11慧の苦悩(2)
夏の風物詩を存分に体感したい。
その思いから花火目当てにふらりと立ち寄ってみたはいいが、時間はまだまだ先で。
俺は夜店の通りから少し抜けた広場のベンチに腰掛けて時間を持て余していた。
お祭りごとは子供の頃から大好きなのだ。
自販機で買った缶コーヒーは表面に汗をかいていて、俺の手のひらをしっとりと濡らす。
だが中身は残りもうわずかしかない。
「どうすっかな〜」
俺はひとり言にしては大きな声で呟いた。
いかんせん、一人で暇をつぶすにしては時間が余りすぎている。
「(……とりあえず歩くか)」
俺は手の中の缶コーヒーを転がして、暇潰しの方法を思案すると残りを一気に喉に流し込んだ。
空になった缶を祭り用に特別セットされた簡易的なゴミ箱に華麗に投げ入れると、中途半端に足を踏み出す。
――と、その時である。
「サトルくん!」
俺の名前を呼ぶ誰かの声が響いて。その声に行く手を阻まれ、俺は足を止めることになった。
え? と声の方を振り返って見えたのは、真っ赤な金魚が上品に描かれた白地の浴衣を揺らしながら手を振る柚乃で。
明るい
「うわ、っと」
頬を上気させて、柚乃は肩を喘がせている。
俺の白いシャツをつかみ、うつむいて荒い息を整えていた。
「ごめんなさい……顔が見えて、懐かしくなっちゃって、つい」
苦しげな声であっても、柚乃は季節はずれの春風みたいな甘やかさだった。
「バカめ。何がつい、だよ」
思わず口をついて出た一言は、もちろん照れ隠しだ。
あの頃と何にひとつ変わってないその姿に、しがみつく柚乃の頭に、手のひらを置く。そのまま彼女の髪を優しく撫でてやった。
人混みを掻き分けながら電球が照らす夜店をいろいろ見て、ふたりでゆっくりと歩く。
金魚掬いやヨーヨー釣りの夜店の前を通る度に柚乃は瞳をわくわくとさせて、裸電球の光はキラキラと反射してその表情を一層輝かせている。
浴衣をぴったりと纏って浮かび上がった身体のラインも、白い歯も、色白の小さな顔が懐かしく、俺は胸を締めつけられるような思いで見ていた。
「今ね、実家に帰ってきているの」
不意に、柚乃が振り返って。
俺は慌てて前に向き直ると、何でもないふりをして「そっか」と答えた。
「でもまさかお祭りがやってるとは思わなかったなあ。ね、どう? 似合ってるでしょ?」
小走りで俺の前に出ると身体ごと振り返って、「じゃーん」と浴衣を広げて見せる柚乃。
日本人離れした目鼻立ちで、まっすぐこちらを見て微笑む。
無邪気すぎる姿に俺は思わず苦笑いを浮かべた。
そんな俺に、柚乃は拗ねたように口を尖らせる。
柚乃は高校を卒業してまもなく、年上の男と結婚してこの街を出て行った。
少しくらい大人っぽくなっているかと思っていたが、相変わらずハッキリしていて子供っぽくて。とても元気そうでおかしかった。
「花火、あっちで見よう!」
再び隣に並んだ柚乃は俺の腕をゆさゆさと揺らして、海の方を指差している。
「ああ、そうだな。時間もそ――うわ、っ!」
――時間もそろそろいい具合だし。と腕時計を見やって続けようとしていたのに。
迷いのない柚乃の腕に引っ張られ、俺の声は半端に後半部分を千切られてしまった。
柚乃はきゃっきゃと笑い声をあげて走り、俺は前を行くその背中を、無我夢中で追いかける。
掴まれた指の先。
人波をかいくぐる間も、じんじんと熱がこもってくるのを感じていた。
「あーダメ。もう走れねえ」
やがて、人気のない堤防にたどり着いた頃、俺はくたくたになって音をあげた。
そのまま腰を下ろし、頭を落とした。
柚乃も汗をかいたのか、座り込んで手で顔をパタパタと扇いでいる。
息が切れていたのは、お互い様のようだ。俺だけではなく、柚乃も肩を大きく上下させていた。
瞬間、頭上で轟音が鳴り響く。
見上げると視界を邪魔するものが何一つない夜空に、大きな花火が今、あがったのだった。
「花火サイコー!」
柚乃はまだおさまらない乱れた息もお構いなしで。風に流されてきた火薬の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいた。
次々と打ち上げられては、それが消えていく前に上からまた被さって咲く花火。
光が、音が、どんどん上塗りされていく。俺たちはそれを、ただひたすら見つめていた。
「そういやさ、柚乃って結婚して何年経つっけ。もうけっこう長いよなあ。子供の予定とか、ねーの?」
花火の消息の合間にふと、柚乃を見た。
特に何も考えず、自然な流れで聞いたつもりだった。
だけど。
俺の言葉に柚乃は、何かを言いかけるように唇を微細に開く――が、直ぐにそれを笑みの形に変えて、音を呑み込んだ。
「うん」
打ち上げられた十号玉に柚乃の声はのみこまれた。長いまつげの奥に見える柚乃の瞳は、何を考えているのか分からない。
「(あれ……?)」
何かマズイことでも口走ったか?
「あー……そうだ。俺さ、去年から一人暮らし始めたんだけど、掃除とか超大変で今になって母の偉大さを知ったというか……」
俺は試しに話題を変えてみた。
すると、
「あはは、それわたしもなんかわかる気がするー!」
柚乃の表情はまた花が咲いたようにぱっと明るくなった。
「(――もしかしたら、旦那とうまくいってないんじゃないか?)」
そんな狡い考えが、微かに頭をよぎっていった。
高校3年生の春、俺は柚乃と初めて同じクラスになった。
柚乃は入学当初から注目の的であった。顔が小さくて、明るくて、すらりと細くて、可愛くて。まさに絵から抜け出たヒロインそのものだった。
おまけに性格がかなり優しいもんだから、柚乃はいつだって人に慕われているような人気者だ。
そんな柚乃と俺は偶然にも席が隣同士になって。クラスメイトにからかわれることがありつつも、自然と仲を深めていった俺たち。
けれど柚乃にはすでに彼氏がいたし、あくまで友達としてそれ以上でもそれ以下でもない。
「恋人」や「性」の対象に当てはまる相手ではなかった。
授業中に遊んだり放課後をふたりだけで過ごす日が多くても、ただこんな日がずっと続けばいいのにと願う相手。
高校を卒業して進む道が別々になっても、社会人になっても、笑いあっていると想像する相手。
だからこそ深く考えることもなく、俺は高校生活の温かな時間を何気なく過ごしていた。
ひととおり堪能した頃、小休止に入ったのか、いったん打ち上げがおさまった。
「キレイだな」
「誰が?」
「……なんで人になるんだよ」
「だって、わたしのこと言ってるのかなあ、って」
柚乃は夜空を見上げながらいたずらっぽい笑みを浮かべ、クスクスと声をもらす。
「こうしていると、高校の時のこと思い出しちゃうね」
「あー、確かに。俺は窓際の一番後ろ、居眠りするには最高のポジションだった」
「も~! サトルくんとお喋りしたくて横向いたら、必ずっていいほど寝てるんだもんなーっ」
「ハイハイ、ごめんごめん」
俺がニッと口の端をあげて笑うと、柚乃は口唇を突き出してツンと俺の頬をつついた。
「でも、おっかしかったなあ。サトルくん、結局いつも先生に見つかって怒られちゃってさ」
足をぶらぶらさせながら、歯を見せて笑う柚乃。
「ふふふ、面白かったなあ、楽しかったなあ。……懐かしいなあ」
かわいいはずの笑顔は、月明かりに照らされて、どこかはかなげで美しく見えた。
それから柚乃は高校の頃の俺との思い出をはしゃぎながら嬉しそうにたくさん喋った。
でも……今のことになるとあきらかに瞳を曇らせた。
だから、なんとなく引っかかって。
「柚乃、あのさ……」
――突如、心の奥さえ震わせる低い轟音に声を阻まれて。柚乃の横顔を照らしだす、今年最後の花火があがった。
パチパチと弾ける粒子がいくつも尾を引いて落ち、夜空を金色に輝かせる。
しなる柳の枝みたいに腕を広げたその花火は、夜空にしばらく姿をとどめていた。
俺は心にしこりが残ったまま、最後の粒が消える瞬間まで、瞬きもせずにずっと見つめていた。
花火大会が終わると、潮が引くように人の群れも引いていった。
中身の溢れかえったゴミ箱や、カバーのかかった暗い店先が、祭りのあとの侘しさを一層際立たせる。
時刻はまだ宵の口。
それでも田舎の夏祭りは案外あっさりと終わりを告げるもので、ふと気が付けば祭囃子の笛の音も途切れていた。
駅までの夜の小道を、俺は柚乃に付き添って歩く。
最初は普通に歩いていたはずの歩幅は、駅が近づくにつれて狭まり、最後はのろのろとスローテンポの帰り道になっていた。
「またこうやって昔みたいに会いたいな。ねえ、連絡先登録してもいい?」
駅の入り口で立ち止まり、柚乃は伏せ目がちに口を開いた。
「ああ、もちろん。当たり前だろ?」
そう言ってまた優しく柚乃の頭を撫で、ポケットからスマホを取り出す。
すると、柚乃は顔をあげてぱあっと明るく笑った。
「ありがとうっ」
手早く連絡先の交換を終えると、柚乃はスマホを両手で大事そうに、そしてどこか愛おしそうに握りしめた。
「それじゃあ、またね!」
――その時のことを思い返すと、今でも絶望で身体が冷たくなる。
あの時、
「いや、お前結婚してんだからさ、二人だけで会うのはちょっとな~」
とか言えたら良かったのかもしれない。
でも、もしも今すぐあの時に戻ったとしても俺は……同じことを言うんだろう。
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