第1話 街での噂とその真実(前)
――焔の日の夜。
自由都市マルタは、広大なイキシアノ大陸を縦に伸びる霊峰レイベ山脈の麓にある街である。
行商人たちが行き交う交通の要所であり、なにより世界を作った神々の長・太陽神を崇める教会の聖地の入り口でもある。
そんなマルタの酒場では今、北に位置する《マルデュルク砦》の話で持ちきりになっている。
皇国の英雄・黒狼卿 と 帝国四軍師の一人・天眼の軍師。
対立する二人の英傑の対決の話は、あちらこちらで語り草になっている。
その中にある、とあるテーブル席でも二人の話題が語られている。
語るのは、ジョッキに並々と注がれたエール酒を飲んでいる中年男だ。
「まず黒狼卿っていうのが、とんでもない。なにせこいつはただの人間じゃない。常人の二倍の身長をした巨人のような大男で、神殿の柱ほどある巨大な黒槍を、まるで小枝でも振るうみたいに軽々と振り回すっていう化け物だ。群がってくる帝国兵たちはその黒槍の一振りで、全員ミンチよ」
中年男の声が低くなる。
「普通の人間にそんなことができる訳がない。ならなんで黒狼卿がそんなことが出来るかって言えば、それは黒狼卿が人間と巨狼の混血だからだ。太古より生きる冥界の巨狼が、攫ってきた人間の娘をかどわかして産ませたのが黒狼卿だって話だ」
話に耳を傾けている真向いに座る二人の男女に向かって、中年男はニヤリと笑う。
「そんな黒狼卿が戦場に轟かせる狼の咆哮には特別な力がある。普通の奴は、それを聞いただけで胸を抑えて苦しみだし、そのままポックリと逝っちまう。そしてその魂は恐ろしい冥界へと連れていかれるって話だ」
恐ろしそうな表情を浮かべながら中年男は続ける。
「ただ雄叫びを聞いただけでそれだ。なまじ死の咆哮に耐えきったとしても、その前に姿を現すのは、気味の悪い黒馬に跨った巨大な黒狼卿だ。そしてそのありえないデカさの槍の一振りで全員コレよ」
饒舌に語る中年男は、自らの手刀で首を掻っ切るとジェスチャーをする。
「『逃げよ、逃げよ、戦場で狼の遠吠えが聞こえたら、迷わず逃げよ。黒き死神・黒狼卿がやってくるぞ』、なんて謳い文句が囁かれるくらいだ。実際、その姿を見ただけで、帝国兵たちは、恐怖のあまり武器を放り捨てて逃げ出すって話だ。……そっちのひょろっちいミイラ男の兄ちゃんなんて、黒狼卿に襲われたらあっという間にやられちまうだろうな」
「なるほど」
そう返事をしたのは、スラリと背の高い黒髪黒眼の若い男。とはいえ、その容姿の一番の特徴といえば、顔に巻かれた包帯だろう。その姿は文字通り、ミイラ男であり、その素顔はよく分からない。
中年の男は酒を煽りながら続ける。
「そんな黒狼卿に対抗しようって帝国が送り込んできたのが、帝国四軍師に数えられる男・フォウ。天眼の軍師と呼ばれている凄腕よ」
ミイラ男の隣に座る街娘がやや前のめりになる。
「どういう方なんですか、その天眼の軍師さんは?」
「こいつがまた四六時中、奇妙な鉄仮面やら、分厚いローブを纏っているらしいんだが、それには理由がある。なんでもフォウは若い頃に大病にかかっちまって死の淵を彷徨ったらしい。なんとか生き伸びたものの、その後遺症で顔や肌が醜く爛れ、まだ30歳になったばかりなのに、腰は曲がり、杖を付かなきゃ歩けもしないらしい」
「それは大変ですね」
「だがその上で、フォウは広大な帝国の中でも四軍師の一人に数えられている。その知識と軍隊を操る采配がスゲェからだ。死病によって多くのモノを失った対価として神々の知識を得た賢者、なんて呼ばれているらしい。その鉄仮面の下はどんな恐ろしい素顔が隠れているのか……そっちの嬢ちゃんも、見たら悲鳴を上げて卒倒しちまうかもしれないな」
「それは怖いですね」
ニタニタの意地の悪い笑みを浮かべる中年男に、そう笑い返す、若い街娘。
蜂蜜色の髪が特徴的な街娘は、大きな瞳とその明るい笑顔がとても印象的だ。
その笑顔に気を良くした中年男が、いよいよと言った雰囲気で続きを語る。
「そんな黒狼卿と天眼の軍師がついに先日ぶつかった。黒狼卿は単身襲いくる帝国兵を手当たりしだいに喰い散らかし、天眼の軍師がその采配で帝国軍を進めていく。そしてついに天眼の軍師率いる軍勢がマルデュルク砦へと到達した。砦陥落も時間の問題かと思われた。だがその戦線にとんでもない報告が舞い込んできた」
中年男はテーブルに身を乗り出す。
「なんと単身、姿を晦ませていた黒狼卿が、帝国軍の拠点の一つをたった一人で攻め落としちまったって、耳を疑うモノだった。あまりのことに帝国軍は撤退を余儀なくされたって訳だ」
中年男は「信じらないだろ」と続ける。
「とにかく黒狼卿はとんでもない化け物だ。殺した人間の血を好んで啜り、殺した人間の肉だけじゃ飽きたらず魂までも喰っちまうって話だ」
何杯目か分からない杯を煽った中年男は、ジッと話を聞いていたミイラ男に向かってニヤリと笑う。
「黒狼卿にかかれば、そっちのミイラみたいな兄ちゃんなんて睨まれただけでぽっくり逝っちまうだろうよ」
本日に二度目の死刑宣告にミイラ男は変わらず「なるほど」と頷く。
「天眼の軍師もすげぇぞ。フォウは広い戦局を、まるで天から傍観するように見据え、駒を操るかの如く兵たちを動かすらしい。それこそが《天眼の軍師》って字名の由来だ」
「へぇ、天眼の軍師ってとっても凄いんですね」
蜂蜜色の髪の街娘は、どこか嬉しそうにニコニコと笑う。
「ただ噂じゃ、天眼の軍師の野郎からは、随分と変な匂いがするって話だ。ぶっちゃけ臭いらしい」
「そんなことないもん!」
突然、ムッとなって叫んだ街娘に、中年男が奇妙な表情を浮かべる。
「? なにがだい、嬢ちゃん?」
「……いえ、こっちの話なので、気にせずに」
街娘がコホンと咳払いをする。
「とまあ、それが先日起こったマルデュルク砦で起こった戦った二人の戦いよ。一時は陥落の危機にあった皇国だが、黒狼卿の活躍で事なきを得た。帝国も天眼の軍師が体調不良で倒れたこともあって、今は静かにしているらしい」
中年男は空になったジョッキをテーブルに置く。
「とはいえ、そんな俗世の争いも、ここじゃ関係ないけどな。なにせここは太陽神の御膝元、自由都市マルタだ。絶対戦闘禁戦区の中にいる限り、戦を目の当たりにすることはないだろうよ」
中年男の言う通り、大陸中に広く浸透する教会は、大陸中の争いに一切の不干渉と断絶を表明している。その明確な意思表示として、教会の聖地、自由都市マルタを始めとしたこの周囲一帯を《絶対禁戦領域》と定め、いかなる争いも軍の通過も許してはいない。
「ありがとう、おじさん。面白い話をきかせてくれて」
街娘の礼に、酔いの回った中年男は「じゃあな二人さん、ごゆっくり」と手を振り、酒場を出て行った。
そんな中年男を見送る、並ぶようにして座っているミイラ男と街娘。
そして街娘は、さっそく隣のミイラ男に目を向ける。
「という、一般の方のお話でしたが、感想はどうですか、お父さんが冥界の巨狼である黒狼卿さん?」
「ついに噂もここまで来たかと思っているよ」
そのミイラ男、黒狼卿ヴィンセント・ブラッドは素直に思ったことを口にする。
「そうだね。前からそれなりに噂されていたけど、遂に人間じゃなくなっちゃったね。普通の人間の二倍ある巨人で、柱のような槍を振り回す。来月辺りには山のように大きな、くらいにはなっていそうだよね。それにしても父親が冥界の巨狼か……斬新だな」
「そんなことになっているとも知らず、ウチの親父殿は田舎で畑を耕しているんだろうな」
「えっ、ヴィンの家って騎士の家じゃないの? それもかなり上位の?」
「我が家は代々、領主に仕える下級騎士だ。《黒狼卿》という称号は、俺自身が皇王より賜ったモノで、家柄は特に関係ない。そんな仕えている領主から与えられる俸禄だけでは食べていけないからと言って、親父殿は昔から畑を耕している。まあ元来、そういうのが好きなんだろうけどな」
「随分と変わった冥界の巨狼だね」
「そうだな」
中年男の語っていた噂話は、半分以上が偽りである。
ヴィンセントはただの人間だし、人間の血を好む殺人衝動に駆られた殺戮者でもない。
誠実であり実直な、正しい心を持った騎士なのである。
とはいえ、残り半分である、その功績に関しては事実ではある。
ヴィンセントが握った黒槍を振り回せば、それを受けた兵士は弾け飛ぶ。英雄と呼ばれるに相応しい、一騎当千の強者なのである。
帝国軍の拠点の一つを単身で陥落させたのも事実である。
もっともそれは、前線より遠く離れた帝国の拠点では、その時、物資の搬入の
為に砦門が開いていたからであり、なにより、拠点にいた帝国兵の 誰もが、敵
兵が単騎で襲い掛かってくるなどとは思わなかったからだ。
しかも現れたのは、帝国兵たちを散々苦しめてきた、恐怖の黒狼卿だ。
その姿を見ただけで、拠点に残っていた兵士たちは悲鳴を上げて逃げ出した。
見事に奇襲を成功させた黒狼卿は、愛馬である黒馬ミストルティンに跨り、そ
の黒槍を振り回し、拠点を荒らすだけ荒らして撤退した。
それがことの真相である。
とはいえ、それが可能だったのは、やはり黒狼卿だから、としか言いようがない。
「そっちはどうなんだ、天眼の軍師?」
そう訊き返され、蜂蜜色の髪をした街娘は、その頬を膨らます。
「言っておくけど、変な匂いっていうのは、そういうお香を焚いているだけであって、私自身が臭いんじゃないからね」
どうやらそれが相当気に入らなかったらしい、天眼の軍師と呼ばれた少女。
その名はラクシュミア・イルア・レイベリゼ。
このむくれている少女こそが、天眼の軍師と呼ばれる鉄仮面の男の正体である。
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