久瀬栞というピース②

 彼と正式にお付き合いする事に成功したその後は、殆ど楽しかった思い出で埋め尽くされている。


 彼と一緒に映画を見に行ったり、ありきたりでべたべたなデートをしてみたり、帰り道に寄った公園でキスしたり。


 でも、ここ一週間くらいは……不安で不安で、しょうがなかった思い出だけが残っている。


 普通、半年も付き合っていればなんていうか、その、キス以上に発展してもおかしくないわけなんだけど。


 彼は絶対にキス以上の事をしようとしてこなくて。


 友達との会話の中でそういえばまだそういう関係になってないと言うことに気がついてから、おかしくなった。


 何が、って言われると、それはなんとも言えない気がするけど……あえて言うなら、彼が私をどうでもいいと思ってるんじゃないかと、思い始めたのだ。


 友達から聞いたりする、彼氏からの束縛。


 そういったものが、彼からは一切感じられなかったのだ。


 私の自由意志を尊重してくれたと言えばきっと聞こえはいいんだろうけど、そうじゃなくてむしろ無関心だったと言われたほうがいっそすっきりと当てはまる気すら、してきたのだ。


 一度そんな事を考え始めたら、止まらなくなって。


 最近読んだ恋愛小説で、ヒロインが恋人を試すために別れを切り出して、それがきっかけで大団円を迎えた話があったのを思い出して。


 猪突猛進に、自分もこれを試して見ようなんて思って――――そして、あっけなく、受け入れられてしまった。


 それが、ほんの、三日前。


 別れてくれる? と切り出した後、殆ど迷うことなく了解した彼に私は唖然とする事しか出来なくて、何も言えないうちに彼は普通の様子で去っていって。


 それはあたかも一番最初の偽告白の時と同じような、でも決定的に何かが間違ってしまったような、そんな感じだった。


 定刻を告げるチャイムの音で我に返った私は慌てて彼を探したけど、結局彼は帰ってしまった後で、その時からさっきのキスシーンを見られたところまで、一度もまともに彼と話をする事が出来なかった。


 もちろん彼の家に行けば話はできたんだろうけど、実際に彼の家に言ってみたけど、朝はいつも迎えに行ってた時より早く出てて、帰りも捕まえることが出来なかった。


 流石にいつまでも待ち続けたりするのは常識的に考えて迷惑だろうから一度会えなかったら諦めたりした私が悪いのかもしれないけど、結局会えなかったのだ。


 不思議なもので、そんな風に彼が避けようとするだけで私は彼と会えなくなり、そしてその事がいっそ彼が私に対して何も思ってなかったんじゃないかという考えを補強する材料になったりするわけで。


 もやもやとした気持ちを抱えたまま、今日。一年年上の先輩に人気の少ない渡り廊下に呼び出され、告白されて。


 丁度その場所から見える、上階から渡り廊下の方へ来る為の階段を降りる彼の姿を見つけて意識がそちらに行っているうちに、キスされた。


 後は――――さっきに、戻る。

 

 最悪だった。


 なんていうか、もう本当にこれ終わりなのかもしれない。


 暫くの間呆然としていたのか、我に返ってから何とはなしに見た腕時計の針が、あの渡り廊下に呼び出されてから三十分以上経過していた。


 彼にキスシーンを見られてから彼にさよならを言われるまで、多分十分もかかっていないことを考えると、もう二十分くらいは立ち尽くしていた計算になる。


 やばい、泣きそうだ。私、思ってたよりメンタル弱々だ。

 

 とりあえず、今日は帰ろう。


 そしてまた、お琴さんに相談しよう。

 

 本当は今だって泣き出したいくらいだけど、彼に分かれる事を承諾された時みたいに世界が絶望的に色褪せてるように感じてるけど、でもまだ諦めたくは無い。


 本当に最後の最後まで粘りたいと思うような、そんな相手なんだ。


 彼は、布施晶君は、私にとってそういう人物になっていたのだ。本当に、いつの間にか。


 だから――――今はとりあえず、帰ろう。


 もしチャットであえなかったら直接電話するのでもいいだろうし、とりあえず相談しよう。


 こんな事を相談するのは恥ずかしい気もするけど、でももう何度も相談には乗って貰ってるんだ。毒を喰らわば皿までじゃないけど、頼れるのは彼女しかいない気がするし。


 だから――――帰ろう。


 彼と、また仲良く笑ったりする日を迎えるために。





『にゃー。なるほどなるほど、そういう感じの事になってたんだねぇ……。ここのところSIOりんがログインしてなかったから、その辺はさっぱり知らなかったのだよ』


 家に帰って諸々の所用を済ませた後、私は早速パソコンの電源をつけてお琴さんに相談を持ちかけた。

 

どうしよう、どうしようとばかり書いていた私から事細かに経緯を聞きだしたあたり、何気に彼女の聞き上手な部分が伺える気がする。


 ふむふむ、なんて頷く顔文字を画面に出しながら、沈黙するお琴さん。


 その間も私は、つらつらと今の気持ちや何やらを書き込んでいて……なんていうか、これって結構あからさまな愚痴な気がする。


 もしかしなくとも、かなり迷惑な行為じゃない? これって。


 その事を尋ねようと、キーボードをカタカタと叩いている途中で、チャットのページが更新されて新しい文字が浮かぶ。


『うーん、あちき的にちょっと色々あってねー。うん、まぁ、なんていうか。一つ確認はいいかね、しおりん』


 珍しく歯切れの悪いお言葉だなぁ、などと思いつつ、了承の文を打ち更新。


 すると――――


『もしかして、しおりんの彼氏だった人っていうか今も彼氏でいいのかにゃー? まぁ、何でもいいんだけど、その人の名前って、布施晶?』


 などとメッセージが返ってきた。


 何を言ってるんだろう。いや、この場合は書いているんだろう、かな?


 じゃなくて、なんでお琴さんが布施君の名前知ってるの!?


『ちょ、お琴さん? なんで、知ってるの? 彼の名前』


『あ、やっぱりそーなんだー。むぅ、あちきも前々から薄々そうじゃないかと思ってたんだけどねー。まぁ、そこまで突っ込んだ話をするのもどうかと思ってたし、今まで確認はしなかったのだよ。でも、ちょーっとそういう状況でもなくなってきたみたいなんで』


『じゃなくて、なんで知ってるのって聞きたいの!』


 思わず、タイピングする指に力が入る。


 隣の部屋の弟からうるさいよー、などと言葉が聞こえるが、とりあえず壁を殴って黙らせる。


 うん、弟なんてそんなものだよ。


 じゃなくて。


『うにゃ? ああ、それは簡単なことなのだよ、ワトソンちゃん。彼、あちきの幼馴染だし、今家にいるし』


 ――――――――は?


 いや、うん、ちょっと待って?


 というか、何? え? うん? 家に?


『おーい、しおりん? 多分唖然としてレス返す余裕もないかもだろうから、ちょっと電話で話しようかー?』


『うん』


 と、いうわけで。


『やー、SIOちゃん、こんばんわー。みんなのお琴ねーさんだよー』


「ちょ、そんなのはいいから事情を話してよ! なんで布施君がお琴さんの家にいるのよ! っていうかもしかしてそういう関係!? ちょ、明日の朝日を拝めると思うなよ!」


 ねーちゃん怖いよ!? と聞こえてきた声を再び壁を殴ることで沈黙させる。


 というか、後で折檻ね? 姉の恋路に首を挟む愚弟は姉に殴られ沈黙よ?


『やー、いい感じに暴走してるね? しおりん。びーくーる、びーくーる。落ち着かないと、話せないし。っていうかリアルに怖いよ、最後の台詞。それもあっきーの事を殴るんじゃなくてあたしを殴るの?』


「いいから――――って、うん、とりあえず最後のは保留にしておくから教えてっ!」


『あ、撤回とかじゃなくて保留なんだ。怖いなぁ……。まぁ、いっか。うん、今あっきー……ああ、布施晶くんは、確かに我が家にいます。そしてまいらぶりーぶらざーと酒飲んでます』


「――――――――はい?」


『だから、お酒。あ、大丈夫よ、あたしもぶらざーも成年済みだから』


「えっと、別に私も家では未成年時分から少しは飲んでるからそこは二人が何歳でも気にしない――――じゃなくて。え、お酒飲んでるの、彼」


『そうだにゃー。んー、ちょっと待ってね……おーい、さちー? ふむふむ……あ、もうそんなに飲んだの? あちゃー……じゃあ、そろそろかにゃー?』


「……何が?」


 背後で誰かと言葉の応酬を重ねるお琴さん。彼女には双子の弟がいるらしいんだけど、まだ会ったことはない。たぶん今呼びかけている相手がそうなのだろう。


 そんな事を考えつつ、少し冷静になったと自分を振り返りながら、しかし聴覚だけは電話の先の音に集中。


 時折結構切羽詰った悲痛な声が聞こえるけど、なんだろう?


『んー、しおりん、あたしの家の場所知ってたよね?』


「まぁ、近いし、前遊びにも行ったし……」


『良かったらおいでー。多分、それで全部解決すると思うよ。良きにしろ、悪きにしろ、ね』


「五分でいくわ」


『はやっ! まぁ、とりあえず待ってるにゃー。あ、チャイム三回押してねー。ふっふっふ、それが我が家の合言葉だっ! 今考えたんだけど』


「わかったっ。じゃあ、後でっ!」


 ぴ、ぷー、ぷー、ぷー。


 そんな電子音を立てつつ電話を切り、まずはクローゼットを開けて服の選択。


 色々動きやすいようにパンツルックを選択し、着替えるまで大よそ一分。


 返ってきてから慌ててお琴さんに相談したからメイクを落とす暇なんてなかったため、軽く身だしなみを整えると手提げ鞄やらなにやらを持ちつつ、家を出る。


 さぁ――――ダッシュよ!




 ぴーんぽーん、ぴーんぽーん、ぴーんぽーん。


 気の抜けた感じのチャイムを三回鳴らし、私はインターホンの前で立っていた。


 表札には「藤林」と書かれている。


 チャイムを鳴らしてから少しすると、どたばたという足音と共に玄関が開かれ、にっこりと快活な笑顔を見せているショートカットヘアーの女の子が姿を現した。


 彼女が、ハンドルネーム「お琴」さんこと、藤林命。


 一年位前に知り合って、知り合ってから二ヵ月後くらいに初めてオフ会をして、その後もネットでもリアルでもちょくちょく遊んだり相談したりしていた仲の子だ。


 ここ半年くらいは、のろけ話とかがメインだったんだけども。


「あ、いらっしゃい、しおりん。今うちのブラザーがあっきーの相手してるから、もう少し待ってもらうことになっちゃうけどねー。まぁ、とりあえず上がってなのだよ」


 おじゃまします、と挨拶をして、導かれるままに足を踏み入れる。


 過去にも何度か足を運んだ事がある場所なんだけど、なんだか今日は変な緊張感がある。


 そう、例えるならこれから死地に向かう侍の気持ちだろうか。


 その事をお琴さんに伝えると、


「あはは、また骨太な心持だねぇ、しおりんは」


 などと笑われたけど。


 …………骨太な心持ってなんだろう?


「だから…………で……なんだ」


「んー、なんていうか、ほら、晶? とりあえず、もうちょっとで泣けると思うから飲もうよ! 命も俺も話はちゃんと聞くからっ! そんな中途半端に酔われて抱き疲れても、ちょ、そこ、色々

違ーーーーっ!!」


 一体何が!?


「あー、さちが襲われてる……けど、まぁ、いっか。うん、しおりん、とりあえず後一歩で陥落だろうから、それまでこっちでお茶でもしてようぜー」


「襲われてる!? いや、ちょ、ねぇ!? 色々突っ込みたい事は山々なんだけど良いのそれ!?」


「何言ってるんだい、しおりん。突っ込まれるのはあちしらの方であっちでくんずほぐれず飲んでる二人こそが突く方なのだよ?」


「オヤジくさい下ネタとかどうでもいいよ!?」


「んー、まぁ、とりあえず、ほら。色々経緯とか、あっきーの昔の話とかも話してあげるからおいで?」


「行かせて貰います」


 いや、だって、ねぇ?


 お琴さんの様子だともう少し、会わせて貰えそうに無いわけだし。


 何が行われてるのかはすごく気になるけど、でも同じくらいなんで彼がお琴さんの家にいるのかも気になる。


 幼馴染……なんだ、よね?


「んー、そうだねー。あたしとさち……ああ、幸せって書いてさちって読むんだけどね。幸とあっきーと私は幼馴染なのだよ。向こうの家族と此方の家族も仲良くてねー。中学までは同じ学校だったんだけど、高校になってから別々になっちゃってねー。大学もそれぞれ別だけど、まぁ今でも時々皆で適当に遊ぶような仲なのだ」


 襖一枚で隔てられた隣の部屋で何かが行われている、そんなダイニングにつれてこられて始まった会話。


 時折隣で聞こえてくる声がとても気になるけど、とりあえず黙殺。


「そ、そうなんだ……」


 幼馴染の美少女。家族ぐるみのお付き合い。あれ、もしかしなくてもお琴さんってばだいぶ強敵っていうか障害なのでは? 拳? 拳案件?

 

「ああ、ちなみに、別にあたしはあっきーに恋愛感情とか持ってないからねー? というか、そういうの超えて家族みたいな感じだし、あっきーは。普段頼りになるけどいざというとき脆いお兄ちゃん、みたいな」


「うえっ、私、声に出してた!?」


 手のかかる兄貴なのだよー、と笑いつつ、さっき自分で用意した麦茶を飲み干すお琴さん。


 顔に出てたんだろうか? あるいは声に出てたのだろうか。


 この、快活明朗な彼女と自分を比べたら、負けそうだと思った気持ちが。


 だって、何気にお琴さんもかなりの綺麗だし。


 可愛いと言うより、綺麗。


 妙に姐さんとか、お姉さまとかって慕われるようなタイプ。


 迫力と言うか、包容力があるっていうのかな?


「いや、そんな怖い思いつめた顔で拳をいい感じに握られたら恐怖と共に口も滑るよ?」


「そ、それはともかく!」


「あはは、まぁまぁ、どうどう。で、あっきーは昔からお酒に強くてねー。昔って言っても飲みだしたのは高校に入った時で、入学おめでとうパーチーをした時なんだけども」


 パーティーだよね? どうでもいいから声に出しては突っ込まないけど。


「いやー、それで判明したんだけれども、あっきー。強いくせに、ある一定の量を飲むところりと酔っ払うのだよ。そして、泣き上戸で愚痴り上戸なのだー」


「……泣き上戸? 布施君が、泣き上戸?」


 かなり意外な事を聞いた気がする。


 あの普段ぜんぜん泣きそうに無い彼が、泣き上戸?


「そうだよー。本当に普段泣かない子だからねー、あっきーは。そこまで酔った後は、ぼろぼろ涙流しながら本音トークで鬱憤を晴らすっていうか」


「……そうなんだ」


「ちなみに、そういう事情もあって、幸があっきーからSIOりんについて相談されてたわけだよ。酔いの力を借りて、だけど。あっきーってば酔った時の記憶滅多になくさない人だから、恥ずかしがりながらもちゃんとアドバイスとか参考にする人だからねー」


「そうだったんだ……。というか、彼、私のことで相談とかしてたんだね……」


「してたよー。と言っても、あたしも最初はSIOりんの事だとは気が付かなかったんだけどね。薄々気が付いたのは、SIOりんから相談された時。何時もは二人ともあっきーの家で飲むから、あたしには幸から流れてくる情報しかなかったんだけど、余りにも類似してたしねぇ。同じ大学だっていうのも知ってたし」


 だからあの時ちゃんとアドバイスできたのだよ、と胸を張るお琴さん。


「というか、そうでもなきゃ、この命おねーさんが恋愛相談なんかできないのだよ!」


 いや、お琴さんあなた、恋愛名人とか言ってたじゃない。後それが事実だとしてもそのあたり、胸を張って言えることじゃないと思う。


「と、そんな事を話してるうちに……あっきー、愚痴り泣きモードに入ったみたいだね。んじゃ、れっつらごー」


「……何度か思ったけど、お琴さんてセンスが少し古いよね」


「うっさいのだよー」


 そんな朗らかに返されても。


 ふんふーん、などと鼻歌交じりで彼女が襖を開ける。


 その鼻歌で流れている曲も妙に古めかしい――じゃなくて。


 開かれた襖の先、いつの間にか色々な声が聞こえなくなっていたそこには――


「ん、ぐす……だから、全部僕がいけないんだよ、らき。僕がもう少し勇気とかあって、ちゃんと彼女の事を見ていれば、きっと愛想を尽かされたりしなかったはずなんだ」


「あー、うん。でもあっきーばかりがいけないと言うわけでもないんじゃないかと俺は思うわけなんですけども……どう?」


「いやっ、絶対に僕がいけなかった。最初から最後まで全部僕が原因で僕のせいで……うぅっ」


 ――つい数時間前に私を置いていった元彼氏……だけどまだ好きな相手である布施晶君が、何故だか着衣が乱れ色っぽくなっている可愛らしい子にすがり付いて泣きながら自虐発言してる姿があった。


「あ、女の子に見えなくも無いけど、あれがまいぶらざー、藤林幸だよー。通称らき。またはらっきーちゃん。幸=幸運=ラッキーという安直な捻りを加えたハイブローなあだ名なのだ。ちなみに、つけたのあたしだけど」


「…………ぁ、男の子だったんだ。っていうか、え? それはそれで大いに問題のある構図なんじゃないかと思うんだけど……」


「だいたい、あっきーが酔うとあんな感じだからにゃー。主に幸が被害者だけど」


 ぐすっ、と鼻を啜り上げながら泣き続ける布施君の姿は、本来ならばなんだか愛しいとか、そういう感じの気持ちが溢れてきてもおかしくは無いはずなのだけれども。


 なんていうか、いろいろ明後日の方向に状況が流れすぎて考えが追いついていけてない気がする。


「ま、とりあえず――――アレでもそれなりに冷静な部分は残ってるはずだから、あとは二人で喧々囂々と遣り合って、なのだよ。まだまだ夜は始まったばかりだから、安心して話し合えば良いと思うのだよー」


 ぽん、と肩を押され、色々とカオスな部屋の中に突入させられる私。


 あ、どうもー、なんてボーイソプラノな声で挨拶をしてくるショタショタしいとしか言いようの無い男の子にお辞儀をしつつ、その彼に抱きついて泣いている布施君の隣に座る。


 なんていうか、色々展開がめまぐるしすぎて正直どうして良いか分からないんだけども。


 うん、まずは謝ろう。


 嘘の拒絶を、してしまった事を。

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