9 ange(3)
事態がのみこめず狼狽するわたしを救ってくれたのは、野外からの思いがけない声だった。
「あら~! サトルくんじゃない、お久しぶりね」
いま絶妙なタイミングで飛び込んできた声の主は、叔母さんにちがいない。
首をねじるようにして振り返ると、そこにはやっぱり驚いたような、それでいて嬉しそうな叔母さんの顔があった。
「最近ぜんっぜん来てくれないから、おばさん泣いちゃうところだったわ」
「うわ、マジっすか。なんかすみません」
「んーん、いいのよ。それより、ケーキでしょう? ……お店はもう閉めちゃったけど、今回だけ特別。いつもの2つでいい?」
ふたりのわきあいあいとした様子を、わたしはガラス戸一枚隔てた向こう側のことみたいに、ぼうっと見ていた。
叔母さんの気を使わない喋り方からして、彼がこの店の常連だということはすぐに理解できたけれど。
いそいそとショーケースからケーキを取り出している叔母さん。
左手のトレーにはすでにショートケーキが乗っていて。右手のトングがチーズケーキを挟もうとした時。
「あの、」
コズミは、何かためらうように血色のよい薄い口唇を開いたり閉ざしたりしていたけれど、決心したようにゆっくり息を吐き出した。
「今日は、っていうか……これからは、ショートケーキだけでいいです」
コズミの顔がへにゃりと歪む。
それは、一見すればただ穏やかに笑っているようにも見える。
「そうなの? わかったわ」
叔母さんも何にも気にしていない様子でショーケースを閉めた。
ちくり、ちくり。
わたしの心臓を細い針が突く。
疼くような痛みに、わたしは口を固く結ぶしかなかった。
◇
「……」
「……」
変な空気。
何故かわたしはお店の一角のカフェスペースで、コズミと机を囲んでいた。
あれから叔母さんがよく分からない気を利かせて
『なーんだ、ふたりはお友だちだったのね〜! だったら、若菜ちゃん、サトルくんと一緒にお茶したらどう?』
なんて言うからこんなことに……。
わたしなんて、さっきから自分の手元ばっかり見ているし。
コズミの前には先ほど買ったショートケーキ。わたしはチーズケーキ。
それと、お揃いのティーカップに注がれたストレートティー。
お互いケーキには全く手をつけておらず、コズミにいたっては焦点の合わない目で意味もなくティーカップの中でティースプーンをくるくると回しているだけで。
その、いつもと少し違う様子に怪訝な感じを出しつつ、睨むように見てしまった。
と、こちらに気づいたコズミ。
「そんなに見られたら穴空くわ、俺」
いつもみたいに、にやりと笑ってみせた。でも。
「ねえ」
「ん?」
「アンタ……なんかあった?」
「なにが?」
声色は明るいがどこかいつもと違うように見える。
けど交友関係が広くもないわたしにとって、そんなのを見抜く力に長けているとも言えず。
「……」
やはり何も言えずに視線を逸らした。
久しぶりのコズミは、抜け殻のようだった。
いや、気にしないようにしていただけで、実際、その違和感は最初から持っていた。
お調子者でバカみたいに明るくて、ろくでもなくていけすかなくて。……でも、いつも何かに引っかかっていた。
「(……ダメだ、変に考えすぎちゃう)」
降参、とばかりに深く息を吐いて、とりあえず目の前のケーキを食べちゃわないと、と。フォークを握りケーキの先端を崩した時。
コズミがゆっくりと沈黙を破った。
「チーズケーキ、好きか?」
「は?」
あまりにも突然の出来事で、マヌケな声を漏らしてしまった。
そしてすぐ言い直すように、「ああ、うん」と首を縦に降ってみせる。
でも。
「なんで?」
再び問いかけられたその声に、わたしはまた突拍子もない声をあげそうになった。
なになになに。とうとう頭がどうかしちゃったわけ?
眉を寄せながら思わずヤツに顔を向けてしまったが、その表情はいたって真剣で。
「……」
嫌味どころか、何も言えなくなってしまった。
「(好きな理由、か)」
言わざるを得ない雰囲気に押されて。わたしは視線をチーズケーキに落として、ため息を吐きつつ、少しげんなりしながら言葉を紡いだ。
「……チーズケーキの響きが、好き……だ、から……?」
そこまで言って、顔がじんわりと熱くなった。そして少しの後悔。
ヤツのことだ。
――「なんだよそれ、意味わかんねー」とか笑って、ひたすらにバカにしてくるかもしれない。
でも、そうするならすればいいと、わたしはとっくに諦めていた。
だから、睨みつけるように男を見たとき、わたしは心底驚いてしまった。
「(……え?)」
ティースプーンを持つ手がぴたりと止まり、つい先程までほんのり柔らかかった表情も固くこわばって。
深い茶色の瞳は大きく見開かれ、その奥が微かに揺れていた。
しばらくの沈黙。
「……ははっ、なんだそれ」
重い間を持ってからつぶやかれた声には、どうしてだろう。今までになかった悲しみが入り混じっているように思えた。
窓の外のブロック塀。そこにうずくまる野良猫にコズミは視線を流す。
けれど、身を起こした猫がゆっくりとその場を離れたあとも、コズミの視線は動かなくて。
彼がそこにはない何かを見ていることが、わたしを不安にさせた。
手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、まるでコズミが遠くにいるみたいだった。
彼の瞳が、ゆっくりと伏せられる。
そして立ち上がり背を向けたコズミは財布を手に歩き出した。
「すみません、帰ります」
お金をカウンターに置き、抑揚のない声で吐かれたそれに頭が真っ白になった。
え、と掠れた声が不格好に零れる。
コズミと、ヤツを呼び止めようとしたが、音になりきらない息がただ漏れるだけ。
外に出る直前で振り向いたコズミはまた掴めない表情を浮かべており、瞳には、苦悶の色が滲んでいた。
突き放すような表情を。暗く光を閉ざすあの瞳を。
わたしは今でも、ずうっと反芻している。
――それからコズミはまたパッタリと店に顔を見せなくなって、会うこともなくて、メッセージも一向に来ないままで。
わたしは、夏休みを迎えることになった。
――『ええ? なんでチーズケーキが好きかって? ……うんとねー、美味しいからっていうのはもちろんなんだけど。名前の響きが、素敵じゃない。 ふふふ、可笑しいかなあ?』
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