28 白がぴったり似合う彼の秘密


「はは、……参ったなあ」


若菜がいなくなった部屋でひとり、俺はベッドの上でポケットに突っ込んだくしゃくしゃの写真を再び取り出して眺めていた。

柚乃とふたりで撮った最後の写真。よく晴れた日のひまわり畑で、隣に写る柚乃はとても楽しそうに笑っている。


太陽がジリジリトアスファルトを焦がし、ドライヤーの熱風みたいな風が吹きつけていた。


たしかに夏だった。


けれど、柚乃を思い浮かべると思い出すのは冷たく刺すような寒さと、最後に見た、柚乃がこぼした涙のカーディガンのしみ。





「来ちゃった」


雪が吹雪く、もう真夜中のことだった。突然玄関のチャイムが鳴り、不思議に思いながらドアを開けたら、おどけて笑う柚乃がそこ立っていたのだ。


「いきなりどうしたんだよ」


驚いていぶかれば、うっすらと頬に涙のあとが流れていた。

スンっとすすった鼻の頭は赤くて。髪には、粉砂糖をふりかけたように、うっすらと雪が積もっている。


「お泊りしてもいい?」


うつむいて、フフって笑う。そんな見え見えの作り笑いに、自然と眉は寄った。


「(ああ……また、か)」


彼女の夫はもうずっと前から浮気をしているらしく、最近では朝帰りの回数も一気に増えて……という事情は柚乃から聞いていたので、特別驚くということはなかった。


「あがって」


身を壁に寄せると、俺とすれ違うように部屋に身を滑り込ませた柚乃。手を伸ばして鍵を閉め、俺は脱衣所からバスタオルを引っ張り出した。


コートを脱いでソファに座る柚乃と向き合うように立ち、頭をわしゃわしゃ拭いてやった。静かに目を閉じる彼女の姿は、どこか項垂れているようにも見える。


「ごめんね、さとるくん。突然押しかけて、びっくりしたよね」


「んー、まあな。でも今更だろ? 柚乃の行動に驚かされるのはこれが初めてじゃねーよ」


「うん、ありがとう」


明るい声で軽口を言う。

すると、長めのカーディガンの袖を握って、そこでようやく柚乃がほんの少しだけいつもの笑顔になってくれた。


「なんか、慧くんらしいね」


そんな声が聞こえたかと思えば柚乃はパッと顔をあげ、俺の腰を掻き抱くように腕を回す。


「ちょっ、柚乃?」


「慧くん、今日は珍しい。いつもはこんな時間に起きてないもの」


「っ、あー……」


柚乃は下からジッと見上げたまま、柔らかく笑みを浮かべてくる。俺はその確信を突いた一言に、曖昧に返事をして誤魔化すしかなかった。


本音を言えば柚乃と付き合ってからの数ヶ月間。俺はずっと、心のどこかが軋むのを感じながら、それを見ないようにしてきた。


最近の柚乃といえば突然気分が上がってハイになったり、夢見る子供のように純粋に未来を語ってみたり。かと思えばヒステリックを起こして泣き叫んだりを一日に何度もくり返す状況が続いていて。

このままではこの関係が夫にバレるのも時間の問題――そのプレッシャーや後ろめたさから心に募るのは違和感ばかり。


正直、疲れていたんだと思う。

だって、真夜中の2時頃に目覚めるなんてことは初めてだったから。


「ちょっと、眠れなくてな」


俺は膝をつき、彼女と高さをあわせた。顔は笑っているのに、きつく指先に力を込めてしがみつく柚乃を息つめて見る。

どんなにみっともない姿でも、やっぱり、柚乃は美しかった。

柚乃の濡れた髪をそっと耳にかけると、そのまま滑り落ちた手が彼女の指先に触れた。


「(冷て……)」


俺の高い体温と、柚乃の冷たさが、ちぐはぐで。彼女の心は、どれほど荒れているのだろう。考えれば考えるほど、哀れだった。


「……柚乃」


俺は無意識に柚乃の背中を撫でていた。

それが安らぎを与えたのか、柚乃は体重をあずけ、一層無防備に身体を委ねてきて。

やがてその重みを支えきれなくなり、バランスを崩したのと同時に、俺たちは床へ倒れこんだ。


パサリと耳からおちてきた彼女の髪に頬をくすぐられ、俺はこそばゆさに目を細める。


途端、


「……ふっ……うぅー……」


柚乃の方がヒクヒクと小刻みに震え、必死に押し殺すような唸り声が空間に響いて。

ぽたり、ぽたり、手元を覆うカーディガンの袖に、涙のしずくのしみができる。

俺は柚乃の小さな頭を胸に抱いて、囁きかけるように言葉を口にする。


「バカだな……」


「……」


「さっきから強がって、ずっと無理してたんだろ」


「……うん……っ、うん……っ」


顔をぐしゃぐしゃに拭いながら、コクンとうなずく。


やがて柚乃は本来の落ち着きを取り戻し、俺たちは床の上で抱き合い、ただひたすらじっと寝そべっていた。


どのくらいそうしていただろうか。

わからないけれど、不意にくすくすと柚乃のくぐもった笑い声が聞こえて。


「慧くんはわたしにとってヒーローだわ」


そう言葉をこぼした柚乃は俺の耳をさらりと指先で刺激し、そのまま頬、輪郭、と指先を絡ませる。

そして。


「……っ」


その細い指先で首筋のラインを愛撫あいぶすると、不覚にもピクリと反応してしまった俺に満足そうな笑みを零した。


「いい加減だなあ、って思うときもあるけど。ふふ、それは慧くんの愛嬌よね。なんていうのかな……一緒にいると落ち着くし、慧くんがいれば大丈夫だって心から思えるの」


「……」


涙で濡れた瞳。先ほどまでとろんとしていたそれは、見違えたようにぱぁっと見開き、俺を写す。


何故だかふわりと背中を生ぬるい風が通ったような感覚がした。

戸惑う俺に、柚乃は首筋を撫でていた指先をおろして、今度は口唇を這わせる。


「例えるなら、慧くんは陽だまりかな」


「……」


「キラキラ眩しくて、穏やかで。ああ、でも。たまにね、眩しい姿がふっと隠れて、樹雨を思い出すときがあるの。濃霧のうむ枝葉えだはについて、まるで雨のように雫となって落ちて。ぽた、ぽた、って。ゆっくり、慧くんの言葉がわたしの中に落ちる、そんな感じ」


「……」


「慧くんと再会してからの毎日は快速列車に乗ったみたいに、大袈裟じゃなくて、本当に景色が飛ぶように過ぎていった。わたし、それがとても楽しかった。ありがとう、慧くん。わたしって甘やかされてばかりね。慧くんには、これからどんな人生であっても、自分を傷付けない生き方をしてほしいな」


その時の彼女はどこか、確かなものではなく。

望遠鏡越しに見る星々のような、美しくて鮮明で、けれど何か、リアリティのない存在に感じた。まるで、



――直ぐ傍にいるのに、いないような。



「……な、に言ってんだよ、柚乃。あ、疲れてんだなお前。今日はもう寝よ、な?」


戸惑ったのは、嫌な予感がしたからだ。

柚乃はまっすぐに俺を見つめ返してくる。


茶色い目だ。


柚乃の目。


どうしてか怖くなって、俺は目を逸らすように密着させていた身体を浮かせて、とっさにキスをした。

だけど柚乃はぎこちない笑みを浮かべるだけで。


「17歳の、一番輝いていたあの頃に戻りたい」


彼女の声は、吐息のようだった。深く深く染みついて、溶けていくような気がした。


その夜、ベッドの上で重ねた口唇にありったけの情熱を注いだ。

柚乃の熱くて滑らかな肌触りと、一呼吸ごとに上下する命の感触を、俺は手のひら全体で愛しんだ。

やがて肌と肌とが隙間なくあわさったとき、瞬間、俺はなぜだか泣きたくなった。


目頭が熱くなって、ぎゅっと喉が締めつけられる。そこからこみあげてくるものを、俺は慌てて飲み下した。

痺れるようにじんじんと伝わる熱が、一層息苦しかった。


俺は気づかないうちに、柚乃の心に同調していたのかもしれない、と。今になって思う。

楽しかった頃の思い出のかけらは重なりあい、広がり薄れながら意識を駆け去っていく。悲しみや苦しさだけが濃く残る。


あの晩、窓の外で降り積もっていた雪は、ほの白く明るい、恐ろしく不安定な闇だった。



そして――





「柚乃さん、死んだらしいですよ」




そんな知らせが、俺の元に届いたのだった。


「マンションからの飛び降りだって話で~。警察も自殺だって判断したようですよ」


そんな高校時代の後輩から平坦な調子で聞かされた訃報に、普段は滅多に気にならない冷蔵庫の稼働音がひどくうるさく感じた。


死んだ、しんだ。


電話を切ったあとも、頭の中でその三文字がわんわんと響いている。


「(もっと早くに知っていれば、日常の細かな言動に気を付けてこんな死は防げたかもしれない)」


そう思うと、本当に何もかもが悔やまれた。

柚乃は一人で苦しんでいたのだ。

だからこそ、俺が気付いてあげなければならなかったのに。


「俺が殺した」


この言葉が頭から離れない。



降りしきる雪の中、高校時代の一同級生として彼女のお通夜に行った。まわりの参列者の中で俺はただの影だった。


死の間際、心の中はどんなに孤独だったろう?

どんなに苦しんでいたのだろう?

そう思うと、あまりにも若くして逝った柚乃が、可哀想でならなかった。


彼女はもう、この世のどこにもいないなんて。



遺影の前で手を合わせて目を閉じると、たくさんの柚乃が頭の中に溢れてきた。


お気に入りのケーキ屋で買ったチーズケーキを食べながら、「響きが素敵じゃない?」とおかしなことを言って笑っていたこと。

夏日の向日葵畑で夢中になって駆け回っていた姿、なびく華奢なストラップのワンピース。

最後に感じた彼女の温もり、息づかい、声。

思い出すだけで胸の辺りがぎゅっと押し付けられるように痛かった。


泣きたくて、うんと息をつめる。

目が充血して、少し涙が出るかも知れないと思ったが――だめだった。


しんとした中で誰かの小さな嗚咽が一つした。それは波紋のように広まっていって、誰からともなく泣き声に変わる。 ――そんな中、俺はただ、かさついた口唇から吐息をこぼして雪を落とす真冬の曇り空を見上げていた。




いっそのこと、気が狂ってしまえたら。その方が「楽」かもしれない。

正気でいる自分が憎らしくて、彼女に申し訳なくて。

こんな俺に生きている価値があるのか。恋人でさえ救えなかったくせに。


俺は泣くタイミングを完全に見失っていた。

睡眠のサイクルも、何か物を食べることも、全てがメチャメチャになって。毎日が、地獄のように苦しかった。



けれど、あの瞬間。

時の流れの中で希釈きしゃくされていった感情が、――若菜と出会って鮮明に、俺の中で熱を持った。



柚乃が亡くなって一番辛かったとき、部屋の中でひとり喉の奥から嗚咽おえつを漏らしたことがある。

でも、涙は出なかった。どうしてか出なかった。

それが、また苦しかった。ああ、これが罪なのかとさえ思った。


だから大声をあげて泣き叫ぶ若菜を見たとき、純粋にドキドキした。今まさに俺が望んでいた姿。無意識に自分と重ねていた。それは、興奮に似た感情だった。


何かが変わるような気がして、白くて小さなおでこに口付けをした。

そんな俺の予感は当たっていた気がする。



『、泣かないでよぉ……っ』


思わぬ形で一緒に過ごすことになった夏祭り。

打ち上げられる花火の中、岩陰で若菜が泣きだしたとき、その瞬間、俺はやっと「泣けた」と思えた。

なぜなのかな。

若菜と一緒だと、どんなに辛くても、それでも生きていこうと思えるんだ。

柚乃の代わりとかではなく、自分のために生き続けよう、と。


「好きか?」と聞かれれば、今はまだ「わからない」と答えるより他はない。

けれど、――何となく惹かれる。

その程度だったはずの心は、確実に彼女のほうへ大きく傾いているのは事実で。



しかしそんな想いは、もう彼女には届かない。


「……もういい、か」


嫌われてしまった以上、もうどうすることもできない。

話そうと思ったことも話せないまま、金曜日に俺は――…


誰もいなくなった部屋で、そっと天井を仰いだ。




  ◇



その週の木曜日はバイトの最終日であった。

駅前にたたずむ個人営業の小さなカフェで、時給はお世辞にも高いとは言えない。けれど、アットホームな雰囲気と店長の人柄がとても気に入っていただけに、今日でお別れだと思うとやっぱり少し寂しく思う。


「ありがとうございました」


みかん色の空が眩しい夕暮れ時。

俺はテーブルを拭く手を止めて、店を後にするお客さんに会釈をした。


「慧くんレジお願いしていい? ちょっと裏行ってくるわ」


「あ、了解です」


そう言ったチーフに頷いてレジに立ち、ぐるりと店内を見渡す。

カウンター席で資料を広げていたサラリーマンはちょうど席を立つところで、窓際のテーブルで勉強をしていた高校生は鞄にノートをしまっていた。


帰ったらすぐお風呂入って寝てしまおう。

明日は嫌でも慌ただしくなる。早めに寝て、体力を温存しておこう。

ぼんやりと考えながら、レジの画面右下の時計を見た。

17:47。あと1時間もしないでバイトが終わる。

穏やかに、緩やかに、時は流れていく。


そう思っていた。




――カラン、カラン。


店のドアに付いているベルが鳴る。


「ありがとうござ……」


さっきの高校生が出ていった音だろうかと思って顔を上げると、くたびれたスーツ姿の中年男性が入ってきた。


「いらっしゃいませ」


慌ててそう言い直し、背筋を伸ばす。


「(やばい、気ぃ抜いてた……)」


何やってんだよ、と心の中で自分に叱咤しながら、メニュー表を差し出した。


「ご注文お決まりでしたら、お伺いいたします」


「えっと、抹茶ラテの……」


ブラックのコーヒーとか飲みそうな感じの人だけど、抹茶ラテなんだ、意外だな。そう思いつつ、言葉の続きを促すように視線はレジのまま問いかける。


「こちらホットでよろしかったでしょうか」


抹茶ラテホットと書かれたボタンの上に人差し指を乗せながら返事を待つ。

が、しかし。


「……」


「……?」


なかなか相手の反応が返ってこない。

どうしたものかと顔を上げようとしたとき、低い声がすっと耳に届いた。


「あなたは……」


「え?」


ぽつりと落とされた脈絡のない呟きに驚いた。ぱっと顔を上げる。

その男性客は俺の顔を見て目を見開いていた。


「(な、なんだよ……ていうか、誰だ?)」


どんなに記憶を手繰り寄せても、この客の顔に見覚えがない。


「あのー……」


訝って声をかけると、ハッとしてあからさまに慌てる男性客。


「あ……すみません……ホットで、お願いします」


「抹茶ラテホット、おひとつですね。かしこまりました。お会計390円でございます」


ホットの抹茶ラテね、と言いながらチーフが作り始めるのを横目にお金を受け取る。


「110円のお返しとレシートでございます。少々お待ちくださ」


「慧くん」


「っ、」


突然名前を呼ばれて、ぎょっとした。

レジの前に立つ男はじっと俺のネームプレートを見て、それからゆっくりと俺を見据える。


「小澄慧くん、やっぱり、そうですよね?」


また、名前を呼ばれた。目が合った。

でも、やっぱり知らない人だった。

男性の後ろで高校生が店から出ていくのが見えて、ありがとうございました、と慌てて声を張った。

俺たちの間に、妙な沈黙が流れる。


「(どうしよう、本当に絶対に100%自信を持って知らない人なんだけど。でもなんで、この人俺のこと知ってんだ……?)」


頭が混乱していた。

そんな俺とは対照的に、目の前の男はゆっくりと言葉を紡ぎ出す。


「慧くん、今日バイト何時まで?」


「……えっ?」


「バイト。何時までですか?」


男性客は食い入るような目つきで俺を見る。不思議な感覚だった。その瞳からなぜだか目が逸らせなくて、

「……18時半まで、です」と呟く。


「そうですか」


「は、はい……」


「抹茶ラテのホットでお待ちのお客様、お待たせいたしました」


どうしていいか分からないでいたら、隣からチーフが声を掛けた。チーフから抹茶ラテを受け取りながら、ありがとうございますと男性は言う。

そうしてゆっくりと笑顔を浮かべた。


「じゃあ、少し待っています」


「え、ちょ、あの……」


戸惑う俺を放って窓際のテーブルへと歩いていく。呆気にとられたままその後ろ姿を眺めていれば、


「だあれ? 知り合い?」


チーフが隣でそう聞いてきたものだから、必死に首を横に振った。





退社時刻を迎えて。

店長やバイトのみんなに今までのお礼や挨拶をして回る。リュックを背負って裏口から出ると、店の前にあの男性がいた。


「、!?」


危うく声をあげそうになるのを寸でのところで飲み込む。まさか、本当に待っているとは思わなかった。

俺の姿を見つけると、軽く会釈をする男。

警戒しながら俺も軽く頭を下げた。


「どうも……」


「はは、そんなに硬くならずに。決して怪しいものではないんです」


あからさまな俺の態度に笑って、男はそう言う。空は薄暗く、陽が落ちようとしていた。


ポリポリと首の後ろを掻いた後、何かを決心したような面持で彼が話を切り出してきた。


「初めまして。まずは、自己紹介させてください。私は栗山賢治くりやまけんじといいます。柚の……あ、栗山柚乃くりやまゆずのの、夫でした」


たどたどしい口調でそう言うと、最後に「急に声をかけてすみません」と丁寧にお辞儀した。


「っ、あなたが」


時が止まったかと思った。ぴたりと止まったあと、時が戻っていく感覚がした。

急に周りが見えなくなって、身体が竦んだ。


「柚乃の……」


口に出した瞬間、懐かしさと切なさと息苦しさでいっぱいになった。

ぎゅっと両手を握る。心臓の音が耳元で聞こえるようだった。


「(どうしよう、何を言ったらいいんだ)」


急に心が落ち着かなくなって、吐く息が震えた。


「ちょっと、歩きませんか」


それは少しの沈黙の後に、栗山さんが発した言葉だった。

ぎくり、心臓がざわつく。それは俺自身が栗山さんに対して後ろめたい気持ちを持っているからで。


「(……もしかしたらこの人は、もう全部知っているのかもしれない)」


彼のあまりにも真剣なまなざしに、俺は緊張しながら「はい」と小さく頷いた。







「慧くんは大学生ですか?」


「はい、K大学の政治経済学部です。栗山さんは……」


「私は高校の教師をしていますよ。ちなみに担当は数学です」


「へえ、すごいですね」


近くの公園のベンチに、二人並んで座った。お互いに今何をしているのか、当たり障りのない話を交わす。

どちらともなく本題を避けているようだった。否、俺は本題を避けていた。


辺りはもう真っ暗で、秋の静けさを携えている。公園にはもう誰もいなかった。

はあ、と息を吐くと白く残った。それを見ると寒さが増したように思えて、両手をこすった。


「……柚乃がいなくなって、そろそろ7カ月が経ちますね」


栗山さんがそっと口を開いた。

ああ、本題だな……。

俺は座り直し、緊張からコクッと喉を鳴らした。


「私ね、最近やっと自分の口から話せるようになったんです」


「……」


「亡くなって色々なことで忙しいときにはまだましでした。でも、普通の生活を送れるようになった頃から喪失感に襲われてしまったように思います」


彼の顔がくしゃっと歪んだ。その表情に切なさが増す。

栗山さんは、俺を罵るのだろうか。殴るだろうか。はたまた両方かもしれない。わからないけれど。でも、もしそうなったとしても、すでに覚悟はできている。


「(正直に、そして先に言おう)」


俺はじっと彼の横顔を見つめて口を開いた。


「栗山さん、あの実は俺……」


「柚乃は君に恋をしていたみたいですね」


「え……?」


驚いて、何とも場違いで間抜けな声が出た。口元に少し笑みを乗せた彼は、小さく息を吐く。


「結婚してからの私は随分と仕事人間な男でした。もちろんすべては家庭のためでしたが……彼女はそれを許さなかった。正直な話、離婚したくなるような酷い仕打ちを妻はこの数年間私にたくさんしてきたんです」


「……」


「私は他で恋人を作り、逃げることでしか悲しみを癒やせなかった。真正面から立ち向かおうとしても、精神的にそれが出来なかった。死んでほしい……そう思ったことが何度だってあります。……でも」


栗山さんはその小さな鋭い瞳を細める。


「遺品整理で屋根裏から見つけた彼女の日記の間に、君の写真がたくさん挟んであってね」


「っ、」


ぎくりとした。ああ、やっぱり知られていたんだ。直感でそう確信した。


「最初は悲しみと怒りしかなかったですよ。出会わなければよかった、私をもう一度だけ信頼してほしかった――不倫しなければよかった。新しい人と幸せになってほしかった、やり直しできるならしたかった。

矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、今になって本当にいろんなことを思ったんです。本当に、自殺だけはしてほしくなかった」


そう言った彼の瞳を見た。寂しそうに揺れて、弱っている瞳だった。



自殺は、残された人に――それは家族にも友人にも職場の人にも。自殺した人が係わった人たち全てに様々な後悔と悲しみを持たせてしまう。


生きたくても生きられない人がいるんだから、自殺なんか絶対してはいけないんだ。


でも……それでも死ぬ選択をして実行をした人は、どうしたってそうしたかったんだろう。


仕方が無い、ことなんだ。



「……この事を忘れる日は、俺も栗山さんも無いと思います。それでも時間は過ぎて、また静かな毎日はやってくるんだと思います」


ぽつり。呟いて、財布の中にしまっていたクシャクシャの写真を栗山さんの目の前に差し出した。

瞬間、彼は目を見開き、震える指先でそれをつまむ。

何か、感じるものがあったのか。栗山さんは片手で瞳を覆うと、そう思います、と静かに頷いた。





苦もあれば楽もある。すべてうまくいかない人生なんてない。



栗山さんも俺も、これからずっと生き続ける。



柚乃の代わりではなく、自分たちの人生の為に生き続けるんだ。



そして、また、ここから始まるんだと思う。







――ああ、今、やっと全てが終わった。この時、この瞬間。本当に心からそう思えた。

思い残すことはもう何もない。




俺は明日、日本を発つ。

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