




 夕食の時間。

 今日は珍しく父が早く帰ってくるので一緒に夕飯を食べることになっていたが、一ノ瀬の家に寄っていたのであまり料理にかける時間は残されていなかった。

 冷蔵庫を開けて、昨晩の残りの漬物を取り出し、魚を焼いて、味噌汁をつくった。

 父が帰ってくるのを待って夕食をとる。

「学校はどうだ?」父は箸をすすめながら、さりげなさを装って訊いてきた。

「うん。まあまあだよ」

「もう中学入って一年か。部活とか入らないのか?」

「今さら無理だよ」

「なら、もっと遊んで来い。せっかくの中学校生活、家にいてばっかじゃつまらないだろ?」

「そう、でもないよ」

 父は少しだけ落胆の色を見せたが、それをすぐに消して他愛のない話を始めた。

 父は智樹に友人をつくることをいつもすすめる。毎日の会話で、智樹に友達ができたかどうかを探ってくる。それが嫌でならなかった。

 智樹はカーテンで閉められた窓の方を見る。あの向こうには一ノ瀬がいるはずだ。

 自分よりも位が低そうな一ノ瀬を知って、智樹は安堵を覚えていた。少なくとも自分は一ノ瀬と違って毎日学校に通っている。父にそのことを伝えれば安心してもらえるだろうか。

「そういえば、今日さ」

「ん? どうした?」父はテーブルに身を乗り出した。期待するような眼差し。

「いや、なんでもない」

 そう言って智樹は食器を流しに持っていった。

 位ってなんだよ。自分より友達が少なそうで、しかも引きこもり。たしかに一ノ瀬はそうだが、だからなんなんだ。一ノ瀬を見て安心していた自分がいたことに嫌悪感を抱いた。

「風呂、先入っていいぞ」父は言った。

「あっ、うん」

 身体の汚れを落とし、明日の学校の準備を始めた。

 父が風呂に入っている間、鞄から一枚のプリントを取り出した。授業参観の案内。その文字列に視線を走らせたあと、智樹は近くの筆立てにささっていたカッターを取り出して切り刻んだ。細かくなった紙片をまとめてごみ箱に入れる。

 父には来て欲しくなかった。

 友だちもいなくて、誰とも会話をせずに一人で椅子に座っている姿を見られたくなかった。

 父はいわゆる体育会系だ。たまに学生時代の写真を見せてくるが、仲間とサッカーしたり、登山したり、海に行ったり、どの写真も父は楽しそうに笑っていた。若い頃にバカやっていたことを照れたように、それでいて自慢げに語る。

 その話を聞くたびに智樹は気持ちが暗くなった。友だちがいなくて家にいることを責められている気がして、どうしようもなく苦しかった。




 次の日の学校。昼休み中に机に伏して腕の中に顔を埋め、時間が経過するのを待っていたら、隣の席から川口が声を掛けてきた。

「智樹くん」

 呼びかけられて智樹はちょうど目を覚ましたかのように目を擦りながら顔をあげる。

「なに?」

「あ、あのさ。一ノ瀬さんって変な子だった?」

 川口唯香は智樹と接点の多い人間だ。幼稚園、小学校と同じで、物心つく頃には智樹の近くに川口の存在があった。親しみやすい性格で、智樹とは違って友人も多い。

 昔はよく一緒に遊んでいたが、今ではこうして学校で会話をするぐらいだった。

「あれ、川口知り合い?」いかにも会ったことがあるという物言いだったので智樹は訊き返した。

「うーん、知り合いと言えばそうだけど、正直あんまり憶えてないかな。小学校のとき何度かクラスが一緒だったの」

 ということは智樹とも同じ学校だったということだ。けれど一ノ瀬佳代という名前は記憶のどこを探しても見つからなかった。

「ってことは近くから引っ越してきたんだな」

「なんで?」

 智樹は一ノ瀬の家の様子を説明した。

 小学校が一緒ということは一ノ瀬は同じ区画の中で距離の短い引っ越しをしたことになる。

「へー、一ノ瀬さんあそこに住んでるんだ。いい家だね。うらやましいなー」

「川口の家だって大きいじゃん」

「そ、そんなことないよ」

 小学校の頃、よく智樹は川口の家に遊びに行っていた。記憶が間違いなければけっこう大きな戸建住宅だったはずだ。どちらの方が値段が高いかはわからないが、智樹にとってはどちらも高級住宅だった。

「一ノ瀬って前はどこに住んでたの?」智樹は質問した。

「えーと、いや、正直小学校のときにどこ住んでたかは覚えてないなあ」

「まあ、あそこに住んでんだからそれなりに金持ちだろうね」一ノ瀬の家を思い浮かべた。

「今日も一ノ瀬さん家行くのかな?」

「まあ一応」

「あの今日はわたしも習い事ないし、一緒に行こうかな? ほら、昔の知り合いでもあるわけだし?」

 知り合いなのだとしたら、担任が一ノ瀬の話をした時に、なぜ申し出なかったのだろう。

「せっかくだけど遠慮しとくよ」

「えっ、なんで?」慌てた口調の川口。

「一人でもなんとかなりそうだったからな。わざわざ川口に手伝ってもらうまでもないよ」

「でも、一ノ瀬さん女の子だし」言い淀む川口。

 智樹は心のなかで溜息をついたあと言った。

「いや、正直言うとさ、もうやめたいんだ」

「えっ? どうして?」

「けっこう一ノ瀬が変わった性格だったからさ。でも、一度引き受けちゃったからなー。それに断るほど嫌ってわけでもないし。ただめんどくさいだけで」

「なら、わたしが手伝ったほうが」

「だからこそ」被せた言葉を強めた。「だからこそ、川口に迷惑かけたくないんだ」

 川口はなにかを言おうと口を動かしたが、紡ぎだされる言葉はなかった。

「でも、ありがと」

 智樹はつけ足すように言った。

「あっ、ううん。いいの。でもなんか手伝えることあったら、わたしなんでもするからなんでも言ってね」

 川口は焦ったようにそう言って去っていった。

 智樹は窓の外を見た。季節は梅雨に入り。外では雨滴が木々や地面を濡らしている。いつもは心地良い雨音もなんだか不快に感じられ、どんよりとした空が智樹の気を滅入らせた。


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