寝床に身を寄せるのは
『ホラ、モウ少シダ』
俺は、屋上のドアをキィ、と開いた。パタン、パタン、と妙に響く自分の足音だけを聞きながら青空の下へ踏み出し、柵を越える。
『オマエハ、死ヌンダ』
ふらり、視界が揺らぎ、屋上からはるか下方のグラウンドを臨む。飛び降りればひとたまりもないだろう。……そこまでの感想が頭に浮かんで、ようやく気付いた。
そうか、これは昨日の記憶だ。頭の中に響いた妙な声に導かれて、俺は屋上から飛び降りようとしていたんだ。昨日はクラスメイトの女子に声をかけられ、何とか自殺せずに済んだわけなのだが。
……夢の中の俺には、どうやら助けの手は届かないらしい。
ぐらり、身体が傾き。地面が視界いっぱいに広がって――
「……うぉわっ!?」
そこで、目が覚めた。どうやら夢だったらしい。夢で日中の自分の行動を辿っていたようだ。
実際に声を上げてしまっていたみたいだ。寝汗もひどい。やれやれ、Tシャツを着替えるか。そして台所で水分補給でも……そこまで頭を巡らせ、起き上がろうとして、ようやく異変に気付いた。
腹が、重い。
胃腸の具合がおかしい類いの比喩表現じゃなく、実際に腹の上に何か重いもの……米袋くらいの重量物が載っている感覚だ。さらに妙なのが、その重量物がもぞもぞと動いているような気さえしている。我が家はペットを飼っているわけでなし、別にそんな重いものを抱えて眠る習慣なんて俺には無いんだが……そう思いながら、自分の腹の上に視線をやる。
何かがいる。
確信を持って言えることじゃないが、確かに何かがいるのだ。普通に視線を延ばせばそこにはドアがあるはずで、そのドアもちゃんと見えている。けど、何かいるという得体の知れない確信だけは頭から離れない。ちなみに俺には霊感と呼ばれる類いの力が一切無い。生まれてこの方、幽霊やお化けなんて見たことがない。なのに俺の寝ぼけた頭はその確信に従い、その何も見えないはずの空間に目を凝らした。
それは、確かにそこにいた。
見えないうちはそんなものが見えるとは到底思えない。けど、だまし絵の見え方を教わった瞬間のように。一度見えてしまうと、見えていなかった時に何故見えなかったのかが分からないくらいにはっきりとその存在が把握出来ている。
ゆるキャラの出来損ないのような、ずんぐりむっくりとした謎の存在。ひと抱えほどの大きさのクッションのようなかたまりのうち半分以上を占める顔のおかげで、これが生物に準じた意思を持つ類いの存在であることが推測される。
ぼんやりとした影のような、ほんのり赤みがかった黒い身体には、眼……と言っていいのだろうか。人間の顔で言えば眼に相当する場所にぽっかりと開いた穴からは薄い黄色の光がぼんやりと漏れている。たてがみなのか耳なのかよく分からないものが頭頂から後ろに流れ、顔のあごの両脇あたりからは実用性の無さそうな短い手が生えていた。
そして、そいつは。
『うけけけ……いい悲鳴だな、おい』
独り言を喋っていた。
「何やってんだ」
俺が声をかけたのは、そんな得体の知れない化け物から何の危機感も感じられなかったからだ。そしてその化け物が俺のかけた声に対して何の反応も示さなかったのは恐らく、こいつは俺が自分を見ている、見えているとは思っていないからだろうか。
「だからお前だよお前」
宙をふらふらと泳いでいた化け物の視線がピクン、と反応した。きょとんとした顔(なんだと思う)を俺の方に向け、きょろきょろと背後や周囲に目をやって俺が声をかける対象が他にないことに気付くや、俺にそーっと視線を戻し、その視線が俺のそれとまっすぐぶつかることに気付き、その全身がビン、と震えた。
『あ、あの……見えてます?』
「見えてるからお前に言ってんだろ。人の腹の上で何やってんだ」
デコピンをパチンと食らわせる。それだけで小さな化け物は俺の腹の上から転げ落ち、床にうつ伏せに倒れ込んだ。もう少し根性がある化け物かと思ったが、人から姿が見えないのをいいことに悪戯を仕掛ける類いの小物の化け物なんだろう。
「で、お前。俺の身体で何やってたの」
『い、いえいえ旦那、あっしは別に何も。ちょーっと旦那の記憶の障子を薄ーーーく開けてみただけっていう次第でして』
「ふーん。お前、人の夢操ったりすんの? それで俺が寝汗びっしょりになってるのを喜んで見てたわけだ」
『喜んで、なんて滅相もない。人の苦痛ってのは私等の糧ですからして、あっしは空きっ腹を埋める程度のことしか……ねえ?』
「俺にお前を養う責任なんてこれっぽっちも無いんだけどな?」
『…………面目ない』
見事に小物の喋りっぷり。その姿も、まるで土下座をしているかのように床の上で身体を縮込めて座っている(んだろう、多分)。今まで霊感のなかった俺にとって、こんな化け物を見るのは生まれて初めての経験だ。もう少し観察したいという気持ちはある。しかしこんな奴の相手をして睡眠時間を削るのも馬鹿らしい。
「ちょっとでも詫びの気持ちがあるんならさ、お前出てってくんない? 俺、ちゃんと寝たいんだけど」
『はい、それはもう! 何ならいい思いのする夢でもご案内出来ますが……グヘ』
「要らねえよ! とっとと出てけ!」
『はいぃぃぃぃぃぃっ!!』
サッカーボールのように奴の身体を蹴飛ばすと、想像以上の撥ね方で窓へ向かって飛んでいき、
そのまま窓ガラスをすり抜けて去って行った。
「ったく。何なんだよ、あいつは」
昨日の謎の空間、喋る猫や魔法少女姿のクラスメイトに出会ったことを除けば、これは生まれて初めての不思議体験ということになる。けどそれが全く嬉しくないのは、さっきの化け物の小物っぷりのせいだろう。
そんなどうでもいい苛立ちを抱えながらも再びベッドに潜り込んだ俺は、すぐに眠りについた。
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