29 さようなら、ありがとう


影のように追ってくる不安に、早く早く、と急きたてられる。足は勝手に走りだして、それは校門を抜けたのち、いっそうスピードを増した。

高倉くんの話が本当なら、サトルは今日、これから、空港へと向かってしまう。


――『希子姉さん、昨日小澄さんに告ったらしくて』

――『でも、他に好きな子がいるからって振られたらしいんだ。その時』

――『"明日からベトナムに行くから俺のことは忘れて"って』


一秒さえもどかしい。


――『2時の電車で空港に向かうみたい』



脚が痛い。胸も苦しい。呼吸がつまって目の前もくらくらする。

でも、でも、走らなきゃ。

あと15分。

速く、もっと速く動いてよ。走ってよ。

走って、走って走って走って走って走って走って走って。

辿り着いた駅構内はガランと静まり返っていて、わたしの息切れと喘ぎ声が妙に響いた。


あと5分。

ICカードを叩きつけるように認識させて、階段を駆け上がる。

脚がガクガクと震えて思うように動いてくれない。肺が痛い。酸素が思うように吸えないもどかしさ。

ここの階段って、こんなに長かったけ。

朦朧とする思考の中、わたしはやっとの思いで登り切る。


「っ……」


すると、視界の隅を何かが動いたのに気付き、無意識に顔をそちらへ向けて、それで――――――…



目が、合った。



まだ太陽が高いこの時間帯、閑散としたホーム。


線路を挟んだ向こう側で。


艶めくクリアブルーのキャリーバッグをたずさえて、備え付けのベンチに腰掛けるサトルがこちらを見ていた。


このホームには、わたし達しかいない。


「……若菜?」


目をしばたたかせてこっちを見るサトルは、数秒後に、頭の後ろで組んでいた手を横に下ろした。

幽霊を見るような目をして、口をあんぐり開けている様は、とてもバカっぽい。

そんなサトルを前に、数秒息を整える。


「サトル」


汗をかいた首元を吹き抜ける風が、髪を巻き上げるのもお構いなしに、わたしは彼に呼びかける。


「ごめん、ごめんね。傷つけてごめんね。わたし、サトルが何を考えてるのかわからなくて、こわかった。だって、だってわたし……」


言葉にしたい気持ちなら、口の中にあふれ返っているのに。わたしはそれっきり、声を出せなくなってしまった。

何か言おうとしても、喉が締めつけられたように苦しくて、言葉にならないまま消えていく。



大学生と、高校生。


成人と、未成年。




――きっと、わたしたちは気づいていた。

今、思いが通じ合ってもこれが終わりであるということを。

これが、この物語の最後の一ページであることを。




「――いいか、若菜。よーく聞いとけよ」


サトルはそこで一旦切ると、「はぁ……」と小さく息を吐き出した。



「気持ちがこもってないとキスって言わねーからな。バカめ」


そう言って、困ったみたいに後ろ頭をなでる。


「飲み会のは罰ゲームだ。変な勘違いしてんじゃねえぞ」


彼らしからぬキザな言動に、わたしは笑う。


「写真のことは、俺も悪かった」


考えをまとめようとしているのか、そう独り言のように呟くと、黙りこんでしまった。

わたしは彼の言葉をじっと待つことにした。

しばらくして、サトルはまた口を開いた。


「あいつは高校の同級生でさ。久しぶりに会った時にはすでに結婚してたんだけど、それを知ってて俺は彼女と付き合ってたんだよね」


「うん」


わたしはサトルの瞳をまっすぐ見つめてうなずいた。

きっと言いたくない事情もあるはずなのに。彼がわたしのために一生懸命伝えようとしているのがよくわかった。


「始まりは彼女からだった。俺のことが好きだ、って……。彼女の結婚生活はお世辞にも円満とは言えなかった。今思えば、あれは彼女からの最大のSOSだったのかもしれない。でも俺は……」


サトルが苦しそうに顔をゆがめる。


「結局、彼女は死んだ。自殺だった」


「……」


何と言えばいいのか。わたしは言葉が見つからなかった。

ただ、彼は自分とは比べものにならないくらい辛く苦しい思いをしてきたことだけは理解できた。


「俺さ、勝手だけど……若菜と出会ったのは、運命だと思ったんだよね」


「え?」


「彼女がいなくなって、本当は死ぬほど泣きたかった。でも、涙が出なかった。泣きたいのに泣けないことが、何より苦しかった。だから若菜が泣いてるのを見て、俺の代わりに泣いてくれてるんだと思った。笑っちゃうよな。でも、救われたんだ」


「……」


「本当に、今までありがとうな。俺、ようやく前に進めそうな気がする」


サトルは笑顔で言う。

がさごそとポケットに手を入れて、サトルはパスポートを手に取る。


「留学の推薦、もらったんだ。今からベトナムに行く」


それからじっと、わたしの目を見つめた。



その時、取り付けられたスピーカーから、くぐもったアナウンスが辺りに響いた。

それから少し、ガタンゴトンと小さく響き出した音は徐々に大きくなり、スピードを緩めながらホームに滑り込んでくる。


さよならの時間まで、もうすぐ。






恋、とはなんだろう?


恋をしていた。うららかな春の日のような、美しい恋を。

はじめは憧れを恋と呼び、恋することに、恋をしていた。

だけど、本当の恋を、わたしは彼を通して知った。本当の恋は、全然美しくなんかなかった。


プシューッと炭酸の抜けるような音がして開いた扉。

ゆっくりと乗り込む――わたしの好きな人。



「サトル……っ」


一歩、白線のギリギリまで身を出す。

今、ありったけの想いを言葉で示そう。


「ありがとう……!」


動き出した電車は、来たときとは逆にゆっくり速度を上げた。


もしかしたら、彼にこの声は届いていないかもしれない。でも、いいんだ。

これでいい、これでもう十分に満足だ。



彼を乗せた電車がどんどん遠く、小さく、やがては消える。






サトル。


あなたがくれた全てのことを、きっとわたしは忘れないよ。


いつまでも忘れない。


わたし、もう泣かないから。



――涙を止めてくれたあなたへ。




「好きになって、よかった」







  ◇




――――――――…15分前、屋上にて。



バタン、とドアが閉じられるのを、俺はただ見送っていた。

岡元ちゃんに小澄さんのベトナム行きを告げたのは、気まぐれか償いか。自分でもわからないところだけど。

ただ、ふたりそろってあんなに真っ直ぐ一途なところを見せつけられると、もう打つ手がなくて。

『そんなことしても意味ないよ』って、そんなふうに言われているみたいだった。


「俺もケジメつけるかー」


いつも通りへらりと発した独り言は、自分の背中を押すきっかけとなった。

ポケットからスマホを取り出す。画面をタッチして、その番号を鳴らした。


『もしもーし、千紘ちひろ?』


3回目にコールが鳴り止んだ。

電話の相手は俺の姉さんこと、大山 希子。相も変わらずハツラツとした様子だ。


「うん」


『ん? ねえ千紘、何かあった?』


図星をついた怪訝そうな姉さんの声に、少しだけ動揺してしまう。

それを口元にだけ弧を描いて、隠した。


「ううん。ただ、姉さんの声が聞きたくなっただけ」


『あはっ! 嬉しいこと言ってくれるね』


お姉ちゃん嬉しいよー、なんて。本当に嬉しそうに笑うもんだから、俺もついつい笑顔になる。


ずっと、これからもずっと。大好きなのは変わらないだろう。


「姉さん。あのさ、俺、」


諦めたわけじゃない。諦めようとも思わない。

でも。

この気持ちに、一旦区切りをつけようと思うのだ。


「俺、姉さんのことすきだよ」


自分自身と、しっかり向き合うために。



姉さんは電話の向こうで照れたように奇声をあげると。


『姉さんも千紘のこと大好きなんだけどー?』


思った通りの、姉さんらしい答え。

それがひどく嬉しくて。俺は今までにないくらい、無邪気に笑った。











    秋が深まり、冬になり


    冬が終わって


    そして



    また春が来た。









先輩方の卒業を見送ると、わたしたちは3年生に進級。

そうして学校行事や勉強に追われ、あっという間に受験を終えて。

季節は駆けめぐり、サトルが日本を発って1年半が過ぎた今日。わたしは無事に、卒業を迎えた。


式が終わり、HRを経て、外に出る。


「岡元ちゃーん」


「高倉くん……って、その格好、酷いね」


「ああ、ボタン? ま、イケメンの宿命かなー」


「は、はあ……」


困ったように眉を下げてはいるが、隠しきれていない満足オーラ。

高倉くんは最後まで高倉くんだ。


「それより写真、写真撮ろ」


スマホのインカメを起動させながらわたしの隣に肩を寄せる高倉くん。


「最後ぐらい撮っとかないと。俺と岡元ちゃんの仲だし」


どんな仲だよ。とまあ、そんなツッコミは飲み込んで。


「イチたすイチはー? にーっ」


濁った色が消えたその瞳で穏やかな花のように笑う高倉くんの隣で、写真に収まった。


「大学でもよろしくね」


「他人のフリするから、わたし」


ひどいなぁ、とへらへら笑う彼は、きっと大学でも変わらない。





















大学への入学手続きを終えたわたしは今、浜辺の階段で海を眺めている。

あの時とは、全く異なる気持ちで。


「青い、なあ」


ぽつり、呟くのは周りに人が誰もいないからだ。

めいっぱい両腕を広げた水平線。きらりと陽差しを照り返した波が、眩しく目を刺してくる。

まだ冷たい波は寄せては引き、引いては寄せるを繰り返す。


――と。



「もう泣いてないんだな」


隣に並んだその人は、やわらかさを孕んだ笑みで一緒に海を見つめる。


「……泣く理由、ないもん」


「ふぅん」


いけすかなくて憎たらしい声は、相変わらずのようだ。それに思わずむっとして顔を向け睨みつつも、変わらないことに喜ぶ自分がいるのを隠せない。


ああ、駄目。泣くかも。


そんなわたしに、彼は穏やかに目を細めて見せる。


「大学入学おめでとう――――若菜」


これ以上、我慢なんてできなかった。

彼の胸元に顔を埋め、ぎゅっと彼の服を掴みながらぼろぼろと落ちる涙は、嬉しさから。




「サトル……!」



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