22 彼と世界の境界線(2)


ひとりになってみると、不思議なもので。

普段は気にもとめないでいた『廊下は走らない』の標語や、額に入った誰かの絵画、消化器や火災報知器などが急に目に飛び込んできた。

たぶんそれだけ今の自分が心細くて、ほかに見るものがない状況にあるからだろう。


放課後が訪れてからしばらく経っているせいか、あたりに人影はない。

そのしんとした静寂が、いっそう空気の温度を下げているようだった。

それらの前を通り過ぎ、角を曲がった先。


ガラガラと空き教室のドアを開けると、ささやかな風がスカートの裾をはためかせた。

開け放たれた一枚の窓から外を覗けば、花壇が見えた。


わたしは手すりにもたれかかり、両腕の中に顔をうずめる。

ステンレス棒に鼻の先をこすりつければ、ほのかに太陽の香りがした。


その時、ぱたぱたと早足の足音が聞こえて。

足元を抜ける風が、高倉くんの開けたドアの音をここまで運んできた。


「待たせてごめんねー」


口の中で飴玉を転がしながら発した舌足らずな声。

午前中ぶりに顔をあわせた高倉くんは、わたしの知ってる高倉くんと全然かわらないようで。

けれどなんとなく、一線を引かれているような違和感があった。


「女の子の相手してたら遅れちゃった」


「いや、呼び出したのはわたしの方だから。気にしてない」


「そっ。で、要件は?」


にこり。笑いながら入り口付近の壁に身体を預ける高倉くん。

そんな彼の馴れ馴れしい笑みに眉を寄せながら、わたしは浅く、静かに呼吸を繰り返したあと口を開いた。


「この間のあれ、どういうこと?」


「えー? どうって言われても、ねぇ」


気まずさに小さく切り出せば、高倉くんは何故かクスリ、と笑う。

意味がわからない。何がおかしくて笑っているのか。

待ち兼ねていたと言わんばかりの嬉しそうな態度に、わたしは拳をかためて足を踏ん張る。

一歩、わたしに近づくので思い切り目を細めてやった。


「……うーん。その様子じゃ、ダメっぽかったみたいだね」


「は? なに言って、」


「結構しぶといよなー、岡元ちゃんさぁ」


「……」


にやりといやらしく上がる口角に、笑っていない瞳はただ見下ろすように視線をくれる。

若干だが声を張り上げた高倉くんの迫力に、中途半端に開いた口からは何の言葉も出てこず。

黙って次の言葉を待つしかない。

それが、酷くもどかしい。


けれど、次の言葉でわたしは胸を絞りあげられることとなる。


「石澤先輩と付き合っちゃったらいいのに」


「っ、」


「ずっと好きだったじゃん」


疑問形ではない、断定的な言い方がわたしの中の疑惑を確信へと変えた。


「やっぱり……知ってたの?」


「うん、たまたま見ちゃっただけなんだけどね。岡元ちゃんが振られると、こ、ろ」


揺れた空気に含まれた笑いは決して良いものではない。



――『僕と付き合ってたこと、誰にも言うなよ』



あの時、あの場所に。高倉くんもいたという事実。

今の今までずっと、そういう目で見られていたのかと思うと頭痛がする。


「あの時の岡元ちゃん、もの凄く未練たらしい顔してたの知ってる? だから親切でお膳立てしてあげたのに」


空気読んでよー。

そう付け足すと、わざとらしく耳障りな笑みを落とした。


「……嘘」


それが激情げきじょうを煽り、遠慮をとっぱらっていく。

いつもなら怯んでしまいそうなところを、口唇を噛んでこらえた。


「親切なんて嘘、全部ウソばっかり! 高倉くん、こういうことだったんだね。だから好きでもないのに柳沢さんに近付いたんだ」


「あは、バレちゃった」


クスリ、と笑う表情はまるで毒みたいに心に深く印象づいた。


高倉くんが、正直こわい。

何を考えているのかわざと見せ付けたり、隠したり。

今、この場をコントロールしているのは、間違いなく。


「(高倉千紘くんだ)」


指先が悪戯いたずらにわたしの毛先に巻き付いて、その奥では高倉くんが微笑んだ。

どくん、と。嫌な感覚が背中をはいずり回るそれに下唇を噛み締める。

やっとの思いで発した声は、みっともなく掠れていた。


「……なんで?」


「んー?」


「この前のふざけた告白もそうだけど、なんでこんなことしてるの?」


静かに返せば、微笑。まるで会話を楽しむかのような笑い方は非常に不愉快で。

途端。

クックッ、と。喉奥で鈴を転がすかのような音が響いたのは、一瞬だ。






小澄慧こずみさとるさん、だったかなぁ?」




世界が、揺れた。



狙っているのか何なのか、上目使いなんて女みたいな仕草で見つめてくる高倉くん。

小首を傾げるさまは、誰が見ても整っていて。

喉の奥につっかえた息を吐き出すように声を出すのが精一杯だった。


「ど、うして……」


「あっは、ビンゴ!」


わたしのうろたえ方を見て確信したのだろう。

高倉くんは小さな子どものように、無邪気かつ盛大に笑うと、どこまでも冷たい微笑みでわたしを見下ろした。


ヤバい。

続く言葉を聞きたくなくて俯き目を閉じるが、失せた視界を補うかのように聴覚が澄んでしまって、逆効果だった。


「未成年と成人男性の過度な付き合いってさ、あんまりイメージ良くないよねえ。ほら、一歩間違えたら条例違反にもなりかねないし?」


閉じた瞳に、ぎゅっと力を入れた。



――ジョウレイイハン。


付き合ってすらいない。やましいことだって何一つないのに、不意に落とされたその言葉は一瞬にしてわたしの思考回路を停止させた。


「でも。高校生同士の健全なお付き合いなら、世間は寛容だよ?」


「大人と子供じゃ釣り合わないよ」


「石澤先輩とヨリを戻すチャンスでしょ」


呼吸も置かずに次々と耳元で囁かれる言葉は、わたしの中にくっきりと、焼印のように痕を残す。

笑みとは裏腹に発せられる声音は、少しでも気を抜けばそのままわたしをのみ込んでしまいそうで。

握りしめていた手のひらの内側にたてた爪の微かな痛みが、命綱。


やがて息の詰まるような沈黙のあと。


「……サトルのこと何にも知らないのに、適当なこと言わないで」


瞼を開けて、なるべく感情を表に出さず真っ直ぐと見据えた。

高倉くんのへらへらとした偽物の儀礼的な笑みが薄くなる。

上がった口角は少しずつ下がり、目元はこわいくらいわたしを真剣に見つめた。


じっと見つめ合う息苦しい沈黙の中で、呆れたように漏れた溜め息が空気を揺らした。


「そう言う岡元ちゃんだって、実際何にも知らないんじゃねーの?」


表情ひとつ変えずに、目の前の彼はこてんと首を傾げる。


「そ、れは……」


痛いところを突かれ咄嗟に視線を逸らしてしまった。

それを高倉くんが見逃すはずもなく。

容赦なく次々と言葉を突き刺してかかる。


「岡元ちゃんが素性の知れない大人の男と仲良くしてるって周りが知ったら、どうなるだろうね」


「……」


「事実何もないとしても、あんまりイメージよくないよ? あるとないこと噂されて、好奇な目で見られるのがオチだね。女の子ってそういうとこ怖いもんなあ。それに、」


「高倉くんは、どうしたいの」


わざと言葉に被せて発すると同時に顔をあげ、ひそめた。


不意打ちのことで少々驚いたらしいその表情は、みるみるうちに挑発的な笑みを浮かべる。

にんまりと上がる口角。


「さっき、なんでこんなことしてるの? って言ったよね」


その口から、はっきりと、言葉が吐かれた。


「小澄さんに近づいてほしくないからだよ」


反射的に目を見開いた。

何かがぐさりと貫通した。小さな穴に隙間風が吹いているような、そこだけが嫌に冷えている感じ。

瞳は真っ直ぐに向かい合っているのに、視線は決して絡まない。


「岡元ちゃんに付き合おうって言ったのもそう。わざわざ石澤先輩から桃香を横取りしたのもそう。ぜーんぶ、岡元ちゃんを小澄さんから離そうと思ってやったこと」


隠すことなく棘を持つ言葉。

あざけるように口角を歪める高倉くんの雰囲気は、普段とは何かが違う。

いきなりの暴露に、ただ彼の動く口唇を見ていた。



「お願いだから、」



すらすらと言葉を並べていた高倉くんは、そこで一度不自然に間を開ける。

一瞬迷ったような間。

揺れる瞳の中にはわたしだけが映っている。



「お願いだから、俺の邪魔……しないで」


「――っ…」


一転した弱々しい声音で、彼は酷く悲しそうに言った。

伏せられた瞳は足元を向いており、少し長めの前髪が双眸そうぼうに掛かっている。

頭に集まっていた熱がスッと冷えていくのを感じた。



いつどこで間違って、絡まってしまったんだろう。

複雑に強く絡み合ってしまった糸は、もう、解くことができない。




わたしはそれ以上、言葉を発することができなかった。



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