彼女に捧げる鎮魂歌 -Double Cross Hommage-

宮城 由貴

Prologue

 始まりは決まってにおいからだった。

 鼻から入り込み、肺まで押し込んでくる鉄錆てつさびの臭い。

 だが、それはもっと湿り気を帯びた、ぬめるような感触で嗅覚神経を刺激する。

 ゆうはその正体を知っていた。

 血の臭いだ。

 むせかえるその臭いを触媒にして、立ち尽くす悠の足下から、得体の知れないモノが無数に浮かび上がってくる。

 それは腕であり、脚であり、内臓を無惨にはみ出させた胴であり、──胴から離れた頭、だった。

 かつて人間の部分パーツだった物体。もはや本来の役割を忘れ、奇怪なオブジェと化したモノ。

 だが、そこには明らかに人ではないなにかも混ざっていた。

 鱗や獣毛の生えた、鋭い爪を持つ腕。

 ヒトにはあり得ない太さの筋肉をまといながら、やはりヒトでなければあり得ない関節を持つ脚。

 狼のような長い口吻こうふんと鋭い犬歯をむき出し、だが人間の知性をその瞳に宿した頭部。

 彼我の境界も定かではなくなったおびただしい血にまみれながら、それらは悠を取り囲み、物言わぬむくろとなって彼を見上げていた。

 ぎこちなく足下に視線を落とす。制服姿の少女が、異形のモノたちに囲まれて静かに横たわっていた。

 膝の力が抜けた。後頭部に激しく痺れる感覚がある。少女のそばに手をついてひざまずき、悠は彼女の顔をのぞき込んだ。

 悠から視線を外し、あらぬかたを見遣みやる彼女の瞳に光はない。なによりも、少女の下半身はあるじを残してどこかへ行ってしまっていた。

睦生むつき……」

 悠は少女の名を呼んだ。むろん、こたえはない。吐息をもらすように小さく開いた薄桃色の唇から、ひとすじの赤い血が流れ落ちている。

 リップクリームやファンデーションすら嫌って使おうとしなかった彼女の、それが最初で最後の化粧だった。

 その血をぬぐおうと右手を挙げかけ、悠は視界に入ってきたおのれの手を止めた。

 その手もべっとりと血に染まっていた。

 ああ、そうだ。

 悠は唐突に理解した。

 ぼくが睦生をこんな姿にしたんだ。

 ぼくが睦生を引き裂いて、ばらばらにしたんだ。

 ぼくが睦生を殺したんだ。

 周りにたくさん転がっている、あのケモノやニンゲンたちのように。

 ぜんぶぼくがやったんだ。あれも。あれも。あの死体も全部。

 呆然と見つめる視線の先で、悠の右腕が変貌しようとしていた。みしみしと音を立て、一息の間に硬質化し、筋肉が膨張して太さを増し、凶悪な爪が伸びる。

「やめろ……」

 あるじの意に反して右腕は変態メタモルフォーゼを終え、緩慢な動作でその爪を振りかぶった。狙いの先には睦生の顔。

 やめろ。やめてくれ。

 右腕は言うことを聞かない。眼前の睦生を粉々に打ち砕いてしまえば、この絶望から逃れられるとでもいうように。

 やめろ。やめろ。たのむからやめてくれ。

 やめろ。やめろ。やめろやめろやめろやめろやめろやめ

 右腕が振り下ろされた。

「────っ!!」


  *  *  *


 目覚めると、そこはいつもの寝室だった。

 カーテンの隙間すきまから、朝日が差し込んでくる。遠くから聞こえるのは鳥のさえずり。

 悠はのろのろとベッドから身を起こした。右腕を持ち上げ、朝日にかざす。なんの変哲もない、見慣れた右腕がそこにあった。

 大きく息をついて、悠は下ろした右腕で膝を抱え込んだ。

 涙は出なかった。それはいつものことだ。

 ただ、鳩尾みぞおちのあたりをぎゅっとつかまれたような、不快な感覚が残っていた。焦燥にも似た喪失感。それも、いつものことだった。

 だけど、これでいい。

 この夢を見続ける限り、あんなは絶対に使おうとは思わない。自分の命が尽きるまで、このを封じておくことができる。だから、これでいい。

 ひとつ頭を振って、悠は立ち上がった。つけ放しにしていたナイトスタンドを消し、ベッド以外の調度がほとんどない、殺風景な寝室を出る。

 今日も一日が始まる。

 昨日と同じ、そして明日も同じであろう、なにもない一日が。



 ──To be continued ; First Contact phase#1

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