4 情報屋チャラ男


朝になり、洗面所に向かったわたしは鏡を覗いて制服姿の自分をチェックしていた。


髪は胸のあたりまで伸ばした黒のロング。アイロンで毛先をゆるく内巻きにして、前髪をふんわりと横にながす。ピンクパールの下地にローズのチークがほんのり頬を染めて。カールしたまつげは目をぱっちりと印象づてけくれる。


最後の仕上げに、‟彼に食べられちゃう!?秘密の唇”が売り文句のリップグロスを塗っていたその時。


「(……ん?)」


口唇をジ、と見つめていたせいだろうか。

昨晩の忌々いまいましい出来事が、ふと頭に蘇ってきた。


夜風に揺れる茶色い髪。

手首をつかんできた、意外と男らしい大きな手、温度。

口の端を片一方だけあげて「隙あり」と囁いたあの憎らしい声。

おでこに触れた彼の柔らかいくちびる――


「ぎゃー! ないないないない、ありえない!」


わたしは鏡に映る耳まで真っ赤な自分を一喝するように、乱暴に言葉を吐いた。

せっかく、今朝は爽快な目覚めだったというのに。

あんな男もあんな事件も、つまらない思い出のひとつとなるよう、さっさと風化させなければ。


いまだ赤い顔の自分が許せなくて、ダンッと拳で自分を殴ってやった。まあ、鏡だけど。

と。

そんな時に限ってタイミングよくやって来るのが母である。


「なあに、若菜。朝っぱらからどうしたの?」


ドアの影からひょっこり顔を出して、いかにも寝起きな感じで目を擦っている。

わたしは慌てて背筋を伸ばし母に向き直ると、髪を手ぐしでとかしてみたり、と。なんだかよくわからない仕草で必死に誤魔化そうとした。


何を誤魔化そうとしているのか自分でもわからないけど。



「ええっ、と。いや……なんでもない」


目線を逸らしながら途切れ途切れにそう答えると、母はきょとんとした表情でわたしを見た。


「そう、ならいいんだけど」


台所へ向かう間もチラチラとわたしに視線を送る母。不審そうに見るの、やめてください。


こんな状況は耐えきれないと判断したわたしは、リップのキャップをくるくると閉めて鞄に放り込んだ。

テレビの前を横切り、ローファーを履いて「いってきます」とドアノブに手をかければ、「あーい、いってらっしゃーい」と舌足らずな返事が返ってくる。


空一面にはぼんやりとした薄いヴェールに包まれた青が広がっていて。

まさに春の空だった。



  ◇



電車に揺られて45分、それから歩いて10分のところに学校はある。

いつも到着ギリギリのわたしは、今日もまた予鈴と同時に身体を2年D組とプレートが掛かった教室に滑り込ませた。

騒がしくも華やかな教室で、生徒たちは担任が来るまでの時間を各々潰していた。

スマホをいじってる子、ゲームをしている子、会話に花を咲かせている子、様々だ。


わたしはふう、と息をつき、自分の席へと怠惰な足取りで進む。窓際横の列、後ろから2番目がわたしの指定席。

頬杖をついて開け放たれた窓へと視線を向けながらわたしはゆっくりと瞳を閉じた。


泣きたいと思うことが無くなったにせよ、失恋の傷を引きずっていないのかと問われればそんなことはなくて。

瑞樹先輩は、今日もあの裏庭で新しい彼女と楽しく笑い合うのだろう。そう考えるとやっぱり虚しいし悲しいし、辛い。


時間はいつだって平等。早送りも、巻戻しもできない。

わたしにできることと言えばせいぜい、この失恋をただのセンチメンタルな思い出として受け入れることだけ。


目が合うだけで嬉しくて、でも他の女の子と喋っているところを見ると苦しくて。

そういう「好きになっちゃった」だの「恋した」だのって、もう。


「……しばらくはいいや」


小さな小さな独言ひとりごとは華やかな喧騒に混じって消えた。


と。


「ホラ皆さん、席につきなさーい」


ざわめきに混じってガラガラと教室のドアがレールを滑る音がしたと思えば、続く声は担任の男性教師である栗山――ではなくて。

きびきびとしたアルト、副担任のアラフォー女教師のものであった。

パッと顔をあげた先で女教師は教壇に立ち、メガネのブリッジを指で押し上げて続ける。


「栗山先生は今日もまた諸事情で欠席ですので代わりにワタシが―……」


尚も女教師は喋っていたが、それ以上の声はわたしの耳に届かなかった。


――今日も、ってどういうことだろう。


――あれ、なんだっけ?


ああ、そういえば確か――と、わたしは昨日の朝に記憶をはせた。


そうだ、そういえば。昨日もこんなふうに副担任が淡々と担任の欠席を伝えていた気がする。

その時はまだ失恋の痛手が大きすぎてHRなんてうわの空で。担任の欠席なんてまったく、忘れてしまっていた。


そんなことをぼんやりと考えていれば、やがて女教師は、「それでは、今日も一日勉学に励んでくださいね」と名簿をまとめた黒表紙をトン、と教壇に打ちつけた。

「起立」と号令をかけようと半分腰をあげた学級代表の男の子に片手で制止のポーズを示す。

それを合図に静かだった教室にはざわめきが戻り、かくいうわたしもだらりと机に突っ伏した。


それにしても栗山が休むなんて珍しい。なにせ、超がつくほどの真面目で堅物な男だと生徒の間では有名なのだ。

わたしはまた窓の外に目を向けた。風が前髪をさらさらとなびかせ、雲はゆっくりと流れていく。

と。


「センセーって、実はソソる女教師第1位なの、知ってた?」

後ろの席から正体不明のランキングを持ち出す甘い囁き声が突如耳に届いてきて。

かと思えば、

「んもう、先生をからかうつもり?」

と先程とは打って変わって軟化した女教師の声まで。


かなり小さな声で喋っているみたいだからたぶん、わたしにしか聞こえていないんだろうけど、これって……。

ゆっくりと上体を起こし、わたしは声の方に目をやった。そこには――


ミルクティーブラウンの少しクセのついた髪。

シャツのボタンを上からふたつあけて、制服のズボンに両手を突っ込んで座る男子生徒と。

先ほどの副担任女教師がいつの間にかその横に立ち、手のひらで口元を隠して笑っていた。

巧みに女教師をヨイショするその男子生徒はどこからどうみても、やっぱり高倉くんだ。


「俺、担任はこのままセンセーがいいな」


「え~、そんなの無理よう」


「はは、それは残念」


高倉くんはぺらぺらと舌をまわし女教師をどんどんと煙に巻いていく。

一体どこからそんなお世辞がでてくるのか。まったく、大した処世術である。


「それじゃ高倉クン、また後で放課後ワタシのところに来てちょうだいね」


「了解っす」


そうこうしているうちに女教師は心なしか頬を赤らめて教室を後にした。

なんだか……ただならぬ禁断の臭いがするのはわたしだけだろうか。

肩越しにじっと高倉くんの動向を伺っていると、わたしの視線に気付いたのかこちらに目を向けた、彼。


目が合った瞬間、高倉くんは「おっ」という顔をしてゆるりと口の端をあげて。

スッと長くて綺麗な人差し指を口元に持っていったかと思えば、「シーッ」っと妖艶ようえんに微笑んでみせた。

わたしは驚きに鋭く息を飲み込み、慌てて前に向きなおった。


ヤバイ、この人。ちょっと……ていうかかなりヤバイ。

2年生に進級して新しく編成されたこのクラス。まだ1ヶ月ほどしか経っていないから女子はもとより、男子のことは名前くらいしか知らないのがほとんど。

でも今、彼についてわかったことがある――とわたしは目だけで高倉くんを見た。


もしかしたら、高倉くんは真性の女好きなのかもしれない。





とその時、クラスの女子がはしゃいだように声をあげた。


「栗山さー、なんで4日も休んでんだろーね」


くるくる巻かれたキャラメル色のエクステを指に巻きつけている彼女は、クラスの中でも目立つ存在の子で。

本人は自覚していないのだろうけど、声がかなり大きいからクラス中の視線が一気に彼女に集まる。もちろんわたしも例外ではない。


「確かにー」


「理由言わないのってちょっとおかしくない?」


「えー、病気なんじゃね」


次々に憶測を飛ばし合うクラスメイトたち。所詮、憶測なんだけど。

平和ぼけした生徒たちは小さくともエサが投げられれば喜んでつつき合うものだ。

わたしは相変わらずなにも言わず、その様子を傍観することに徹していた。


と。





「栗山の奥さんが自殺したからだよー」




ぴたりとざわつきが止む。

言葉に似合わず間伸びした声で言った主は、その、生徒は。

――わたしの後ろ、高倉千紘たかくらちひろくんだった。


「……え?」


思わず漏れた声は、再びざわつきはじめた音にかき消された。

悲鳴とも歓喜ともとれる喧騒の中で彼――高倉くんは、ごく自然に自分の存在を消して。先ほどのわたしと同じように教室内を傍観する。

今度はしっかりと高倉くんを見た、わたし。

それに応えるように、にやりと笑って彼は言った。


「センセーから聞いたから、嘘じゃないよ」


おどけたようなその言い方に思わず眉根が寄ったことで、高倉くんの笑みは深まる。

彼の言うセンセーとは、きっと女教師のことだろう。2人がどんな関係なのかは知らないし、知りたいとも思わないけど。


ね? と可愛らしく小首を傾げる高倉くん。


それに尋常じゃない不快感を覚えたのを、わたしは未だに覚えている。



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