第2話 街での噂とその真実(後)
ラクシュミアは由緒ある帝国貴族の娘であるが、その生い立ち故に、正体を隠し、鉄仮面の軍師フォウという壮年の男として、戦場に立っている。
その正体は、帝国上層部どころか、帝国を治める帝王ですら知らぬこと。
ラクシュミアの正体を知っているのは、ラクシュミア本人とラクシュミアのために全てを計画した祖父レイベリゼ公爵、その部下である天眼衆と呼ばれる者たち。
そして目の前にいる黒狼卿ヴィンセントとその部下二名だけだ。
「まあ匂いに関してはともかく、私の方はきちんと正しく噂話が流れているみたいだね」
天眼の軍師という偽りの自分に対する評価に、どこか満足気に微笑む、本当の素顔を晒す少女。
「俺の方はミアとは違って、随分とまた大きな誤解が付いて回っているみたいだがな」
一方で、黒狼卿という本当の己に対する評価に、苦笑する、素顔を隠した偽りのミイラ男。
そんな苦笑するヴィンセントに、ラクシュミアはニヤリと笑う。
「そんなことはないんじゃないかな? 私はきちんと黒狼卿たちが意図するように噂が流れていると思っているけど」
その指摘に、ヴィンセントがそっぽを向く。
「さてどうかな」
「そうだね。そんなのは別にどうでもいいことだね」
「そっちこそ、最近はどうなんだ?」
「どうなんだって言うと?」
「最近、天眼の軍師は帝国兵たちに随分と面白いことをさせているじゃないか」
その指摘に、ラクシュミアは肩を竦める。
「さてなんのことかな。私には分かりませんな。なにせ私はただの街娘のミアちゃんですから」
そんなラクシュミアの言葉に、ヴィンセントも口元を緩める。
「そうだったな。俺もここではただのミイラ男ヴィンだったな」
「……いや、ただのミイラ男って。そもそもミイラ男ってだけで普通じゃないし」
ツッコミを入れる、ラクシュミア。
ちなみにそのツッコミには、距離を置いて二人のいるテーブルを監視している者たちも「うんうん」と頷く。
そんなやり取りをするミイラ男と街娘。
だが、そもそも疑問。
なぜ敵対する皇国と帝国の要人である、黒狼卿と天眼の軍師がこうして密かに顔を合わせて、酒を飲んでいるのか?
それには理由がある。
「……まあなんにしても、ヴィンに改めて言っておくことがあります」
「? どうしたミア、改まって?」
そしてラクシュミアは断言する。
「私は決して臭くはありません! ここに来る前にはいつもお風呂に入って、良い匂いのする香水とか付けていますけど、別にそんなのが無くても私は大丈夫です! 普段も普通です!」
ラクシュミアは言い切った。ヴィンセントにビシッと人差し指を突き付けて言い切った。
どうやら相当気にしているみたいだった。
「……いや、大丈夫だ。そんなことは思っていない」
「本当に?」
「本当だ」
「信じられない」
疑いの眼差しで、即答されてしまい、ヴィンセントはややショックを受ける。
「なぜだ、ミア?」
「だって……ヴィンは優しいから気を使っているだけかもしれないじゃん」
ムッと唇を尖らせるラクシュミアの表情にヴィンセントは慌て出す。
「いや……そんなことは……」
「だからその……ちょっと嗅いでみて」
思わず眉を顰める、ヴィンセント。
「なにをだ?」
「だからその……ちょっと私の匂いを嗅いでみて」
突然のことに、ヴィンセントは完全に固まる。どう反応していいのかまったく分からないからだ。
そんなヴィンセントの前でラクシュミアは顔を真っ赤にして俯く。
「自分でも変なこと言っているって思っているよ。……だけど、なんだかとっても気になっちゃたんだもん。本当はどうなのかって……」
「それにしても突然だな」
「だって……ヴィンにどう思われているか、今すぐ知りたかったんだもん」
ラクシュミアの見上げるような視線に、ヴィンセントは大いに動揺する。その表情があまりにも可愛かったからだ。
しばしの動揺の末、ヴィンセントは「分かった」と言って、ラクシュミアの腕にそっと手を伸ばす。
そして引き寄せると、その首元に顔を埋める。
「ひあっ!」
突然のことに椅子から立ち上がり、距離を取るラクシュミアに、ヴィンセントはそっぽを向きながら答える。
「その……俺はあまりに匂いには詳しくないが……ミアはとっても良い匂いだと思う」
「……や」
「や?」
「やり過ぎでしょ!」
顔を真っ赤にしながら嗅がれた首元を抑える、ラクシュミアが吠える。
「い、いきなり抱き寄せて、首元に顔埋める普通! そういうのはどうかと思うな、私は!」
「いや、だがミアが嗅いでみろと……」
「それにしたって、もうちょっと順序っていうモノがあるんじゃないのかな! 手を取って、手首を嗅ぐとか!」
「? それで匂いが分かるのか?」
「知らないよ! そんなことやったこともなければやられたこともないんだから!」
距離を取って、「がるるるっ」と小動物のような威嚇をするラクシュミア。
「落ち着け、ミア。ほら、大好きなナッツもあるぞ」
まるで手負いの獣を餌付けするかのように、おつまみの乗った皿を差し出すヴィンセント。
ちなみに効果は覿面で、ラクシュミアはむくれながらもつまみ上げたナッツを一つ口の中に放り込むと、ヴィンセントの隣にある自らの座っていた椅子に座り直す。
「もうしない?」
「しない。絶対にしない」
「……いや、絶対じゃなくていいから。突然は止めよう。私にも心の準備とかが必要なのです。ヴィンにそういうことをされる時には、大きく深呼吸して、覚悟を決めて、『さあ、こい』くらいの覚悟が必要なのです」
「分かった、次からはちゃんと断わりを入れてからするようにする」
「そうしてください」
そのままなんとなく気まずい雰囲気が流れる。
そんな中、ミアがポツリと呟く。
「ちなみに、さっきのは……本当?」
「なにがだ?」
「その……私が良い匂いだったって?」
ヴィンセントが隣を見ると、俯くミアは耳まで真っ赤になっている。
「ああとっても好きな匂いだった」
それを聞いたラクシュミアは、恥ずかしそうにチラリとヴィンセントを窺うようにして見ながら、口元に嬉しそうな笑みを浮かべる。
「ふーん、そうなんだ。ヴィンセントが好きな匂いなんだ」
「ああ」
そして隣り合って座る二人は、テーブルの下で手を繋いだ。
ちなみに、諸事情でそれを遠くから観察していた者たちは、背中を掻き毟ったり、近くの柱を黙々と殴ったり、ヤケ酒を煽りながらイラついたり、笑顔で殺気を向けたりしていたが、そんなことはこの二人には関係なかった。
なぜ敵対する皇国と帝国の要人である、黒狼卿と天眼の軍師がこうして密かに顔を合わせているのか?
それは黒狼卿と天眼の軍師は、互いに思いを寄せ合う仲だからだ。
二人が出会ったきっかけは偶然だった。
皇王の勅命を受け、中立都市マルタを訪れたヴィンセントは、そこで暴漢に襲われそうになっていた街娘を助けた。
その助けた街娘こそが、マルデュルク砦を陥落させるべく、密かに情報収集に訪れていたラクシュミアだったのだ。
それから二人は互いの正体を隠しながら、週に一度、焔の日の夜にこうしてこの自由都市マルタで会うことになった。
数奇な運命によって出会った二人。
しかし二人は互いの正体を、戦場で明かされることとなった。
黒狼卿が繰り出した黒槍の一撃によって破壊された天眼の軍師の鉄仮面の下にあったのは、ラクシュミアの顔だった。
互いに好意を寄せていた二人は、自分が愛した相手が敵国の要人であることを知った。
そして二人が出した結論は、まったく同じものだった。
好きになった相手を自らのモノにする。
残酷にも思える数奇な運命に悲観し、叶わぬ恋であると決めつけるのでもなく、不幸な運命だったと諦めるでもなく、全てを捨てて共に逃げるでもなく――
自らのこの手で愛する者を掴み取り、己のモノとする。
それこそが、自らの宿命と志を持ち、皇国と帝国のために戦う二人が出した結論だった。
そして戦場で再び相見えた二人は、それぞれが相手に向かって、自らが抱く好意を伝える共に、自らが選んだ道を宣言した。
お前を俺のモノにする。 / 貴公を私のモノにする。
黒狼卿と呼ばれる皇国の英雄も、天眼の軍師と呼ばれる帝国の傑物も、
二人ともが思っている。
愛する人を自分のモノにすると。
必ずこの手で掴み取ると。
夜も更け、二人は酒場を後にする。
そして向き合う。
「それじゃまたね、ヴィン。黒狼卿に太陽神のご加護があらんことを」
「またな、ミア。天眼の軍師に月女神の祝福があらんことを」
それは再会の約束をする時に使われる常套句であり、愛する恋人同士が使う言葉だ。
だが今の二人にとっては別の意味もある。
それは戦場で再び相見えるための誓いの約束。
互いに相手を手に入れるために、再び戦場で相見えるための宣戦布告。
二人は背を向け、夜の街を歩き出す。
そんな分かれたミイラ男ヴィンと街娘ミアに、それぞれ近づく男女の姿があった。
そして、それぞれの腹心は、開口一番こう言い放った。
「お前らのやり取りが甘すぎて、背中がむず痒くなるわ!」
「恥ずかしすぎるのよ、アンタたち! もうちょっと場所を考えなさいよ!」
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