25 自分の言葉で


昨日に引き続き、雨が降っていた。

霧のように粒子の細かい雨が優しく外の世界を濡らしている。


今朝の目覚めは最悪だった。

あれから家に帰ったわたしは、ずぶ濡れになった身体を温めるため、すぐにお風呂に入った。


けれど、身体は温まっても芯まで冷えきった心はいつまで経っても冷たいままで。

諦めてあがったあとは、すべてをシャットダウンしたくてご飯も食べずにベッドに潜り込んだ。


が。

目を覚まして、真っ先に襲ってきたのは喪失感。

それでも体を起こせば、全身に感じたのは怠さ。身体が重い。喉はからからに渇いて、熱い体は冷たい水を欲していた。


「あんた、今日は学校休みなさい」


「えー……」


「だってほら、この熱」


なかなか起きてこないわたしを心配に思ったのだろう。

お母さんは部屋に入ってくるなり、いきなり体温計を口に突っ込んできた。

そうして表示された数値は、38度を超えていて。


「学校には連絡しておくから。今日一日安静にすること、わかった?」


そうなると、ただ真っ赤になって寝ていることしかできなかった。





薬を飲んでぐっすりと眠り、起きた時にはだいぶ身体が楽になっていた。

夕方近くでもうすっかり雨もあがり、部屋の中は夕暮れの陽に染まっている。

わたしはベッドから這い出て出窓に肘をついた。


――中途半端に濁してあきらかに隠し事をしたことや、ドンと本棚を殴った音。辛そうに歪めた顔。

そんなサトルから逃げ出し、惨めに濡れて帰ったこと。

他にも、たくさん、たくさん嫌なことが気怠い思考の合間に思い出されてしまう。


誰の上にも平等に流れているはずの時間は、受ける側のメンタリティー次第で短くも長くもなることを、わたしは経験済みだ。

しばらくは重い荷物を背負い、のろのろと行軍する苦行のような日々になるだろう。

と、そんなことを悶々と考えながら、ひとり黄昏たそがれに溜め息をついた時だ。


「お見舞いに来たよー……って、あれ。思ったより元気そうじゃない」


ガチャリとドアの開いた音と共に久しぶりの声が聞こえてきて。

え? と振り返ると、愛美えみが入り口からひょっこり姿を現した。


「うわあ、久しぶり! どうしたのさ、いきなり」


彼女、西野愛美にしのえみはわたしの家の斜め向かいに住んでいる、いわゆる幼なじみってやつだ。

高校が別でしばらく会えていなかったけど、ぱつんと揃えられた前髪と三日月形にそる口元は小学生の頃と変わらない、いつもの愛美だった。


「若菜がめずらしく寝込んでるってお母さんから聞いたから、あたしなりに心配して様子見に来たのよ」


愛美は漆黒に染まる長い髪を揺らし、スカートのひだを気にしながら床に座ると、クッションを引き寄せる。


「でも、無駄足だったみたいね?」


そうして微笑みながら、藤の籠に持参したファンシーな焼き菓子を入れた。


「ううん、そんなことない。わざわざありがとう」


わたしは焼き菓子をひとつ取り、パッケージを破った。シナモンの香りが広がっていく。

と。


「――で、若菜。あたしに何か言うことないの?」


「え?」


「んもう、とぼけちゃって」


にんまりとあがった口元から発せられた声に、わたしは焼き菓子をかじりながら眉を寄せた。

「あったあった」とブレザーのポケットから取り出したのは一枚の写真。

見ると、印刷に失敗したあとにどこかへと消えていたサトルの写真だった。


「それ、どこで……」


「ソファの下に落ちてたよ。ね、ね、これ誰?」


パジャマの袖をぐいぐいと引っ張る愛美をよそに、わたしは写真を凝視する。

それはあの日、海の岩場で撮ったもので。写真の中でサトルは寝ぼけ眼を擦っている。


今こうした形で彼を見ていると、彼の印象が矛盾したり重なったり……とにかく不思議な、感じがした。


軽く口唇を噛んで、ぎゅっと手のひらをにぎる。深く息を吸い込み、わたしは愛美に向けて想いを口にした。

小さく、ひっそりと、そこだけカワイイ花を咲かせるみたいに。


「わたしの……好きな、ひと」


気持ちを初めて声に出した瞬間、全身の毛穴から汗が吹き出るような気がした。

せわしなく叩く鼓動に、逃げたしたいような気持ちにもなる。


「ふぅん、なるほどねえ」


わたしの言葉に、愛美は一瞬の間を置きながら頷いた。


「優しそうだけど、でも、なんだか寂しそうな人だわ」


――愛美の言葉は、ストンとわたしの胸の中に落ちた。


そうだ。初めて会った時から、サトルはどこか周りとは違っているような気がしていた。

軽薄さと歳相応の大人の態度を交互に見せられたかと思えば、深くは考えていないような隙のある顔をする。

どれも魅力的ではあるけれど、ただただ不思議だな、って。ずっと心の奥で思っていたのだ。


「若菜、この人と何かあった?」


「えっ?」


思いがけない問いかけに、わたしは一瞬意味がわからなかった。けれど直後、

「ケンカでもした?」

更にツッこんだ追及をぶつけられて。


「な、なんで?」


うろたえるわたしに、愛美は呆れたように溜め息。


「何年友達やってると思ってるの。顔に書いてあるわよ、『落ち込んでます』って」


眉を下げながら笑う愛美の瞳は、どこかいぶかしげにこちらを窺っている。きっと、最初から全てお見通しだったのだろう。

わたしは少しだけ視界を下げ、奥歯を噛んだ。胸の中で、声にならない言葉たちが溢れかえる。


「あ、のね……」


何から話せばいいのかわからないうちに、わたしは口を開いていた。

「……、」

けれど。その後の言葉が、声が。喉から出てこなかった。


「若菜」


テーブル越しに伸ばされた愛美の手は、わたしの指先を柔らかく包み込んだ。

首をかしげ、顔を覗き込んでくる仕草にそっと頭をあげれば、真っ黒な瞳と目が合う。


「ゆっくりでいいよ」


愛美の声が、振動となって胸に響いてくる。

声音に滲む微細な温かさがじんわりと染み込んで、強く、強く、背中を押された気がした。


わたしは意を決し、言葉を選びながら今までの経緯を口にした。

春先に先輩にフられ、浜辺で泣いていたときに彼と出会ったこと。

昨日、部屋に招かれた際に元彼女との写真が大事そうに飾られていたこと。

そしてその女性が、実は既婚者だった、っていうことを。




「――結局男なんて、みんなヤることしか頭にないんだ。それが男の本音なんだから」


言っているうちに自分の言葉が胸をぎしぎしと締めあげて、わたしの目尻を湿らせていく。

ここで泣いたらだめだ。絶対。

わたしは自分を叱咤しながら口唇を噛んでこらえる。


それに愛美なら、『運が悪かっただけよ』と冷静に笑い飛ばして励ましてくれるに違いない。

そう期待して見上げたけれど、愛美は笑ってなどいなかった。


「本当にそうなのかな」


「……え」


予想外の一言に、わたしの口唇は一瞬にして半開きになる。


「この人もこの人なりに、いろいろ抱えてるものがあるんじゃない?」


「……」


「若菜だって、ほんとはわかってるんじゃないかな」


「……っ、」


の言葉を持ってきても、意味ないよ」


ハッと愛美の方を向けば、彼女はシニカルに口角を上げた。

向き合った瞳の力強さに飲まれそうになる。


愛美はわたしの目の前に写真を滑らせた。

「若菜の持ってる言葉は、もっと違うものでしょ?」

その瞬間、わたしの中の記憶が弾けた。

それはわたしにとって、かけがえのない記憶の断片で。


優しく細められる双眸そうぼうや、緩く弧を描く口元。


ふっと漏らす吐息。


柔らかく微笑む表情や、少し高い、指の体温。


なぜだかいつもてっぺんを向いてしまう茶色い遊び毛。


まなざしの強さも、まとってる雰囲気も、すべてわたしの好きなサトルだった。

彼を想うだけで、息が、苦しくなる。

肺の辺りにのし掛かる重りが邪魔をして上手く酸素を吸えない。


目尻に滲んできた涙が雫となって頬を伝い、写真の上にぽたりと落ちて。

顔をくしゃっと歪め、鼻をすすってもあっという間に視界は霞む。


「うん……っ、ち、がう……ぜんぜん、ちがう……」


うわごとのように口からこぼれる言葉と共に、ぼたぼたと涙も落ちていった。


「わたし、先輩にフられた時、どうしたってずっと、泣くしかなくて、」


しゃくりあげるわたしの肩に愛美のひんやりとした手が置かれた。

そうして撫でる優しいぬくもりが、わたしの心の扉をゆっくりと開いてゆく。


「泣きたくないのに、止め方がわからなくて……でも、サトルが声をかけてくれて……」


今でも鮮明に覚えてる。



――『少し休めよ。ほら、目が赤くなってるぞ』



春風の中で優しく目を細めて発せられた、あの穏やかな声を。


「あの時わたし、強がってたけど、本当は……嬉しかった」


ただ、周りの言葉に惑わされていただけなのだ。

わたしの瞳を通して見たサトルは、ろくでもなくて、いけすかなくて。無理やりでめちゃくちゃだけど、わたしのために一生懸命になってくれて。

それに――ひとりで何でも抱え込んでしまうほど、繊細な人で。


「(わたし、本当にバカだな……)」


もし仮に先輩の言うことがその通りであっても、それでも。



――それでもやっぱり、わたしはサトルが好きなのだ。




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