第6話 黒狼卿の戦ぶり
マルデュルク砦を出立した黒狼卿率いる黒狼軍200は、ある程度進んだところで休息をしながら、帝国軍の様子を伺っていた。
「どうだ、ルゥ」
黒狼卿の問いかけに、見晴らしの良い崖の上に立ったルゥが遠くを見つめる。
「またいつも通りなの。三つの砦から出立した帝国軍は、すでに引き返しているの」
遊牧の民出身で、遠くの地平線を跳ねるウサギすら捉えることの出来るルゥの両目は、撤退する帝国軍の三つの部隊を捕らえていた。
歩兵中心の帝国軍の軍勢は、進んで来た道を引き返し、それぞれの拠点へと戻る最中だ。
「またか」
これが最近の帝国軍の奇妙な行動である。
***
天高く聳えるレイベ山脈合間にあるマルデュルク砦は、言ってしまえば山脈の隙間を石の壁で塞いだ、といった様相になっている。
その堅牢な石の壁こそが、マルデュルク山道を制圧している皇国軍の防衛ラインになる。
マルデュルク砦の周辺一帯は、レイベ山脈から続く緩やかな下り勾配になっており、何より入り組んだ地形になっている。
そしてその先に広がる平地に等間隔で築かれているのが、帝国軍がマルデュルク砦を落とすために築いた、三つの拠点。
それぞれ北砦、中央砦、南砦と呼称されている。
これまでの半年の間、帝国の三つの拠点からマルデュルク砦へと出立した帝国軍は全て返り討ちにあっていた。
その主な要因は三つ、
《鷹の目》と呼ばれる見張り台。
マルデュルク砦の周囲に広がる入り組んだ地形。
皇国の英雄・黒狼卿ヴィンセントが率いる黒狼軍。
マルデュルク砦の左右に聳えるレイベ山脈の絶壁の上には、《鷹の目》と呼ばれる高所の見張り台がある。
これにより、マルデュルク砦に陣取る皇国軍は、周辺の様子から帝国の三つの拠点の動きまでも把握することができる。
この情報を元に、帝国軍を迎え撃つのが黒狼卿率いる500の騎馬兵で構成された黒狼軍だ。
マルデュルク砦一帯の入り組んだ地形を完璧に把握している黒狼軍は、こちらに向かってくる帝国軍を待ち伏せし、一気に叩くというゲリラ戦法を行っていた。
この戦法に、帝国軍はなすすべもなく、半年もの間、手も足も出ないでいた。
しかしその状況は一変する。
天眼の軍師フォウの登場である。
その字名の通り、まるで天から地上という盤面を見下ろしているかの如く帝国軍を巧みに動す、鉄仮面の軍師フォウ。
その見事な采配は、先日の初戦においても遺憾なく発揮された。
囮の部隊を使い、黒狼軍を遠くまでおびき出したフォウは、その合間に主力部隊を押し出し、一気にマルデュルク砦を攻め立てたのだ。
身勝手な前指揮官の失態もあり、一時は窮地に陥った皇国軍だが、黒狼卿の活躍により、仕切り直しとなった現在――
天眼の軍師が操る帝国軍は、奇妙な動きをしていた。
それはほぼ毎日、決まった時刻になると、三つの拠点から少数の部隊を送り出してくるというものだった。
その様子はもちろん、レイベ山脈の岩肌の高所にある見張り
伝令を受けた黒狼卿率いる黒狼軍は、この半年間そうしてきたように、これを迎撃すべく、砦を出立する。
しかしこれまでと一緒なのはそこまでだ。
黒狼軍が出立すると、こちらへ向かっていた帝国軍はあっさりと引き返してしまうのだ。
そして今日もまた、黒狼軍は、帝国軍の背中を見送る形となっていた。
***
「この距離じゃ、今から追いかけたとしても、追いつく前に、拠点へと引き上げられてしまうの」
崖の上に立つルゥは、騎馬隊だけで構成された黒狼軍200を見回しながら断言する。
この報告に、黒狼卿が隣を見る。
「どう見る、ロウタ?」
黒狼軍の参謀役でもある副官ロウタが顎の無精髭を軽く撫でる。
「こりゃ、完全にこっちの動きが筒抜けになっているな」
山間の高所を抑える皇国軍は、《鷹の目》という高所の見張り台もあって、平地に三つの拠点を構える帝国軍を見下ろし、その動向をいち早く察知することができる。
だが逆に、レイベ山脈を見上げる帝国軍が、そこにマルデュルク砦を築き上げた皇国軍、延いては黒狼軍の動向を知る方法はない。
しかしとある人物の登場で、そのあり得ないことが起こっている。
天眼の軍師フォウ。
その字名の通り、まるで天より戦場という盤面を見下ろしているかのように、こちらの動向を完璧に把握しているとしか思えない。
その方法は未だに分からない。
だがフォウは確実に黒狼軍の動きを把握し、絶妙なタイミングで帝国軍を引き上げさせている。
「その上で、あの天眼の軍師様はいったい何が狙いなんだかな」
そう漏らすロウタ。
黒狼軍としても、様々な可能性を考えている。
どうせ引き返すだろうと、出撃をギリギリまで見合わせたこともあった。
だが、その場合、帝国軍の進軍は止まることはなく、やむを得ず出撃すると、まるでそれを待っていたかのように、撤退を始める。
この帝国軍の奇妙な進軍には、マルデュルク砦まで攻めてくる気配は感じられない。
さりとて、こちらの領域に侵攻してくる帝国軍を放置することもできず。
こうして黒狼軍の出撃は、幾度も空振りに終わっていた。
この空気に、遠見を続けるルゥが自分の考えを口にする。
「以前のように私たちを、帝国の拠点近くまで引っ張り出すのが目的かもしれないの。そこでまた、待ち伏せ部隊に取り囲んで一網打尽にするつもりなの」
「まあそれが一番、それはありそうではあるが……」
何か引っかかることがあるのか、なんとも歯切れの悪い返事を返すロウタ。
「なら試してみるか」
その声に、二人の副官がギョッとする。
なぜならそれを言ったのが、黒狼卿だったからだ。
即断即決と言わんばかりに、黒狼卿は、愛馬である黒馬ミストルティンに一人跨ると、戸惑う、二人の副官に指示を出す。
「ロウタ、黒狼軍は任せる。ルゥとこの場所に残り、帝国軍に動きがあれば臨機応変に対応しろ」
「お前はどうするつもりだ、黒狼卿」
まさか、と表情に書いてあるロウタに向かって、黒狼卿はニヤリと笑う。
「天眼の軍師が、獲物が罠に引っ掛かるのを待っているというのなら、引っ掛かりに行ってやるまでのことだ」
「だと思ったよ。……というか、まさか一人で行くつもりか? 誰か連れて……」
「問題ない。それに、俺たちだけの方が早い」
そう言うと、黒狼卿は、跨る黒馬の腹を蹴る。
背に跨る主の命令に、黒馬ミストルティンが嘶きを上げる。
そして一気に駆け出す。
その姿は、まるで漆黒の風のように。
ミストルティンの脚の速さは圧倒的で、慌てる黒狼軍をあっという間に置き去りにして、緩やかな下り勾配の道を物凄い速さで駆け抜けていく。
しばらくすると、黒狼卿の瞳が獲物を捕らえる。
帝国拠点の一つである北砦へと引き返していた、帝国軍300。
遊牧の民として馬のことを知り尽くしているルゥにして、「このまま追いかけても、追いつくのは不可能だ」と断言した帝国軍の背を、黒狼卿と黒馬ミストルティンは完璧に捕らえてみせた。
敵の拠点である北砦も視界に捉えてはいるが、今からひと暴れするには十分な距離がある。
そう判断したからこそ、単騎で駆ける黒狼卿は大きく息を吸す。
「ウォォォォン」
そして周囲に響き渡る狼に似せた咆哮。
それは、誠実な優しき騎士ヴィンセントが、戦場において、敵を屠ることをよしとした姿、黒狼卿へと強制的に意識を変えるスイッチでもある。
背後から響く遠吠えに、道を引き返していた帝国兵たちは、ビクリと立ち止まり振り返る。
そしてそこに、単騎で駆けてくる黒き死神と呼ばれる黒騎士の姿を目の当たりにする。
途端、帝国兵たちが取った行動は一つだった。
「ひ、ひぃぃぃぃぃ!」
それは悲鳴を上げて、散り散りになって逃げることだった。
武器を投げ捨て、隊列など関係なく、道を外れて、蜘蛛の子が散ったように逃げ出す。
「……」
これには黒狼卿もミストルティンの手綱を引き、黒槍を下ろす。
とはいえ、気を抜くことはなく、周囲に警戒の視線を向ける。
天眼の軍師が何かしかけてくるとしたら、このタイミングしかない。
「……」
しかし何も起こらない。
向こうに見える帝国の拠点の一つである北砦にも変化はなく、逃げていく帝国兵たちにも逃げる以外の思惑を感じない。
帝国軍に動きがあれば、天眼の軍師の思惑を知ることができる。
罠であったのならば、それを蹴散らしてやればいい。
万が一、自分が窮地に陥ったとしても、ロウタが指揮する黒狼軍が即座に対応してくれる。
その信頼と連携こそが、単騎において最も実力を発揮する黒狼卿 と その特性を生かし自在に陣形を変える黒狼軍の戦い方でもある。
「……」
だがやはり何も起こらない。
遠くには、ただただ逃げ出す帝国兵たちの後ろ姿があるだけ。
それにしても見事な逃げっぷりである。
敵前逃亡は軍において罪に問われる行いだ。その罪に問われることよりも黒狼卿と戦うことを恐れているのかもしれない。
(ついに黒狼卿の恐怖もここまで伝染したか)
そんなことを考えながらも、黒狼卿は最後にもう一度周囲を見渡し、決断する。
「……引き返すか」
黒狼卿は、黒馬の手綱を引くと、ゆっくりと来た道を引き換えし始める。
こうして自ら出向けば、天眼の軍師が何かしらの行動をお越し、その計略を知ることが出来ると思ったが。
天眼の軍師の真意を見抜けないまま、黒狼卿は、黒馬の腹を軽く蹴った。
***
その報告を中央砦の見張り台で聞いている者がいた。
不気味な鉄仮面を被り、分厚いローブを纏った者。
天眼の軍師フォウ。
単騎で追いかけてきた黒狼卿の、此度の行動を聞き、鉄仮面の隙間から『ふぉごふぉご』と籠った笑い声が響き渡る。
『単騎で臆することなく300の軍勢を追いかけるか。流石は黒狼卿、実に勇ましいことだ』
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