10慧の苦悩(1)


遡ること2ヶ月と少し前――。

春風が吹きすさぶ夜の海で、俺はあの子を見かけた。




その頃の俺は夜になると急に叫びだしそうになったり、自分をコントロールできなくなりそうで、決まった時間になっては近くの海へふらふらと出歩く毎日を過ごしていた。


そうしてその日もいつも通り波打ち際まで行こうとしていて――見かけたんだ。

浜への出入り口である階段の途中に座り込む、その小さな背中を。


「(は、女の子?)」


高校生だろうか。それくらい若い女の子が一人、暗闇の中で月に照らされていた……の、だが。


それはそれは、

「(う、うわぁ、すげー……)」

とてつもなく豪快な泣きっぷりであった。

もう号泣の域だ。泣きわめいてると言った方が近いかもしれない。あんなにぎょっとしたのは生まれて初めてだった。


……だけど。

辛いことがあって泣いているんだろうに、彼女の泣き顔があまりにも清々しくて。

そこに、胸が痛んだ。目が離せなかった、強く惹きつけられた――気持ちよかった。


真っ白な闇の中で、原色が一滴。じわりと沁み込んだような感覚。


それは俺にとってとても、眩しかったのだ。




  ◇




「(暑い……)」


今日は8月10日、大学は夏休み真っ只中だ。

俺は洗面台の前に立ち、髪の毛をいじる。

ついさっき大学の友達から「慧、暇だろー? カラオケ行かねえー?」と誘いを受けたからだ。

……が。


「あー、ちくしょう」


俺は苛立ちとともに息を吐き出すと、くしゃくしゃと髪をかき混ぜた。

やっぱりだめだ。うまくいかない、何もかも。


すると、母さんが洗面所に入ってきた。

母さんは俺の背後にある洗濯機から衣類を取り出し、洗濯かごへと移していく。

俺は振り返り、母さんに声をかけた。


「あ、俺がやるよ」


「えー? いいのよ、これくらいなんてことな……」


「いいから、貸して」


そう言って、半ば強引に奪い取るように、手早く洗濯物を広げてはかごへと移す。

「……」

そんな俺の背中を、母さんが不安げな瞳で見つめていることなんて気づかなかった。


「……慧、無理してない?」


「え?」


母さんの言葉に、ドキリと胸が跳ねた。

俺はできるだけ平常心を装って、気だるげに首を回した。


「無理なんてしてないよ。あーでも、夏休みだからって調子乗ってバイト詰めすぎたから少し寝不足気味かもなあ」


明るい声で言えた気がした。

ふー……と一息ついて母さんから視線を外す。そうして逃げるように俺は2階へと向かった。



網戸を開けて、ベランダに出る。セミの大合唱に耳が痛い。

「(これからもっと暑くなるんだろーなー……)」

まだ午前中だというのに。刺さりそうなほどの強い日差しに眩暈を起こしそうだ。

「(さっさと終わらせよ)」

気合を入れて、洗濯かごの中に手を伸ばした。



2年ほど前から、俺は近所のアパートで一人暮らしをしている。

しかし定期的に顔を見せないと母さんが心配するもんで。昨日はバイト終わりに寄って、そのまま一泊したのだ。


バンッと広げて、バスタオルを物干しざおにかける。


胸の中が空虚になったまま時間が過ぎるのを待っていたら、いつの間にか今年もまた、俺は夏を迎えていた。

一番好きな季節なのに、今は泥を噛むより辛い。

あれから俺は、深い穴に沈むように自分を見失っている。




――俺には、秘密がある。


それは誰に言おうとも思えないことだ。




早く時間が過ぎてくれればと願うほど、そんなこと起こるはずのない現実に苛立ちが募る。

俺にできることと言えばせいぜい、早送りボタンの代わりに手あたり次第メッセージを送ることくらいだ。

そして予定を埋め、くだらないことでバカ騒ぎし、面白くなくても笑っておく。そうしている間に、時計の針がまわるのを期待して。


今だってそうやって、毎日をやり過ごしている。



  ◇



ゲームセンターに行ったり買い物に付き合ったり。誘われるまま、友達とふらりふらり外を遊びまわった。

絶賛彼女募集中の友達数人が何度かナンパに挑戦するが、あっさりと断られ。

たまに「慧も協力してくれよー」なんて言われたけどとりあえず笑ってごまかしておいた。



「てかさ、慧って彼女とかいねーの?」


「な! それ俺も思った!」


「お前そう言う話一切しないからなあ」


そんな事を言われたのは、とあるカラオケの一室。

確かに連絡先を交換しようと声を掛けられることだってあるし、バイトでの出会いもそこそこある……けど。

俺は笑みを貼り付けたまま「いやー、どうかなー」とはぐらかす。と、タイミングよく友人2人のデュエット曲が入って。

ガンガンと大きな音楽の流れる小さな部屋で、俺はそっと端の席へと移動した。


ああ、だめだ、やっぱり。


「(何もかもが憂鬱でしかない)」


まるで、油の切れたランプにでもなった気分だ。

もしかしたらこれはただの重苦しい夢で、現実は他にあるんじゃないか?

そんなバカげた錯覚さえしてくる。


俺は、どうしたらいいんだろう。

一体、どうしたら……。


「(――泣いてみたら?)」


頭の中で、別の俺が囁いた。

でも、泣くってどうやって?

泣こうとしても泣けない時は、どうしたらいい?

そうイライラと視線を彷徨さまよわせるたびに、あの海で見た号泣女子高生を思い出す。

「……」

ポケットからスマホを手に取ると、俺はおもむろに今までの彼女とのメッセージのやり取りをスクロールしながら眺めた。


岡元若菜――俺はあの子と接するたびに、ずっとどこかに違和感を覚えていて、その正体が何なのかを考えていた。

そしてその答えが、最近なんとなくわかってきた気がするのだ。


それはかつての青春の記憶。

赤の他人に対して本気で怒る真摯しんしな眼差しや、感情をもろに出してころころと変わる表情。

大人なら受け流すような冗談に、ムキになって言い返すあの口調、そして声。

つまり彼女の不思議な魅力は、自分自身がもっともキラキラ輝いていた高校生時代を彷彿ほうふつとさせる要素なのだ。


俺はタバコを咥えて火を点けた。吐き出した煙は、しばらくは空中にその紋様もんようを漂わせていたけれど、やがてはのみこまれ、消えていく。


一重まぶたの黒目がちな瞳はびっしりと生えたまつ毛と少し垂れた目尻が印象的で、艶のある黒髪は柔らかそうな頬の横でその白さを際立たせている。

小さな顔の中に一際目立つぷっくりとした口唇は可愛らしく、打てば響くような反応も楽しかった。


2度と会うはずもないと思っていたのだが、偶然にも2度目があって。

気まぐれに任せて外に飛び出した休日は、不意に訪れた再開によって、なんだかんだで楽しい時間だったというのに。

ある男女と――というよりはある男子高校生とすれ違ったとき、彼女の顔がたちまち陰りを見せて。

あまりにも苦しそうに歪むソレがなんだか俺とかぶる気がして、思わずスマホを奪う形となったが……。


今日何度目かわからない溜め息を吐きだすと、まだ長さのあるタバコをもみ消し、ポケットに再びスマホを突っ込んだ。


「夏祭りさ、女の子も呼ぼうぜ~」


曲が終わり、友人の一人がマイク片手に声をあげた。

8月31日。

夏が終わりを迎える頃、この町の夏祭りは行われる。

浜では大掛かりな花火大会が開催されるし、一部の通りは車進入禁止になって様々な夜店がずらりと並び、毎年賑わいを見せるのだ。


「お、いいじゃんいいじゃん!」


「F短大の子とかどうよ? ほら、慧、前にバイトで知り合った女の子。あの子もF短大だったよな?」


「ああ……そういえば」


言われて思い出す。確かに、そんなことを言っていた子がいた気もする。


「んじゃ決定ー! 慧、連絡よろしくな~」


「はいはい」


まんざらでもなさ気に笑って、テーブルの影でぎゅうっと拳を握った。


本格的な夏を過ごすうちに、夏祭りが近づくにつれて、“彼女”のことが思い出されて、俺の視界に映る景色はどんどん色を無くしていく。

他人に調子を合わせることさえも億劫になってしまうほど。

その度に、俺の心は未だ彼女にとらわれているのだと思い知らされるのだ。


――去年の夏祭りで柚乃ゆずのと再会した。

それが、すべての始まり。


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