6 雨とヤツと本屋さんと(2)

こんなにじめじめした薄暗い日にも関わらず、明るくみえる茶色い髪の男を見たとたん、わたしは思わず突拍子もない奇声をあげそうになった。


「また、会っちゃったな〜」


男はそんなわたしを余所に、わざとらしく‟また”を強調して憎たらしい笑みを浮かべる。

想定外の人物。これぞ正真正銘の大ピンチ、絶体絶命の危機である。


「あっ、あっ、あんた……っ!」


みっともなくオタオタするわたし。

その間にも男はオモチャを見つけたガキ大将のようにご機嫌な様子で

「そうかそうか……感動で言葉も出ないか」

この最悪な状況に加えていい加減なことまで口走る。


男の、寝言とも、宇宙語ともとれる一言。

へへっとひとり笑いをもらし、鼻の下を照れくさそうにこする様は、もはや同じ星の人間とは思えない。


「なっ……」


なに言ってるのコイツ。あるわけない。そんなこと、ありえないから。

しかしとんちんかんな発言に動揺し、わたしは壊れた人形みたいに"な"から先がでてこなかった。


わたしはふいっと顔をそむけ、丁度そこにあったフローリングの床を見つめた。

白い床。合成樹脂系のそれは、蛍光灯の光が反射し、外の雨から逃げ込んできた客のせいで点々と濡れている。


その間、わずか3秒。

ふっと口元から漏れた吐息が耳を掠めたかと思えば、目の端で男がわたしの脇をすり抜けて行った。

帰るのかな? いや、別にわたしが気にすることじゃないけど――と考えているうちに、なんとヤツは肩にかけてあったスクールバッグをわたしの背後に回り込んで素早く外してきて。


「え!? あっ、ちょっと……!」


慌てるわたしにその背中は言う。

「さっさと行くぞ〜」

どーせ傘持ってないんだろ? ――傘立てから青色の傘を抜いて振り向いた男は、手にしたそれを持ち上げ、

「ほら、早くしろよ」

と悪戯が成功した子供の如く、無邪気に笑ってみせた。


「……」


わたしはア然として立ち止まったっきり、男の顔をジっと見つめていた。

だって。

さっさと行くぞ〜、ってどういうことだろう。まさか、誘っているのだろうか。全然親しいわけでもない――というかむしろ、わたしとしてはニガテ意識しかない。


「(でも……)」


男は相変わらず少年のような笑みを浮かべ、わたしの鞄を肩にかけながら「こいこい」と手招きをしている。

そんな姿を見ているとつっぱねるのも気が引けて。

鞄を取り返したわたしは、男の傘に入れてもらうことにしたのだった。






梅雨どき特有の風を伴わないまっすぐな雨は、夏の暑さにうだっていた草木に生気を取り戻させていた。

建物を写す濡れた道路ではエンジン音が走り、タイヤが水溜りをはねて。

わたしのローファーと男のスニーカーが並ぶ青色の空間では、もってりとしたグレーの雨雲から落ちた大粒の水滴が、ぽつぽつと傘に弾けてやさしい雨音を奏でている。


「おまえ、名前は?」


無言のまま並んで歩くこと2、3分。横断歩道の赤信号に引っかかった時のことだった。

ふいに男が口をひらいたのだ。


あまりにも唐突だったため、驚いて男の顔を窺うと、端整な横顔がそこにあった。まっすぐに、ひたすらに前だけを見つめている。

自分から声を掛けたくせにこちらを向くことはなさそうで。


「あー……、うん」


素性の知れない男に、言ってしまってもいいものなのだろうか。どうしようかな、と。少しばかり沈黙が続き、ゆっくり視線を流すと空間の奥でぼんやりと雨だれが視界に映った。


傘の表面をつーっと雫が滑っていく。

小さな粒を巻き込み、徐々にふくらんだ雫がやがて、ぽとんと骨の先から落ちて。

それが男の白いシャツの肩を湿らせる。


こんな大きさでは2人入れない――と店を出た後は思っていたけれど、ヤツがわたしに合わせていたのだろう。

肩が、肌の色まで透けきっていた。


ちろり、とわたしも自分の右側を確認してみたけれど、肩はおろかどこも濡れてはいなかった。はねる滴で紺色のソックスは若干湿ってはいるけれど。


それでなんとなくだけどわたしも、口をひらいてみたくなったのだった。


「……かな、」


「ん?」


「お、岡元若菜おかもとわかな……」


信号が青に変わる。

それに合わせてコミカルなリズムの音楽が流れ出す。

鞄の肩ヒモをかけ直しながら再び足を進めるわたしの横で、あまり興味無さげに「ふ〜ん」とヤツは鼻を鳴らした。


それがちょっと気に入らなかった、というか。少しでももったいぶろうとした自分が恥ずかしくなって。

そんな微かな苛立ちに似た思いが、刺々しい口調にさせる。


「あ、あんたは? 教えてよ。本当なら先に名乗るのが礼儀なんだからねっ」


ほら、と勝ち誇ったように腕を組んで、わたしは横目でちらっと男のこれからの言動を確かめた。


が、わたしが甘かった。


「ほうほう、俺のことが知りたくなってきちゃったわけかー」


「なっ、バカ! 違うから! そんなわけないじゃん!」


「またまた〜、照れんなよ。まあ、お前がそんなに言うなら教えてやらねーこともないけど」


わたしの心境を都合よく解釈し、壮大な勘違いをしれ〜っと言ってのける。


胸の底からふつふつと湧きあがる羞恥心に、体を硬くして目を伏せた。

能天気な奴。コイツの頭の中はどうやらお花畑のようだ。

ムッとした小さな怒りに、「これ以上コイツと話すのはやめよう」という結論に至ったわたしは黙りを決め込むことにした。


その時。

ふと顔をあげて前を見据えた時、向かいから歩いてくる見覚えのある2人の姿が視界に映り、ハッと息を呑むと同時に足が止まる。

そんなわたしに隣でヤツが不思議そうに瞬いたが、それに反応できるほどの余裕は残っていなかった。


どくん、どくん、と心臓は隆起と陥没を繰り返す。

一つの傘の中で笑い合う男女――瑞樹先輩とその彼女、一年生の柳沢さんが、こちらに近づいてくる。




『僕と付き合ってたこと、誰にも言うなよ』




ふとぎったいつかの言葉。

煩わしそうに吐き出された言葉を思い出し、それに感情的になった自分を思い出し、より一層身体は強張った。


感情的になる程心を許した自分。感情的になる程の相手なのに、本人の前では平然と振る舞った自分。どれも酷く滑稽こっけいで。


すれ違う寸前、瑞樹先輩は見逃してしまいそうなくらいの小さな動きでちらりとわたしを見た。

2ヶ月と少し前、最後に見た面倒くさそうな表情は影を潜めていた。


「(――そっか)」


わたしは足元から沈んでいくような気がした。

そうか、と納得することで、ぱんぱんに張りつめていた気持ちが、じわじわとしぼんでいくような。

そんな無気力さだった。


先輩はわたしから目を逸らした後、これみよがしに彼女の肩を抱いてみせ、わたしの視界の中から消えていく。

無意識に、聞くともなしに2人の会話に耳を傾けていた。


「桃香、今日僕の家に寄っていきなよ」


「え〜、でもいきなりだとお母様に失礼じゃないかなぁ?」


「大丈夫、今日は誰もいないんだ」



――わたしは、一度とだってお家に呼ばれたことはなかったよ。




景色を失った街の中で、わたしは密やかに2度目の失恋をのみこんだ。

泣きたいけど泣けない、微妙な感情と戦っている。必死に。諦めなんてちっともよくないくせに、諦めたふりだけなら簡単にできてしまう。

奥歯をかみ、これからはじまろうとしている2人の楽しげな予感にぐっと堪える。


直後、わたしは視線を感じてふっと男を振り返った。

目があわさったとたん、慌ててずらしたのは、なにか嫌な予感がしたからだ。


物言いたげなまなざしに、見透かされてはならない気持ちを読まれた気がした。

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