2 失恋のNight Sea(1)

わたしには、長い間想いを寄せていた先輩がいた。

ずうっと、恋い焦がれていた人。いわゆる片想いってやつ。しかも、一方的な。


その先輩を追いかけて同じ高校に入学したはいいが、二度にわたる告白は、その二度とも芳しい返事をもらえず。

だけど三度目の告白で、ついに先輩と付き合えることになったときは、本当に嬉しくて。

帰り道の、この軽い足取りのままふわふわと空まで飛んでゆけそうな気がした。


だから、『冷やかされるのニガテだから、付き合ってることは内緒だよ?』の言いつけも、なんの疑いも持たなかった。

まず学校内に友達と言えるような子がいないから誰に言う、言わない自体の選択肢がないだけなんだけど。


――だけどそんな幸せも、昨日までのハナシ。


「ねぇ桃香、キス、しよっか?」


「そんなっ、ダメだよみーくん……こんなところじゃ……んんっ……」


校舎の壁を背もたれにして、真っ昼間から裏庭でいちゃついているのはみーくん……もとい、石澤 瑞樹。

一個上の先輩でわたしの、昨日までの恋人。

その、かつての恋人の隣にいるのは、学校一の美人と称される一年生の女の子で。


サッカー部のキャプテンでエース、なんて。

男女問わずにもてはやされ、名声を得た彼はその名誉にふさわしい女の子を選び、わたしを捨てた。



『僕と付き合ってたこと、誰にも言うなよ』


突然投げつけられた言葉に、鈍器でガツンと頭を殴られた気がした。

それくらい、彼の声色は淡々としていて、無機質で、残酷で。その瞳は、ひどく冷たくて。

わたしの想いを粉々に打ち砕くのには、十分すぎた。


「(言うわけないのに)」


疑われた。

彼の態度、あれはではなく、一段低い者への態度だった。まるで、汚いものでも見るかのような。

俯いて、ぎゅっと下唇を噛む。

息が詰まるくらい苦しいのに、涙さえ出なかったのは、強がりがまさったからだ。




――そして約二週間の恋人ごっこはあっけなく終わりを告げ、今に至るのだった。




人目もはばからず、お互いを求め合うように深い深いキスをする。彼の手が徐々に彼女のブラウスの中へと侵入し弄ると、彼女の身体がびくりと跳ねて。

それを合図に、あろうことか、彼女の手を自分の太ももから徐々に上へ……と導いていく様を、わたしは二階の非常階段から黄ばんだ目で眺めていた。


男女のお楽しみを観察するなんて、自分でもかなり悪趣味だと思う。

けれど、こうでもしていないと強がりを保てなくて。何かが溢れ出てしまう気がしてならないのだ。



「……わたし、何してるんだろ」

空虚な独白は、昼休みの終わりを告げるチャイムに溶けた。



  ◇



家の目の前は急な坂道になっていて、下り坂をおりると道の奥に海が広がっている。


堤防が近づくにつれ、海風が強まった。

スカートが揺れ、風を孕んで大きく膨らみ、夜風が前髪を捲っておでこが全開になった。

目の前には真っ黒な海が広がり、小さく打ち寄せる波が微かな音を立てている。

昼間なら白っぽく見えるはずの砂も、今は黒ずんだ灰色に見えた。


「あー、せいせいした」


わたしは通行人がいれば振り返るであろう大きな声でひとり言を言って。制服のまま堤防に出ると、そこから階段を下り途中でしゃがみ込んだ。

あんなヤツ、とか。しょうもない男、などと罵りながら。


冷やかされるのがニガテだから、なんて。そんなのはウソだ。

わたしは彼にからかわれていただけ。

その証拠に、わたしたちが付き合っていたことすら、なかったことにされている。

それに気がついたのがフラれて、しかも新しい彼女とのお楽しみを目撃したあとだなんて。

それこそコッケイというやつだ。


「さい、っあく……」


呟き声を追って空を見上げると瞬間、風がわたしの髪をさらった。


あんなひどい人、いなくなってせいせいしなきゃいけないのだ。淋しくなんてならなくったっていい。

なのに。

あとからあとから、まぶしかった片想いの日々が思い出されて。



――「前髪少し切った? うん、すごく似合ってるよ」


――「石澤先輩じゃなくて、瑞樹先輩がいいな、なんてね」


――「いいよ。付き合おうか、僕たち」



頭の中の思い出のページは、めくってめくっても、先輩との甘酸っぱい想い出で溢れていた。

それが、引き金になってしまった。


ぴんと張っていた緊張の糸が、一瞬にしてぷつんと切れて。

耳元でぐるぐる捩れながら吹き過ぎていく海風と、スカートが風を孕んでハタハタなる音が、わあっと胸の中を熱くさせた。

――もう、限界だった。


「ぅー……ッ……」


ぽたり。

一粒涙が溢れれば、そのあとはあっという間。

喉元までこみ上げる熱い何かはヒクヒクと肩を小刻みに震わせて。わたしはひざに顔をうずめ、波風の音に紛れて泣き叫んだ。制服が砂で汚れるのもおかまいなしだった。


次の日も、その次の日も。同じようにわたしはそこで泣いた。泣き方こそ落ち着きはしたが、涙はぽろぽろと頬を伝い続けて。


そしてそれがついに4日目となったとき、その声は、背中から聞こえた。




「海、荒れてんね」




胸にすっと沁み込むような、よく通る声だった。あまりにも突然のできごとに、一瞬で涙がとまる。


「だ、だれ……?」


濡れた頬のまま、声の方向に首をひねり問いかけると、「ごめん、驚かせた?」とひとりの男がわたしを見下ろしていた。

目を引くような整った顔に二カッとした笑みを浮かべて。

目尻にたまったしずくを指先ではらうわたしの耳に、言葉の続きが流れ込む。


「少し休めよ。……あー。ほらな、やっぱり。目赤くなってんじゃんか」


そう言って少年のような笑顔を見せる男は、さっきまでの虚無感や喪失感を吹き飛ばすような明るさで。

わたしは、男のその笑顔に魅せられて、警戒心を持つことでさえ素で忘れていた。

やがて、そっと立ち上がり砂をはらっていると男は階段を下りて来て、わたしの髪をくしゃっとかき混ぜ、


「よし、少し歩こうぜ~」


と、ひとりで先に砂浜を歩き出した。

わたしは男に乱された髪を撫でながら、その背中をじっと見つめていた。

少し先の街灯の下で照らされて、立ち止まった男がこちらを振り返るまで、ずっと。



  ◇



黒くうねる海の真上に、弓形に反った月が出ていた。

風に流された雲が切れぎれに覆っては、漏れる光を鈍いものに変えて。ほのかに光る水面が、足を進めるたびにちらちらと揺れている。


並ぶようにわたしの隣を歩く男は、気を使うでもなく鼻歌を歌っていた。

日本の曲か外国の曲かはさっぱりわからないけれど。その、どこか陽気なフレーズがわたしの心を落ち着かせた。


明かりの下を通る度に全身が姿を表す。

ちろり。盗み見た男の横顔は少年っぽい目をした、イタズラっ子がそのまま大人になったような印象を持っていて。

両腕を頭の後ろで組んで歩くその姿が、わたしの目にはおおらかそうに映った。


「(なんだか……)」


妙なことになってしまった。

自分自身、なぜこの男と並んで歩いてるのかわからなかった。

初対面の、しかも大人の男との空気の温度差に気まずさを感じたわたし。

けれど、このまま無言なのもどうだろうか。


「あの……」


わたしは思い切って、疑問をぶつけてみようと声をかけた。


「あの、いつからいたんですか?」


問いかけると男は立ち止まり、小首を傾げて振り返った。

きょとんとした表情の男がこちらを向いた瞬間、やっぱりアンバランスだ――とわたしは思った。


わたしとさほど歳が変わらないように見える童顔は、ぼけっとした表情が、余計にあどけない印象で。

でも首から下はクラスの男子達より線が太く、成人男性のそれだ。


やがて、男は「うーん」と顎に指先をあてて、「3日前かな」と真顔で答えた。


「かなり激しく泣いてるからさあ、なんか声かけたくなって」


ぴたりと鼻歌をやめた男は、背を屈め、わたしの顔を覗きこんで「これってナンパになんのかなー?」なんて、ニッと笑う。

その笑みがあまりにも自然すぎて、わたしは思わず眉根を寄せた。


なんだろう、この違和感は。

泣きすぎたせいか、頭がぼんやりする。すべてが闇にまみれて曖昧だ。

ジ、と男の顔を見つめていたのは無意識に近い。


「あなたも、何かワケありっぽいですね」


泣きはらしたせいで瞼が重たくて睨むような目つきになりつつ、なんとなくで言葉を口にした。

なのに、どうしたことだろうか。

わたしををじっと見つめる奥二重の瞳は、音をたてそうなほどゆっくりと瞬いていて。絡んだ視線は、一瞬だけ戸惑いの色を見せた――気がしたのだけど、男はす ぐに目を細めた。


「あんまり見つめんなよなー、照れちゃうだろ?」


再び、ひとり夜道を歩きだした男の数歩後ろをわたしは歩く。


……呑気のんきな人だ。わたしはこんなに辛くて必死なのに。この男は何が楽しくてこんなに笑えるんだろう。

心の中でひたすら悪態をつくけれど。


でも――、とわたしは男のひょうひょうとした背中をぼんやりと見つめた。

片一方だけ口の端を上げるその笑みがどうしても腑に落ちない。


そう、何か。それは微細なものだ。

真っ白な画用紙に、一点の僅かな黒い染みを見つけたみたいな、ほんのちょっとの異質さを孕んだ違和感。


「(とにかく……いけすかなくてヘラヘラした男だなあ)」


じとりと睨めつけて、つい先ほどまでの好印象を消し飛ばすようにわたしはふっと鼻を鳴らした。


一方で男はというと、再び鼻歌を歌っていはじめて。


「そういやさ」


鼻歌が止んだと思ったら、なんだろうか。

男はぽつりと声を出して、わたしを見下ろしてきた。


「おまえ、なんで泣いてたの?」


「え?」


「まさか失恋とか? いや、そんなのベタすぎか。うん、ありえねえな」


「……」


わたしはバカにしたように笑う男をキッと睨みあげて、無言の非難をしてみせた。

なぜそこまで言い切ってしまえるのか理解できない。もしそうだったら、とか考えないのかこの男は。


力なく睨みつけるわたしを見て、男の方もようやく気づいたのだろう。

きょとんとした表情は見る間に硬くなって、ハッと口元を片手で覆った。


「仮にもしそうでしたら何か不都合でも?」


わたしはできるだけ慇懃いんぎんに言うと顔をそむけ、ムッと口唇を歪ませた。

なのに。


「……図星かよ」


反省する気配は微塵みじんもなく。それどころか肩を揺らす男は、片手で口元を隠しながらわたしを見る。

目が笑ってんの、バレバレですけど。


手の内側に隠れた口元は、きっとにやにやと嫌な笑みを孕んでいるに違いない。まるでいたずら好きのガキ大将が悪巧みを思いついたときみたいだ。


やがて男は面白いものでも見るみたいに首を傾げ、なんと、あろうことかわたしの両頬を人差し指と親指で挟んできたのだった。

途端に口唇はむにゅと間抜けに突き出して。それがわたしのプライドを傷つけて、憤慨させた。


「ちょっと、いきなり何すんのよ!」


悪さをする手をぺちりと叩いて、わたしは咄嗟にそう吠えた。

が、男はしれっとして、「お~こわっ。クワバラクワバラ」などとほざき、わざとらしく肩を上げ、怖がるふりをする。その上、


「そんなんだと新しい男も寄ってこないぞ~?」


とプッと吹き出されて。

わたしはムラムラとわきおこってきた新たな怒りに頬を膨らませ、売り言葉に買い言葉とばかり言い返していた。


「心配してくれてありがとう! でもお生憎様。わたし、男には全っ然困ってませんから!」


それではさようなら、と言わんばかりに踵を返してふふんっと鼻を鳴らし、わたしはひとり家路を歩きはじめた。


――のそのそ歩いていればあの男が追ってくるかもしれない。


そう思ってペースを早めながら。



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