23 その感情の名前


約束の金曜日。


黄昏たそがれは幕が下りるように早々と夜に変わり、ときおり吹く冷たい風が、待ち合わせ場所へと向かうわたしの頬をぜた。


居酒屋なんて、客が多いのがわかりきっているお店。

しかも酒が入るだろうシチュエーションで、告白の返事をしなければならないなんて。

さすがに気乗りするはずもなく、自然と足取りは重いままだった。


電光掲示板は18時40分を表示していて。丁度仕事帰りの時間帯だ。

駅前の横断歩道は丁度ラッシュの時間帯ということもあり、会社帰りのサラリーマンたちでごったがえしていた。


信号が青に変わり、人波を縫って進んでいた時、デニムのポケットの内側でからスマホが音を鳴らした。


画面に表示された名前は、サトルだ。

わたしは人波から外れ、歩道を渡った先のコンビニで立ち止まり、スマホを耳に押し当てた。


「……もしもし?」


『お、若菜。おまえ出るのおせーよ。待ちくたびれて爺さんになっちまうところだったぜ』


耳に飛び込んできたのは、日頃なら聞くだけで気分が華やぐサトルの声だ。

でも、今はせっかくの明るさも役に立ちそうにない。

先日の高倉くんの言葉やこれからの瑞樹先輩との待ち合わせのことを考えると、もはや軽口も笑えなかった。


「ああ……ごめん」


『なんだ? テンション低っ。まーいいや。なあ、日曜ちょっと時間あるか?』


「え? な、なんで……?」


『気晴らしに海行こうと思ってさ、お前も来いよ。……ちょっといろいろあって、当分会えなくなるかもしれねーんだ』


サトルは他にも様々な理由をつけ、だから来い、と畳みかける。


彼とは、この間のバイト以来だ。

普段なら頼もしく思える強引さが今はうらめしい。

わたしはなんとかサトルとの電話を終わらせるべく知恵を働かせた。


けれど、そう思ったのも束の間のことだ。


「あ! 悪ィ、キャッチ入った! てことで、日曜3時に集合な」


強引に日時を告げられたかと思えば、回線が切れたことを示す電子音が耳に届いて。


「ちょっと……、!」


咄嗟とっさに声を張ったが伝わるはずもなく。


「……もう、人の気も知らないで」


しばらく画面を見つめた後、わたしは諦めてスマホをしまい再び待ち合わせ場所へと歩きだした。


スマホの電源を落とす前に見た時刻は、約束の10分前。

あと10分もすれば、顔をあわせづらい瑞樹先輩に会わなければならないのだ。


わたしは溜め息をつき、いつの間にか街灯やネオンが灯り夜を覗かせはじめた街に目を細めた。

薄闇はどんどんと夜に変わり、わたしは気を引き締めると、立ち込める黒の風景に自らも飛び込んでいった。



  ◇



顔を合わせた途端、瑞樹先輩は待ちかねたように居酒屋の中へとわたしを誘った。


「さ、入ろう」


プライベートでは初めての瑞樹先輩は、ネイビーシャツとシンプルなカットソーにベージュパンツ姿で。

いい感じに盛ってある黒髪と右耳に3つ光るピアスだけが、学校で見る彼と同じだった。


わたしは瑞樹先輩に促されるまま、背の高いベンジャミンの植木などが置かれた洋風な居酒屋の店内へと歩を進める。

そうしてコーナーを曲がりテーブルの脇にたどり着いた時、その異変に気付いたのだった。


「あの、これは……」


本来ならテーブルを挟んで向かい合うはずの椅子が無い。

その代わり片側にだけペアシートが置かれていて、瑞樹先輩は端っこに詰めるみたいにして座りはじめた。


「ここ、金曜日はカップルデーでさ。まあ、確信犯なんだけど。ペアシートはドリンク100円、お得でしょ?」


そう言って先輩は、ピンク色のペアシートの隙間をぽんぽんと叩いた。


「ほら、座って」


立ちつくしたままのわたしにれたのか、先輩は腕を掴んできて。

わたしはその隙間に腰を下ろした。

ふわりと柑橘系の爽やかな香りが鼻をくすぐる。

香りの正体は、先輩がつけているコロンのようだ。


そして案の定、ペアシートは狭かった。

身体のそこかしこが密着し、触れ合った部分からは先輩の体温が流れ込んでくる。

その温もりが気にならなければいいのだが、夜風で冷えた体には心地よくて。

わたしは、瑞樹先輩の体温を気持ちいいと思っている状況に危機感を覚えた。


「これ恥ずかしいですよ。他の席に移れませんか?」


「なんで? イヤなの?」


メニューをめくっていた先輩が、急にこちらを向いて。その距離の近さにわたしは思わず上体を退いた。


「そんなに身構えられたら傷ついちゃうな」


「え? ああ、そんなつもりじゃ」


瑞樹先輩の眼差しは、口調ほど軽薄そうではない。

いつになく真顔で、軽くあしらえない雰囲気があった。


けれど。やはり、この席は移りたいのだ。

先輩の気持ちに応えてあげられないのだから、変に気を持たせないほうがいい。


そう思って口を開きかけた時だ。


「そんな緊張しないで。リラックス、リラックス」


じゃれつくように、先輩はわたしの肩を抱き寄せてきた。


「若菜ちゃんは普通にしてればいいんだよ。僕になんでも任せておけばいいんだからさ」


と、肩にまわした腕に力を込める。

それが、妙に異質な感触で。

わたしは急激に身体が強張るのを感じ、そして次の瞬間には、その腕を振り払っていた。


突然の乱暴な動作は、きっと先輩を驚かせただろう。

すっきりとした一重瞼の瞳が、めいっぱいに見開かれていて。

わたしによって振り払われた先輩の腕が、空に浮いたまま行き場をなくしていた。


「あ……、ごめんなさいっ。わたし、こういうの、慣れてなくて」


慌てて弁解したけれど、先輩の表情は硬いままで。振り払われた手を開いたり閉じたりして所在なげに振舞ったあと、ようやく身体の横に腕をおろしていた。


「さーて、食べよっか」


瑞樹先輩のハイボールとわたしの烏龍茶、その他注文した料理が運ばれだした頃、先輩は、さっきのことは水に流すといった態度で、何もなかったかのように振舞いはじめた。

そうなると、わたしもそれに従うしかなくて。前に並んだ料理をつつきながら、先輩のお喋りに耳を傾けた。


彼は最近ハマっているテレビゲームのことや、ギターを新調したことなど、近況を順を追って話していた。

それらはどれも、所謂当たり障りのない話だ。

先輩は沈黙を恐れているかのように、会話が途切れそうになると、違う話題を提供し続けていた。


やがて。


「若菜ちゃん、さー?」


そう口にしたっきり先輩は黙り込んだ。


どうやら、そろそろ本題に移ろうとしているのだろう。

先輩は落ち着かない様子でおしぼりを手に取り、何度も指を拭い始めた。

わたしはいよいよ高まってきた緊張感に、烏龍茶を一気にあおった。

喉を滑る大量の烏龍茶。

わたしはその勢いに任せて、彼が切り出してくるだろう告白を、つっぱねようと身構えていた。


その時。


「お客様、こちらにどうぞーっ!」


隣の広いテーブルに、集団らしい客が導かれてきて。

頭を下げた店員の向こうにある顔ぶれは、どうやら仕事帰りのOLやサラリーマンばかり。


「(あ……)」


そんな、一見して私たちよりもずっと年齢が上とわかる顔ぶれに、わたしは希子のりこさんから見せられた飲み会写真のいくつかを思い出していた。


ギリギリまで落とした薄暗い照明の中。

満更でもなさそうな顔で知らない女性に囲まれ、ビールジョッキを持ち上げていたサトルと、目の前の男達がだぶって見えた。


今まで忘れていたのに。

よりによってこんな形で思い出してしまったのはやはり、高倉くんの言葉が思っている以上にわたしの中で深いダメージとなって残っているから。


隣のテーブルからは賑やかな笑い声が波のように起こっては消える。

何かのゲームをしているのだろう。

時折、一気飲みを急かす掛け声や、初体験の思い出を披露する声が嫌でも聞こえてきて。

それがまた、希子さんとキスをしていたサトルの姿をチラつかせる。


テーブルがひとつ違うだけで、こんなにも場の空気が違うものかと、わたしは溜め息の出る思いだった。

というのも、隣のテーブルが罰ゲームに盛り上がっている今、いよいよ本題に入りそうな雰囲気がわたしたちのテーブルに立ち込めているのだ。


なにせ、隣はゲームに夢中。

瑞樹先輩にしてみれば、その喧騒に紛れて、という気持ちがあるのかもしれない。

酒が入っているせいか、先輩の瞳は濡れたように光っていて。

少し汗ばんだ手のひらが、密着した膝の上でわたしの右手に重ねられていた。

もちろんわたし自身もそのことに気付いているのだが、酔いの回った先輩の手を振り払う勇気もなく。ただグラスを傾け、じっとしていた。

けれど。


「隣、うるさいよねー」


目つきは若干とろんとしているものの、しっかりとした口調で先輩は愚痴をこぼしだして。

わたしは枝豆に伸ばしていた手を一旦止めて、先輩を振り返った。


「え、ええ……まあ」


「男女混合の飲み会なんて結局は合コンと一緒だね。下心丸見えだっての」


わたしは先輩の手元から右手を引き抜き、烏龍茶のグラスを両手で持ち上げた。

大きくて角張った氷が、水面から顔を出している。

その濡れた表面に目を落としているのに、視界の隅に入る飲み会の様子がひどく気になっていた。


「持ち帰って、セックスできりゃラッキー。それが男の本音、ってやつだよ?」


聞き慣れない単語が発せられたせいか。さらりと流れた言の葉に、息が詰まった。

うろたえそうになるのを寸でのところで押さえ込む。

やたら真剣に隣から覗き込んでくる先輩に、わたしはわざと視線を絡ませるように顔を向けた。


「……そう、ですね」


同調すると、先輩は表情をやわらげ、うんうんと頷いてみせた。

ため息混じりにこぼした笑みは、安堵のあらわれだろう。

自分は違う、とでも言いたいのか。

わたしは、そんな先輩の様子に嫌悪感を抱いて顔をそむけた。


その時だった。

隣のテーブルから、一段と大きな歓声がわいて。

ふと、視線をそちらに移すと、サラリーマン風の男性と若い女性のキスシーンが目に飛び込んできた。


「(――え?)」


口唇が重なり合う瞬間、ふたりは示し合わせたみたいに瞼を閉じていた。顔を傾けて、引き寄せられるように、自然に。

目を吸い寄せられたのは、きっとわたしばかりではないはずだ。

いくつもの視線が集まっているだろう中で、ふたりはゆっくりと時間をかけてキスをしていた。


わたしは平手で打たれたような衝撃を覚え、目をそらせないまま、ふたりの様子をじっと見つめていた。

やがて、口唇が離れたあとの男は妙に頬が緩んでいて。含み笑いを浮かべた口元も、どこかデレデレしたように見えた。


「うわぁ、やっぱり。キスしてんじゃん」


先輩の呆れ声が耳を通る間も、どくどくと脈打つ鼓動が、わたしの冷静さを奪っていく。

見ず知らずの他人のキスシーンが、完全にサトルと希子さんで重なってしまったのだ。


「(ああ、サトルも、もしかしたら――…)」


わたしはそんな負の感情をしずめようと、ぎゅっと瞼を閉じた。けれども、


――『そう言う岡元ちゃんだってさぁ、実際何にも知らないんじゃない?』

と、核心をついた高倉くんの声や、

――『持ち帰って、セックスできりゃラッキー。それが男の本音、ってやつだよ?』

という瑞樹先輩が落とした言葉たちが、ボールペンで上からなぞり書きするみたいに溝を深めていって。


やがて心は真っ黒に塗りつぶされ、自分は今、誰と向き合っているのだろう、と。そればかりを思った。






結局、「そろそろ帰ります」のわたしの一言で解散となり、居酒屋前で別れることとなった。

帰りの夜道をのろのろ歩く。


「……バカみたい、だなあ」


明日の陽の光が信じられないくらい夜が遠く思えた。

高倉くんや瑞樹先輩の言葉に聞く耳をもたないでいられるくらいわたしが強ければ、どれだけよかっただろうか。

けれど現実は、惨めにつんと痛んできた鼻を、手の甲で必死に押さえ込むことしかできない。


やがて角を曲がってその窓灯りが闇に浮かぶいくつもの窓と区別がつかなくなった頃。

立ち止まり顔をあげた先に、ひときわ大きな観覧車が浮かんで見えた。

ネオンカラーに彩られた観覧車。

天高く舞い上がり、けれどどこにも届かないまま落ちていく。


ただぐるぐる回るだけのその箱が、まるで自分みたいだと思った。



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