18 ナルシストの思惑
「はぁー……、ダメだ。使えない」
ひとり言にしては大きな声で目の前のプリンターを
それは、この間撮ったサトルの写真で。
かろうじて顔部分ははっきりと色が出ているものの、下にいくに連れて掠れ具合のグラデーションが酷い。
せっかく綺麗に撮れたから印刷してみようかと思ったのに。
「……」
写真一枚、ろくに印刷できていないとは。このプリンターもそろそろ寿命かなあ。
「若菜ー? そろそろ出ないと遅刻するわよー」
台所からお母さんの間延びした声が聞こえて、はっと息をのむ。
時計の針は、すでに7時45分を指していて。
「いま出る!」
ギリギリ。いや、この時間はちょっとやばいかも。
わたしは足元に置いていたスクールバッグを肩にかけると、印刷に失敗した写真をポイッと手放した。
悪いことだと自覚はしているが、今はそれどころじゃない。
バタバタと響く足音に、写真はするりとテレビ台の下に滑り込んだ。
誰にも見つかることのないまま薄っすらと埃をかぶっていたと知るのは、もう少しあとの話だ――。
◇
下駄箱から階段へ、そして廊下へと足早に移動して教室に体を滑り込ませると、そこにはまだ教師の姿は見られなかった。
乱れた息のままホッと息を吐いて、安心したのも束の間。
「……ん?」
席の配置が変わってる。
ここも、そこも、あそこも、こっちも。
そうやって教室内をある程度見回した後、そこでわたしは「あー……」と深く肩を落とした。
「(昨日のHRで席替えしたんだった……)」
窓際のカーテン横、後ろから2番目の席がわたしの指定席。……だったのに。
そこにはすでに、くるくる巻かれたキャラメル色のエクステを指に巻きつけて、けたましく笑う女生徒が腰掛けている。
その席を未練がましく視界からフェイドアウトさせて、新しい自分の席へと重たい足を運んだ。
自分を注視する居心地の悪い複数の視線は、手のひらを握りしめながら知らないふり。
窓際から2列、前から3列目。なんとも言えない見事に微妙な座席位置だ。
鞄を机の上に置いてふと後ろに身体を捻ると、そこにはいつもの色気づいた彼――ではなくて。
「あっ、岡元さんオハヨー」
「オハヨ」
眼鏡をかけたマッシュルームボブの小柄な女の子。
軽く笑顔で挨拶して前に向き直り安堵する。肺に溜まった空気をふぅ、と吐き出した。
すると。
「溜め息?」
いきなり耳元で聞こえた吐息まじりの声にわたしは反射的に声も上げず、大袈裟な動作で振り返る。
クスクスと彼特有の忍び笑いが耳に届く。
驚きは次第に苛立ちへと変わり、そのまま視線だけをあげる。
「おはよっ」
そこにいたのは、紛れもなく高倉くん。
相も変わらず大きめのカーディガンで手の甲を覆い、ミルクティーブラウンの髪は造作に乱され、ゆるくパーマをかけられている。
あ、でも今日はカーディガンの色がホワイトじゃない。彼にしては珍しいネイビーが見えた。
「な、なに……っ」
「からかってみた」
「はあ!?」
悪びれもせずそう言いのける高倉くん。
わざわざご丁寧にわたしと目線を合わせようと腰を屈めていたらしく、よいしょだなんて言いながら空席だった左隣りに腰掛けた。
わたしはまだばくばくと不自然な速まりを見せる心臓と、生々しい感覚が残る耳の処理に困っていた。
というか、なんで高倉くんがそこに座ってるの。
だって、昨日の時点ではそこに彼の名前はなかったのに。
ジ、とその席を見つめていた。
すると、その様子に気付いたらしい彼。
ゆるり、と。綺麗に口元に笑みを浮かべて今度は上半身を曲げてわたしを覗きこむ。
「今日からここが、俺の席」
「っ、」
「また仲良くしようね」
いつも笑って見える口元は、元々口角が上がった得な形をしているのかもしれない。
ニヒルな笑みに、
と。
「はい、静かにしてー」
がらりと遠くでドアの開く音がしたかと思えば、それに続き新任の若い男性英語教諭の声が室内に響いた。
その姿を確認すると、高倉くんも他の生徒も
わたしは教科書を引っ張り出し、ノートを自分の方へ手繰り寄せると空白のページを開いた。
「じゃあ宿題の答え合わせから。あてられた人は黒板に答えを書きに来るように」
ランダムに数人の生徒をあてると、先生は教壇を降りて腕を組んだ。
「(……変だ)」
最近の高倉くんは何かがあきらかに変なのだ。
この席だってそう。きっと、わたしが帰ったあとに元の席の主に交換してもらったに違いない。
でも、そこまでしてわたしに執着する理由が、さっぱりわからない。
酷い自惚れだと言われればそうなのだけれど……そこまで考えてしまうほど、そろそろ本気でやばい状況に来ていて。
そろり、首を捻じって目だけで後方を確認すると、やはり不満そうな複数の瞳がこちらを睨みつけていた。
想像以上の迫力に小さく声をあげそうになるのを必死で抑え、急いで前に向き直ると小さく背中を縮こませる。
恐らく、先日の廊下での茶番を目撃していた女生徒のひとりがゴシップとしてふれまわったのだろう。
高倉くんが一部の女子から絶大な支持を得ていて、なおかつわたしが女子から避けられるタイプであることも災いし、多数の怒りを買う的となったわけだ。
両手で数えられるほどの人数とはいえ、これほど他人から睨まれたのは人生で初めて。
あの時の茶番もこの席替えのことも、一種の嫌がらせだったのだろうか。わたしは彼に何かしてしまったのか。
「……」
記憶を遡っても、一向に答えは見つからないけれど。
「高倉、教科書の例文を読んでみて」
ハッと伏せていた目を持ち上げると、いつの間にか答え合わせは終わっていたらしく、黒板には前回の授業の続きが記されていて。
名前を呼ばれた彼はと言えば。
「The bait is eaten……」
発音は特別上手いわけではないが、スラスラと言われた文を読んでいく。
ノートを開き、シャープペンを回しながら教科書に視線を滑らせるその横顔は、悔しいけれどやっぱりちょっとだけ、綺麗だと思った。
◇
下校時間はとうに過ぎ、人影もまばらになった校内。
窓から射す柔らかな西日を受けてわたしは今、図書室の窓際にあたる書棚のところにいた。
前から気になっていた恋愛小説を読み始めて、かれこれ1時間ほど経つだろうか。
これがなかなかに面白くって、帰るタイミングを見失っちゃってる。
今日はバイトもないし、予定もない。
帰りの経路には本屋があるけれど、あそこはじっくり立ち読みなんてできないし。
と、いうことで学校の図書室を選んだわけだけど。
ぱらり、ぱらりとページを捲る乾いた音は、赤く染まった室内の静けさを強調させる。
それ以外の音は遠くにしか聞こえない。
「あれ、岡元ちゃん?」
明るい声が鼓膜を通った。
視線を手元に落としたまま、けれどもすぐに声の主を特定出来た。
わたしをちゃん付けで呼ぶのはひとりだけ。
「なにしてんのー?」
呼ばれた名前に顔を上げれば案の定、図書室の入り口にはミルクティーブラウンの髪を無造作に漂わせる彼がいて。
無邪気に笑みを浮かべて壁に寄りかかり、不思議そうに首を傾げていた。
「ちょっと、読みたいものがあって」
わたしはその顔から目を離さずに、ぱたりと手中の本を閉じた。
「ふぅん」
「高倉くんはどうしてここに?」
「んー? 俺ー?」
本を元あった場所へと返し、その背表紙を指先でなぞってから身体を高倉くんの方へと向けた。
「俺はねー、」
間延びした声をゆるりと響かせて、彼は相変わらず微笑んでいる。
「岡元ちゃんに会いに来た」
薄気味悪いくらいに。
「……高倉くん、部活ないの?」
来る時に体育館の横を通ったときは中からボールが床とぶつかる心地よい音が鳴り響いていたのに、バスケ部である彼はここにいる。
おどけたように肩を竦めると、にやりと笑ってわたしを見た。
「今日は自主的におやすみ」
「それサボりじゃん」
「やだなぁ、部活より岡元ちゃん優先。当たり前でしょ」
その言い方に思わず眉根が寄ったことで、高倉くんの笑みは深まる。わたしがここにいること、わかってたんだ。
それが余計に不快感をあおって。自然と眉が寄りしわが濃くなった。
彼がこちらに近付いてくる気配にあえて顔を上げることはしない。そっぽを向いてじっと床の木目を見つめ続けた。
けれど、わたしの視界に笑顔の高倉くんが入り込んできて、眉間を、指先で押された。
「可愛い顔が台無しだ、」
「触らないでもらっていいかな」
「……」
高倉くんが、少し固まった。
でも、彼はすぐににっこりと微笑む。
鬱陶しいと言う代わりに手でそれを払えば、高倉くんはおどけたように両手を上げて見せた。
「この間の返事、考えてくれた?」
「……返事?」
話の内容がイマイチ掴めず聞き返すと、高倉くんはわざとらしくさも悲しそうに眉を下げる。
「俺と付き合って、って言ったじゃない」
高倉くんはわたしの顔をのぞき込むように見つめ上げてきて、その瞳に映る自分の顔があまりにもぶすっと歪んでいたので慌てて視線を逸らした。
「本気じゃないでしょ」
「本気だよ」
「……もう、からかわないでよ」
ふらり、視線を上げてその場から離れようとすれば。
高倉くんは打って変わって真面目な顔をして片手を棚に叩きつけた。
不意打ちのことに、少々驚く。
へらりとした笑みが浮かんでいない顔は、とても大人びてみえた。
「真剣に言ってるんだけど」
絡めとるように掴まれた腕。焦って腕を振りほどこうとするものの、それは無駄な抵抗で、わたしはより強い力で拘束され、ぐいっと引き寄せられた。
「っ、」
精一杯の非難をこめて睨みあげたわたしの視界に、あの濁った色を孕んだ瞳が映る。
「この意味、わかるよね?」
高倉くんがその端正な顔をゆっくりと近づけてくるのを、わたしは他人事のように見ていた。
「たかくら、くん」
音にならない声を吐き出し、小さく寄った眉はそのまま、身構えるように力がこもった。それと同時に、奇妙な感覚にも囚われる。
伏せられた色素の薄い瞳に、小刻みに震える睫毛。
微かに乱れる熱い呼吸。
それらを見ていると、なぜだか、ひどく泣きたくなったのだ。
だって、高倉くん――
「どうして……悲しい顔してるの?」
掠れた声は、情けないくらいみっともない。
そんなわたしの声に、高倉くんはぴたりと動きを停めて、それから今度は一転して弱々しい声音で。
「……は?」
持ち上がる口元に優しさは見えない。
その瞳の奥にある真意を見抜くことは、わたしには無理だ。
混乱、混沌、困惑、それらが混ざり合ってわたしと高倉くんの空気を凍らせた。
「いつもそんな顔して女の子と接してるの?」
「だからなに言って、」
「だって高倉くん」
――すごく苦しそうだよ。
そう付け足すと彼の、無理に引っ張る腕の力が急に緩んだ。
「岡元ちゃんって、面白いこと言うね」
窓の外から微かに聞こえていた運動部の掛け声がぼんやり遠のいた。
細められた瞳は、わたしを無感情に映す。
高倉くんはその端正な顔を歪めると、鼻でため息をつき、
「ガッカリだよ」
と、吐き捨てるように言った。
どういう意味か、問いかけようと口を開けば。彼は長い人差し指をわたしの口唇へ押し当てた。
ひんやり、その温度にがらにもなく緊張して背筋が伸びる。
「バイバイ、岡元ちゃん」
ひらり、わたしから身を離した高倉くんは背中を向けて歩き出す。
その口元はそれはそれは愉しそうに弧を描いていた。
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