5 雨とヤツと本屋さんと(1)
活発な梅雨前線の影響で今日の天気は曇りのち雨。
お腹が充分に満たされた午後、ぼーっとする思考の中で、わたしは英語の授業中にも関わらず気怠げに窓の外を眺めていた。
光る雲が
「不思議な天気……」
袖から伸びた自分の腕をさすりながら吐息のように呟いた。
好きだった先輩からはあっけなく別れを告げられ、あげくの果てには夜の海で変質男に捕まりキスをされる(おでこだけど)という失態を犯した――あれから2ヶ月。
暦は春から夏になった。
大きく変わったことと言えば、制服が夏使用になったことくらいだろうか。
「どう和訳したらいいのか。そのポイントがこれで……」
一応授業中ということで、目だけを動かして黒板の板書に視線を流した。
50歳前半の男性教師は、チョークの先で黒板に書いた英文の一部をコンコン、とつついている。
ポイントだと言うわりに抑揚もなければやる気もなさそうな声。それでも尚チョークで黒板をなぞり続け、半ば投げやりに動いているその手は止まらない。
と。
ガッという聞きなれない音と共にチョークの先端が折れた。
そして、その欠片が床に転がるその音とほぼ同時に、この日最後の授業の終わりを告げるチャイムがスピーカーから流れだす。
トレードマークの薄い頭が相変わらず今日も淋しそうだ。
一日の最後、6コマ目が終わり。雲は先ほどよりも濃いグレーに染まっていて。教壇では女教師が明日の予定について淡々と喋っていた。
「――以上。日直は日誌をここに置いて帰ってくださいね。先生があとで取りに来きますから」
その声を合図に微妙に高さにズレのある机がガタガタと鳴り、クラスメイト達が帰宅の準備に取り掛かる。
帰りのHRも終わり、本来ならわたしも帰る時間だけど……今日は残念なことにわたしが日直当番だ。
モップ掛けをするクラスメイトたちに気づかいながら、席に残ってカリカリとシャーペンを動かして日誌を埋めていく。
すると。
廊下からがやがやと楽しげな笑い声が、ここまで響いてきた。
ふと気になって日誌から顔を上げてみればクラスの男の子たちが、いかにも今から帰りますといった風情でたわむれていた。
誰かがつぶやいた拍子にどっと笑い声をあげ、盛り上がっている。
この、誰かっていうのが高倉くんなんだけど。
大勢の友達に囲まれて、おまけに教室の中からは数名の女の子がその様子を眺めてる。
わたしは再び日誌に視線を落とした。
バスケ部に所属し、1年生の頃から3年生の先輩を差し置いて女の子から圧倒的な支持を獲得。それでもフレンドリーな性格からか先輩方からの信頼も熱い!
高倉くんを知らなくとも‟一番カッコいいのが高倉くん”と言えば、100人のうち99人は彼だとわかるはず!
……だそうだ。
先週の化学の実験の時にたまたま同じ班になった子たちがそう話していた。
「……っし、書けた」
わたしは日誌に氏名を記入して、それを教壇の上に置いた。
まばらに届く足音は、どんどん小さくなっていく。薄暗い影を落とした教室に、静けさを増して。
「降りそうかも」
ぽつり、そうつぶやいたのは、駅の改札をくぐり、北口に出る階段を登りきる頃のことだった。
鉛を張ったように厚く重く垂れさがった曇り方に、今にも雨が泣き出しそうだ、と。眉根を寄せたのもそれと同時である。
駅から家までは徒歩5分。
このまま家路に着けばよかったのだが、前々から気になっていた駅近くの大きな本屋の外観に目がくらんでしまい、ふらりと足を運んでしまって。
インクのにおい立つ新刊本コーナーを抜け、若い女性に人気のファッション誌を適当に手に取って眺めてはパラパラと捲るをくり返す。
やがてあらかたに目を通し終え、なんだかあたりが騒がしいな、と。出入口のガラス扉に目を向けたときだった。
通りを行く人々はいつの間にか色とりどりの傘の花を咲かせ、ガラスの上を雨粒があとからあとからと滑り落ちている。
雑誌をコーナーに戻し、入り口に近づいてガラス越しに空を見上げてみた。
本日の天気、曇りのち雨。のち雨、が今まさに来てしまったようだ。
「あ、あれ……」
ない。
スクールバッグの底や小さなポケットの隅々まで漁ったところで、わたしは傘を持ち忘れていたことに気づいた。
「(どうしよう)」
ぼーっと立ち尽くしていると、手をかざして足早に本屋に逃げ込んできたサラリーマンにぶつかられ、よろめく。
邪魔くさそうに睨む人の目に、思わず苦笑いだ。
今日は本当についてない。どんなに出掛け先でバタバタしようとも、いつもは忘れたりしないのに。
「走ればなんとか……、」
そこまで思案して、やっぱり却下。
こんな薄っぺらい夏服では下着まで透けるに違いないし、風邪だってひきかねない。
雨の中の5分は長い。
中学生のときにも一度、雨に濡れて夏風邪をこじらせてしまったことがあるのだ。
「しょうがない、止むまで待つかー……」
そのようなわけで、踵を返して店内へと戻る――はずが、振り向いたところでぼすっと誰かの胸にぶち当たって。
「うおっ」
直後、わたしははじかれたように顔をあげていた。
だって、その声は本来なら聞くはずのない、もう2度と会うはずのないヤツのもので。
バラエティでよくある寝起きバズーカーを撃たれたような、初めてわさびを口にしたような、鳩が豆鉄砲をくらったような……。
とにかく、表現してもしきれないほどの驚きとともに、言葉にならない悲鳴でパクパクと口唇を動かすことしかできない、わたし。
そして耳に届く、呑気な声。
「お~、泣き虫の大福じゃん」
茶色い、跳ねた髪。にやりと細める、奥二重の瞳。
勢いあまって飛び込んだ胸の主は、どこからどう見ても、夜の海の変質男。そのヤツであった。
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