First Contact phase#1

東條舞とうじょうまい、日本支部の命により着任しました」

「はい、ご苦労さん」

 適当な相槌あいづちを打ちながら、今村いまむら惣一郎そういちろうは、いつもの習い性から、無造作にも見える自然体で眼前に立つ少女の観察を始めていた。

 一見すると、造り物めいた印象を与える女の子だ。

 長い黒髪も、陶磁器のような白い肌も、目の前の惣一郎ではなく、別の遠いどこかを見つめているような瞳も、16歳とは思えない落ち着いた物腰も、どこか日本人形のような、突き放したよそよそしさがある。

 日本支部あちらさんから送られてきたプロファイルを見る限りでは判断しづらいが、それは作られた仮面なのか、もしくは彼女の素の表情なのか──。

 呆けたように舞を見上げる惣一郎の左上から、咳払いが落ちてきた。視線を移すと、かたわらに立つ梅津うめづ梓野しのが、半眼で惣一郎を見下ろしている。

 どうやら舞に見惚れていると誤解されたようだ。もっとも、誤解されたからといって特に痛痒を感じる惣一郎でもないのだが。

「おっと、これは失礼。確かに日本支部から報告は受けているよ。君の所属はしばらくの間、この六浦むつうら市支部預かりとなる」

「はい」

「僕は六浦市支部長の今村。こちらは梅津梓野くん。実質的なこの支部のとりまとめ役だ。わからないことがあったら、なんでも彼女に聞くといい」

「了解しました」

「任務の内容は聞いてる?」

「いえ。詳細は現地でレクチャーを受けるように、と」

 実に簡潔かつ明瞭な応答だ。いかにも優等生的な反応だが、逆に言えば教科書通りでもある。

 梓野が手元の携帯端末タブレットPCを操作し、壁際の液晶ディスプレイへこれからの指令に必要な情報を出力した。この手際の良さが彼女の持ち味であり、惣一郎が気に入っている一面でもある。言わずともこちらが欲しいと思ったことをやってくれる。以心伝心、などと言ったらおそらく梓野は怒り出すだろうが。

 ディスプレイには、一人の人物のプロファイルが映し出されていた。

 八原やはらゆう、16歳。名前や年齢と合わせて、正面からの顔写真や身体的特徴、簡単な経歴などが並んでいる。

 それら一連の情報の最後に、経歴と呼ぶにはあまりに異質な一文が記載されていた。


  [オーヴァードとして覚醒]

  [シンドローム:キュマイラと推定]


「今回の君の任務は、この八原悠くんを護衛することだ」

 無表情に護衛対象のプロファイルを見上げる舞を観察しつつ、惣一郎が説明を続ける。

「彼が通う学校に転入し、一般の生徒に扮して護衛してもらう。制服や生徒手帳など、学生生活に必要なものは一通りそろえているから、あとでこちらの梓野──梅津くんから受け取るように。学校に話は通してある。着任早々ですまないが、明日から早速任務について欲しい。……何か質問は?」

 文字通り微動だにせず、説明の間も無言のままディスプレイを見つめ続け、こいつひょっとして人の話を聞いてないんじゃないかと惣一郎にかすかな疑念を抱かせた舞は、最後の一言でようやく惣一郎へ向き直った。

「わたしの主要な任務は見敵必殺サーチアンドデストロイです。護衛任務エスコートはわたしの能力に合致していません」

 いきなり抗議ときたか。いやこれも質問の一種か。

 梓野がかすかに困惑する気配を受け流しつつ、惣一郎は口を開いた。

「コードウェル博士の宣戦布告からこっち、我らがUGNはどこもかしこも人手不足でね。任務を選べる状況じゃないのは先刻ご承知と思うが」

 惣一郎を見つめる漆黒の瞳には、相変わらずどんな表情も浮かんでいない。だが、どこかすねた子供のような印象を受けるのは気のせいか。

「あのね、東條さん……」

 フォローしようと一歩前に踏み出した梓野を制し、惣一郎は執務机に両ひじをつき、組んだ手へあごを乗せた。

「ここで一つ問題だ、舞くん。彼、八原悠くんに護衛が必要な理由は何だと思う?」

「彼を襲撃する何者かが存在するからですか」

 即答。とはいえ、当たり前の質問に当たり前の回答を返しただけではある。

「ご明察。まぁ現状では、その可能性がある、という程度だけどね。では次の問題。護衛を完全に成功させるための最終的な手段は何かな?」

「襲撃者の排除」

 これも即答。そして単純にして明快だ。

「そのとおり。つまり、護衛任務ではあっても、襲撃者を排除するだけの能力を持った人材が必要な訳だ」

 いいんですか支部長、という表情で振り向いた梓野を、惣一郎はあえて無視した。

 もちろん、襲撃者を排除せよなどという指令は、命令書のどこを探しても存在しない。しかし、敵の性質を考慮するなら、このくらいの拡大解釈は現場の裁量で許可されるだろう。いざとなれば惣一郎が詰め腹を切ればすむ話だ。だが、それは今ここにいる二人に説明すべき事柄でもない。

「もうわかるだろ? 君は適材適所ライトスタッフなんだ」

 惣一郎としては会心の一撃のつもりだったが、相手はかすかにうなずいただけだった。どうにも反応が読みづらいが、納得してくれたのならなによりだ。おそらく納得してくれたに違いない、と惣一郎は自分を納得させた。

「最後に一つ質問が」

「はいはい、なんでしょう」

 ともあれヤマはひとつ越えたようだ。舞の台詞から勝手にそう判断した惣一郎は、何でも聞いてくれ、というおおらかな気分で彼女をうながした。

「襲撃者は何者ですか」

「ああ、たぶんファルスハーツだろう。日本支部からの報告書でも、分析結果はそうなってる」

FHファルスハーツ……それは本当ですね」

「今の段階では可能性に過ぎないけどね。だけど、今までの経緯から考えても彼等が第一級の被疑──」

 惣一郎の言葉が尻すぼみになって拡散し、蒸発していく。

 その原因を作った少女は、うっすらと笑みを浮かべていた。 三日月のような怜悧な微笑ほほえみ。そう言ってよければ、凶暴──いやと言っていい種類の笑みを、舞はくちもとに張りつかせていた。

 それは、彼女がこの部屋に入って初めて見せた表情だった。

「わかりました。のですね」

 微笑んだままの舞が静かに言う。なまじ声音こわねが静かなだけに、その言葉の破壊力は圧倒的だった。

 明らかに動揺したらしい梓野の気配を断固としてスルーし、惣一郎はつとめて明るい声で舞に話しかけた。

「まあ、そういうこともあるだろうね。ただし、第一優先目標はあくまで八原悠くんの護衛だ。そこを忘れないようにね?」

「了解です。八原悠の護衛任務、拝命しました」

 日本人形のように静かな面立ちに戻った舞は、やはり表情のない声で任務を復唱した。

「はいはい、明日からよろしくね。支部に部屋を一つ用意したから、今日はそっちで休むといい」

 二人に一礼し、きびすを返した舞が支部長室から退出する。その姿を見送って、惣一郎は大きく息を吐いた。組んでいた手を解き、ふところの深い椅子に身体ごと沈み込む。

 こちらも小さく肩で息をついた梓野が、携帯端末のタッチパネルに指を滑らせて壁面のディスプレイを消灯する。

「特記事項にあった『要注意:性格に特異な形質あり』って、こういうことだったんですね……」

 端末のディスプレイ上に舞のプロファイルを呼び出しながら、梓野はつぶやいた。首を左右に倒して頸椎けいついを鳴らし、惣一郎が応える。

「まあそういうことだろうね。やぁれやれ、それならそうと最初から詳細な情報を送ってくればいいものを。霧谷きりたに氏も人が悪い」

 その台詞せりふに、タッチパネルをあやつっていた梓野の指が止まる。

「霧谷さんって……この任務、日本支部長直々の指令なんですか!?」

「あれ、言ってなかったっけ」

 明らかに初耳だが、惣一郎に悪びれる様子は微塵もない。

 軽い疲労を感じて、梓野は両肩を落とした。

「……今村さんもじゅうぶん人が悪いです」

「はっはっは、ごめんごめん」

 まったく誠意のない口調で謝罪され、梓野が再びため息をつく。視線を落とした先には、ディスプレイに浮かび上がった舞の顔写真があった。

「……大丈夫でしょうか、彼女」

「大丈夫って、なにが」

 悩み事などなにもない──少なくとも聞いた相手にそう思わせる、惣一郎のやる気のなさそうな返事に、梓野は少し腹を立てた。

「今回の任務です。彼女、きちんと遂行できるんでしょうか」

 なにかしら数奇な過去を持つUGNのメンバー──オーヴァードであればなおさらだ──の中にあっても、舞のそれは突出している。端末に呼び出された彼女のプロファイルには、その一端を想起させるいくつかの単語が並んでいた。


  [コードネーム:アトラク=ナクア]

  [幼少時にFHより保護]

  [保護時の推定年齢12歳]


 〝絶望を紡ぐ糸アトラク=ナクア〟。前世紀に執筆された、B級パルプホラー小説に登場する架空の神の名前だ。神とはいえ、書かれた小説の内容をかえりみれば、不吉を連想させる名ではある。

 だが、何度か変更する機会がありながら、舞は自らの意思で暗号名コードネームを変えず、現在に至っているという情報もある。彼女はどんな想いで、その忌み名コードネームを使い続けているのか──

「経歴がどうであれ、今はUGNの一員であることに変わりはないさ」

 頭の後ろに手を組み、なにげない口調で惣一郎がつぶやく。だが、心の内を見透かしたようなその一言は、舞に思いをはせていた梓野の虚を衝いた。

「それに、舞くん──悠くんもだが、子供が何かしたときにフォローしたり責任をとったりするのは、僕たち大人の仕事だろ?」

 違うかい? と惣一郎が梓野を見上げる。

 確かにその通りだ。ここには惣一郎も自分もいる。そして、この六浦市支部全体で、彼女たちをバックアップすればいい。

 視界が急速に開けていくのを自覚しながら、梓野は素直に惣一郎へ頭を下げた。

「申し訳ありません。彼女の雰囲気に、少し呑まれていたようです」

 この切り替えの早さも、梓野の長所の一つだ。もっとも、遅かれ早かれ、彼女なら自力で同じ答えにたどり着いていただろう。惣一郎は軽く彼女の背中を押しただけだ。だが、感謝と尊敬の念を向けられるのはまんざらでもないので、その点については黙っておくことにした。

「……あの支部長? なんか悪い顔になってますけど?」

 どうやら内心が表情に出ていたらしい。胡乱うろんげな半眼を向ける梓野から、惣一郎は視線をそらした。

「いやまあなんだ、ともあれまずは舞くんのフォロー、頼んだよ」

 梓野が背筋を伸ばしてうなずく。単純な子だ、という感想が惣一郎の心に浮かんだが、前例を考慮しておもてには出さないでおいた。

「はい。明日の準備、手伝ってきますね」

 敬礼でもしそうな勢いのまま、快活な足取りで梓野が支部長室から退出していく。

「はいはい、よろしくねー」

 梓野を見送り、惣一郎は執務机の端末を起ち上げた。

「さて、こちらはこちらであの子たちをフォローしないとね」

 日本支部が予測する、八原悠への襲撃。未然に防ぐことができるなら、それに越したことはない。

 今のところ情報は皆無に等しい。だが、膨大な有象無象からひとつづつ事実を選別し、積み上げ、組み合わせていけば、いつかは求めるものにたどり着く。

 いくつものウィンドウをポップアップし、当然のように同時作業マルチタスクを行いながら、惣一郎は情報の収集と分析を開始した。


  *  *  *


 この時間はいつも開け放しになっている扉から教室に入っても、悠に注目する生徒はほとんどいなかった。

 皆、殊更ことさらに意識して悠を無視しているわけではない。数人で雑談したり、本を読んだり、予習をしたり──悠の存在よりも興味を引くことがあるから、そちらを優先しているだけのことだ。

 特に親しくはないクラスメートの一人。ほとんどの生徒達は悠をそのように認識していたし、彼等のその距離感は、悠自身にとっても得がたいものだった。

「よう、おはよう悠」

 悠の隣に席を持つ雨宮あめみや良太りょうたが、軽く手を挙げて挨拶してきた。

「おはよう」

 悠も短く挨拶を返す。肩にかけていた鞄を窓際の机に乗せて席に着くと、さっそく良太が自席から身を乗り出し、顔を近づけてきた。

「おまえ聞いた? あの話」

「……なんのこと?」

 あの話もなにも、今学校に着いたばかりだ。まったく話が見えない──というつっこみを入れる間もなく、良太はしゃべりだした。

「転校生だよ、転校生。ウチのクラスに今日転入してくるんだってさ。しかも女子らしいぜ」

 口調も表情も、実に楽しそうだ。とはいえ、良太のテンションが高いのはいつものことだ。それほど長いつきあいでもないが、ダウナーな良太という存在が、悠には想像できない。

 話の内容は理解した。理解はしたが、その説明だけでなにか感想が思いつくはずもなく、悠は「へー」と返しただけだった。

「なんだよ、リアクション薄いなあ。女の子だぞ。女の子の転校生だぞ」

「いや、そんなこと言われても……。それより、そんな話どこから手に入れてきたの」

「ああ、おれじゃないよ。本多ほんだのやつが、先生達が話してるのを聞いたんだと」

 そう言って指さした先では、5、6人の女子がグループをつくり、かしましく雑談に興じている。そのなかでも一際大きなアクションで話題を振り、周囲の笑いを誘っているのが本多琴美ことみだった。

 通称ゴシップハンターことみ。真偽や精度はともかく、どこからか情報を仕入れることにかけては、確かに彼女の右に出る者はいない。納得できる情報源ソースではある。

「いやあ、楽しみだよなあ」

 後頭部のあたりで両手を組み、椅子の前足を浮かせて揺らしながら、良太が独りごちた。

「そんなに嬉しい? 転校生って」

「あったりまえだろ。すっげえかわいい子かもしれないじゃん? こう、学生生活にも華やかな色が欲しいしさあ」

 どこかの中年親父の願望、というより妄想のような良太の台詞を、琴美が耳ざとく聞きつけて振り向いた。

「ちょっとあめみやー? あたしたちは華やかじゃないっていいたいわけ?」

「のわっ!?」

 思わぬところからの不意打ちに、椅子ごとひっくり返りかけた良太が慌てて机にしがみつく。その様子を眺めていた数人の生徒が、一斉に吹き出した。

「いやいやほら、退屈な学校生活にもちょっとした刺激は必要って言いたかったわけで!」

 焦って取りつくろう良太を、琴美をはじめとする女子達が半眼で見下ろす。

「ふーん。じゃ雨宮の好みにぴったりの子だったら、みんなの前で告白とかしてみる? すっごい刺激的じゃない」

「いや、それわけわかんねーし!」

 まるで子猫のじゃれあいだ。たわいのないやりとりを繰り返す良太たちの声を聞くとはなしに流しながら、小さく苦笑した悠は窓の外にひろがる青空を見上げた。

 とりとめのない会話。

 特別なことは何も起こらない場所。

 ときに退屈でも、確かに過ごせる平和な時間とき

 そのどれもが大切な、かけがえのないものであることを、今の悠は知っている。

 そして、本来は自分がこの場所にいてはならない人間だということも。

 のんびりとした鐘の音チャイムが、悠の思考を途切れさせた。

 予鈴を聞いた生徒達が、それぞれの席に戻り始める。

 本鈴のきっかり二分前に、クラス担任でもある女性教師が教室の扉を開けて入ってきた。くだんの転校生らしき女生徒の姿が、担任に続いて現れる。

 教室が静かにざわめいた。

「……日直は?」

 本来なら、担任が来ると同時に日直が号令をかける決まりだ。だが、呆然と転校生を見上げていた日直担当の生徒は、担任の指摘でようやく我に返った。

「あ……、き、起立!」

 生徒全員が椅子を鳴らして立ち上がる。礼、着席、といつも通りに儀式は進行したが、それでも教室のざわめきは収まらなかった。

「はいはい、静かに。今日はご覧の通り、このクラスに転入する生徒を紹介します。では、自己紹介をどうぞ」

 手をたたいて教室を沈黙させ、担任が傍らに立つ女生徒を促した。一歩前に出た女生徒が口を開く。

「東條舞です。家族の都合でこの学校に転入することになりました。……よろしくお願いします」

 最後の一礼で、長い黒髪がさらりとこぼれた。ため息にも似た嘆声たんせいが、再び教室のそこかしこから上がる。

「……おいおい、こりゃ想像以上じゃねーの?」

 身体を倒した良太が、悠に耳打ちする。どんな想像をめぐらせていたのか知るよしもないが、その言葉のニュアンスは悠にも何となく理解できた。

 曖昧あいまいにうなずいた悠は、その転校生がじっとこちらを見つめていることに気づいた。はじめは気のせいかと思ったが、漆黒の瞳がまっすぐに悠を捉えている。

 その視線がはっきりした違和感となる前に、東條舞と名乗った少女は、担任から指示を受けて自分の席へ歩き始めていた。

「なあ、あの子ずっとこっちを見てなかったか?」

 再び良太が悠にささやく。

「まさか。妄想たくましすぎでしょ」

 笑って否定してみせると、良太は不満そうにぶつぶつとつぶやきながら体勢を戻した。そんな良太をスクリーンにしつつ、そっと廊下側の一番後ろの席についた転校生をうかがってみる。端正な横顔は教壇を見つめ、こちらを見ている様子はない。

 担任が出席を取り始めた。

 結局、ホームルームの間、悠が再度彼女と視線を合わせることはなかった。


  *  *  *


 昼休みが始まるのとほぼ同時に、悠の携帯端末スマートフォンが振動して着信を告げた。

 緊急連絡用に、と持たされた方の端末だが、これまで一度も着信を受けたことはない。胸がざわめき出すのを抑えつつ制服のポケットから端末を取り出すと、ディスプレイにはある意味想定外の文字が並んでいた。


  [From:Mai Tojyo

   Title:

   Body:屋上で待つ]


「悠、学食行こうぜ。今日はカツカレー大盛りサービスだぞ」

 良太が声をかけてくれなかったら、端末を握りしめたまま固まり続けていたかもしれない。悠は我に返ると、拝むように顔の前で手を立てた。

「悪い、ちょっと用事できた。他のみんなと行ってきて」

「お? じゃあ席とっとくか? ついでにカツカレーも」

「いや、どれくらいかかるかわからないから、いいよ」

「あー、わかった。じゃあな」

 片手を挙げて、良太が自分の席を離れる。深い事情を根掘り葉掘り聞かないのは、良太の良いところだ。もっとも、今は大盛りカツカレーに気をとられている可能性もなくはないのだが。

 端末をポケットにしまい、悠も足早に歩き出した。

「あれぇ? 東條さんもうどこか行っちゃったの?」

「学食組に連れて行かれたんじゃない?」

「えー? あたしたちこれから行くところだよ」

 舞を探す女生徒達の声を背に、教室から出る。悠が想像しているとおりの人物なら、誰にも気づかれずに教室を出るくらい、きっとたやすくやってのけるだろう。

 屋上は普段から生徒に開放されている。遠くには海も見えるこの場所は、いつもなら生徒が何組か弁当を広げているはずだが、悠が足を踏み入れたときには誰もいなかった。

 ただ一人を除いては。

 フェンスに手をえ、校庭を見下ろしていた舞が振り返る。

 無表情な漆黒の瞳に見つめられ、気後きおくれしそうになりながらも悠は彼女のそばへ近づいていった。

「来てくれたのね」

「……うん。きみ、UGNの人だったんだ」

「話が早くて助かるわ」

 悠は舞から着信を受けた携帯端末を取り出した。

「これ、UGNからもらったんだ。だからきみもその関係者だろうと思って。そのためにこれを使ったんでしょ?」

 舞がかすかにうなずく。

「そうね。──コードネーム〝アトラク=ナクア〟東條舞。あなたの護衛に来た」

「そ、そう」

 沈黙が降りた。

 気まずい空気がじんわりと悠を包み込む。まっすぐにこちらを捉える視線から逃れるために、あちこちに視線をさまよわせてみたが、無論のこと助けてくれそうなものはなにもない。

「ええっと……そのことを言うためにここまで?」

「教室でこんな話をするわけにいかないでしょう」

「気、つかってくれたんだ」

「後々面倒になりそうなことを避けただけよ」

「……そ……そう」

 再び沈黙が降りた。

 昼休みの喧噪が遠い。

 屋上を渡る風が、舞の黒髪を柔らかく舞いあげる。だが、それを美しいと感じる余裕は、今の悠にはなかった。

「は、話はそれで終わりかな……? なら、お昼ご飯も食べなきゃだし、そろそろ失礼させてもらおうかなって──」

「わたしはあなたの護衛に来た」

 ゆっくりと回れ右をしようとした悠を、舞の静かな声が押しとどめた。

「う……、うん」

「つまり、あなたは何者かに襲われる危険がある」

 これまでの会話となんら変化のない、抑揚のない声で宣告されたそれは、ひどく現実感にとぼしかった。悠自身の心理が、襲われるという単語に敏感に反応できる状態になかったこともある。

「わたしは全力であなたを護衛する。それが任務だから」

「……うん。あり……がとう」

「でも、万が一わたしのフォローが間に合わないことがあるかもしれない。そのときはあなた自身で身を守って。あなたもオーヴァードなら、多少の危険は排除できるでしょう?」

「………!」

 オーヴァード。

 人にはない能力ちから

 人ではあり得ない能力。

 人を簡単にこわすことのできる能力。

 腹の底から得体の知れないものがせり上がってくる。焦燥にも似た喪失感。どんな言葉でも表現できない、激しい想い。

 悠はようやく屋上に自分と舞しかいない理由を理解した。いや、思い出した。

 《ワーディング》。

 オーヴァードが持つ能力の一つだ。おそらく、舞が範囲を屋上に限定して展開していたであろうそれは、人の識閾しきいき下に働きかけ、その場所へ踏み込むことを回避させる。より強力に発動させれば、人の意識を喪失させることもできる。

 《ワーディング》が展開された領域に踏み込む──。

 悠にとって、それは自身がオーヴァードであると再認識させられることと同義だった。

 鳩尾みぞおちの違和感がより強く、大きくなる。悠は制服の上からそれをつかんだ。えぐり取れるならそうしたに違いないほど強く。

「八原くん」

 舞の呼びかけにも反応せず、彼女から視線を外したまま、悠は大きく深呼吸した。

 そう、これは彼女のせいじゃない。

 これはぼく自身の問題。

 ぼくが背負わなければならない罪。

「ぼくは、能力ちからはつかわないよ」

 悠は小さく、だが舞にはっきりと聞こえるようにつぶやいた。

 かすかに舞が首をかしげる。それを視界の端に捉えた悠は、今度はしっかりと彼女を見据えて宣言した。

「ぼくはオーヴァードとしての能力は使わない」

 舞の表情は変わらなかった。かわりに、彼女の小さな、形のよい唇が開く。

「あなたの身が危険にさらされても」

「うん」

「あなたが死ぬような目にっても」

「……うん」

 舞の表情は変わらなかった。

 だが、黙然もくねんと立つ彼女の姿に、悠は胸にかすかな痛みを覚えた。護衛の対象がおのれの命を軽んじてしまっていては、舞の努力を無駄にしているのと同じだ。

 けれど、悠の決意も簡単には変えられない。変えてしまっては意味がない。

「もう、行くね」

 胸にひろがる罪悪感から逃れるように、悠は舞から眼をそむけ、校舎内に続く扉へ向かって歩き出した。

 舞は追いかけてこなかった。

 声をかけてくることもなかった。

 その事実が、また悠の胸をちくりと刺した。


  *  *  *


 放課後、悠は部活に出る良太へ別れを告げ、教室を出た。

 教室に舞の姿は見えなかった。休み時間になるたびに他の女生徒に取り囲まれて質問責めにあっていたから、今頃そんな子達に連れられて校舎内を案内されているのかもしれない。

 そんな身勝手な想像を働かせ、悠は胸を撫で下ろした。そして、ほっとした自分に軽い嫌悪を感じつつ、足早に校舎を後にした。

 六浦市は、細い半島がまるごと行政区画に含まれた小さな市だ。その地勢から平地は少なく、標高は低いが山がちな地形が多い。

 電車の駅は市内の北部にしかなく、悠達が通う県立剣ヶ崎つるぎがさき高校は市の中央部に位置するため、勢い生徒達の登下校の手段は、バスか徒歩に限られていた。通学経路には起伏も多いことから、自転車通学を選ぶ剛の者はごく少数である。

 校門からしばらく歩いたところにあるバス停には、悠とおなじ帰宅部の生徒達が列を作っていた。その最後尾に並んで一息つき、何気なくあたりを見回した悠は、後に続く列の中に舞の姿を発見して硬直した。

 周りの生徒達が、明らかに舞を気にしてちらちらと視線を送ったり、お互いに耳打ちしたりしているが、彼女自身はそんな周囲を気にすることもなく、静かに車道を見つめている。

 落ち着け。あの子だって家に帰らなきゃならない。それならバスを使うのも当然だ。たまたま同じ列に並んでいるからといって、何を驚く必要がある。

 舞から視線をはずし、悠はむりやり自分を納得させた。

 だが、彼女はそんな悠の思惑を意に介するでもなく、悠と同じバスに乗り、悠と同じバス停で降車し、悠の後を一定の距離をたもってついてきた。

「………あのっ!」

 ついにこらえきれなくなり、悠は立ち止まって振り向いた。

 歩いていたときと同じ距離を取って、舞も立ち止まる。

「きみの家、こっちにあるの?」

 自分の向かう方向を指さし、悠は尋ねた。舞がふるふると首を横に振る。

「今は、支部の部屋を使わせてもらってる」

 支部があるのは北部の繁華街だ。悠の家の方角とは正反対である。

「じゃ、なんでぼくの後をついてくるの」

「護衛だから」

 さも当然とばかりに断言する舞。

 しばらく二の句が継げずに口を開けていた悠は、ようやく体勢を立て直して反撃に出た。

「それにしたって、四六時中しろくじちゅうぼくを見張ってるわけにいかないだろ。今日はもう遅いし、帰りなよ」

「問題ない。今日からあなたの家に泊まらせてもらう」

「え」

 悠の頭が真っ白になった。

 遠くから豆腐屋のラッパが聞こえる。

 おそろいの黄色い通学帽をかぶった小学生の一団が、二人を見上げながら通り過ぎていった。

 チワゲンカかな。アイのコクハクかもよ。くすくす笑いとともに交わされる小学生達の会話で自分を取り戻し、悠は舞に詰め寄った。

「ぼくの家に泊まるって、なんで! どうして!?」

「あなた、自分のを使いたくないんでしょう」

 静かにつむぎ出された舞の言葉だったが、悠はそれに反応して思わず身を反らしていた。

「う……」

「襲撃者はいつ襲ってくるかわからない。あなたが自宅で襲撃されない保証はない。なら、わたしがつきっきりで護衛すればいい。可能な限り、どこであっても」

 一分の隙もない理論武装──

 いやまて。納得してどうする。

「そ、それにしたって、ぼくら男と女だよ!? 高校生なんだよ!? 同じ家に寝泊まりしていいわけないでしょ!」

「なぜ? 護衛するのに男女の性差や身分は関係ない」

「だから……!」

 だめだ。自分では彼女を説得できない。敗北感に打ちのめされかけた悠は、だがそこで天啓てんけいを得た。携帯端末を取り出して電話番号を検索し、呼び出しコールする。

 相手は2コール目で通信に出た。

『もしもし、悠くん? 珍しいね、キミから電話してくるなんて』

「……あれ……」

 通話の相手は本来呼び出すべき人物と違っていた。

「あの、梓野しのさん? ぼく、今村支部長に電話したつもりだったんですけど」

『ああ。この電話番号であってるわよ。けど、なんかイヤな予感がするから後よろしくーって、端末おいて出て行っちゃって』

 悠が電話をかけてくることを予知したとでもいうのだろうか。そもそも、組織のおさとしてその対応はありなのか。

『それで、今日はなんのご用? 私でよければ聞くわよ』

「あ、そうだ」

 意外な成り行きにあやうく忘れるところだった。だが、通話に出たのが梓野で、逆によかったのかもしれない。今村支部長では、舞の提案を「面白い」の一言で承認しかねない。

「あの、いま東條舞って子と一緒にいるんですけど」

『ああ、もう顔を合わせたのね。あなたの護衛としてしばらくついてもらうことになったの。仲良くしてあげてね?』

「え…っと、それは良いんですけど」

『なあに?』

「彼女、ぼくの家に泊まるって言い出して。そういうの、まずいじゃないですか。でも、ぼくの説明じゃ帰ってくれなくて。梓野さんからも説得してくれませんか」

 先ほどひらめいた天啓がこれだった。上司の命令なら、いくら舞でも従わざるを得ないはずだ。ちょっと卑怯な気もするが、背に腹は代えられない。

 それに、悠が六浦市に初めて来たとき、いろいろ便宜をはかってくれたのが梓野だった。秘密組織UGNに所属する人間とは思えない常識的な対応に、当時はずいぶんと助けられた。

 その常識力を今回も発揮してくれれば。期待に満ちて待つ悠の向こう側で、長い間梓野は沈黙していた。

「あの、梓野さん?」

『……うん、良いんじゃないかしら、そのアイデア』

「ですよねー。いくらなんでもさすがに……って、はい!?」

『舞ちゃんがそう言うなら話は早いわ。悪いけど、しばらくの間、あの子をキミの家に泊めてもらえるかな?』

 予想外の展開。今度こそ本当に脳内を漂白されかけた悠は、慌てて意識の手綱を自分の手元にたぐり寄せた。

「ちょちょちょ、ちょっと待ってください!! それ、まずくないですか!? まずいですよね!?」

 端末を両手に持ち、それこそ噛みつかんばかりの勢いで反論する悠に、梓野があっさりと応える。

『なんで? それが一番合理的じゃない』

 ──この人も舞と同じ組織の人間だった──。

 頭のすみでそんな当たり前の事実を再認識しつつ、悠は最後の抵抗を試みた。

「で、でもですね! 若い男女が一つ屋根の下で暮らすなんて、何があっても責任持てませんよ!」

『古風な言い回し知ってるのねぇ、悠くん』

「梓野さんっ!!」

『大丈夫、悠くんのことは信頼してるから』

 その信頼のされかたもどうなのか。

 悠はがっくりと肩を落とした。

 もはや何を言っても無駄とさとった悠の心は、ついに折れた。梓野から舞に替わって欲しいとお願いされ、素直に携帯端末を隣でじっと待っていた少女に渡す。

 どこかでカラスが鳴いていた。

 ──気がつくと、目の前に携帯端末が差し出されていた。いつの間にか舞と梓野の会話は終わっていたらしい。端末を受け取って、悠はのろのろと制服のポケットに戻した。

「……梓野さん、なんだって?」

「支部に置いてあったわたしの荷物、全部あなたの家へ送ってくれるって」

「ああ……、そう……」

 なんという段取り魔人。昔助けられた手際の良さが、今は悠にとって完全に裏目に出ている。

「……帰らないの?」

 呆然と遠くを見つめる悠に、首をかしげた舞が問いかける。

 悠は大きくため息をついた。

「……そうだね。──帰るよ」

 重い足を引きずるように、悠が歩き出す。そのすぐ後ろを、同じ速度で舞がついていく。

 あかね色に染まる空のどこかで、再びカラスが鳴いた。


  *  *  *


 どうしてこうなった。

 それが悠のいつわらざる心境だった。

 リビングのソファに身体を預け、悠は呆けた表情で天井を見上げていた。キッチンからはリズミカルに包丁を使う音が聞こえてくる。

 この部屋はLDKとひとつながりになっているから、リビングからでもキッチンの様子を窺うことはできる。首を巡らすと、制服の上からエプロンを身につけた舞が、システムキッチンの機能をほぼフル稼働させて料理にいそしんでいるのが見えた。

 家の中にある食料が、いくつかの袋ラーメンと六枚切りの食パンしかないとわかった途端、舞は悠が止める間もなく、近場のスーパーマーケットで大量の食料を買い込んできたのだ。悠は荷物持ちとしてつきあわされ、軽く一週間分は超えようかという食料を運ぶ羽目になった。

 リビングのすみに目をやれば、見慣れない段ボール箱が無造作に積んである。二人が買い物に行っている間に届けられた、彼女の荷物だ。正規の運送業者ではなく、UGNの伝手つてを使ったに違いない、梓野の電光石火の早業はやわざだった。

 女の子の荷物にしては意外にものが少ないことが、唯一の救いではあった。

 油が勢いよくはじける音が聞こえてくる。悠が入居してから一度も使われることのなかったフライパンを、舞は器用に操っていた。

 天井に顔を向け、悠は眼を閉じた。

 なんだか疲れた。

 今日起きたことと言えば、舞が転校生としてやってきて、なぜか今、ここにいることくらいだ。ただそれだけなのに、ずいぶんと疲労を感じるのはなぜだろう。

 肉の焼ける、香ばしい匂いがただよってくる。

 どこか懐かしさすら覚える、心がほどけるような匂い。

 悠が眼を開くと、すぐそばに舞の顔があった。

「うわっ!?」

 ばたばたと手を動かして後退あとずさる。そんな悠を目線で追いかけた舞は、のぞき込んでいた体勢から上体を戻すと、料理のために髪を留めていたバレッタを外して頭を振った。さらりと黒髪が流れ落ちる。

「ごはん、できた」

「あ、そ、そう」

 舞の言葉にかくかくとうなずいて、悠は立ち上がった。

 胸の動悸がおさまらない。

 もう少し普通に呼んでくれても……と口の中でつぶやきつつ、ダイニングテーブルを見下ろした悠は、思わずその場で足を止めていた。

 白いご飯と、暖かな湯気をたてる味噌汁。

 少し見栄えは悪いが、ほどよく焦げ目のついたハンバーグ。

 レタスやトマトと一緒に添えられたポテトサラダ。

 漬け物はさすがに出来合いのものらしいが、手作り感満載の料理がそこに並んでいた。

 食欲をそそる匂いが部屋中に広がる。

 エプロンを外して椅子の背もたれにかけた舞が、悠を促した。

「冷めないうちに食べて」

「あ……うん」

 ぎこちなく席についた悠は、改めてテーブルの上の料理を眺め渡した。失礼ながらほとんど期待していなかったが、予想に反してどれもこれも美味おいしそうだ。そして、どこか懐かしい感じがする。

 悠は自然と両手を合わせていた。一人暮らしでは思い出しもしなかった、これも懐かしい習慣。

「いただきます……」

 舞が悠の対面に座る。二人の食事が始まった。

 ハンバーグを一口食べてみる。肉の旨味を上手に閉じ込めた、絶妙の焼き加減だった。

「……美味しい」

 炊飯器を使ったものだから、誰がいても同じになるはずのご飯も、きちんとだしを取った味噌汁も、口の中で柔らかくほどけるポテトサラダも、どれも逸品だった。しばらくこんな料理を食べていなかったことを割り引いたとしても、だ。

 一通り箸をつけた悠は、素直な賞賛を口にした。

「美味しいよ、みんな。ちょっとびっくりした」

「そう……?」

 ふと見ると、舞の前にある料理がほとんど減っていない。

「どうしたの? あんまり食べてないみたいだけど……」

 両手で味噌汁のお椀に口をつけていた舞は、うつむき気味になりながらお椀をテーブルの上に置いた。細い指が、戸惑うようにお椀のふちをもてあそぶ。

「……他の人に、わたしのごはん食べてもらうこと、あんまりなくて……」

 だからちょっと気になって、と小さな声で話す舞の頬は、気がつくとかすかにあかく染まっていた。

 思わず箸を止め、その姿に見とれてしまったことを自覚した悠は、慌てて声を張りあげた。

「それにしてもすごいね、この料理。誰かに教えてもらったの?」

 自分の食事を再開しながら、舞がこたえる。

「……UGNの施設にいたときに、そこの寮母りょうぼさんから」

「どうして料理を教わろうと思ったの」

「その施設で指導を受けた教官が、なにかひとつ趣味を持ちなさいって。ただ命令をこなすだけじゃ、味気あじけないから、って」

「ふうん」

 相変わらず口調に抑揚はないが、自分のことを訥々とつとつと話す舞の姿は、悠の眼にはずいぶんと新鮮に見えた。

「わたしが、何も思いつかないって言ったら、じゃあ料理にしなさいって言われた。エージェントは身体が資本だから、栄養をきちんと取ることが大切。料理を作れるようになれたら、趣味と実益もかねて一石二鳥でしょ、って」

 それで食料の買い出しを強硬に主張したのか。悠はなんとなく納得した。

「でも、その教官は料理が全然作れなかったから、寮母さんを紹介してもらった」

 悠は思わず吹き出した。口にものを含んでいなかったのが不幸中の幸いだった。茶碗と箸を置き、肩をふるわせて笑い出す。

 話を持ち出した本人は、そんな悠の様子を見ながらきょとんとしている。

「なにか、おかしかった……?」

「い、いや……だって……!」

 ようやく笑いをおさめた悠は、不思議そうに首をかしげる舞の瞳を見つめた。こんなに穏やかな気持ちで彼女の顔を見ることができたのは、これが初めてかもしれなかった。

「いいひとだね。その教官も、寮母さんも」

 悠の言葉を聞いた舞の表情が、一拍の間をおいてふわりとほころんだ。

「……うん。とってもいいひとたち……」

 うなずいて、悠は箸を取った。

 その後の食事は、二人ともほとんど無言だった。それでも、食器の音が控えめに響くその時間は、どこかち足りた空気に包まれていた。

「ごちそうさまでした」

 食事を終えた悠が、両手を合わせて頭を下げる。同じように両手を合わせた舞は、立ち上がって皿を片付けはじめた。

「あ、待って」

 悠も立ち上がって舞を押しとどめる。

「……?」

「片付けはぼくがやるよ」

「……でも」

「いいから。食事をごちそうになって、後片付けまでやらせたら申し訳ないよ。きみはそこで休んでて」

 手早く茶碗を重ね、シンクに運ぶ。料理の後だというのに、キッチンはきれいに片付いていた。これも寮母さんの指導の賜物たまものだろうか。

 食器を洗い始めた悠の背中に、舞が声をかけてきた。

「……それなら、お風呂借りてもいい?」

「うん、いいよ」

 上機嫌で悠が応える。予想外に豪華な食事に満足してしまった悠は、舞の言葉が持つ意味をほぼ完全にスルーしていた。

「ありがとう」

 リビングの隅に積んだままの段ボール箱から着替えやお風呂道具一式を引っ張り出し、両手に抱えた舞が洗面室へ向かう。

 その軽い足音を背中越しに聞きながら、はたと悠は気づいた。慌てて振り向き、足音を追いかける。

「ああああ、ちょっと待っ──!」

 だが一足遅く、舞の姿は洗面室の扉の向こうへ消えていた。

 風呂に入るためには、服を脱がなければならない。

 つまり、あの扉の向こうには、舞の──

 ぶんぶんと頭を振って、悠はその想像を脳内から追い出した。それ以上余計なことを想像しないよう、少し乱暴な手つきで食器洗いを再開する。

 これはもう慣れるしかない。まさか、ずっと風呂を使うなと言うわけにもいかない。

 自分へ言い聞かせるように独り言をつぶやきながら、悠は食器を洗い、水切りかごへ並べていった。

 彼女はオーヴァード。UGNのエージェント。ただの女の子じゃない。ぼくの護衛に来た──

 再び手が止まった。現実味のない言葉の羅列。多くの人々は知ることのない、けれど世界の真実。

「──オーヴァード、か」

 そのつぶやきは、シンクに流れる水の音に溶け、混ざり合って消えていった。


 悠がオーヴァードについて知っていることは、それほど多くはない。

 その定義は様々であり、確立されたものはない。だが、総体として「レネゲイドに感染し、超常能力が発現──「覚醒」したヒト、もしくはその他の生物」がオーヴァードであるとされている。

 反逆者レネゲイド

 それを知る研究者の間ではウィルスと定義されることが多いが、これもまた多くの異論があり、現状では推測の域を出ていない。

 確かに、細胞を持たない遺伝子情報のみの存在であり、他の生物の細胞を利用して、おのれの遺伝子を複製・増殖していく点ではウィルスと酷似している。だがその結果、宿主にもたらす影響が、常識とはかけ離れて激烈なことが、異論が頻出する要因となっていた。

 レネゲイドに「感染」し、それが活性化した存在は、例外なく超常的な能力を発現させた。研究者の間では、それを「覚醒」と呼んでいる。

 覚醒したものは、驚異的な肉体の復元能力を持った。

 非覚醒者の深層意識に介入し、彼等を遠ざけ、ときには意識を喪失させる能力を持った。

 そして、多種多様ともいえる能力がそれぞれの覚醒者に発現した。

 炎や冷気を操るもの。

 いかづちを意のままにするもの。

 驚異的な肉体能力を有し、獣のような姿をとるもの。

 肉体を自在に変化させ、液状化すらしてみせるもの。

 無機物の原子構造に干渉し、自在に造りかえるもの──。

 それらの能力は総称して「シンドローム」と名付けられた。現在では、能力シンドロームごとに十三系統に分類され、それぞれに名称が付与されている。

 だが、分類と言っても、それは外部からの観察によって確認できる事象から行われた、便宜的なものでしかない。これらの分類によって、レネゲイドの本質が理解されたわけではない。

 結局のところ、現在においてもレネゲイドが人類にとって未知の存在であることに変わりはなかった。

 ──そして、ジャームの存在。

地球上に存在するウィルスの一部は、増殖の結果、宿主を肉体的な死に至らしめることがある。

 だがレネゲイドは、宿主の理性を死に至らしめた。

 覚醒者オーヴァードは、しばしばヒトとしての理性を失い、内なる衝動に忠実に行動する存在と化した。衝動の多くは破壊や殺戮に関連しており、結果として彼等は周囲に多大な被害をもたらすものに変貌した。

 それが怪物ジャームだ。

 レネゲイドにとっては、オーヴァードもジャームも関係ない。理性を失った存在という認識は、人類の社会通念上のものであり、レネゲイドから見ればどちらも自身を運搬し、増殖させる媒体であることに変わりはない。

 レネゲイドは宿主を生物学的に殺さない。

 レネゲイドを、ウィルスの究極の進化形と主張する研究者が多いのも、この見解によるものだ。

 だが、人類社会から見れば、それは恐るべき存在だ。

 家族が、友人が、隣人が、ある日突然破壊や殺戮を振りまく怪物ジャームと化す。もしくはその可能性があると人々が知ってしまったらどうなるか。それだけではない。未知の能力を振るうものオーヴァードが、自分のそばで生活していると知れば。

 究極のパニック。

 全世界的な魔女狩り──。

 それらを回避すべく、人類社会はレネゲイドの存在を隠蔽いんぺいすることを選択し、そのための組織を作り上げた。

 ユニバーサル・ガーディアンズ・ネットワーク、通称UGN。舞がエージェントとして所属する組織でもある。

 UGNはオーヴァードを保護・監督し、ジャームが引き起こす様々な事件に対処し、それらを隠蔽し続けている。人類社会にもたらされかねない、絶望的な終末カタストロフを回避するために。

 だから、世界のほとんどの人々は、オーヴァードの、そしてレネゲイドの存在を知らない。少なくとも今は、まだ。

 悠もまた、UGNの保護を受ける身だった。一介の高校生には不釣り合いなこのマンションも、UGNから援助を受けて借りたものだ。

 一面では監視の意味もあることは悠自身よく理解していたが、そのことで特に窮屈さを感じることもなかった。今村支部長や、梓野をはじめとするUGN六浦市支部の面々が、極力悠の生活に干渉しなかったからだ。

 だから、悠は今までUGNの存在をほとんど意識することなく過ごしてこられた。だが逆に言えば、彼等の意志ひとつで、否応いやおうなくの世界を認識させられる可能性もあるということだ。それがたとえ不可抗力であっても。

 ──今日、悠の前に姿をあらわした舞のように。


  *  *  *


 食器を片付けた悠は、食事の前と同じようにソファへ仰向けにした身体を預け、自分の右腕を見つめていた。

 舞は悠が襲われる危険があると言った。だから自分が護衛に来た、と。

 襲うものとまもるもの。

「……ぼくにどんな価値があるっていうんだ」

 開いた右手を閉じ、ぽつりとつぶやく。

 ほぼ同時に、洗面室の扉が開く軽い音がした。

 何気なく上体を起こして舞の姿を視界にいれた悠は、中途半端にソファの端に乗せていた腰をすべらせ、床に尻もちをついた。

「な、な、な………」

 憂鬱アンニュイな気分は一撃で大気圏外へ吹っ飛んでいた。

 パステルブルーのキャミソールに、同色のショーツ。

 舞はそれしか身につけていなかった。

 女性物のインナーにくわしくない悠から見れば、それらはひとくくりに下着としか認識できない代物しろものだった。

 床にへたり込んでいる悠を見た舞が、素足すあしを鳴らして近寄ってきた。

 ほんのりと桜色に上気した肌がなまめかしい。

「く、くるな! こないでください!!」

 ほとんど懇願こんがんに近い悠の絶叫に、舞が足を止める。

「……どうしたの?」

 少なくとも二回は舞の全身を自分の視線が上下したことに気づいて、悠はその場で百八十度回転すると、むりやり視界から舞を排除した。

「ぼ、ぼくはなんでもないから! それより、そのかっこはなに!? パジャマとか持ってないの!?」

「いつもこの格好で寝てるから、へいき」

 そういう問題ではない。

「ぼくが困るの! なんでも良いから上に何か着てよ!」

「八原くんがこまるの?」

「そのとおりです。お願いだから何か着て」

「うん……わかった」

 素直にうなずいた舞が、部屋の隅に積まれた段ボール箱のそばへ歩いてくる。その姿を見ないよう、悠は微妙に身体の角度をずらした。

 背中越しに段ボール箱の中を探る音を聞きながら、悠はこの日何度目かの大きなため息をついた。

 小学生を相手にしている気分だ。これから何が起きるか、まるで予測できないが、そのつど二人でルールを作っていくしかないだろう。おもに作るのは悠の方になりそうだが。

「──これでいい?」

 舞の声におそるおそる振り向いた悠は、無地のロングチュニックだけを着た少女の姿を見て、がっくりとうなだれた。チュニックの裾からは素足がのぞいている。

「……それ、わざとやってる?」

「……なんのこと?」

 本当に舞には自覚がないのだろう。それ以上服装で言い合うのがばかばかしくなって、悠は苦笑しながらソファにもたれかかった。

「いいよ、もう。それで」

 小さくうなずいた舞は、近くのクッションに腰を落とすと、手にしたドライヤーで髪を乾かし始めた。

 会話の途切れた部屋の中で、ドライヤーの音が響く。

 人工の風にあおられる黒髪を見るとはなしに眺めながら、悠は舞に話しかけた。

「東條さん、寝るときは向こうの部屋のベッドを使ってよ」

 ドライヤーのスイッチを切った舞が、悠を見て首をかしげる。

「でも、八原くんのベッドでしょ……?」

「ぼくはこっちの部屋で、梓野さんが送ってきてくれた布団で寝るよ」

「でも」

「いいから」

 いくらか強い調子で、舞の台詞を押しとどめる。

「………うん」

 うなずいた舞を見て、悠は小さく息をついた。

 今までのやりとりを見る限り、きちんとお願いすれば、大抵のことは素直に受け入れてくれる。前途は多難だが、どうしようもないほどでもない。

 悠は天井を見上げて微笑んだ。それは、苦笑に限りなく近いものではあったが。

 ──大丈夫。なんとかやっていけそうだ。

 悠にとって長かった一日が、ようやく終わりを告げようとしていた。



 ──To be continued ; First Contact phase#2

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