第5話④「挑戦へ」
少し考えてハジメは思う。従おう、と。いつも通り、組織の命令に従えば、今回の件はそれで終着、片がつくことだ。
「あぁ。分か――」
ハジメは、言葉を返しかけた。
だが、その途中で彼の言葉が止まる。
口を開いたその瞬間に、彼の脳裏に走る映像があった。
それは、隠れ家で自分を治療してくれた時の、利理の姿だ。
彼女は、笑っていた。
自分を看病しながら、また食事をしながら、とても明るく快活に。
その笑顔が、今のハジメにはどうしても忘れられない。脳裏を離れない。何故だか心が痛むほど、はっきりとその時の光景を思い出された。
ハジメは、思わず胸の辺りの服を掴む。電話を持つ手とは逆手で、彼はぎゅっとそれを握りしめた。その様子に、離れた位置にいる呂馬が不審げに目を限界まで細めるが、気にかけない。
ハジメはそこで、ようやく悟った。ようやく、気が付いた。
どうして自分が、こんなにも揺れているのかを。いつもなら即答で承諾する組織の命令に、こうも迷いを感じているのかについて。
自分は、本当はどうしたいと思っているのかについて、ようやく彼自身は悟った。
『どうした?』
言葉を途中で止めたハジメに、千里が不審そうに訊ねてくる。いつも通りの二つ返事でないことに、彼も疑問を抱いたようだった。
「……千里。悪い。その命令には、従えない」
低く小さな声で、ハジメは千里へ応答する。それに対して、生まれたのは数秒間の沈黙だ。電話相手がハジメの言葉を理解するのに、それだけの時間を要した。それだけ、その返事は予想外のものだったのである。
『なんだと? どういうことだ?』
「会長たち組織の、【九頭竜会】の命令にすぐには従えない。俺には、その前にやることがある」
先ほどとは違い、今度ははっきりとした声でハジメは告げる。その言葉に、相手は驚いているのか、やや間があいた。
『やること、だと? 一体何だ?』
「俺のせいで、女が一人捕まっている。そいつを助けにいかなくちゃならない。それが終わるまでは、本部に帰ることはできない」
そうハジメが告げると、遠くで呂馬が小さく口笛を鳴らした。
それをハジメは無視。彼と千里の間には、数秒間の沈黙が生じる。それを破ったのは、千里だ。
『女を、助けるためだと? お前、それは真面目に言っているのか?』
「俺がこんな時に冗談を言うような人間だと思うか?」
『それは、思わんが……』
おそらく、受話器の向こう側では千里が茫然としていることだろう。彼は、ハジメの返答に対して困惑しているはずだ。
『まさかとは思うが、それは【魔法学団】の女のことではあるまいな? そいつが何者かに捕まったから助けたいとか、そういうことではないな?』
今自分が知りえている情報から、千里は憶測を働かせて訊ねる。限られた情報の中でそこまで察するあたり、この相手もかなり鋭い。
「その通りだ。俺のせいで、危険な咎人に彼女が囚われている。それを助けに行かないといけない」
『……はぁ? 何を馬鹿なことを言って……』
真面目な様子で言葉を返すハジメに、千里は何か性質の悪い冗談かと思ったようだ。だが、それはすぐに思い直す。先にハジメ自身が言ったように、彼はこのような時にそんな冗談を言わないことを思い出した。
千里は、おそらく目を細めながら、ハジメに問う。
『本気か?』
「本気だ」
『俺をからかっているわけではないな?』
「あぁ、ない」
ハジメが頷くと、それに対して、千里はすぐに嘆息を返してきた。
『馬鹿なこと言うな。組織の命令だぞ。それをお前、そんな自分勝手な理由で逆らう気か? お前はこれまで、組織の命令に一番忠実だったではないか。それをどうして、急にそんな我儘を言って逆らおうとする? その女に何をされたというんだ?』
「命を助けて貰った。だが、彼女を助けようと思っているのは、そういう理由からじゃない」
『では、どんな理由だ?』
「……分からない」
『……はぁ?』
「分からない。けれど心の底から、彼女を助けなくてはという思いが渦巻いている。このまま放っては置けないという気が、するんだ」
言いながら、ハジメはやや語尾を弱めた。彼にしては、とてつもなく珍しいことだ。発言の内容も衝動的、感情的であることも、普段のハジメを知っていれば彼らしくないと感じられることだろう。
それでも、ハジメは言葉を紡ぐ。
「だから、助けに行く。助けに行かなければならない理由があるわけじゃない。ただ、このまま一人逃げるわけにはいかないと心を動かす衝動がある。だから――」
『はは、ははははは』
突然、電話の向こうから笑い声が響いてきた。その声に、ハジメは口を噤む。その目に、何か厳しい色を浮かべるハジメに対し、しばらく千里は笑う。
『そうか、そうか。なるほどな。つまり理があるわけではないが感情が押えきれないと。だからそれに従って、組織の命令も無視したいと、そう言いたいんだな?』
「………………」
『ふざけるなよハジメ。そんな言い分が通ると思っているのか?』
笑い声から一転、千里の声が変調した。それは、ドスの利いた威圧的なもので、これまでの彼の態度からは想像できない程の迫力を有している。
『俺がそれを許すと、本気で思っているのか? えぇ?』
「思っていない。許してもらわなくても構わない。覚悟は出来ている。それに……」
『それに?』
「どっちにしろ、俺は許されないことをしようとしている。彼女を救うために、俺は、全力で敵と当たる気だ。禁止されている『力』の行使さえ、考えている」
『……正気か?』
重く低い声を、更に険しいものにして千里が呟く。それは、ただハジメを脅迫するだけでなく、戦慄も含んでいた。
『あの力を、組織の許可なく使う気だというのか? その女一匹救うためだけに、そこまでしようと考えているとでも言う気か?』
「あぁ、考えている。このまま、本来の『力』を封印したままでは勝てない相手だ。だから、『力』を使って倒しに行く」
『馬鹿なことは止せ!』
ハジメの宣言に、千里は怒鳴り声を返す。その音量は、携帯電話自体が震えを発するほどの怒声であった。
『命令を無視するだけでなく、組織が命じている『力』の行使の禁止も破る気か! お前は【九頭竜会】を抜ける気でもあるというのか!』
「……抜ける気はない。逃げる気もない。組織から罰があるならそれを受ける。ただ、今は彼女を救うために使える手はすべて使おうと思っている。全力でいかなければ、これから対峙する敵は倒せない」
『……九頭一に関しては、これが本来持つ『鬼』と力の行使は組織の許可なくば禁ずる』
沈着なハジメに対し、千里は不意に怒気を抑圧した落ち着いた声で語りだす。その声に、ハジメも目を据えた。
『これは組織が規定したきまりだ。それを破るということは、お前自身に組織が制裁をかけざるを得ないことになる。それが、分かっているのか?』
「分かっている。覚悟もしている。千里への罪悪感もある。だが、俺もどうしても退けないんだ」
軽く詫びに近い言葉を言いながら、しかしハジメは強い決意をもって千里に語る。
「ここで退けば、生涯ずっと後悔する気がする。直感だがな。けれど、その直感を俺は――」
『馬鹿なことをぬかすな!』
再びの怒号が携帯電話を震わせる。それに対して、ハジメは目を据えたまま少しも動じない。そんな中で千里はさらに言う。
『お前はこれまで組織に従順だったではないか。何故それが急に突然、そんな訳の分からない理由で叛逆をする? 組織に対して逆らえばどうなるかぐらい、お前にだって――』
「分かっているよ、親父。でも、もう決めたんだ」
相手の怒り声に混じった憂慮に対し、ハジメは珍しくその顔に表情を浮かべた。彼は、淡く笑う。相手の憂虞に対して、彼は穏やかに応じた。
「これは、きっと俺の最初で最後の我儘だ。だからとはいわないが、諦めてくれ。俺はもう、アンタらの盲目な操り人形じゃない」
そこまで言い切ると、ハジメは言葉を失った様子の千里へ、一拍置いてから言葉を続ける。
「ではな、親父。次会うときは、きっと弾劾の現場だろう。そこでどうなっても、俺は後悔しないつもりだ」
『待て、ハジメ。お前は――』
「じゃあな」
なおも何か言おうとする千里に、ハジメは耳を貸すことはしなかった。彼は電話の通信終了ボタンを押すと、携帯電話をジーンズのポケットにしまう。そして続けて電話されてもつながらないように、携帯自体の電源も切った。
その後、ハジメは視線を川の方角から、離れた場所にいる呂馬へ向ける。会話を静観していた様子の彼と目が合うと、ハジメは笑みを消した。
「……そういうわけだ。悪いが、お前の好意とやらは受け取れない」
「本気、ですか?」
ハジメの決意に対し、呂馬は糸目を細めて、顎に手を置いたまま首を傾げる。
「私に貴方を止めることは出来ませんが、その考えに意見することは出来ます。はっきり言って無謀ですね。今の貴方では、クローズ様と戦いを挑んでも、おそらくは勝てない」
無機質にそこまで断言すると、呂馬はハジメの上から下までを眺める。そして、目を瞬かせてから目線を相手の目元まで戻す。
「その傷の量もありますが、例え君が封印を解いて全力を尽くしたとしても、今の君では勝つのは難しいはずだ」
「……俺の本当の実力についても知っているのか?」
やや間を置いた後、ハジメは驚くことなく訊ねる。さりげなく自分の『力』の封印について触れられても、彼は動じたりはしない。
「えぇ。進行役である以上、どの参加者がどのような能力を持っているかはおおよそ把握済みです。今の所、君はキリング・パーティーの戦いの中で、本来の『力』を発揮してはいない」
顎に置いていた手を頬に伸ばし、それで頬を擦りながら、呂馬は言葉を続ける。
「しかし、それでもあのクローズ様に勝てるほどの実力を有しているかと言われれば疑問が残る。潜在能力は認めますが、現時点の実力自体は、相手側が君よりも一枚も二枚も上手だ」
呂馬が見たところ、ハジメという戦士は現時点でもそれなりの腕があるものの、まだまだ成長途中の人物だ。きっとこれから、彼は恐ろしく強くなっていくことだろう。
しかし、現時点ではまだまだ力不足で、弱い。これから戦うクローズと比較しても、その差は歴然としているだろう。
「今の君では、まだクローズ様には――」
「それはつまり、いつかの俺なら奴に勝てるということだな?」
憂虞を口にしようとする呂馬に、その言葉を遮ってハジメが口を挟む。その発言に、呂馬は眉根を寄せる。
「そのいつかが、いつになるかはお前にも分からない。じゃあ、もしかしたら次の瞬間かもしれない」
「……何が言いたいのです?」
「これから、俺は奴と戦うことになるだろう。雌雄を決するべくな」
服の首元に手をやり、その位置を微調整しながら、ハジメは言う。
「その戦いの中で、俺が奴を上回れるだけ強くなればいい。ただそれだけの話だ」
「……なっ」
さらりと口にされた言葉に、呂馬は細かった目を見開く。ハジメの出した言葉は、彼が想定していなかった解であった。それへの驚きで、呂馬は思わず声を漏らしたのである。
意外といえるハジメの言葉に、呂馬はしばらく固まった。だがやがて、その反応が一変する。呂馬は噴き出すようにして、腹を抱え笑い始めたのだ。
「ハハ――ハハハハ。なるほど、そう来ましたか……ハハハ」
「……そんなにおかしいか?」
大笑する呂馬を凝視し、ハジメは少しばかり憮然とした様子で訊ねる。その言葉に、呂馬は腹に手をやったままやや前傾姿勢になり、顎を引く。
「えぇ、かなりおかしな言葉でしたよ。いやはや、想定外の御考えだ。そもそも、君はそんな熱い台詞を言うようなキャラじゃないでしょうに……うふふ」
「笑い過ぎだ」
「ははっ、失礼」
ひとしきり笑った後、呂馬は口元を手で覆い、ハジメに対して頭を下げて謝罪する。その態度は、普通であればイラッとくるところであろうが、ハジメは平然とそれを見てから、森に向かって視線を移す。
「そういうわけだ。悪いが、止めてくれるなよ?」
「えぇ。止めるなんてことは出来ませんよ」
ハジメの警告に対し、呂馬は反発することなく顎を引く。
「私はあくまで進行役です。あーだこうだと意見をすることは出来ても、一度下された参加者の決断を、その決意の中に踏み込んで干渉するほど偉くはありません。貴方が組織に逆らってまで下した覚悟を、どうして覆すことができましょうか」
そう言うと、呂馬は一歩引いて頭を垂らす。
「貴方とクローズ様の戦いの結果は見届けさせて頂きますが、それ以上の干渉は致しません。どうぞ、ご存分になさってください」
「あぁ。そのつもりだ」
呂馬の言葉を受けて、ハジメは森へと進みだす。その足は、当然クローズへ向かうためのものだ。彼と戦うべく、また彼に捕まってしまった利理を助けるべく、その足は森の中へ再び入って行こうとした。
「――これは、独り言ですけれどね」
「なんだ?」
自分を黙って見送ると思われた呂馬が急に口を開いたため、ハジメは足を止めて目だけ彼に向けて振り向く。
そんな彼に、呂馬は口を開く。
「巽利理様は、この大会自体を嫌っておいででしたよね? こんな狂った宴に付き合いたくないと。ですが実を言うと、彼女も吉見美冬を斃したことで予選突破にリーチが掛かっているのですよ」
ハジメを見ることなく、彼は横に流れる川の水面を見ながら、独り言とやらを続ける。
「仮にあと一人の参加者を殺せば、彼女はキリング・パーティーの本選への突破が決まります。ぜひ彼女には、それを達成していただき、本選への出場を決めてもらいたいものです」
「………………」
ハジメは、呂馬が漏らした情報を不審げに黙って聞きうけた。それが何を意味しているのか、彼は思考を回転させて考える。
そしてはたと気が付く。確かキリング・パーティーには、大会を抜けるための規定が一つしかないという。その条件とやらが、確か――
そこまで思い至ったところで、ハジメは森へ目を戻す。
「そうか。だがそれは、俺には関係のないことだな」
「えぇ、そうですね。貴方にも、私にも関係のないことです」
独白に応えるハジメに、呂馬は首肯する。
その後、ハジメは呂馬に目を向けぬまま、河原から森の中へと足を踏み入れていく。その視線にはすでに呂馬は眼中にない。彼は目を凝らし、五感を集中して働かせながら、森への侵入を開始して行った。
目指す場所は決まっている。そこへ到達すべく彼は一歩ずつ前進していった。
その姿を見送り、気配が完全に森の中へ消えていくのを見ると、呂馬は視線を外し、自分の足元へ向ける。そして、河原に落ちている小石を蹴って、川の水面へと疾走させた。水を切った小石は、数回跳ねた後に川底へと沈んでいく。
それを見送った後、呂馬は天を見上げる。燦然と星が輝きを放つ中で、彼は口を開いた。
「結局、アナタの予言通りになりましたね、我が主」
そう言って、彼は笑う。
「どうやらかの鬼子と咎人は、雌雄を決するべく対決するようだ。どちらが勝つか、私には想像できませんが、アナタの予言通りならばおそらくは――」
そこまで言ったところで、呂馬は口を噤んで視線を下げ、頭を振る。
「果たして本当にそうなるのか。私は進行役として見届けさせてもらいますよ、我が主……」
そう言うと、呂馬はハジメの後を追うように、河原から森に向かって歩き出していく。
月と星の光が川の水面に反射して煌めく中で、それに背を押された呂馬の姿も、木々生い茂る森の中へと消えていくのであった。
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