第7話 天眼の軍師 次なる一手への布石
帝国軍の拠点の一つである、中央砦。
砦門の上にある見張り台の上に置かれた椅子に腰掛けるのは、不気味な鉄仮面を被った軍師。
天眼のフォウ。
離れた北砦近くで起こった出来事を聞き、鉄仮面の下から『ふぉごふぉご』と、くぐもった笑い声を響かせる。
「それにしても、まさかあの距離で追いつかれるなんてね。黒狼卿の跨るあの黒馬、本当に侮れないわ」
その隣に立ち、たった今しがた起こった出来事を報告したカリナがそう漏らす。
『侮れないのは、黒狼卿の思考だ。黒狼軍全体で追っても間に合わないが、自分だけなら追いつける。仮にそうだったとしても、それを実行しようとは普通は思わない。300の敵兵を相手にたった1人で追いついた所で、どうにかなるはずがない。普通はそう考える』
「だけど黒狼卿は、追いかけてきた。300の歩兵くらいなら1人で十分という、自らの力に対する絶対の自信かしら」
『黒狼卿は、そのような驕りで動くような男ではないよ。奴はただ武勇に優れただけの騎士ではない。その字名の通り、狡猾なる狼のような男でもある。十分に勝算があると踏んだからこそ、単騎で追いかけてきたのだろう』
フォウの考察に、「なるほどね」とカリナは頷く。
「現に追いつかれた帝国軍は総崩れになったしね。一度も武器を交えることもなく。黒狼卿を倒すという気概も見せず、ただただ逃げ出した」
『逃亡することを許可しているとはいえ、痛ましいことだ』
現在、皇国のマルデュルク砦陥落の全面指揮を執る、鉄仮面の軍師フォウは、ここ数日続けている進軍に限り、敵前逃亡することを不問としている。
とはいえ、逃げるように命令している訳ではない。
だが結果、帝国兵たちは、黒狼卿を前に、全員が一斉に逃げ出した。
戦場において、功績を上げることよりも、生きる物の本能として、強者から逃げることを選択した。
「まあ黒狼卿は、あの強さだしね。いくら普通の兵士が束になっても、勝てるかは怪しいものね」
そう口にする、カリナ。
『そんなことはない。数が勝れば、英雄とて敗北する』
だが、その意見をフォウは即座に否定する。
『たった一人が万の軍勢に勝るなどは、単なる理想であり、そんなことは決して起こりえない』
冷静なまでに語る天眼の軍師の見解を聞き、隣に立つ副官は、心の中で(相変わらず鉄仮面を被ると別人になるわよね、この子)と思った。
「ならあの300の帝国兵たちは、あのまま黒狼卿と戦えば勝てたと?」
『きちんとした戦略に基づき、部隊として動けば、倒せないはずはない』
「断言はしないのね。それは軍師としてどうなのかしら?」
『机上の空論だけで戦をするのは軍師ではなく学者だ』
「なるほどね。まあなんにしても確かなのは、あの300の帝国兵たちは戦わずして逃げ出したってことよね」
『そしてそれこそが、すでに黒狼卿の術中でもある』
黒狼卿を相手にする時、帝国軍の兵士の士気はとても低い。
特にこの半年の間、実際に黒狼卿の相手をしてきた、帝国軍の三つの拠点ではそれが顕著に表れている。
狼の遠吠えが聞こえれば震え上がり、黒馬に跨った黒狼卿の姿を見れば悲鳴を上げる。
世に広がる噂以上に、骨身に染み込んでいるのだ。
黒狼卿の圧倒的な強さと、その恐怖が。
今回のことは、それを如実に示していた。
だがその上で、天眼の軍師の隣に立つカリナは口元を緩める。
「まあなんにしても、こちらとしてはありがたかったわね。黒狼卿が追いかけてきてくれて」
ニヤリと笑うカリナの言葉に、フォウも頷く。
『何もせずに引き返してくれたことも含めてな』
天眼の軍師たちは、黒狼卿たちが警戒していたように、伏兵を潜ませるなどの待ち伏せの罠を仕掛けてはいなかった。
だが、黒狼卿率いる黒狼軍が、帝国軍の兵士たちの目に見えて追いかけてくるという状況を誘発させるように、帝国軍の行軍させていた。
そしてそれが、黒狼卿が単騎で追いかけてきてかつこちらの被害が一切なかったという最も理想的な展開で叶ったことは、帝国軍を指揮するフォウにとっては実に喜ばしいことだった。
『カリナ、皆に例の指示を出せ』
「了解」
フォウの命令を受け、カリナは両手を大きく振り上げ、そして華麗に動かし始める。
その動きは、まるで音楽隊を操る指揮者のようだ。
だが目の前に広がるのは、遠くに見えるレイベ山脈まで広がる自然のみ。
しかしカリナの指示は、確実に届いている。
誰に?
やがて両手を振り終えたカリナは、周囲をじっと見まわす。
「北砦と南砦の兵士たちに伝令を始めたわ。私たちがいる中央砦もこれから流すように指示を出すわ」
指示を出した天眼衆たちの返事を受け、カリナがそれをフォウに報告する。
その天眼衆たちはどこにいるのか?
それはフォウたち眼前に見上げているレイベ山脈周辺の地形の至る所だ。
帝国軍において、天眼衆は、帝国四軍師の一人天眼のフォウ直属の配下と位置付けられている。
そんなカリナを始めとした天眼衆こそが、この鉄仮面の軍師フォウにとっての天眼の一部なのである。
幼少からの訓練により、戦場において単身で活躍できるほどの実力を持った天眼衆たちは、戦場に散り、本陣で構えるフォウの指示を仰いだカリナの手信号により動き出す。
各部隊への指示、戦況報告、敵の様子。
それらの情報は、再びカリナへと集まり、フォウへともたらされる。
フォウが指示を出す天眼衆たちの行動範囲は、途中に複数の中継点を配備することで、いくらでも広げることができる。
眼前に広がる地形の全て、離れた二つの帝国の拠点、さらには敵のマルデュルク砦の中まで。
もちろんそれらが可能なのは、幼少の頃よりの過酷な訓練の賜物。
鉄仮面の軍師フォウというシナリオ と 天眼衆というシステムを考えた、ラクシュミアの祖父レイベリゼ侯爵の下準備があったからこそだ。
そのシステムを使い、鉄仮面の軍師フォウは、予め天眼衆たちに伝えていた言伝を帝国軍へと広めていく。
それは『黒狼卿に襲われた部隊は、一人も殺されずに無事に逃げおおせた』というモノだ。
『カリナ。皇国のマルデュルク砦までの、天眼の制度はどうだ?』
「ほぼ完璧よ。周囲一帯の調査は終わっているし、皇国の砦にもすでに密偵を送り込んでいる。ただ例の≪鷹の目≫という見張り台、何より黒狼軍の鼻の良さが気がかりね。あと何パターンか中継点の配置を考えておきたいところね」
天眼衆の長として、全ての情報の統率を任されるカリナは自分の見解を語る。
『任せる。滞りなく準備を進めろ』
「了解」
再び両手を振り始めるカリナを残し、椅子から立ち上がったフォウは、杖を付いて歩き出す。
その背後に自然と続くのは、護衛役を務めるケイオスだ。
『ケイオス、例の三将の到着は?』
「双月の騎士ネル様とノートン様、それとバラクーダ老将の到着は10日後になるかと」
『ならそれまでは、このまま兵士たちの兵站を続ける。その旨、司令官殿にお伝えしろ』
「かしこまりました」
そのままフォウたちが向かったのは、中央砦の中庭の端にある巨大な馬車だ。
八頭立てで引く、窓一つない黒塗りのその馬車は、まるで動く家。
それは天眼衆の作戦司令室でもあり、天眼の軍師の移動用住居でもある。
『我はしばらく籠る』
「かしこまりました」
ケイオスによって開かれた扉の中へと入るフォウ。
帝国兵たちの間で、黒い棺桶のようだと不気味がられるその馬車だが、中は快適な空間となっている。
そしてフォウは、その鉄仮面を脱ぐ。
「ふぅ」
鉄仮面の下から顔を出したのは、蜂蜜色の髪をした少女ラクシュミア。
ここは、ラクシュミアが仮面を外すことのできる数少ない空間でもある。
ラクシュミアは、鉄仮面を置くと、一人テーブルに広げられた、周囲一帯の地図に目を落とす。
見るべき場所は四つある。
今、自分たちのいる中央砦をはじめとした縦に並ぶ三つの帝国拠点。
標的である、レイベ山脈の合間にある皇国のマルデュルク砦。
その間にあり、両軍が戦いを繰り広げることになる、天然の要塞と呼ばれる入り組んだ地形。
そして地図の南側。自由都市マルタを含む、赤く大きな楕円。教会の定めた絶対禁戦領域。
現在の帝国軍の軍勢は、中央砦に3000、北砦・南砦にそれぞれ2500。
計8000。
対してマルデュルク砦に陣取る皇国軍は、砦守護の皇国兵が3500。そして黒狼卿率いる黒狼軍が500。
計4000。
数ではこちらが勝っているとはいえ、定石を考えれば、砦を陥落させるにはさらに兵がほしい。
だがそれ以前に、砦に到達するのが難しい。
鷹の目という見張り台でこちらの動きは敵に完全補足されており、入り組んだ地形を自由に走り回る黒狼軍がそれを阻むからだ。
加えてこちらの兵士の指揮は低い。
数で押し切ろうにも、教会の定めた絶対禁戦領域が近い為に、これ以上、兵士たちを増援・配備することができない。
地の利は完全に向こうにある。
極めて不利な状況。
それが、このマルデュルク砦奪還作戦の現状である。
「だけど、それだけでしかない」
天眼の軍師と称される実力を持つ少女は、そう呟く。
数々の難題もラクシュミアにすれば、ただの難題でしかなく、解けないモノなど何一つない、という自負があるからだ。
そんな幾つもの難題がある中で、まずラクシュミアが標的とするのは――
黒き死神・黒狼卿。
皇国軍の要にして、最大の障壁。
「まずはこれを崩す」
***
結局、今回も空振りに終わった黒狼軍。
そんなマルデュルク砦へと帰還したヴィンセントたちの元に、見知った兵士リドルが近づいてきた。
「ご報告します。赤竜卿ブラームス様がお見えになっております」
リドルが口にしたのは、皇国において黒狼卿以上に称えられる英雄の名だった。
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