16溢れんばかりの、
久しぶりに袖を通した制服は、見慣れ着慣れているにも関わらず、わたしの心を明るくさせた。
夏休みが終わった今日、新学期。
学校に行かなければ会えない仲の良い友達がいるわけでも、何か特別なことがあるわけでもないのに心がわくわくとするのは、昨日の祭りが原因だろう。
花火大会も終わりひと気のなくなった本堂で、ひっそりとお参りをしたあと。
送ってくれなくていいと言ったのに、サトルは危ないからと付き添ってくれた。
一歩踏み出すたびに、踵を踏み潰したスニーカーの音と、ビニールサンダル。
ゆっくりと深く隆起する心臓の音が、繋がれた指先から伝わってしまうんじゃないかとひやひやした。
家には、帰りが遅すぎるとガミガミ言う母が玄関に腕組みをしながら待っていたけれど気にしない。
それを適当にあしらって自分の部屋に駆け上がったわたしは、背中でドアを閉めたとたんにずるずるとうずくまった。
小さく身体を折りたたみ、手のひらで耳をふさぐ。
そうやって、このふわりとした幸せが外に漏れ出さないように、胸の中だけに閉じ込めようとしていた。
教室を目指し廊下を歩いている今でも、残り火のごとく、じんじんとした感触がまだ指先にくすぶっている。
早く消えてほしいようで、永遠に消えないでほしい。そんな不思議な感触だ。
余韻に浸り、浮かれ、甘やかなときめきに身を包むわたし。
が、それをぶち壊す背後に近づくあやしい気配。
「おっかもっとちゃーん」
「……え? ゔぐっ、」
呼び止められた声に振り向く前に、背中に突如圧し掛かってきた重圧に、かろうじて足を踏ん張る。
体勢を崩しかけたわたしの耳をくすぐる、笑い声に溜め息。それから振り返らずに小さくその犯人を窘めた。
「……やめて、高倉くん」
オフホワイトのどう見てもサイズが大きすぎるカーディガンを羽織る高倉くんは、それに従うどころかわたしの首に腕を巻きつけてきた。
SHR前の廊下にはいかにも進学する気のなさそうな生徒がそこかしこにたむろし、そばを通る他の生徒たちを眺めているわけで。
無遠慮にジロジロと観察してくる人もいれば、まるで見ていない風を装ってチラ見してくる人まで、タイプは色々。
その見られている気配に、わたしの苛立ちは募るばかり。
「つれないなぁ。可愛い顔して相変わらずクールだね」
「わたし怒ってるの。ふざけてないで早くどいてよ」
「うーん。実は俺、いま恋人募集中なの。だからさ、仲良くしようよー」
仲良く、って……。高倉くんが言うとアヤシイ響きに聞こえるのはわたしだけじゃないはず。
呆れて再度ため息が漏れ、ゆっくりと振り返った。
「……先生のことたらしこんでたくせに」
「あはっ、何のことだかさっぱり」
「……」
ニヤリと、綺麗に口元に笑みを浮かべた高倉くんは、やっとわたしの首に巻きつけていた腕を解き、わたしと並ぶようにして隣に立つ。
乱れた裾を直し、げんなりした目で見れば、さらに笑みを深める高倉くん。
どんなに時間をかけたとしても、この笑みはどうしても好きになれない気がする。
不毛なやりとりに見切りをつけ、鞄を肩に掛け直し歩きだしたわたしをワンテンポ遅れて慌てて追ってくるホワイトが視界の端にうつったが、特別待つこともせず。
なのに。
「待って待ってー」
「……なんでついてくるの」
モデル並みに長い脚を使い、あっという間に追い抜く。
そうしてわたしの顔を覗き込みながら歩く高倉くんは、にやにやと含みのある笑みを浮かべている。
見たところ手ぶらの彼に自然と眉根が寄った。
わたしをからかうためにわざわざ教室から出てきたらしい。ムカつく。
しかし実際、煽られればつい反応してしまうところはわたし自身、もっと大人にならなきゃな、と思う部分だった。
「(無視しなければ、無視無視)」
前だけを見つめてその視線を気にしないようにするのだけれど、それが思いのほか難しい。
「センセーとは本当になんにもないよ? 俺」
「はいはい、嘘つかないで」
「ははっ、ひどいなぁ。でも、そういうところキライじゃないよ」
「あのねぇ……」
ああ、本当に厄介だ。新学期そうそう面倒な人に絡まれた。
歩調を早めてもふたりの距離が離れることはなく。
「岡元ちゃん、俺と付き合おうよ」
「本気が感じられないのでゴメンナサイ」
「えー、でもさぁ……付き合ってる人、いないよねぇ?」
「っ、」
その、何かを探るような不快なロートーンの声に、不覚にも教室のドアに手をかけようと上げた腕が止まる。
が、しかしこれ以上突っかかりたくない思いの方が強く、何事もなかったかのように再び腕を動かした。
ドアの冷たい凹みに指先が触れた時。高倉くんが、わたしの手首を掴んだ。
「ストップ」
ハッと見上げた先にはわたしの苦手な色を孕んだ色素の薄い瞳。
「付き合ってる人、本当にいないんだね?」
念を押すようなそれに、くっと喉の奥が詰まる。
押さえきれない居心地の悪さを、それでも表に出さないように、と。そっと息を飲み込んだ。
すると、黙りこくるわたしのそれを肯定と受け取ったのか。
彼は感情の読めない表情をふっと崩すと、するりと腕を離した。
「中に入ろ。もう少しでチャイム鳴るし、ね?」
そう言った彼の表情は何事も無かったかのようにいつも通りで。ガラガラとドアをスライドさせる。
整った顔には再びへらっとした笑みが収まっていた。
◇
見上げる空は目が痛くなるほど青く、風は気まぐれに向きを変える。この風は、きっとこの夏を一緒に連れ去って行くのだろう。
まだ歴の上でしかない秋は、着実に深まりつつあった。
高校の始業式から、1週間。
わたしは今、サトルとの待ち合わせ場所に向かっているところだ。
さすが大学。高校とは比べ物にならないくらい長いサトルの夏休みも手伝って、この数日の間にわたしたちは急速に距離を縮めていたのだ。
学校が始まり、会える時間は限られている。だからわたしたちは授業が終わる時間に合わせて会う約束をしていた。
そこはわたしの家からもほど近い、あの春の夜にふたりが出会った思い出の海岸沿いだ。
わたしは待ち合わせ場所に人影を探した。
歩道と海をへだてる防波堤。その奥のテトラポッドをまたいで座る人の姿を見つけた。日に焼けた茶色い髪。
サトルだ。
「おーい、若菜ー!」
あっちもわたしに気付いたらしく、手をメガホン代わりにして呼びかけると大きく手を振った。
そうしていっそう日に焼けたサトルは歩道におりると両手を広げ、胸元に飛び込んでくることを要求してくる。
好きな映画のワンシーンに『久しぶりに再会した妹を胸で抱きとめる兄』という絵があって、それに影響を受けているらしく。サトルは、いっつもこうなのだ。
「もう、しょうがないなあ」
わたしは自分にしか聞こえない声で呟き、一度立ち止まると、助走をつけて彼の胸めがけて飛び込んだ。
まぶしそうな瞳。その首根っこにしがみつき、見下げる彼に笑いかける。
「お。若菜は今日も元気そうだなー」
「うん!」
完全に妹扱いされているのは少し気に入らないけど。でも、わしわしと頭を撫でられると胸いっぱいになる。と同時に、砂時計をひっくり返したような焦燥感を覚える。もっと楽しまなきゃ、シンデレラのように、時間が切れる前に――と。
わたしたちは砂浜へとおり、隅っこの岩場を目指した。これもお決まりの場所。
なにせ人目につかず無料で過ごせる日影が他になくて。わたしたちは毎回ここで涼みながらお喋りをしたり、ふざけあったりして過ごすのが日常化しつつあった。
現在時刻は16:08。今日のバイトは17時からだから、あと30分は余裕がある。
わたしは構えた腕を下ろすと再び膝を抱え、上空に飛ぶ一羽のカモメを目で追った。
ふわりと風に揺れる髪を押さえ、鮮やかな青を点々とする雲に視線を流す。
その白さは風に流され、少しずつ形を変えていく。
空の青が海だとしたら、そこに浮かぶ白は魚。それは優雅に空を滑る。
わたしはこの景色をサトルと共有したくなり、振り向いた。
けれど。
「ね、サトルも見――」
サトルはいつの間にか、隣でごろんと寝転がったまま眠っていて。
「(うわ、気付かなかった!)」
すやすやと気持ちよさそうな寝顔を見せるサトルに、マイペースにもほどがあるでしょーと脱力する。
わたしはそっと、その横顔を見つめた。
今まで周りにはいなかったタイプの大人の男。
サトルには、まるでこの空の雲みたいにふわふわしてて実態がつかめないイメージある。
――惚れてる。わたしはサトルに惚れている。もしかしたら、そうなのかもしれない。
けれど、恋と呼ぶには少しあんまりな気もする。
サトルとは、単純に一緒にいたいと思うのだ。
好きとか、好きじゃないとか。そういうことではなく。
ただひとつ引っかかるのは、サトルとの別れ際はいつも、なにか焦りのようなものが胸を横切ること。
なぜそうなるのか、自分でもよくわからないけれど。
「(……今はとにかく、この夏をめいっぱい楽しんで、充実させて、大事に過ごそう)」
夏の終わりを感じて、ちょっぴりセンチメンタルな気分になっていただけなのかも。
わたしは自分にそう言い聞かせて、目の前の景色をじっと眺めた。
雲がどんどん通り過ぎ、眠るサトルの額にも、前髪がそよそよ揺れていた。
「サトル、わたしそろそろバイト行かなきゃ」
しばらくしてもう一度腕時計を見やったわたし。
揺さぶって起こしたサトルは、まだ半分夢の中の住人であるらしい。
いま何時? と寝ぼけ眼をこすっている。
その仕草が可愛くて、わたしは不意打ちでパシャリと写メを撮った。
「あ! ったく……変なとこ撮るなよー」
スマホを取り上げようとする手を素早く回避し、撮ったばかりの画像を確認する。
うん、なかなか。
被写体が整っているからなのか、良い絵が撮れて気分は上々である。
風が吹いて髪が頬にかかるたびに耳に掛け直しながらディスプレイを見つめていた。
すると。
「あのさ、俺ひとつだけ気になることがあるんだけど」
うーんと考え込んでからサトルは言った。
「え? なに?」
「若菜の誕生日っていつなのかな~、って。制服から察するにあのI高校だろ? と、するとリボンの色が青だから……ずばり2年生! な、当たりだろ?」
名探偵にでもなりきっているつもりなのだろうか。サトルは得意気に、つけてもいない眼鏡の縁を上げる振りをして二カッと笑う。
「あはは、何それ。でも、うん。当たりだよ。誕生日は4月10日だからもうとっくに過ぎてるんだけどね。……でも、月の初めなんて、いいことひとつもないんだ。春休み中に歳とって、新学期にはすでにみんなより1つ上になっちゃってるし。そのせいか、なんか……近寄りがたいイメージがあるみたい、でさ」
思わず苦笑いがもれる。
気づいたらいつもちょっぴり損な役回りだった。
子供の頃からちょっと冷めたところもあって、よく大人びて見られていた。
小学生の頃から学校やクラスメイトたちの間で、スカしてるだの偉そうだの噂されることだってあった。
現に今だって、グループ行動をとるときには、必ずひとりあぶれるのだから。
そのせいか、ハメをはずしたり、天然っぽくふるまうのは、自分には許されないことのような気がしていた。
たまには自分だって、誰かに甘えたり、可愛がってもらう立場になってみたいけれど……。
想像すると、『あ……なんか、違うな。そういうキャラじゃないな』って思ってしまう。
「んー……そうだなぁ」
そんなことを考えていると、またサトルの能天気な声が聞こえてきた。
「確かに若菜って変に素直じゃないっていうか。なんて言うか、甘やかしたくような可愛らしさってねーかも」
うんうん、とサトルが頷く。
『可愛らしさ』……か、とわたしは考える。
そうだよね。わたし、可愛げないよね――と、また髪を耳に掛け直したとき、サトルの呟き声が風に流されてきた。
「でも俺、若菜のそういうところ好きだよ」
「え?」
わたしは訝って隣を振り返った。
こんな性格のどこがいいのか。自分だって今まさに可愛らしさがないと言ったばかりじゃないか、と口を尖らせる。
けれど。
「めーっちゃくちゃ強がるくせに、すぐ泣いたりさ。そこ、たまらなく可愛いと俺は思う。若菜らしいな、って。ぶっちゃけ言うと、俺、実はそこにすごく救われてんだよね」
サトルは、こちらを見ない。前を向いたままで、ひとり言みたいに続けている。
その横顔を、わたしは息をするのも忘れて見入っていた。
ポカポカとあたたかい陽射しにひんやりと冷たい強い風が、髪を乱すのも構わずに。
「な、なんだよ。あんまり見るな……!」
怒った声でそう言われるまで、わたしは彼の横顔をじっと見つめ続けていた。
渋面を正面に戻す間際、少しだけ赤らんでいる頬が見えた。
「あ……」
恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。
面と向かって 褒ほめられると、さすがに照れし……柄にもなく感動だってしてしまう。
「ありがとっ」
わたしは、俯いてそう呟くのが精一杯だった。
なんだかいたたまれなくなっていると、横からサトルの手が伸びてきて、手の上に重ねられた。
その大きな手のひらから、体温と一緒に、温かい何かが沁み込んでくるのがわかった。
優しさ、とか。心強さ、とか。
そういう、気持ちが。
それを確かめたくて指先をぎゅっと握り込む。
同じくらいの強さが返ってきた。
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