24 わだかまり
「若菜ー!」
白色のポロシャツをなびかせ、サトルは堤防のわきで手を大きく振っていた。
日曜日の午後3時。
背後には明るい青空が広がっている中、もったりとした灰色の雲が近くまで来ていて。
やがてはあの雲が雨を運んでくるのかもしれない。
サンダルをつっかけて出てきたわたしは足をはやめ、ゴールを目指した。
「おまたせ」
いつもなら嫌でも緩んでしまう頬が少し強張るのは気分のせいだ。
金曜日のことが引っかかり、はしゃぐ気持ちになれなかったから。
そういう微妙な変化をサトルも感じ取ったのだろう。
「なんだ? 元気ねーな」
サトルは不審そうに言い、デニムのポケットに突っ込んでいた手をわたしの頬へ伸ばしてきた。
つまんで横にひっぱって、無理に笑わせようとしているのかもしれない。
「生理か? 便秘か?」
「ちがう、ってば。……もう」
そうされるのを手で払いのけ、わたしはぞんざいに返した。
鬱陶しいわけじゃないけど、なんだかそんな気分にはなれなくて。
つまり過剰な反応をして、結果的にサトルに当たってしまったわけだ。
すぐに、これじゃあダメと我に返ったけれど。
でも。ごめん、と、取りなおそうとしたわたしの言葉は、まるでタイミングを見計らったかのような雷鳴によって阻まれた。
「うお、雷か? やばいな……」
いつのまにか青空は隅の方に追いやられ、上空は重たげな雲が垂れ込めていた。
日が
そのどんよりとした空模様を見上げていたサトルが、こちらに向き直って言った。
「あのさ、若菜。……俺んち行かない?」
◇
今にも降り出しそうな雨雲の下、わたしは今、サトルの住むアパートの前に来ていた。
マッチ箱を横に倒したような2階建てで、踏みしめるたびにカンカンと軽快な音のする階段がある。
そして上った先の一番奥にある部屋が彼の住居らしい。
わたしは自分の甘っちょろさに呆れ、はあっと大きなため息をついた。
言い訳をさせてもらえれば、わたしだって突然の誘いにすんなりついて来たわけではない。
しかし、固まり言葉を模索するわたしに、
「洗濯物干したまんまでやばいんだよ、マジで」
という彼の突拍子な言葉に、気が付けば頷いてしまったのだった。
灰色の雲はどんどん厚みを増して空気は湿気り今――隣でサトルが、デニムのポケットから束になった鍵を取り出している。
その、ジャラリと鍵同士の擦れる音が通路に響いていた。
「ほら、入れよ」
鈍い音と共にロックが外され、開いたドアの内側から、微かにサトルの匂いがした。
わたしは中に入るように促すサトルを全身で警戒しながら、じりじりと玄関に足を踏み入れた。
彼に限って、とは思うのだけれど、家に連れ込んで、これ幸いと手を出してこないとも限らないのだ。
部屋は、玄関から部屋の奥に見える窓まで一直線に抜けていて、ガランとしている。
「お、お邪魔します……」
脳裏に浮かぶエッチな漫画のシチュエーションを追いやろうとはするけれど、それに反して行動も口調もぎこちない。
が。
「じゃあ俺、洗濯物取り込んでくるから。テキトーに座ってて」
サトルは至って普通で。
わたしを玄関に押しやると、自らは再び外へと引き返していった。
漫画のような展開を期待していたわけではないが、少々肩すかしを食らったような気分になり、わたしはしばらく呆然とつっ立っていた。
玄関から通路を抜けてリビングへ。まずは探検がてら部屋の中を見回した。
ベランダに面した窓は青いカーテンに閉ざされ、床にその色を落としていた。
ぼこぼこした素材の壁紙は、元の色はオフホワイトなのだろう。
カーテンの色が邪魔をして青みがかっているが、窓を開ければ明るい部屋になりそうだ。
もっと雑然とした部屋を想像していたのだが、8畳間のそこはやたらとすっきりしている。
それはただ単に家具が少ないだけなのかもしれない。
目についた家具らしい家具といえば、テレビ台の上の大きなテレビとブラウンのソファ。部屋の中心にはテーブルが置かれている。
腰をかけたソファはふわりとお尻を包み込んでくれた。
けれど、どれだけ座りなおしても、落ち着けるポジションが見つけられない。
「やっぱり人の家だと落ち着かないな……」
わたしはそわそわしながら、また溜め息をつく。
人の家だと落ち着かないのもあるが、暇すぎて、というのもある。
「ラジオとかないのかな」
わたしは勢いをつけて立ち上がり、もう一度部屋を見回した。
すると、この部屋の隣にもう一部屋あるのだが、わずかにドアが開いていて。
隙間を覗くと、その部屋の様子が伺えた。
どうやら寝室らしかった。
窓のカーテンが開けっ放しにはなっているが、それ以外はどこも乱れのない清潔な部屋だ。
シングルベッドの向かいにチェスト、その上にコンポが置いてあって、あれをいじればラジオを繋げられるに違いない。
わたしはドアを開けたままにして、歩みを進めた。
電源を入れ、周波数を見る。
上げたり下げたりするが、なかなかうまくいかない。
スピーカーからは時々遠い声で何か聞こえるものの、何を喋っているのかは不明だ。
「もう……普段聞かないからわかんないな」
わたしは鼻で溜め息をつき、腰に手をあてた。
諦めてベッドに腰をおろすと、目の高さが変わったからか、部屋の印象がさっきとは違うように見える。
ベッドのわきにはモダンな旅行用トランクが3つ積み重なっていて、サイドテーブルとしてつかっているのか、数冊の小説が無造作に置かれてあった。
壁にぴったりと置かれた本棚にもぎっしりと本が詰まっているのを見るとかなりの読書家のようだ。
他にも、無造作に壁に貼られた写真や、部屋に似合わない熊が鮭を咥えている木彫りの置物が、とてもサトルらしくて面白い。
それらを順に見ながら、彼の空気に浸っていたわたしは、本棚の一角で一瞬目の端がとらえた白い写真立てへと引き寄せられた。
他の写真は無造作に貼られているのに、あれだけなぜ? ――と。
けれど。
「……え、?」
しん、と耳の奥な鳴ったような気がした。
わたしはふらりと立ち上がり、吸い寄せられるようにその写真へと一歩、一歩近づいていく。
両手でピースを構えるサトルの隣に並ぶ、綺麗な女の人。
小顔で透明感のある白い肌、整った目鼻立ちのその人は、柔らかい茶色のショートヘアーをなびかせて、麦わら帽子を片手で押さえている。
こちらに向けられた親しみ溢れる笑顔に、わたしの胸にちくりと棘で刺されたような痛みが走った。
――「付き合っていた人が、俺から離れていった」
もしかしてこの人が、サトルの元恋人なのだろうか。
だとしたら、なぜ未だに飾る必要が? ……まさか、まだ未練が残っているんじゃ。
けれど直後には、いやちがう、思いすごしだ。捨てるのを忘れていただけだ、と。わたしはちゃんと見もしないまま、そう否定していた。
でも、わかっていた。そんなのは、ただの自己暗示にすぎないと。
だって、他の置物は薄っすらと埃をかぶっているのに、この写真立てだけは、しっかり手入れされていたのだから。
力なく落としていた頭をゆるゆると持ち上げ、再び写真に視線を流す。
それが、間違いだった。
「こ、れ……」
麦わら帽子を押さえた左手の、薬指。キラリと陽を反射させているそれは、――指輪だった。
隣に映るサトルの指を確認したがペアリングらしきものは見当たらない。
わたしは瞬きもせず、息さえも止めて、ただその指輪を凝視していた。
伸びる手が、止められない。
まさか、この人は――――…
「触んな!!」
そう横から発せられた声を、わたしはどこか他人事のように聞いていたのかもしれない。
「サトル……」
彼は衣類の入ったプラスチックのカゴごとその場に放り投げると、切羽詰まった様子で部屋の中へと足を進め、わたしの目の前から写真立てを持ち上げた。
ひっくり返して、中から写真を取り出す。
そうやって、放心したわたしを放って作業に専念する姿を見ているうちに、たまらない気持ちがこみあげてきて。
写真をポケットに突っ込んだ手の動きが、わたしのわだかまりを放出させる合図になった。
「その写真の女の人って……サトルが前に付き合ってた人、なの?」
彼の片眉が、ぴくりとあがる。
衝動が、目を覚ました。
「この人、結婚指輪してるよね……?」
ヒステリックな声が、いつの間にか降り出した雨音に融ける込む。
サトルは口唇を結んで押し黙り、何の弁解もしてはくれない。
本当は、笑ってほしかった。
ただの友達に決まってんじゃん。くだらねー、って。
口悪くても、なんでもいい。
サトルらしく、嘘でもいいから笑って否定してほしかった。
けれど、わたしの期待するような言葉や表情はないままで。
かわりに、何か言おうとしては口を開き、ためらっては閉じるを繰り返す彼の姿があった。
そのうち、口の中でなにか呟いたように見えたのだけど。
結局、音にはならず。
「……言えない」
沈むような声で、そう漏らしただけだった。
「(なんで何も言ってくれないの……)」
わたしは胸をしぼりあげられる痛みに、奥歯を噛みしめて抵抗する。
ぎしぎしと心のどこかが軋む音をたてていた。
言えないってことは、やましい感情があるから?
まだ未練があるなら、どうして中途半端に優しくするの?
わたしを家に呼んだのは、そういうことなの?
男の本音?
ねえ、サトルの本音って
――なに?
心の奥底に溜め込んでいた黒いものがどんどんせりあがってきて、気がつけばいつの間にか、くいしばった歯の隙間から溢れていた。
「……罰ゲームのノリで簡単にキスするような男だもんね、サトルは」
心からそう思って口にしたわけじゃない。
けれど、一度溢れてしまえば、どうやってもとに戻せばいいのか、からない。
「女の人に囲まれてさ? へらへらしちゃって」
「は? なに言って」
なにを考えているのかわからないのは寂しい。もっとちゃんと、気持ちを言葉に出してほしい。頼りないかもしれないけれど、わたしにできることって何かないかな。
そんな、本当の気持ちは喉の奥に引っかかったままのくせして。
憎まれ口だけはとどまることを知らず、どんどん激しさを増していった。
「この女の人だって結婚してるのに、こんなこと。普通ありえないよ」
「お前……」
こんな言い方、するつもりなかった。
「付き合ってた人が俺から離れてった〜、とかカッコつけちゃってたけど。結局は浮気に飽きて旦那さんのところに戻っただけでしょ?」
ただ、今は持って行き場のない怒りや悲しみが、サトルを貶める言葉になってでているのだ。
でも。
「都合がいいにも程が……」
口走った瞬間。
ドン、と突然低く重たい音が空気を震わして。わたしの声は半端に後半部分を千切られてしまった。
「……大概にしろよ、お前」
音の正体はサトルが思いっきり本棚を殴ったからだ。
衝撃の波動が空気を裂き、部屋の中に響く。
自分が殴られたわけでもないのに、わたしはとっさに身をすくめ、目をつむって痛さを堪えていた。
おそるおそる瞼を開けたわたしの目には、荒い息をつき、口元を歪ませたサトルが映った。
まるで知らない人でも見るみたいだ。
こめかみがガンガン音をたてる。痛くて、歯がゆくて、なにも考えがまとまらない。
やがて息のつまるような沈黙のあと。
「もういい!」
なにがいいのか自分でもわからないのに、わたしはそう叫んだ。
「サトルなんかもう、知らない! あんたなんか……」
言葉にならないもどかしさが、こんな形でしかでない。
意地だけで逸らしたい目を逸らさずにいる。
わたしはぎゅうぎゅうに奥歯を噛みしめ、サトルを睨みあげた。
けれど。
日に焼けた茶色の髪の下、サトルの頬は顔色を失い、二重まぶたの瞳の奥が揺れていた。
それがぶわっとぼやけて。
たまらなくなってわたしは、玄関まで走るとドアを一息に開けた。
バンと思いっきり八つ当たりして閉めたドアの音が雨音を裂く。
バシャバシャと水たまりに入るのもいとわず、前へ、前へ、と走る。
頭の中にはサトルの傷ついた表情がぐるぐるとめぐって、それが余計にわたしを傷つけた。
そうだ、わたしは傷ついていた。
彼のことをなにもわかっていなかったくせ、わかっていたような気になっていた自分に。
抱えているものを少しも吐き出そうとしない、彼に。
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