3 失恋のNight Sea(2)


だけどなぜだろう。意外なことに、男が追ってくる気配がまるで感じられなかった。

わたしは少々不審に思い、背後の気配に意識を集中していた。

なにせおかしい。さっきまであんなにいじり倒してきたのに。

進める足はどんどんペースを落としていって。


「(……チラ見くらいなら)」


と、さあ立ち止まるぞという時だった。

わたしの耳に、闇をつんざくような笑い声が聞こえてきたのは。


「アーッハッハッハ! あたちモテるんですぅ、ってかあー!」


近所迷惑なほど豪快な笑い声に、わたしは驚いて振り返った。

男は遠目にもわかるほど肩を揺らして大笑いしている。


噛み締めるようにしてやっと笑いを止めて駆け寄ってきたかと思えば、呆然と立ちすくんだわたしに、「すげえよお前。大福みたいなナリしてよく言うぜ」とお腹をつまみ、体脂肪率何%? と一層わたしを侮辱したのだった。


「(こ……こんなにコケにされたのは生まれて初めてだ……!)」


痴漢!  変態!  セクシャルハラスメント!

罵倒したい言葉はたくさん出てくるのにショックが大きすぎてふるふると身体を震わせることしかできない。つま先から頭のてっぺんまで怒りがつき抜け、胸の奥ではひどい屈辱感が渦巻いていた。


わたしは手を払うように身をよじり、歯噛みする思いで顔をそむけると、遠くに見えた階段(先ほどまで座り込んでいた)目指して走り出した。

あそこまで行けば家は目と鼻の先だ。そうすればあの男とも別れられる。思えば、なぜあんな怪しさ満載のヤツにホイホイついて行ってしまったのか、わたしは。


自分の安易な行動に頭が痛くなりつつ、最後の力を振り絞った。


「走るのかよー。俺疲れてるから勘弁してくんない?」


きたよ、不審者。

背中から不満そうな声と、まだ追いかけてくる足音が聞こえたけれど、


「うるっ、さい! バカ! ついてくんなバカ!」


わたしはヤツを振り返らないまま、暴言を吐き散らした。



  ◇



全速力で走ったわたしは階段を二段登ったところで、そこがゴールみたいに座り込んだ。

もちろんゴールはここじゃない。家はすぐそこの坂道を少し登った先の赤い三角屋根。

案外近いのだが、今はそこまで歩けそうにないのだ。


運動不足のふくらはぎや太ももはあっという間に限界に達し、心なしかぴくぴくと痙攣している。心臓はバクバクと胸を打ち付けて、熱が集中しているのか、顔が熱い。


わたしとしては、あの不審な男とこの場でサヨナラしたい気は満々だ。

けれど、颯爽と家路につくには、もう少し体力の回復を待たねばならなかった。


「(砂浜全力ダッシュはさすがにキツかったか……)」


わたしは胸に手を当てて、荒い息をくり返した。


男は、さっさと帰ればいいものを、ハアハアと息を切らすわたしの一段下でこちらに背を向けて立っている。

わたしに同情しているつもりだろうか。夜の海を眺め、お得意の鼻歌を歌っていた。


と、その時。


「あっ、あれUFOじゃね?」


男が夜空を指差して咄嗟に声をあげた。


「……はあ?」


その、あまりにも無邪気な声色に思わず反応してしまったわたし。バカ、反応するなよ。自分の甘さが露呈ろていしたことに溜め息。


ふうっと大きく息を吐いて、渋々しぶしぶ身を起こした。

いい歳してアンタ何言っちゃってんの? ――と、反論でもしてやろうと顔を上げれば、あまりに近い距離にいた男。


「っ、」


驚いて一歩下がろうとする。

が。

手首を掴まれてそれは許されない。なんなのこの距離は。

誰もいないその浜辺のせいか、はたまた先程とは全く違う男の纏う雰囲気のせいか。


「な、に」


やっと出た声は掠れてあまりにも情けないもので。手足が震えているのが自分でもよくわかっていた。


こうしてみて改めて気付く、男の高身長。わたしより一段下にいるというのに、わたしの目線はやっと男の口唇にきたぐらい。

それが、余計。

こんな空気耐えられない。どうしたらいいのかもわからない。


ぐるぐると混乱する思考に。



「隙あり」



呟かれた瞬間、男はわたしの前髪をかき上げると、おでこにそっとキスを落としてきた。

その温かい口唇の感触に、あっけにとられるわたし。


だって、だって、だって。こんな経験したことないし。好きだった先輩と、手さえ繋いだこともないのに。名前も知らない、ついさっき出会ったばかりの男に、まさか……。


呆然としているうちに、やがて口唇はおでこから離れていった。


「あ、あ、あ……っ、」


男のまるっきり悪びれていない様子を見て、やっと我を取り戻し思いっきり胸を押す。


「あんた、な、なに、なにするのよ!」


わたしは脳内で火山が噴火したくらいに血がのぼり、腹が立つやら恥ずかしいやらで呂律が回らなかった。

わたわたと冷静さを失ってなにがなんだか分からない。

 一方、男は動揺の隠しきれないわたしをげらげらと笑い、それが神経を逆なでする。


「こんなんで真っ赤になっちゃって。あ、もしかして……ここ、性感帯だった?」


人差し指で自分のおでこをトントンと叩きながら口の端をニッと上げて笑う男は、罪悪感なんてちっとも感じていない素振りで。


「こ……、この痴漢野郎! 最低! 訴えてやる!」


「おっ、また泣くのか? ん?」


「泣くかー!!」


わたしはきりきりと目をつりあげ、尚も反省の色を見せない男にからむような口ぶりで言った。


アンタなんか大嫌いです、と態度で断じてしまうことで、ヤツが立ち去ればいい――と思っていたのだ。

なのに。


「うんうん、それそれ」


ヤツは穏やかに声色を変えたと思えば、パッと笑顔を見せて。

「男なんて星の数ほどいるんだから、ひとりの為だけに泣いてやることねーぞ」

 瞬間、え? と顔を戻したわたしの視線は、直視する視線に絡めとられた。


「(コイツなりに、気を紛らわせてくれたのかな……?)」


確かに少しだけ先輩のことを忘れてた……。


が、次の瞬間わたしはこれでもかと頭を左右に振った。

いいや! 騙されてはダメだ、わたし。


「っ、とにかく、わたし帰るから! さようなら、二度と会うことはないけど!」


思ってたより柔らかかった生々しい感触や気恥ずかしさを、できることなら是非なかったことにしたい。

そう願いも込めて袖で乱暴におでこをぬぐうと、わたしは風を切って再び歩き出した。


あのニヤニヤと笑みを浮かべる顔を罵倒ばとうして殴ってやりたい。

だけどそうしなかったのはこのままヤツと関わってたらペースを乱されかねないから。去り際だけでも気丈きじょうに振る舞うことを選んだのだ。


坂道の下まで足を進め、明かりの灯る赤い屋根の家が視界に映った。

あと少し。もう少し――と思った時、



「またなー」



背中に、変質男の呑気な声が聞こえた。ヤツはとことん、どこまでも図太いらしい。もちろん男の言葉に返すこともなかった。



火照ほてったおでこを冷ますのに、春の夜風はまったく役に立たない。


振り返ってなんか、やらないんだから。



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