第6話①「推参」

 夜が更け、闇の濃度が色を増している。


 少し前まで静穏であった街郊外は、今はやや騒がしくなっていた。謎の山火事が起き、森が燃えていたからである。原因は、クローズの魔術によって引き起こされた炎が木々に着火したことによるものだが、一般の人々はそのようなことを知る由もない。人気のない郊外であるが、遠くに住む住人が気づいたのだろう、山の近くには続々と消防車が駆けつけて、鎮火活動に当たっている。突発的な山火事に、駆けつけた消防団も不審に思っていたが、彼らの働きがあって、山火事は徐々に小さい物へと変わっていきつつあった。


 さて、そんな山の森から、少し離れた場所に視点を移す。場所は郊外の工場、つい先程利理が玉鏡によって呼び出された場所である。


 火事が起こっている現場から数キロ離れたその場所で、今、絶叫が響いていた。

野獣の咆哮ように濁っているその声は、しかし辛うじて少女の悲鳴だと判別することが出来た。

 工場の中から響いているその声の出元を除いてみると、工場の入口から暗闇を通り抜けた先、工場奥の壁際に二つの人影があった。


 一つの正体はクローズである。彼は工場の奥で闊歩し、壁際をじっと見つめている。


 その壁際に立つもう一人の正体は利理だ。ただ、彼女は立つというより立たされているというのが実情だ。その立たされ方は、暴力的である。彼女は両腕を上げた状態で掌を杭で打って壁に縫い付けられ、その上で微かに曲がった両足を地面につけられていた。磔のような体勢となり、その両足を生まれたての小鹿のようにガクガクと震わせている。


 そんなきつい体勢を取らされた彼女の様子は、一言でいえば悲惨だ。苦痛で歪んだ顔の内、鼻腔と口の端からは一筋二筋の血が垂れ流れ、顎を伝って床へと雫を落としている。苦しげに両肩を揺らして呼吸し、その度に軽く咳き込んで鼻血と喀血を繰り返していた。

 更に彼女の着ている服は各所が杜撰ずさんに破り取られ、肌がかなりの具合で露出して半裸に近い状態である。少女の素肌と聞けば普通ならば目を見開いて見つめるようなものだが、しかし今は目を覆うばかりの惨状だ。露出した肌は健常なものでなく、服が破れた各所は青紫の痣に覆われている。また腹の辺りは大きな傷口が開かれ、そのどす黒い傷口から血が溢れるように流れていた。

 常人ならば、すでに失血死していてもおかしくない流血量である。


「――っ――っぅ――!」


 磔にされた状態で、利理は全身を震わせたうえで、歯をがちがちと噛み合わせて懸命に痛みをこらえていた。その激痛を物語るように、目からは涙がこぼれ落ち、苦痛の呼吸を繰り返している。

 そんな彼女の目の前では、クローズが掌に息を吹きかけていた。そうすることで、彼の手からはある液体が噴き落される。利理の血だった。彼の手は今、大量の血によって赤く濡れていた。

 そんな動作の後、クローズは利理に目を向ける。


「ふむ。吉見から話は聞いていたが、ここまで強い不死性を有しているとはな」


 いささか感心した様子で、クローズは利理に対して言う。


「まさか、臓器を焼かれてなお息を保つとはな。しかも、焼かれた臓器が凄まじい速度で再生しつつあるとは驚きだ。ここまでの不死性、貴様は【不死の血族】並みの生命力を有しているということになるな」


 思慮するように目を細めると、クローズはコートのポケットに手をやり、そこからハンカチを取り出す。彼は、それで手を拭おうとして目落とす。ハンカチは、既に血でずぶ濡れになっていた。それはすべて、利理の血によるものだ。彼女の血を吸ってずぶ濡れとなったそれを、役に立たないと感じたのか、クローズは床に放り投げた。


 そして、彼は利理へとゆっくり歩み寄る。近づいてきたクローズの姿に、利理はビクンと大きく震える。その顔には一瞬恐怖が浮かぶ。しかし、すぐに彼女は、苦しげながらもどこか毅然とした態度で相手を見据える。

 その目に、クローズは感服した。


「ほう。まだそんな目が出来るのか。存外、意思も強いようだな」


 そう言って笑うと、クローズは手を振り上げ、それを思い切り利理の腹に叩きつけた。まだ塞がっていない傷を思いきり抉る拳打に、利理は身体をくの字曲げて悶絶する。

 そんな利理の様を見て、クローズは何度も拳を振り上げて腹の傷を叩く。その度に、利理は身体を折り曲げて苦悶し、口腔や傷から血を吐きだした。


「や――やめ……っ」

「ん? なんだ、聞こえないぞ?」


 利理の制止に、クローズは手を止めて、嗤い顔を浮かべる。聞こえないふりをしたのは当然わざとである。彼は残酷にも、利理の苦しむ反応を見て楽しんでいるのだ。

 惚ける相手に、利理は言葉を続けようとするが、喀血する。そして、苦痛のあまりに嗚咽を漏らす。その様を見て、クローズは愉快そうに肩を震わせた。


「まさか、もう降参か? まだ一時間しか過ぎておらんぞ? 【魔法学団】の魔術師が、この程度の拷問に耐えられんとは興ざめだな」


 失望したように言いながら、しかし愉しげにクローズは笑みを浮かべる。言葉とは裏腹に利理の様子を見て愉しんでいるのは明らかだ。

 既に、利理がクローズによってここへ連れ込まれ、彼から責苦・拷問を受けるようになってから一時間以上が経過している。クローズの拷問は、全身を殴る蹴るなどといった暴行を始めに、彼の魔術である炎との同化を用い、全身を炙るなどといったものから、腹を開いてその中に手を突っ込み、臓器を魔術で焼き払うなどといった非常に凄惨なものまで、多岐に渡って行われていた。

 普通の人間であれば、まず死んでいるといったレベルの拷問である。臓器を焼くなどといったものがそれであり、常人ならばその時点で致命傷、死んでいてもおかしくない。


 ただ、簡単に死ねればまだ楽だっただろう。利理の不幸は、彼女自身が驚異的な生命力・再生能力というものを有していることだった。臓器を焼かれてなお、彼女はまだ生きている。おまけにその臓器は、本来なら元には戻らないが、彼女の場合は再生してしまう。そのため、クローズに何度も焼かれ、その激痛を何度も味わう羽目になっていた。

 何度も何度も、同じ拷問が繰り返されている。焼かれては再生し、また焼かれるの繰り返しに、彼女の精神は徐々に絶望へと追い込まれつつあった。


「どう……して……」


 血で言葉を濁らせながら、利理はクローズを見て口を開く。


「どう、じて……こんな……ことを?」

「どうして? ははっ。まさか、今更私が貴様を拷問する理由が気になったのか?」


 利理の疑問に、クローズは嗤う。本来拷問とは、大抵の場合何らかの情報を引き出すために、犯罪者などに対して行われるものだ。あるいは、何らかの報復――自分や仲間が苦しめられた腹いせとして、その恨みを晴らすために行なわれる者が大多数だろう。

 どちらにせよ、行われるにはある程度の理由が存在するはずである。しかし、クローズはそれに対して首を振る。


「理由などないさ。私はただ、貴様の悶え苦しむ顔がみたいだけだ」


 ニヤリと、クローズは凶悪な笑みを浮かべて言う。


「逃げ出した少年、確か名はハジメというのだったな。彼が来るまでの暇つぶしというのも確かにあるがな。そもそも、彼がここに来る可能性は限りなく低い。私が彼なら、貴様など捨ててとうに逃げ出すだろう。敵わない相手に、人質を取られたからといってやってくるなど甘すぎる。それでも、もしかしたらと思って彼の帰還を待っているわけだが……」


 そう言うと、クローズは利理の腹にめり込ませた拳を捻じる。傷を抉られ、苦痛で喘ぐ利理に、クローズは嗤ったまま続ける。


「その間の愉しみだよ。君は、何度壊しても勝手に治る便利な玩具だ。そんな玩具を、ただ捕らえているだけでは面白くあるまい。徹底的に遊ばなければ」

「ぐ……狂ってる……」


 クローズの言葉に、利理は恐怖と抵抗心から声を返す。その声に、クローズは眉根を持ち上げる。


「狂っている? なんのことかな? 私はただ普通に君を弄んでいるだけだよ。誰だって一度は、蟻を潰したり、その巣の中に水を垂れ流して愉しんだりするものだろう? それと同じだ」


 自分の感性についてクローズはそう証言する。そこには狂気が孕まれていた。

 大抵の人格破綻者というのは、自分が狂っているということに気づかないものだ。それは、クローズとて例外ではない。

 またこの拷問にも理由などない。彼はただ利理が壊れていく様を見て愉しんでいるだけなのだ。

 そのことは、利理も内心気づいている。ゆえに彼女の心は、恐怖が全体を占拠しつつあった。今はそれを必死に耐えている状況で、彼女は頑なにクローズに抵抗している。

 だが、耐えた先に果たして何があるというのだろうか。助けが来るかも分からない中、ただこの苦痛を耐え忍べというのは酷なことで、不可能に近いと断じても過言ではない。

 おそらく拷問は、利理が死に絶えるまで飽きることなく続けられるだろう。そんな予想が頭をよぎり、彼女は弱気になりかける。


「さて、では拷問の続きといこうか。少し実験も開始するとしようかな。一体どこまで臓器が焼かれても、君は意識を保っていられるかをな」

「……い、厭っ!」


 手を持ち上げるクローズに、利理は身をよじらせてそれを躱そうとする。その反応を見て、クローズは嗤う。


「も、もう……やめて……。許して……」

「――ははっ! 遂に許しを請い始めたか。いいぞ、いいぞ!」


 利理の反応に、クローズは高笑いをする。これまで毅然としていた利理が、遂に弱気を見せてきたのが、彼にとっては痛快であったからだ。

 そんな彼女を、クローズは嗤った後に目を据えて、笑みで目を細めながら宣告する。


「だが駄目だ。例え許しを請うたところで、貴様への責苦は緩めない。むしろ、もっと過激にいきたくなってきた」

「っう!」


 相手の言葉に、利理は息を呑む。思わず口にしてしまった許しの声が、かえってこの男の嗜虐心を刺激してしまったようである。その失態に、彼女は下唇を噛む。


「さぁ、苦しめ、嘆け! もっと私を愉しませてみろ!」


 そう言って、クローズは手を振り上げる。おそらく腹の奥へ突き刺す気であろうその手に、利理は目を瞑った。そうすることで、次の瞬間の衝撃に備えようとしたのだ。

 彼女が目を閉じ、クローズが興奮した様子で拷問を再開しようとしたその時――工場の入口からクローズたちめがけて駆けてくる影があった。


 黒い疾風の存在に、クローズが敏く気づいて後ろへ振り返る。その瞬間、紅色の刃が彼を襲った。袈裟を斬るように振り下ろされる刃は、クローズの左肩を切り裂き、そのまま胸へとひた走る。そして彼の心臓を抉るところまで到達しようとした。

 それに対してクローズは、咄嗟に炎と同化しながら身を捩り、心臓に刃が到達するのを阻止、左腕一本を犠牲にして横へと転がる。吹き飛んだ腕が火の粉となって散じる中、彼を強襲した影は、横転するクローズに追いすがった。逃れるクローズに再度斬りかかり、彼に体勢を整えさせる猶予を与えない。走る紅刃に、クローズが転がり続ける中、刃は切り下げ、切り上げを繰り返し、断続的にクローズを追いかける。

 そんな中、クローズはやがて横の壁際まで追い詰められる。それに気づいた彼は、横転を続けたまま自らの身を爆発させ、炎を放射する。爆炎が上がり、追いすがる影を巻き込もうとしたクローズであるが、その爆発に直前で気づいた影は、追撃を止めて大きく後方へ飛び退いた。

 連続して飛び退いた影は、やがて利理が磔にされた場所まで後退する。その気配に気づき、利理は顔を上げた。


(……あ)


 目線を上げた先で、利理は影のその横顔を視認する。その視線に、相手はこちらを振り向いて歩み寄ってくる。


(なんで……)


 彼は手を伸ばすと、利理の両手を縫いつけている杭を掴み取る。そしてそれを勢いよく引き抜き、利理を壁から解放した。


(……ここにいるの?)


 足元から崩れ落ちる利理を青年は抱きかかえ、炎上する一帯に向き直りながら後ろへ跳ぶ。クローズと距離を置き、彼を警戒するような動きだ。数十メートルの距離を置くところまで退くと、青年は利理をすぐ背後にある壁際へと下ろした。


「無事か? それ以前に、喋れるか?」


 青年が、炎上する一帯を警戒しながら訊ねてくる。それに対し、利理は顔を上げ、やがて頷いた。


「そうか。しばらく安静にしていろ。その様子だと、まだ満足には動けないだろうから――」

「なんで……ここに、いるの?」


 相手の声を遮るにしては少し弱々しい声で、利理は青年に訊ねる。その言葉に対し、青年は硬直する。


「どうして、ここに来たの?」

「……助けに来た。一度逃げ出しておいて、よくものこのこ帰って来られるもんだと思われるだろうが、お前をあのままにしてはおけなかったから」


 そう言うと、青年――ハジメは利理の頬に手を当てる。冷たいその手に、利理は軽く目を見開いた。


「すまなかった。一度見捨てて、本当に……」


 ハジメは、そう言って申し訳なさそうに頭を下げる。それを見て、利理はくしゃりと顔を歪めた。


「そんなこと、どうだっていい……」


 歪めた顔のまま、利理はハジメの胸に寄りかかる。全身を脱力して、身を委ねてくる彼女に、ハジメは驚いた様子で目を瞬かせる。そんな彼へ、利理は言う。


「怖かった……」

「え?」

「殺されそうになって、でも殺してもらえなくて……ずっとお腹の中ぐちゃぐちゃにされて……それで……」


 言い淀んだ後、利理はその瞳から多量の涙をこぼし始める。いきなり、堰を切ったように泣き始める彼女に、ハジメは困惑した様子で固まっていた。

 だが、すぐに彼は理解する。彼女の格好から察するに、おそらく利理はクローズによって相当の拷問を受けていたことだろう。それこそ、きっと心が折れそうになるほど凄惨な責めであったに違いあるまい。


 利理のことだから、きっとそれに対して長く毅然とした態度で振舞っていたはずだ。しかし、助けが来るか分からない状況で責苦に耐えるというのには、相当強い精神力が必要だ。彼女はそれを擦り減らしながら、それでも必死に耐え忍んだはずである。救いなき状況で、それでも敵に弱みを見せない一心で、だ。

 そんな絶望的な状況で耐え続けていた最中に、ハジメによって救いの手が差し伸べられたのだ。その結果、彼女はそれまで必死に張りつめていた緊張が解け、溜めこんでいた恐怖というものが溢れ出てきたということである。

 涙が止まらぬほど辛かったのであろう、そんな彼女に対し、ハジメはその頭へそっと手を当てて撫でる。


「悪かった。すぐに助けに来られなくて」


 一度逃げ出してしまったこと、助けが遅くなったことの罪悪感を噛みしめながら、ハジメは口を開く。


「お前を助けるために引き返した後、消防車とかが来ていてな。どこに去ったのか捜すのに手間どってしまったんだ。今となっては言い訳にしかならないけど、おかげでお前たちがどこにいるのか把握するのに時間がかかった」


 助けに来るまでの道中のことについて、ハジメは語る。彼は利理が攫われた現場近くへ言った後、消防隊たちに見つからないように慎重を期し、現場から去った利理たちの痕跡を探した。その結果、その分ここまで辿りつくのに時間を要してしまったのだ。そしてそれだけ、利理に苦しい思いをさせてしまった。


「おかげで、こんなにお前を苦しめてしまった。この謝罪は、いずれ必ず――」


 返す、と言いかけたハジメだが、その時彼は顔を上げた。彼が視線を上げたのは、燃えあがる炎の方角だ。その視線の先では、ゆったりの火の陰から立ち上がる人影が視認できた。


「悪い。どうやら長話は出来ないようだ」


 まだ泣いている利理を壁際まで押し返し、半身向けたままハジメは立ち上がる。彼が視界に捉えた人影に、利理もすぐ気が付く。彼女はその陰に瞠目した後、未だ残る恐怖からか身を震わせる。

 そんな彼女を傍目に、ハジメは一歩踏み出す。


「行ってくる。お前は傷が治るまで安静にしていろ。もし俺が危うくなったら、その時は――」

「待って。まさか……戦う気なの?」


 驚きから、利理はハジメを見上げる。その瞳の奥には、畏れも籠っていた。


「無茶よ。アイツの強さを、知っているでしょう? 戦ったところで――」

「かといって、その状態のお前を連れて逃げるのも無理だ。やるしかない」


 利理の言葉に、目を細めながらハジメは答える。今の利理は傷だらけで一人で歩くことさえ難しい。かといって、彼女を抱えてこの場から逃げるのは限りなく困難だ。

 そのため、選択肢としてはクローズと戦う事しか残っていない。

 不安げな利理に、ハジメは横顔で微かながら笑みを浮かべた。初めて見せる彼の笑みに、利理は驚きによって目を丸める。


「安心しろ。負けないさ。今度ばかりは、俺も禁じ手を解いて本気で行くからな」

「禁じ手?」


 不審がる利理にハジメは頷くと、今度こそクローズに向けて歩き出した。

 前へ進みだす彼に、向こう側も燃え盛る炎を背後にして動き出す。片腕亡くなったインバネスコートをはためかせ、彼もこちらへ向かってきた。

 そのコートの切れ目からは、先ほど斬られたはずの腕が生えて来ていた。おそらく再生したのだろう、その光景に、ハジメは驚きもせずに冷静に判断する。


「いきなりとは、やってくれたなぁッ!」


 炎の中から抜けるなり、クローズは怒りの声を放つ。ハジメによる急襲がよほど腹に据えかねた様子で、彼は工場内の空気全体を震わせる。

 そんな相手に対し、ハジメは鼻を鳴らす。


「何を馬鹿な事を。俺を誰だと……あぁそうか、お前は俺の正体を具体的には知らなかったな」


 何やら言いかけて、そこでハジメは初めて気が付いた様子で平坦な笑みを浮かべる。そこには相手に対する冷ややかな嘲弄が含まれていた。


「俺は暗殺組織の人間だからな。基本的に、本気で狙った標的に真正面からはぶつからない。背後を取り、気配を隠して近寄って仕留める――それが常識だ。気配を消して迫るのが臆病だとか、背後から奇襲するのが卑怯だとか、そんなこと言われても無駄だ。そういう商売なんでな」

「貴様……っ!」


 激昂する相手に、ハジメはその怒りの気配を悠々と泰然に見物する。その顔に、畏れや焦りはない。

 もっとも、今回の場合は彼も少し失敗を犯していた。出来る事ならば、先ほどの奇襲の内にクローズを仕留めたかったのだ。気づかぬうちに相手を仕留め、余計な真正面からの戦いは避ける――それが出来ていれば、完璧であっただろう。


 しかし今回の場合は、クローズとの間合いに距離がありすぎた。工場の入口から彼の許まで一気に疾走したのだが、その距離が数十メートルと長かったために、その分クローズに反応出来る余地を、僅かながら与えてしまったのだ。結果、彼を仕留めきれず、こうして正面からの対峙を余儀なくさせていた。


 ただ、それも今となっては仕方がないことだ。人質である利理は、クローズの責め苦に対して限界であったし、クローズが外敵に対しての警戒を怠って完全な隙を見せたのはあの時だけだった。飛びだすタイミングはそこしかなく、失敗に終わってはいたが、彼の心胆を震え上がらす結果にはなっていた。

 奇襲に対し怒っていたクローズであるが、彼はやがてその怒りの心中の中で余裕を見つけたのか、その口角を持ち上げる。


「だが、つまり貴様は私を今の不意打ちによって仕留めたかったわけだな。真正面から戦えば、私に敗れるのは目に見えているからだ」

「は? どうしてそうなるんだ。訳が分からないな」


 一部適確であるクローズの論理に対し、しかしハジメは全否定の反応を示す。


「今言った通り、背後から襲うのは俺の元からの基本方針だ。今回仕留めなかったのは、お前に少し挨拶しておきたかったからだ」

「挨拶?」


 クローズの問いかけに対して、ハジメは頷く。そして剣を持ち上げ、その切っ先をクローズの顔めがけて照準した。


「お前を仕留めるのはこれから行なうとして……どうだ、今の気分は? 二度も俺を倒す好機を逸した上に、わざわざ俺に手を抜かれて、こうして真正面から対峙する機会を与えられた感想は?」

「……っう!」


 ハジメの放った言葉に、クローズは意味を解して頬を赤める。つまり、ハジメが今クローズを仕留めなかったのはわざとであるということだ。ハジメは自分の手の内を明かした上で、あえて真正面からクローズを斃すと宣言しているということなのだ。

 完全に上から見下した態度に、クローズは全身を震わせる。


「わざと生かしてやったんだよ。お前には、利理が受けた分の苦痛を与えなければならないからな」

「……随分と、舐めた口を利いてくれるではないか……!」


 ハジメに煽られ、クローズは怒りに震える。その怒気は凄まじく、工場内の空気が震えあがっている。その憤怒の気配に、ハジメも内心冷や汗をかく。が、それは一切面に出さぬまま、彼はクローズを凝視した。

 そのまま怒っていてくれれば、ハジメとしては都合がいい。冷静な思考を取り戻さないままでいてくれれば、その隙をついて戦うことが可能だからだ。

 そんなハジメの思惑であったが、しかしそれは外れる。クローズは怒りながらも、落ち着いた様子で突っ込んでは来ず、慎重に間合いを測っていた。

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