First Contact phase#2

 東の空が明るくなる頃に、惣一郎そういちろうはそれまでとりかかっていた作業を終えた。

 椅子の背もたれに寄りかかりつつ大きく伸びをし、マグカップに残っていた、冷え切ったコーヒーを一気に飲み干す。

 腕を回して肩の筋肉をほぐしていると、正面の扉からノックの音が聞こえてきた。

「はーい、どうぞー」

「失礼します」

 早朝にもかかわらず、隙なくスーツを着こなしている梓野しのが扉を開けて入ってくる。

「おはようございます」

「はい、おはようさふわああああ」

 挨拶の途中で大あくびをした惣一郎をあきれた表情で見ていた梓野は、ふと気づいて執務机に歩み寄った。

 近くで見ると、惣一郎の頬やあごには無精髭が伸び、目の下に大きなくまができている。

「あの、ひょっとして徹夜されたんですか?」

「あー、うん。やりはじめたら止まらなくなっちゃってさ。いやー、このとしの徹夜はこたえるわ」

「そう思われるなら、少し自重なさってください」

「いやまったくだ。でも、そのおかげでいろいろ情報は集まったよ」

 惣一郎は上体を起こし、机上のキーボードを引き寄せて叩きはじめた。

「この市は三方が海に囲まれているからね、おのずと物流経路は北部からに限られてくる。まあ、海からの経路がないわけじゃないけど──不自然な人や物の流れを追いかけるのはそれほど難しくない」

 確かに規模としては小さく、移動経路の限られた市ではあるが、都心への通勤圏内でもあり、隣接する市との交通量は決して少なくはない。

 壁際の大型ディスプレイが点灯し、六浦市の全体図が現れた。さらに西側の海岸部がズームアップされ、その1ヶ所にマーカーが点滅する。

「ここは三年前から西島運輸っていう会社のビルってことになってるんだけど、実はこの会社がダミーでね」

 地図上に別のウィンドウが展開ポップアップし、ビルの経歴情報をスクロールし始めた。

「二ヶ月ほど前に本来入居していた会社が倒産してからは、取り壊し寸前の廃ビルだったんだ。実際に西島運輸のビルとして登録されたのは一週間前だ」

 たった二日の調査で、そこまで調べ上げたというのか。

 梓野は内心感嘆しつつ、寝ぼけ眼で端末を操作する惣一郎を見つめた。

 卓越した情報収集能力と分析能力。惣一郎もまたオーヴァードであり、思考速度強化型ノイマン能力シンドロームの持ち主と知ってはいたが、これほどの実力を垣間見るのは、梓野も今回が初めてだった。

「問題はここからだ。数日前から、日や時間をずらし、少人数に分かれてこのビルに集合している連中がいる。現時点で、少なくとも二十人の人間がこのビルに集まってる」

 梓野の表情が引き締まった。

「人とは別に、正体不明の物資も運び込んでるから、おそらく武装してるんじゃないかな」

 物騒なことをあっさりと惣一郎が口にする。だが、対する梓野も動揺した気配はない。

FHファルスハーツ──ですか」

「レネゲイドに関わるいくつかの組織を洗ってみたけど、この六浦市に対して動いているって情報はなかったからね。消去法だけど、その可能性は非常に高いよ」

 ファルスハーツ。

 オーヴァードや、ときにはジャームすら利用して、全世界で様々な犯罪を引き起こしている秘密結社。

 だが、結社と言いながら組織としてのまとまりはほとんどなく、細胞セルと呼ばれる単位のグループがそれぞれ独自の行動を取っている。そのため、外部から見てその活動を把握しづらいことが特徴だった。反目するセル同士が抗争した、という記録もある。

 それにしても、二十人とはたいした人数を集めたものだ。

「それだけの人数を投入して、悠くん──八原悠やはらゆうを襲撃するつもりなんですね、彼等は」

「さあ、そこまでは」

 かく、と梓野の膝がくだけた。

「わからなかったんですか!?」

 思わず詰め寄った梓野に、惣一郎が子供のように口をとがらせる。

「だってあの人達、自分の目的を喧伝けんでんしてるわけじゃないし」

「それは、そうですが……」

「まあ、そう落胆するものでもないよ」

 肩を落とした梓野に向かって、執務机に両肘をついた惣一郎は身を乗り出した。

「目的がわからなければ、直接彼等に訊けばいい。今なら先制の機会はこちらにある」

「こちらから襲撃をかけるのですか?」

「人聞き悪いなあ。まずは話をするだけだよ。孫子も言ってるだろ、『不戦而屈人之兵善之善者也たたかわずしてひとのへいをくっするはぜんのぜんなるものなり』って。相手が不利をさとって退散してくれるなら、それに越したことはない。こちらも無駄に戦力は消耗したくないし」

「──なるほど」

「もっとも、相手の出方次第じゃ、ドンパチやらかす可能性がないわけじゃないけどね」

 無精髭を歪ませて、惣一郎が不敵に笑う。仮に戦闘になったとしても、こちらがおくれをとることはないといった風情ふぜいだった。

「はい」

 梓野もまた、同じ種類の笑みを返す。

 方針は決まった。

「さて。まず情報班は全員討ち死にしてるから、作戦からは除外するとして」

「う、討ち死に……?」

 言われてみれば、情報班のオフィスは昨晩、遅くまであかりがついていた。惣一郎につきあって徹夜でもしたのか。

「……あんまり部下を酷使しないでくださいね。支部長みたいにみんながタフなわけじゃないんですから」

「善処するよ。ともかく、情報班以外のメンバーは、支部を守備できる最低限の人員を残して全員投入する。招集までにはどれくらいかかるかな?」

「一時間──いえ、三十分あれば全員招集できます」

 手元の携帯端末タブレットPCを操作し、梓野が素早く現状を確認する。

 惣一郎は満足げにうなずいた。

「十分だね。全員そろったら状況開始だ……っと。いや、待った」

「はい?」

 端末から緊急招集エマージェンシーコールの送信コードを打ち込みかけていた梓野は、直前で指を止めた。

まいくんは、そのまま悠くんの護衛についてもらおう」

「よろしいのですか? 彼女の戦闘能力は貴重ですが」

 惣一郎は、情報収集が最終段階に至るあたりから、かすかな違和感を感じていた。論理的に説明できない、あえて言うなら勘としか呼べないもの。

 だが、その勘に従って選択を誤ったことは、今までこなした任務の中で、まだ一度もなかった。

「うん、それが舞くんの優先目標だからね」

「了解しました」

「……それに」

 右手をあごの下に添えた惣一郎が、にやりと笑って梓野を見上げる。その笑みによこしまなものを感じて、梓野は心持ち上体を反らした。

「な、なんでしょう」

梅津うめづ梓野くんっていう愛のキューピッドが、イキな演出を考えてくれたからねぇ。邪魔するわけにもいかんでしょ」

「な……っ!」

 梓野は思わず端末を胸元で抱きしめた。

「あっ、あれは別にそういうつもりで行った措置ではありません! 舞ちゃんからの提案ですし、だいたい、そのあとで最終判断を下したのは支部長じゃないですか!」

「別にきみが赤くなる必要はないだろ。いやー、いいねえ青春って」

 うんうん、とわざとらしく惣一郎がうなずく。

「……支部長?」

 つかつかと執務机に歩み寄り、梓野は両手をついて身を乗り出した。

「それ以上はセクハラですから」

 至近距離で梓野ににらみつけられ、惣一郎が降参のポーズを取る。

「いやあ……ははは、ごめんごめん」

「まったくもう……」

 大きなため息をついて、梓野は姿勢を戻した。

「とにかく、東條とうじょう舞はこの作戦には参加させない。八原悠の護衛を継続する。それでよろしいですね?」

「うん、それでいいよ。あとは……っと」

 椅子の肘掛けに手をつき、惣一郎はゆっくりと立ち上がった。

 舞と情報班を除き、改めて支部のメンバー全員に緊急招集を連絡コールした梓野が、その姿を見て首をかしげる。

「まだ何か?」

「……うん。全員が招集されるまでに、ちょっとシャワーびてくるよ。さすがに、しゃっきりさせないとつらい……」

 ゾンビのような足取りで扉へ向かう惣一郎の背中を見送り、梓野は声をかけた。

「お、お気をつけて……」

 ひらひらと右手を振って、惣一郎が扉の向こうへ消える。

 どうにも頼りない、というより要所のしまらない上司だが、それを支援するのが梓野の使命でもある。

 気を取り直し、梓野は手元の端末から出動前の準備を開始した。


 *  *  *


 目覚めると、舞の顔がすぐ近くにあった。

 突っ込む気力も驚く元気もない悠は、その状況に過剰に反応することなく、のろのろと上体を起こした。それに合わせて、のぞいていた体勢から姿勢を戻した舞の顔が遠ざかる。

 横合いから視線を感じて、悠は布団のそばで正座している舞の顔を見た。漆黒の瞳が、まっすぐに悠の視線を受け止める。

「どうしたの?」

「だいじょうぶ?」

 二人の声が重なった。

 朝日の中で、沈黙が降りる。

「……大丈夫って、なにが」

「苦しそう、だったから」

「………ああ」

 いつも見るあの夢。舞に聞こえるほどうなされていたということか。自嘲気味に悠は微笑ほほえんだ。

「なんでもないよ。ちょっと夢見が悪かっただけ」

「…………」

「ごめん。それで起こしちゃった?」

 ふるふると舞が首を横に振る。

「……朝ごはん、できてる」

 舞はそう言って立ち上がり、ダイニングへ歩いていった。見ると、すでに彼女は制服に着替えている。

 小さく息をつき、悠も立ち上がって舞の後を追った。

 深い事情を訊こうとしない舞の態度が、今の悠にはありがたかった。

 二人で朝食を食べ、二人でマンションの階段を下り、バス停へ続く道を並んで歩く。

 せわしなく鳴き交わしているのは、ヒヨドリだろうか。

 いつもと同じ、通学路の風景。

 いつもと違う、隣を歩く女の子の姿。

 舞の歩幅にあわせてゆっくりと歩を進めながら、我知らず悠は苦笑していた。

「……なんか、変な感じ」

 笑みを浮かべたままつぶやいた悠を、舞が見上げる。

「へん?」

「昨日までは、こんな風に誰かと一緒に登校するなんて、考えもしなかったな、って思ってさ」

「……そう」

 出勤途中なのか、スクーターに乗ったスーツ姿の女性が二人を追い抜いていく。

「東條さん、いつまでぼくの護衛を続けるの?」

 悠の問いに、舞が正面を見つめたまま応える。

「──わからない。護衛の解除は、上のひとが決めることだから」

「そっか。……じゃあ、なんか言い訳考えとかないとなあ」

 抜けるような青空を見あげて、独り言のように悠はつぶやいた。

「いいわけ?」

「僕らが二人で一緒に通学してる言い訳。東條さんがぼくの護衛をしてるなんて、みんなに説明できないでしょ」

 どちらかと言えば、悠にとっては高校生の男女二人が共同生活をしていることへの言い訳がメインだったが、昨日のあれこれを思い出す限り、それを舞に言っても無駄だろう。

「黙っていれば……」

「そういうわけにもいかないよ。そのうち学校で噂になって、絶対誰かからつっこまれるだろうから、今からなんか理由を考えとかなきゃ」

「……そう、カムフラージュが必要なのね」

 右手を細いあごにあて、真剣な表情で考えはじめた舞を見て、悠は小さく笑った。

「そんなに堅く考えなくても良いよ。まあ、おいおい──」

 ぴたりと舞の足が止まった。一、二歩先行しかけて、悠も足を止める。

「どうした……の……」

 一瞬遅れて、悠もそれを知覚した。

 鳥の声が消えていた。

 何よりも、周囲の空気が変わっていた。

 肌を刺す不快な感覚。心をざわつかせる奇妙な静寂。

 ──《ワーディング》。

「おいおい、UGNの連中は全部引きつけておくんじゃなかったのかよ」

 静寂を破って、粗暴な声が耳を打った。

 振り返った悠の視線の先に、二人の男が立っていた。

 一人はノースリーブのレザージャケットにウォッシュジーンズを身につけた、傍目はためからも凶悪な出で立ちの大男。逆立てた金髪の下では、野卑な笑みを浮かべている。

 一人は悠と同じ背格好の優男やさおとこ。黒のカッターシャツに黒のスラックスが、切れ目がちな眼と相俟あいまって酷薄な印象を見るものに与えていた。

 大男が、がりがりと金髪をいて吐き捨てた。

「ったく、大口叩いといて使えねぇ連中だぜ。面倒ごとが増えちまった」

「問題ない。たかが一人増えた程度だ、排除するだけさ」

 冷静な口調で優男が応える。だが、その影には野蛮な感情が潜んでいた。

「へっ、違いねぇ」

 顔に張りついた笑みを大きく歪めながら、大男が悠を見下ろした。

「あんた、八原悠だろ」

「………」

「とぼけなくても良いぜ、ネタはアガってんだ。なんの恨みもないが、ちょいと痛い目にあってもらうぜ。──場合によっちゃ死ぬかもな?」

 笑顔のままの大男が、物理的な圧力すら感じられる凶暴な殺気を叩きつけてくる。たたらを踏んで後退あとずさりかけ、ぎりぎりで踏みとどまった悠の横へ、静かに舞が並んだ。

「八原くん、下がって」

 普段と変わらない平静な口調で、舞が悠をうながす。

「東條さん! でも──」

「下がって。それと支部に連絡を」

 悠は制服の上からポケットの中の携帯端末スマートフォンに触れた。確かにこの状況で支部への連絡は必要だろうが、眼前の二人がそれを許すだろうか。

 逡巡する悠を見て、大男が片眉を上げる。

「ああん?」

「増援を呼びたいんだろ。良いさ、呼ばせてやろう。自分たちの置かれた状況に気づくだろうしな」

 鼻でわらった優男が、相対する二人を眺め回した。

「どうした? 早く支部に連絡しなよ。それまで待っててあげるからさ」

 意を決して、悠は携帯端末を取り出した。昨日と同じ番号を、即座にアドレスから呼び出してコールする。

 ほとんど間を置かずに相手が出た。

『やあ、おはよう。君から電話してくるなんて珍しいね』

 昨日の梓野と同じ反応だが、それを気にしている余裕は今の悠にはなかった。

今村いまむらさん! あの──」

『あー、悪いけど今取り込み中なんだ。急ぎの用事でないなら……』

「急ぎなんです! おかしな二人が現れて……《ワーディング》を使ってきたからオーヴァードだと──」

『──悠くん』

 普段よりも一段低い声で、惣一郎が悠の報告をさえぎった。

「は、はい」

『悪いが今、本当に手が離せないんだ──っとお!!」

 語尾が跳ね上がると同時に、乾いた破裂音が連続して響き渡る。

 この音は……花火? いや──まさか、銃声か。

「今村さん!?」

『いや失礼。舞くんは一緒にいるね?』

 いつもの飄々ひょうひょうとした雰囲気が、惣一郎の声から消えていた。

 そして先程の破裂音。悠は、惣一郎のがわもまた、ただならない状況に置かれていることを直感した。

「……はい」

『よし。じゃあ舞くんに伝えてくれ。状況が不利なら、可能な限り戦闘を避けて退避するように。野暮用を片付けたら、すぐに僕たちもそちらに行く。こんなこと言えた義理じゃないが、君も十分に気をつけて。いいね?』

「……わかり、ました」

 短い指示を残して、惣一郎の方から通話が切れた。

「はっはー! 応援を断られでもしたかい坊や!」

 悠の表情を見た大男が、満面の笑みを浮かべて嘲る。

 優男もまた、唇を嘲笑の形につり上げた。


 *  *  *


「──まいったね、こりゃ」

 乗りつけてきたバンを銃撃からの遮蔽にしつつ、携帯端末をスーツの胸ポケットにしまった惣一郎は、ぽつりとつぶやいてくわえていた煙草を携帯灰皿に放り込んだ。

 動きやすい形状のボディスーツを着装した梓野が、同じように遮蔽を取りながら、その独り言を聞きつけて振り向く。

「何があったんですか?」

「二人が襲われてる」

 その短い一言で、梓野は状況を理解した。

「そんな──」

 だが納得できたわけではない。相手を奇襲したのはこちらだったはずだ。

 惣一郎は、バンの影から眼前の古ぼけたビルを仰ぎ見た。

「どうも連中の動きが妙だと思ってたんだ。話を聞かないわりには積極的に打って出てくる気配も、撤退するそぶりもない。奴らが取ってるのは遅滞戦術だ」

「時間稼ぎですか!?」

「有り体に言えばね。一杯くわされたのは僕等だったわけだ」

 そう説明されれば、確かに理屈はとおっている。ビルの中に立てこもっている彼等は、全員がおとりだったということか。

 だが、悠と舞への支援のためにこちらが後退すれば、彼等は追撃をかけてくるだろう。うかつに撤退はできない。

 梓野は唇を噛んだ。

「──梓野くん」

 ビルを見あげたまま、惣一郎が梓野へ声をかける。

「はい」

「すまない。君に負担をかけることになりそうだ」

 惣一郎の意図するところを、梓野も一瞬で把握していた。

 強攻策。

 この状況をくつがえすには、それしかない。そして、被害を最小限にするすべも。

 梓野は、惣一郎を見つめてはっきりとうなずいた。

「……はい。もとよりそのつもりです」

 惣一郎が梓野の眼を見つめ返す。

 肚は決まった。

「梓野くんは正面から突入を。あのビルは僕の〝領域〟に組み込んだ。全力で支援するから、遠慮なく暴れてきてくれ」

「了解しました」

 梓野の応答に小さくうなずき、惣一郎は携帯端末を取り出して全チャンネルを開放オープンした。

「総員に通達。これより〝献身たる刃アールマティ〟が正面から進入して突破口を開く。一班と三班は合図があり次第、彼女に続いて突入。内部を制圧せよ。二班は〝アールマティ〟の突入を後方から援護。四班と五班はビルから撤退する敵に注意。ただし深追いはするな」

 惣一郎が出す矢継ぎ早の指令に、各班から了解の応答が帰ってくる。

「よし。状況開始」

 号令と同時に、ビルの正面玄関へ向けて発煙弾が撃ち込まれた。大量に吹き出る煙が視界をふさぐ。

「行きます!」

 梓野がバンの影から飛び出した。

 散発的にバンを叩いていた火線が、白煙に遮られているにも関わらず梓野に集中する。だが、その照準すら追いつかないスピードでジグザグに機動シザースし、梓野は手首のスリットから針状の金属を引き抜いた。瞬きひとつの間にその針が変形し、巨大化し、広刃の両手剣ブロードソードとなる。

 疾風と化した梓野の身体が、ビルの正面口に飛び込んだ。

 さらにワンステップで追いかけてきた銃口の射線からはずれ、敵の死角に回り込む。

 鋭い呼気とともに、梓野は剣を一閃した。


 *  *  *


 不快な笑みを浮かべる二人組をにらみながら、悠は携帯端末をポケットに戻した。

「八原くん」

「……支部の応援は来ないよ」

「──そう」

 舞の表情は変わらなかった。どんな感情も読み取れない瞳で、眼前の二人組を見つめている。

 大男が愉快そうに肩を振るわせ、ポケットに両手を突っ込んで上半身を前にかがめた。

「くくくっ! 残念だったなあ少年少女。UGNの連中は手一杯なんだろ? そりゃそうだ、オレたちがタイミングを合わせたんだからな。そっちUGNから手を出してきたのは想定外だがよ」

 惣一郎が手を離せないと言っていたのは、そういう意味だったのか。

「ほんとはこっちがあんたらの支部を襲撃して、足止めするはずだったんだけどな。まあ、こうして八原悠あんたを捕まえられたんだ、結果オーライさ」

「おい、しゃべりすぎだ」

 優男やさおとこが大男を牽制する。たしなめられた相手は鼻を鳴らして一笑した。

「はっ、別に良いだろ。どうせ一人は間違いなく殺すんだ。まあ……」

 野卑な笑みを浮かべたまま、大男が舞を見下した。

「そっちのお嬢ちゃんが尻尾を巻いて逃げだすってんなら、見逃してやっても良いぜ。もちろん、八原悠ソイツは置いたままでな」

「おい」

 優男の制止を無視して、大男がなおも饒舌じょうぜつにしゃべり続ける。

「どうした? UGNに帰りなよ嬢ちゃん。そんでもってボスに報告してやりな、FHファルスハーツに八原悠は奪われました、ってなあ」

「八原くん」

 大男の挑発にも動じることなく、だが二人組からは視線を外さず、舞は右手に持っていた鞄を悠へ差し出した。

「預かってて」

「え」

「戦いには邪魔だから」

 舞が鞄を手放す。慌ててそれを受け止めながら、制止しようとした悠は言葉を呑んだ。

 舞が笑っていた。

 笑声はない。口元の両端をつりあげ、細い三日月型をつくった無言の笑みは、としか表現しようのない禍々まがまがしさにあふれていた。

「少し待っていて。あの二人はから」

 言い置きざまに、舞は悠を置いて無造作に歩き出した。信号が青に変わったから──その程度の意味しか無いかのような足取りで、平然と二人へ近づいていく。

「はっ! やる気満々ってカンジじゃねぇか!」

 舞の変化を察知した大男が、突っ込んだ両手をポケットから出す。隣の優男も、わずかに腰を落として身構えた。

 ざわり。

 漆黒の長髪が、意志を持った別の生き物のように先端から持ち上がり、ゆっくりと横へ拡がった。

 舞がかすかに頭を振る。それを合図にして、拡がった黒髪が一瞬にしてり合わさり、螺旋状の槍と化して大男へ襲いかかった。

 咄嗟に振り上げて急所を守った上腕に、漆黒の槍が突き刺さる。太い筋肉に阻まれたか、それほど深く刺さったようには見えない。

 だが、槍は先端部から深紅に変わり、瞬く間に漆黒の髪が紅く染まった。

「うおっ!?」

 初めて表情から笑みが消えた大男が、右腕を引いて槍と化した髪を振り払った。

「コイツ、!!」

 螺旋の槍がほどけ、髪の色が真紅から漆黒へ戻っていく。舞自身は、その場から一歩も動いていない。

 優男が細い目をさらに細めた。

血液操作型ブラム=ストーカー肉体操作型エグザイル混血種クロスブリードか。油断するなよ、コイツの迷いの無さはFHおれたちに近い」

「言われなくたってなあ!!」

 大男が腰を低くして身構えた。瞬く間にその全身に獣毛が生え、身体が膨れあがり、三メートル近い巨躯の獣人と化す。

 獅子に似た形状の頭部から身もすくむ咆哮をあげ、大男が舞へ襲いかかった。

 右、左。軽く触れただけでその場所が跡形もなく粉砕されそうな凶悪な鉤爪かぎづめの連撃を、舞が表情も変えずに硬質化した髪で受け止め、跳ねあげる。

 暴風のような攻撃を縫って、舞が髪の槍を大男の脇腹に突き立てた。だがそれを意に介さず、大男は右脚を舞の胴へ叩き込んだ。

 打撃部位へ髪を割り込ませて防いだ舞だったが、衝撃を吸収しきれずに身体が中空へ跳ねあげられる。

 その刹那、舞の胸を光の矢がいた。大男との攻防の死角から直撃を受けたかにみえたが、舞は胴部を薙がれた力を利用してふわりと斜め後方へ飛び、悠の眼前で着地した。

「東絛さん!」

 息をつめて戦いを見つめていた悠が、思わず声をあげる。

「大丈夫。ダメージはない」

 悠には振り向かず、二人の敵を視界におさめたまま、舞が応えた。そのくちもとは、依然として三日月形につりあがっている。

「ちっ」

 右腕を胸の前に突きだした優男が、忌々いまいましげに舌打ちした。その腕の周囲では、ちらちらと細かな光の粒子が舞っている。

 優男が、背中を見せている大男に向かって声をあげた。

「おい、ソイツの動きを止めろ。意外と防御が堅い」

「るっせ! オレに命令すんな!」

 大男が吠えた。明らかに発声に向いていない構造をしているにも関わらず、その口吻からは明瞭な人間の言葉が流れ出てくる。

 舞が再び静かな足取りで歩きだした。ゆらりと髪が立ち上がって幾本もの槍を形作り、大男に向かって襲いかかる。

 体格に似合わない軽快なステップでそれらをかわし、大男が舞の懐に飛び込み、右腕の鉤爪を叩き込んだ。その内側から髪の槍を横殴りに叩きつけ、わずかに軌道をそらして直撃を避ける。

 再び激しい攻防が始まった。

 悠はせりあがってくる不快な感覚をこらえながら、その戦いを凝視していた。焦燥感に似たその感覚は、鳩尾から背骨を伝わって心臓や肺のあたりを侵食し始めている。

 悠の見る限り、舞と大男の戦いはほぼ互角にみえた。だが、ほとんど動かずに状況を注視している優男が、先程のようにいきなり割り込めば、そのタイミングによっては形勢は一気に敵側へ傾くだろう。

 ──ぼくが加勢すれば。

 その思いが頭をよぎったが、同時に睦生むつきの顔がフラッシュバックし、悠の身体を縛りつけた。

 怒り、後悔、焦燥、恐怖、悲哀。ありとあらゆる負の感情が、物理的な悪寒となって悠の全身を駆けめぐる。

 悠はネクタイごと制服の胸をつかみ、あえいだ。

 逃げ出すことは論外だった。うかつな動きを見せて舞の気を反らせてしまえば、危ういバランスで拮抗している攻防が崩れかねない。そうした冷静な計算を、半ば無意識に頭の隅で行っていながら、だが悠はどんな行動も取れずに立ち尽くしていた。

 互いの吐息が相手にかかりそうな至近距離で行われていた戦闘は、唐突に均衡を崩した。

 これまで力任せに両の腕を振り回していた大男が、コンパクトに脇へたたんだ左腕を、最短距離で舞へ突きだす。

 ボクシングのジャブに近い動きだった。いきなり円運動から直線運動に切り替わった腕の軌道に、一瞬舞の反応が遅れる。

 髪による防御が間に合わず、上半身を反らした舞の顔面を、大男の左拳がとらえた。

 端からは軽く小突いた程度に見えた打撃だが、舞の身体がよろめき、膝が崩れる。

「がああっ!!」

 勝利を確信した大男が雄叫びをあげ、太い鉤爪をさらに巨大化させた右腕を振りあげた。舞がその鉤爪にめちゃくちゃに切り裂かれる光景を幻視し、悠は息を呑んだ。

 だが、舞に向かって前傾し、踏み込んだ体勢のまま、大男が動きを止めた。

「がっ……はあァ……!」

 凶悪な牙の生えそろった獣の口から、大量の血が吹きこぼれる。

 血を吐いてもだえる大男の巨大な胸板に、幾本もの槍が突き立っていた。

 舞に向かって踏み込んだ直後に、槍が突き入れられたのだろう。大男が前進するエネルギーも加えてカウンターとなったそれらの槍は、大男の身体深くに食い込み、致命傷を与えていた。

 舞はよろめくそぶりも見せず、静かに立っていた。打撃を受けてふらついてみせたのは、相手に対するおとりブラフだったのかもしれない。あの一瞬の間に、おそるべき速度で読み合いを制したことになる。

 髪の槍が、突き刺さった部分から深紅に染まっていった。

「ごあああああ!!」

 苦悶の表情で大男がのけぞり、絶叫する。

 舞が──舞の髪が大男の血を吸っていた。

 不死に近い生命力を誇るオーヴァードであっても、内臓を破壊され、生命活動に支障が出るレベルで血が失われれば、死に至らざるを得ない。舞は確実にとどめを刺そうとしていた。

 だが、大男は目を剥いて体勢を戻すと、左腕でおのれの身体に刺さった深紅の槍を掴んだ。さらに動きの止まった舞の身体を、右腕が捕らえる。

「!」

 この期に及んで反撃してくるなど、舞にとっては予想外だったか。身体に喰い込む鉤爪にかまわず、残った髪を槍に変えて右腕に突き立てるが、大男はその攻撃を無視して舞の身体を持ち上げた。

「ツか……まエた……ゼェッ……!」

 凄絶な笑みを浮かべた大男が、右腕に力を込める。

 その刹那、光の矢が大男と舞の身体を刺し貫いた。たたらを踏んでよろめいた大男が、肩越しに優男を睨みつける。

「て……めぇ……っ」

 力の抜けた右腕から、舞が糸の切れた操り人形のように地面へ崩れ落ちた。

「東絛さんっ!」

 悠の叫びに重なるように、大男の身体も仰向けに倒れていく。

 地面に倒れ伏す二人に悠然と歩みより、優男は獣人から人間の姿へ戻っていく大男を見下ろした。

「いい連携だ。良く足止めしてくれたよ、相棒」

「……くそっ……た……れ」

 優男に吐き捨てた台詞が、大男の最期の言葉になった。完全に人間形態へ戻り、目を見開いたまま動かなくなる。

 優男は無造作に舞へ手をかざし、さらに二本の光の矢を撃ち込んだ。容赦のない追撃に、舞の身体が跳ねる。

「とう──」

 舞の名を呼びかけた悠の右肩に、灼熱する痛みが走った。反射的に右肩を押さえ、悠は自分へ右掌を向ける優男を睨みつけた。

「ふん」

 右腕を下ろし、優男がゆっくりと悠へ向かって歩いて来る。手を出せば届く距離まで近づくと、優男は悠の左手首を掴み、右肩から引きはがした。

 光の矢に灼かれ、その高熱で本来ならば細胞が炭化しているはずの箇所は、損傷した制服を除けばまったくの無傷だった。悠の身体に巣くうレネゲイドが、傷ついた部分を完全に修復していた。

「やはりオーヴァードか……。戦わない、いやと聞いてはいたが、まさか仲間を見殺しにするとはな」

 吐き捨てるような優男の言葉に、悠は奥歯を噛みしめた。

 反論しない悠に顔を近づけ、優男が嘲笑を浮かべる。

「情けないもんだな、これが話に聞いた〝憤怒の王ロード・オブ・レイジ〟か。FHおれたちのセルをたった一人で潰したやつとは思えないぜ」

 ──〝憤怒の王〟。

 その名を聞いた瞬間、再び悠の脳裏にフラッシュバックが走った。

 こぶりな唇から一筋の血を流し、あらぬかたをみやる睦生。

 何も映すことのなくなった平板な瞳。

 力なく地面に投げ出された細い腕。

「ぼくは──」

 肩で大きく息をしながら、悠はようやくそれだけを声にして絞り出した。だが、それに続く言葉が出てこない。

 優男はあざけりを含んだ表情で悠を観察していたが、やがて興味を失ったようにその左腕を放した。

「ふん……筋金入りの腑抜けだな。まあいい、俺についてきてもらうぞ」

「──なんで」

 震える声が、自分のものではないように聴こえる。必死に抗弁しようとする悠に、優男が眉をひそめた。

「ああ?」

「……腑抜けのぼくなんか、連れて行く意味無いじゃないか」

 小馬鹿にした風に、優男が鼻でわらう。

「意味? それを決めるのはおまえじゃない、俺達の依頼人クライアントさ」

 依頼人──。FHの中には金で汚れ仕事を請け負う傭兵のような連中もいるという。ならば、この優男に何を訊いても、悠を連れ去る本当の理由など語ってはくれないだろう。

「──行くもんか」

 優男の眉が、先刻よりも一層しかめられた。相手に拒否されることを嫌うタイプの人間が見せる表情だ。

「おいおい、冗談だろ?」

「冗談なんかじゃない。ぼくはあんたについてくつもりは──っ!」

 悠の台詞を遮り、優男が制服のえりをつかんで引き寄せた。

 唸り声をあげる犬のような狂暴な顔を近づけ、優男が悠を睨む。

「ふざけんな。おまえに選択権は無いんだよ。そんなに嫌なら、俺を倒しておまえの意志を見せつけてみろ」

「嫌だ! 戦わないし、あんたにもついてかない!」

「──ガキが」

 優男が盛大に舌打ちし、制服の襟を放した。その手を滑らせ、悠の胸にあてる。

「俺もガキの使いでこんなとこまで来てねえんだ。一回くらいは殺しても良いって言われてるし、あんまり聞き分けないと本気で痛い目みてもらうぞ」

 悠の胸にあてられた右掌が、ぼうっと淡く光る。舞を撃ち抜いた光の矢が、今度は悠へ向かって放たれようとしていた。

 その矢で撃たれれば、文字通り死ぬような苦しみが悠を襲うだろう。さらにレネゲイドが損傷箇所を修復しようとするため、その間は気をうしなわない限り激痛にのたうちまわることになる。

 それでも、悠の中には一筋も優男に従う意志はなかった。心のどこかには、このまま殺してくれるならそれでもいい、という半ば捨て鉢な思いもある。悠は歯をくいしばって精一杯の笑みを優男に向けた。

「殺したいなら殺せばいいよ。あんたが連れて行けるのは、ぼくの死体だけだ」

 一瞬驚いた表情を見せた優男は、すぐに凶猛な笑みを浮かべて右手をさらに悠の胸へ押しつけた。

「バカもここまで来ると芸術だな……。望み通り、殺してやるさ」

 掌の光が強くなる。悠は嘲笑を浮かべる優男の顔を睨み続けていた。

 その優男の表情が凍った。

 ぎこちない動きで悠から視線を外し、自分の身体を見下ろす。悠もつられて視線を下げた。

 優男の胸から、螺旋状の槍の穂先が飛び出していた。

「あ?」

 自分の身に何が起きたのか理解できていない表情で、優男が視線を悠に戻した。つ、とその口元から血が流れ落ちる。

 直後、優男の身体が勢い良く中空に持ち上がり、頭から地面に叩きつけられた。頭蓋骨のつぶれる嫌な音が、静かな住宅街に響き渡る。

 幾度か痙攣けいれんを繰り返し、優男の身体が動かなくなった。

 その身体から、漆黒の槍がゆっくりと引き抜かれていく。その動きを目で追いかけ、悠は膝立ちになる舞の姿を見て声をあげた。

「東絛さん!」

 駆け寄ろうとした悠の身体がつんのめる。膝から下の感覚がなくなっていた。それでもよろめきながら舞へ近づき、両手をついて座り込む。

 肩を使って荒い呼吸を繰り返していた舞が、顔を上げた。

「──八原くん」

 舞の制服にはいくつも穴が空いていたが、そこから見える白い肌には傷一つなかった。

 レネゲイドによる修復は、身体の損傷が大きくなればそれだけ時間がかかる。まして、重要な臓器に深刻なダメージを受ければ、オーヴァードと言えども短時間での蘇生は不可能に近い。だからこそ、優男は舞に対して容赦のない追い討ちをかけたのだ。

 舞は、優男の予測をはるかに超える短い時間で息を吹き返したのだろう。レネゲイドはおのれの意志で制御できるとはいえ、驚異的な意志力だった。

 舞が両膝を使っていざり寄り、左手で悠の右肩に触れた。

「……ごめん、なさい」

「え?」

 悠は目をまたたかせた。彼女が何に対して謝っているのか、皆目見当がつかなかった。

「八原くんのこと、まもりきれなかった」

「……っ」

 悠は呆然と舞をみつめた。たったこれだけの傷で護衛に失敗したなどと、誰が思うだろう。

「そんな……、そんなことないよ! あんなに必死になってぼくのこと守ってくれたじゃないか!」

 悠は声を張りあげた。彼女は間違っていない、失敗なんかしていないと伝えたかった。

 舞が顔を上げて悠をみつめる。少し声のトーンを落として、悠は目の前の少女へ語りかけた。

「ぼくはこうして生きてるし、FHにもさらわれてない。大成功じゃないか。それに、ぼくの方こそ──」

 悠は言葉に詰まった。

 ──一緒に戦えなくて、ごめん。

 どの口がそんなことを言えるのだろう。

 それは、目の前にいる舞に対しても、もう逢うことのできない睦生に対しても不誠実な言葉だ。

「……?」

 不意に黙りこんだ悠の瞳を、かすかに首をかしげて舞がのぞきこむ。

 胸の底に淀む後悔を押し留めて、悠はその黒曜のような瞳を見返し、笑みをつくった。まだ言えていない言葉があった。

 一番に伝えておきたかった、短いけれど確かに自分の内からわきあがる言葉。

「──助かったよ。……ありがとう」

「…………」

 かすかに頬を染め、舞がうつむいた。直接感謝の意を向けられることに慣れていないのか、汚れたスカートの端を握って黙りこんでしまう。

 なんだか、いろいろとアンバランスな女の子だ。

 普段の黙然とした姿も、料理を作ってくれたときの表情も、戦いの中で見せた夜叉のような顔も、目の前でもじもじしているのもすべて、舞というひとりの女の子のものなのだ。

 不安定、という表現もあてはまるかもしれなかった。

 それでも、悠を救ってくれた恩人には違いない。

 悠があらためて舞へ声をかけようとしたとき、制服のポケットにしまっていた携帯端末が振動した。つかの間舞と顔を見合せ、端末を取り出して画面を確認する。

「今村さんだ」

 そう舞に告げ、悠は通話をオンにして端末を耳にあてた。

「はい」

『悠くん? そっちは無事かい?』

 先刻までの緊迫感はどこへ行ったのか、いつも通りの惣一郎の声が端末越しに聞こえてくる。恐らくは悠の声の調子でヤマは越えたと判断したのだろうが、それにしても緊張感のなさすぎる口調ではあった。

 だが、それで多少心のこわばりがほぐれたのも事実だ。悠は惣一郎へ応答した。

「はい、無事です。──東絛さんがFHのエージェントを撃退してくれて。東絛さんも……」

 ちらりと舞に目を向ける。

 良くわかっていない表情で、舞が悠を見返した。小さく苦笑して、悠は報告を続けた。

「東絛さんも大丈夫です。少し怪我はしましたけど」

『わかった。今梓野くんがそっちに向かってるから、合流したら彼女の指示を仰いでくれ』

「はい。あと……」

 悠は地面に伏して動かない二人の男に目を向けた。

「FHのエージェントが二人、倒れてます。それも──」

『了解だ。梓野くんに回収班を向かわせるよう伝えておくよ』

 どこまでも自分では動かない人だ。この状況下でもマイペースを崩さない惣一郎に、悠はやや呆れた。

「……ああ、そうそう」

「はい?」

 他にもいくつかこまかい指示を受け、通話を切ろうとした悠を、惣一郎が端末ごしに呼び止めた。

「これは舞くんにも伝えておいてくれるかな。──すぐに救援に向かえなくて、すまなかった」

 親子ほど年齢の離れた人からこれほど直裁に謝罪される経験は、悠にはなかった。少し驚いてから、悠は小さく微笑ほほえんだ。

「いえ、大丈夫です」

「そう言ってくれるのは有難いねぇ」

 んじゃまた後で、と気楽な挨拶を残して、惣一郎との通話が切れた。

「梓野さん、迎えに来てくれるって」

 じっと悠を見つめていた舞が、肩を落として小さく息をついた。

「……そう」

 悠はあたりを見渡した。舞が現場保持と人払いのために展開している《ワーディンク》が、周囲から人を遠ざけ、二人を奇妙なほどの静寂に包んでいる。

 最後に、悠は倒れている二人の男に視線を向けた。その情景は、朝の光に包まれた閑静な住宅街のなかで、ひどく場違いな彫刻にみえた。

 日常を侵食する異物。

 日常を破壊する侵略者。

 彼等は依頼人クライアントがいると言っていた。そのは、この二人が襲撃に失敗したことであきらめてくれるのだろうか。

「──これで、終わるのかな」

 男達をみつめたまま、悠はぽつりとつぶやいた。

「……わからない」

 特に反応を求めていない独り言だったが、舞がそのつぶやきに律儀にこたえる。

 予断を挟まないならば、それが今の状況をあらわす、おそらく最も適切な言葉だろう。これから何が起こるのか、誰にも見えていないのだから。

 悠の胸に、漠然とした不安が拡がりはじめていた。言葉にした内容とは裏腹に、このまま終わるはずがない、という確信に近い予感があった。

 周囲に拡がる平和な光景が急に遠いものに感じられて、悠はかすかに身を震わせた。



 ──To be continued ; Interlude #1

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